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24
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名無し募集中。。。
:2023/06/17(土) 23:10:05
プロ野球1980年代の名選手
西本聖【後編】“怪物”と呼ばれた天才に努力で立ち向かった右腕/プロ野球1980年代の名選手
2019年1月8日(火) 11:05
1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。
日本シリーズで29イニング連続無失点
そこにスター選手の天真爛漫さはない。すさまじい気迫に隠された打者との駆け引き、打者の内角に迫る鋭いシュート。そこには西本聖という人間の生き様が、にじみ出ているかのようだった。
1980年代、ライバルは同じ巨人の江川卓。“怪物”と呼ばれた天才に、努力で立ち向かっていった。快速球で三振を奪う江川とは対照的に、絶妙な制球力と数種類のシュートで凡打の山を築く。ストイックに日々の練習を積み重ね、現在では常識だが、いち早くアクティブレストを取り入れて、オフには水泳やテニス、ゴルフで気分転換をしつつ、積極的に体を動かすことで、体力の回復にも務めた。
80年に初の2ケタ14勝。沢村賞にも輝いた翌81年には18勝を挙げたものの、20勝で最多勝の江川には届かず。84年に15勝で並んだことはあったが、最後までシーズンでは白星で上回ることができなかった。
「ライバルと言われ、仲が悪いと思われていたようですが、それは違います。ただ、言葉にはしませんでしたが、『打たれろ、負けろ』と思ったこともある。江川さんが負けて、僕が勝って、じゃないと“価値観”が作れない。大事な試合では江川じゃない、西本だ。そう思ってくれるものを作りたかった。ライバルって同じチームの同じポジションにしかいないと思う。同じ条件で戦う中で、どっちが上かを競うんですね」
その“価値観”は81年と83年、2度の日本シリーズで作られることになる。
「日本シリーズはプロにとって最高の舞台。自分の“価値観”を作れる場所でもある」
日本ハムを破った81年は2勝、防御率0.50でMVP。西武との“盟主決戦”となった83年には2勝1敗、防御率1.73で、81年の第2戦(後楽園)の2回から83年の第5戦(後楽園)の3回まで29イニング連続無失点も。
「あのときの29イニング連続無失点には、僕の野球人生すべてが詰まっています」
だが、87年オフに江川が突然の引退。
「ずるい、逃げられたと思いましたね(笑)。だから、通算で(江川の135勝を)抜いたときは、うれしかったですよ。でも、僕は江川さんがいたから、ここまでできた。天性のスピードを持つ、あの人がいたから、僕は自分の投球術を磨けたんだと思う」
江川が去ると、まるで酸素を失った炎のように、勢いを失っていった。そしてトレードで中日へ放出。消えかけた炎が一気に燃えさかった。
「よかったのは、セ・リーグだったこと。だってジャイアンツに出されたわけですから、見返すにはセ・リーグの球団で対戦して勝つしかない。どのチームより、巨人には負けたくない、という思いがありました」
25
:
名無し募集中。。。
:2023/06/17(土) 23:19:29
古巣に牙をむいて初の最多勝
中日1年目の89年に巨人戦の5勝を含む自己最多の20勝を挙げて、初の最多勝。これで江川の通算勝利も抜いた。勝率.769もリーグトップ。江川と競い合って投げていた巨人時代に7年連続で選ばれていたゴールデン・グラブにも返り咲く。ドラフト外から這い上がってきた男の、プロ15年目の姿だった。
翌90年にも2ケタ11勝を挙げたが、その後は椎間板ヘルニアに苦しめられる。それでも反骨の右腕は現役で投げ続けた。オリックスを経て94年に、プロ入りしたときの恩師でもある長嶋茂雄監督が率いる巨人へ。テストを受けての復帰だった。かつて背番号26でエースの座を争った男に与えられた背番号は90番。プロ入りしたときに長嶋監督が背負っていたナンバーだ。だが、一軍のマウンドには戻れないまま現役を引退した。
翌95年1月21日、多摩川グラウンド。かつてドラフト外で入団して、泥にまみれた場所で、最初のライバルだった定岡正二が声をかけて“引退試合”が行われた。長嶋監督も駆けつけて始球式のマウンドに立ち、最後の打席にも立った。この試合を完封したのは、天貫くかのように左足を上げて投げ込んだ背番号90。
「言葉がありません。ほんとうに幸せ。それ以上の言葉は浮かんでこない。いろいろな方が引退されたけど、僕は最高だと思います」
真冬の冷たい風を忘れさせる心あたたまる引退試合は、この男らしいフィナーレだった。
写真=BBM
26
:
