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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

1美髯公:2015/05/25(月) 22:33:19

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 日蓮大聖人の生涯 】は、講義集の第一・二・三集に掲載されております。

74美髯公 ◆zkpDymnu/M:2015/11/28(土) 23:08:10

      【師恩謝徳の書「報恩抄」】

  建治二年(一二七六年)旧師道善房は清澄寺で寂しい生涯を閉じた。その報せが大聖人に入ったのは六月であった。確かに不甲斐のない師匠ではあったが、一度
 師恩を受けた道善房である。その訃報に接した時の胸中を「報恩抄」には「それにつけてもあさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・
 はしりたちてもゆいて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども・・・・」(P.323 ⑮)と述べられている。ここには旧師の死去を痛む、一人の
 人間としての大聖人の姿が浮き彫りにされている。本来ならば自分が馳せ参じ、旧師の墓前にて回向したい。しかし、世間の人々は自分の事を遁背の身と思っている
 故、不本意ながら差し控えたと。ここに「報恩抄」の一書をした為、弟子の日向に託し義浄房、浄顕房の許に届けさせたのである。この日向は、大聖人が小松原の
 法難後、房総方面の弘教に努めている折、得度して弟子になったと伝えられている人物である。

 大聖人は建治二年の正月に「清澄寺大衆中」という書を認めて、清澄の同志の人達を教誨しているが、その書は日向が中心となって読み聞かせてあげなさいと、
 言われている。日向が自分の出身地でもある、安房方面の指導的役割を担っていた事が伺われる。義浄房と浄顕房には日向を読み手として、嵩が森の頂上で二、
 三遍また故道善房の墓前で一遍読み、その後はこの日向に預けておいて常に聴聞し修学すべき事を指示されている。当時の清澄寺は、大聖人に強く反発した
 円智房、実成房等の念仏僧も既に死んでおり、他の妙法信仰の人達も自由に出入りが出来たらしい。義浄房等は大聖人の指導通り、故道善房の為に「報恩抄」を
 読誦し、回向を行った。この報告を受け取った大聖人は、大変喜び後年礼状を二人に送っている。「華果成就御書」と呼ばれる書がそれである。
 「さては建治の比・故道善房聖人のために二礼かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入って候」(P.900 ⑨)

  さて「報恩抄」は、父母・師匠・三宝・国王の四恩報謝の為に著わされた書であるが、別しては師恩謝徳のために記された書である。「報恩抄」には、日蓮
 大聖人が報恩の為に弘通した法華経の実体である本門の三大秘法が顕わされている。本門とは迹門に対する言葉で、仏の本地を説き明かした法門と言う事であり、
 釈尊の場合それは法華経寿量品であった。しかし、日蓮大聖人の本門とは三大秘法の南無妙法蓮華経に外ならない。釈尊は法華経寿量品に於いて、五百塵点劫
 という久遠に菩薩道を行じて成仏した事を説いている。釈尊が、そこで得た法の正体こそ、南無妙法蓮華経なのである。妙楽が「脱は現に在りと雖も具に本種を
 騰す」と述べているように、釈尊やその他の仏菩薩の悟りの核心には必ず南無妙法蓮華経が存在する。

75美髯公 ◆zkpDymnu/M:2015/12/13(日) 19:42:55

 日蓮大聖人は自身の観心の立場から、法華経の文の背後に秘されている、南無妙法蓮華経を鋭く洞察されたが故に、文底独一本門と称されるのである。
 この文底極一本門の形貌は如何なるものか。それが三大秘法であり、「報恩抄」にはこの三大秘法が整足して説き顕わされている。これは画期的な事で、
 五大部中でも「報恩抄」以外に類を見ない。故に「報恩抄送文」にも「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ」(P.330 ⑪)と述べられているのである。
 日寛上人の「報恩抄文段」には、この点について言及し「『大事の大事』とは、凡そ五大部の中に、安国論は佐渡已前にて専ら法然の謗法を破す。故に
 唯これ権実相対して未だ本迹の名言を出さず。況や三大秘法の名言を出さんや。開目抄の中には広く五段の教相を明かし、専ら本迹を判ずと雖も『但本文
 寿量の文底秘沈』と云って、尚未だ三大秘法の名言を明かさず。撰時抄の中には、天台未弘の大法経文の面に顕然なりと判ずと雖も、しかも浄・禅・真の
 三宗を破して、未だ三大秘法の名義を明かさず。然るに今当抄の中に於いて、通じて諸宗の謗法を折伏し、別して真言の狂惑を責破し、正しく本門の三大
 秘法を顕す。これ則ち大事の中の大事なり。故に『大事の大事』というなり。吾が祖はこれを以て即ち師恩報謝に擬したもうなり」と述べている。

  ただし、大聖人が波木井郷に到着して間もなく五月二十四日付で「法華取要抄」を著わされたが、その中に「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」
 (P.336 ②)と、三大秘法の名言が見られる事は注目すべき点である。ともあれ「報恩抄」で顕わされた、三大秘法は日蓮大聖人の仏法の教義で基幹と
 なるものである。「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士と
 なるべし」(P.328 ⑮)と記されている本門の本尊とは、「開目抄」 「観心本尊抄」で明らかにされた所の本尊である。