名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 14:16:12
プロ野球1980年代の名選手
山本浩二【前編】中距離打者から長距離打者への変貌/プロ野球1980年代の名選手
2018年9月9日(日) 11:06
絶頂の1980年
1980年は、昭和の広島黄金時代における最盛期だろう。75年に初のリーグ優勝。2リーグ分立の50年から、戦力不足や資金難に苦しみ、とにかく低迷が多かった市民球団にとって初の歓喜でもある。そして79年には2度目のリーグ優勝。近鉄との日本シリーズでは最終戦にクローザーの江夏豊が名勝負を演じ、いわゆる“江夏の21球”で初の日本一に。まさに絶頂で迎えた80年代。そんな広島の中心にいたのが山本浩二だ。
法大では西武の田淵幸一、日本ハムの富田勝らと“法大三羽ガラス”として活躍し、ドラフト1位で69年に広島へ。若手時代は長打力に機動力を兼ね備えた中距離ヒッターだった。75年に初めて打率3割を超え、その勢いのまま首位打者に。本塁打の30本台も初めてだった。24盗塁にとどまったが、どちらかといえばトリプルスリーを目指していくタイプで、歴代4位の通算536本塁打を残す長距離砲の面影は、まだない。
外野手としても302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立。法大1年までは投手だったこともあり、強肩も武器だった。この75年は攻守走にわたる貢献が認められてMVPに。まさに万能選手だった。
30歳で迎えた77年、突如として本塁打の量産体制に入る。翌78年も2年連続で44本塁打を放って初の本塁打王に。巨人の王貞治と競っての戴冠だった。日本一イヤーの79年は113打点で打点王だ。1人の選手としても、迎えた80年は絶頂期だったと言える。
6月に勝率5割を超えてから王座に登りつめた79年とは対照的に、序盤から快進撃。4月、5月は首位を譲ったこともあったが、5月13日に返り咲くと、球団史上初となる首位折り返し。そのまま優勝を決めた。そんな広島にあって“ミスター赤ヘル”の面目躍如。全試合に出場して、44本塁打、112打点で、本塁打王、打点王の打撃2冠に輝く。打率.336はリーグ3位だったが、得点、塁打、四球、長打率、出塁率のすべてでリーグトップ。リーグ連覇の立役者として2度目のMVPにも選ばれた。
一方の広島は、日本シリーズは79年と同様に近鉄との顔合わせ。4勝3敗で日本一となったのも同じだった。ドラマチックな展開も多かった79年のインパクトが強いこともあり、連覇の80年は影が薄くなりがちだが、危なげない戦いぶりもまた、黄金時代の一面なのかもしれない。
翌81年はチームこそ巨人に届かなかったが、2年連続で打撃2冠。43本塁打は5年連続の40本塁打以上で、10年連続で外野のダイヤモンド・グラブにも選ばれている。ただ、70年から続いてきた2ケタ盗塁は途切れ、ダイヤモンド・グラブも最後の受賞となった。35歳。30代で長距離砲として覚醒した珍しいタイプの強打者だったが、若手時代の機動力や守備力には、かげりが見え始めていた。82年は打率3割、30本塁打はクリアしたものの、無冠に終わる。
最高のお手本
実は、プロ入りしたときから腰痛に苦しめられていた。だが、四番打者は全試合に出てこそ、と教えられてきた。76年に腰痛もあって1試合だけ休んだのが、もっとも悔いが残っているという。その1試合を除いて、初優勝の75年から82年まで、起き上がれないほど腰が痛んだときも試合に出続けた。
古葉竹識監督の「プロならお客さんのために試合に出なきゃいかん」という持論もあったが、「衣笠(祥雄)という、よきお手本がいたからよ。連続試合出場を続けていたからね。彼がいなかったら、何試合か休んだかもしれん」
衣笠とは学年は同じだが、法大を経た4年だけ、プロでは衣笠が先輩になる。ともに広島ひと筋。互いに認め合った「コウジとキヌ」が試合に出続けていることで、「ワシらが出るなら休むわけにはいかん、となったんだね。全試合出場は、いつもカープの選手が一番、多かったんや」。
その全試合出場も82年が最後となった。
写真=BBM
27
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 14:31:26
プロ野球1980年代の名選手
山本浩二【後編】唯一無二の“第8戦”を最後に置いたバット/プロ野球1980年代の名選手
2018年9月10日(月) 11:06
37歳の本塁打王
一時的に失速し、衰えたかに見えたものの、迎えた1983年、ふたたびバットが火を吹く。4月の阪神戦(甲子園)ではプロ15年目にしてサイクル安打を達成。最後の1本は三塁打だったが、本塁打王争いのライバルだった三塁手の掛布雅之が微妙(というか絶妙?)なタイミングでタッチ、セーフとなっている。守備では長く中堅手としてセンターラインを支えてきたが、年齢もあって左翼へ。左中間の飛球を見誤って額に当てる“ヘディング”はご愛嬌。基本的には無難にこなした。