 「本尊」とは、端的に言えば人間の主体、幸福を確立する根源の実体であり、根本として尊敬する信仰の対境である。日蓮大聖人は末法全民衆の依り所で
 ある観心の本尊を、弘安二年(一二七九年)十月十二日に建立された。これが一閻浮提総与の大御本尊である。この本尊に「人の本尊」と「法の本尊」が
 あり、ここに「本門の教主釈尊」とあるのが人本尊にあたり、文底独一本門の教主釈尊の義である。すなわち、末法に於いて主師親の三徳を具備されている
 日蓮大聖人の事である。又「法本尊」とは「所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」との相貌を具備している大御本尊で
 ある。しかし、その大御本尊は大聖人の生命それ自体であるが故に、人法一箇の大御本尊とも言う。

76美髯公 ◆zkpDymnu/M:2015/12/15(火) 23:54:51

  次に本門の戒壇とは本門の本尊が安置される場所の義である。戒壇とは、元々僧侶が戒律を持つ事を誓う場の事であった。しかし日蓮大聖人の仏法に於いては、
 特別な戒律を持つ必要はなく、本尊を受持する事が、そのまま戒を持った事に通ずるのである。「教行証御書」に云く「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は
 三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど
 破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し」(P.1282 ⑩)と。また戒壇の戒とは、元来「防非止悪」すなわち非を防ぎ、悪を止める義である。
 末法事の戒は全人類の不孝と悲惨の根源に迫り、生命に内在する非道と根本悪を防止する事にある。従って、一閻浮提総与の大御本尊の前で人類の恒久平和と
 幸福確立を祈願する時、そこが本門の戒壇となるのである。

  第三に本門の題目とは、日蓮大聖人の仏法の修行すなわち観心である。この題目に信と行の題目がある。まず本門の本尊こそ、疑っても疑い得ない究極の
 実体であると信ずる事が題目の根本であり、これが信の題目である。更にその信を根本に、自行化他に亘る題目、即ち自らも人間完成を目指して題目を唱え、
 また他の人々にも菩提心を発させ題目を唱えさせて行く実践が行の題目になる。この信行は不即不離のものである事は言うまでもない。

77美髯公 ◆zkpDymnu/M:2015/12/16(水) 23:04:17

  この一閻浮提の内に於いて、未曾有の三大秘法の南無妙法蓮華経を弘めるに当たっての大難は、先に見た通りである。それを忍び乗り越えられたのは、
 偏に「一切衆生の異の苦」を全て我が「一人の苦」とされる大聖人の大慈悲の故に外ならない。そこで「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・
 未来までながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、
 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」(P.329 ③)と、妙法弘通の功徳が説き明かされる。

 そして濁乱の末法の世界で、妙法を弘通した大聖人の功徳は悉く「故道善房の聖霊の御身に集まるべし」(P.329 ⑭)と、その功を旧師道善房に帰せられた
 のである。ここに師恩報謝が完結する。更に言えば「報恩抄」は、別して師恩報謝のために著わされたが故に、このように結ばれているが、決して大聖人の
 功徳は故師のみに帰するものではない。通じて父母・師匠・国主の恩を挙げられている様に、末法の御本仏として一切衆生に功徳を及ぼし、救って行くとの
 宣言なのである。ここに挙げた文で「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までながるべし」と、妙法の広宣流布を明言されている事は
 重要である。しかも、それはあたかも春に花が咲き、秋に果実が実る様に「時のしかしむる」所であり、宇宙生命のリズムは南無妙法蓮華経のリズム
 それ自体である事を闡明にされているのである。

78美髯公 ◆zkpDymnu/M:2015/12/20(日) 19:48:29

      【熱原法難と出世の本懐】

  日蓮大聖人に変わって、妙法弘通の第一線に立ったのは、日興上人を始めとする各弟子達であった。中でも日興上人の富士方面に於ける活躍は目覚ましく、
 実相寺、四十九院、滝泉寺等の住職が次々と妙法に帰して、更に広く農民の間に妙法が浸透していった。その結果、必然の事として、三障四魔が競い起こって
 きた。特に下方庄熱原郷の天台宗滝泉寺を中心に法難が勃発した。これを「熱原の法難」と言うが、大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊建立の、
 機縁となった事件として重要な意味を持っている。

 建治期から大聖人門下に対して、加えられていた迫害が激しくなったのは、弘安二年(一二七九年)に入ってからである。同年九月二十一日、上野房日秀の
 持田の稲刈りに集まった信徒を、滝泉寺の院主代行智等が武装して襲い、二十人を捕えて鎌倉に送ったのである。大聖人は、無実の罪で捕えられた信徒の農民を
 救う為、自ら幕府に抗議する訴状の文案を考えられ、それを日興上人が認めて、日秀等の名で幕府へ提出された。鎌倉で裁きにあたったのは、平左衛門尉頼綱で
 ある。頼綱は妙法の信仰を、捨てようとしない二十人の農民の内、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬罪に処したのである。

 この法難は、それまでの迫害が大聖人御自身に対するものであったのに対して、信徒が蒙った弾圧であった事、しかも横暴な権力者の生命に及ぶ難にも、信仰を
 貫き通した点に特徴がある。日蓮大聖人は時の到来を感じて、同年十月十二日に末法万年に渡って、全世界の人々が根本として信仰すべき本門戒壇の大御本尊を
 顕わされたのである。大聖人の仏法の骨格は三大秘法であるが、根本はこの大御本尊に摂せられるのである、従って大聖人の仏法は全人類の救済が目的なのである。
 出世の本懐をとげられた大聖人は、日興上人に仏法の全てを付嘱され、弘安五年(一二八二年)十月十三日、安証として御入滅なされたのである。御年六十一歳で
 あられた。


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