持病の腰痛もあって、全身のバネをフルに使ったフルスイングは影をひそめた。特にインコースをさばくときには、その場で腰を回転させる意識で振り抜いていて、それによってバットのヘッドが振り抜いて、飛距離を稼いでいた。さらに、本塁打にするには、「球をとらえてから、もうひとつ押す。球をバットで運ぶような感覚なんです」という。
どうしても腰に負荷がかかってきたが、もともと本塁打を狙って引っ張ろうとすると「リキんでしまって結果が出ない」タイプ。右方向へと巧みに運んで本塁打を量産するようになる。最終的には36本塁打。掛布や原辰徳(巨人)とのタイトル争いを制して、4度目の本塁打王に輝いた。そして、これが最後の打撃タイトルとなる。
翌84年は広島が4度目のリーグ優勝、そして3度目の日本一。もちろん、同じ数だけ美酒を味わってきていた。ペナントレースは序盤こそ精彩を欠いたが、夏場から復調。日本シリーズは初優勝の75年に激突した阪急と2度目の顔合わせとなった。当時は黄金時代を謳歌していた阪急だったが、このとき黄金期にあったのは広島。同い年の“鉄人”衣笠祥雄も絶好調で、小早川毅彦や長嶋清幸ら若手も育ってきている。そして4勝3敗で雪辱。確かに、世代交代は進んできていた。それでも、その存在感は健在だった。
続く85年は猛虎フィーバーに呑まれ、古葉竹識監督が勇退。阿南準郎監督が就任したが、“その次の監督”は既定路線だった。引き受けた阿南も「監督なんて柄ではないんだけどね。コウジに引き継ぐことだけを考えていた」と語っている(結果的には88年まで3年間、指揮を執ってから“禅譲”となった)。
その86年、巨人との激戦を制して5度目のリーグ優勝。27本塁打を放ったものの、それは投手力での優勝だった。優勝を決めると、ナインの手で宙に舞った。
「若いヤツらが一生懸命やって、ワシらを優勝させてくれた」
日本シリーズは西武と初の顔合わせ。リーグ2連覇を果たし、黄金時代を迎えた強敵だ。そんな頂上決戦に、引退を心に決めて臨んだ。
“ミスター赤ヘル”のラストゲーム
球史に残る名勝負となった日本シリーズだった。第1戦(広島市民)で9回裏に同点本塁打を放ち、試合はそのまま引き分け。その後3連勝も、そこから3連敗を喫した。第6戦(西武)は40歳の誕生日だったが、その日に日本一を飾ることもできず。史上初、第8戦での決着となった。もしかすると二度とないかもしれない“日本シリーズ第8戦”こそ、“ミスター赤ヘル”のラストゲームだった。
しかも、舞台は広島市民球場。広島のナインも、ファンも、日本一を目指していたことは間違いない。それも史上初の第8戦だ。
試合は敗れた。5度目の日本シリーズ、そしてラストゲームを、夫人と男子ばかりの子どもたちが見守った。満員のスタンドからは、「コウジ、コウジ!」とコールが止まらなかった。
胴上げされ、報道陣に囲まれると、号泣。
「山本浩二は幸せな男です」
背番号8は広島で初めて永久欠番となった。
ファンには勝利より、あるいは優勝より、さらには日本一より、大事なものがあるのかもしれない。またコウジが見られる、まだコウジが見られる……。去りゆく“ミスター赤ヘル”の名残を惜しむかのような、唯一無二の“第8戦”だった。
写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 16:02:20
プロ野球はみだし録
トレードで近鉄の有田修三が巨人へ…定岡正二は移籍を拒否して引退、淡口憲治は「身代わりですか?」【プロ野球はみだし録】
2022年11月15日(火) 10:00
激動の85年オフ

近鉄への移籍を拒否した定岡
V9という空前絶後の黄金時代を支えていたのは司令塔の森昌彦だったが、そんな森に対して次々に“刺客”を送り込むように、アマチュアの強力な捕手を獲得し続けた巨人。80年代の“テレビ中継の黄金時代”を支えた山倉和博も決して安泰ではなかったが、トレードで実績のある捕手を補強するとなると、同様に戦力として計算できる交換の選手が必要となる。大きな動きがあったのは85年オフだ。
巨人が獲得を目指したのは近鉄の有田修三。近鉄は有田と梨田昌孝という2人の捕手を、併用というより、実力が拮抗している2人の捕手で司令塔の座を分け合うような、独特の態勢だった。“アリナシ・コンビ”とも呼ばれた2人は、甘いマスクの梨田の一方で、有田は口ヒゲをたくわえ、強気のリードが持ち味と、スタイルも対照的で、そんな2人を使い分けられることが近鉄の強みでもあった。
圧倒的な人気を誇る巨人と親密な関係を築きたい近鉄と、黄金時代を謳歌している西武を牽制したいという巨人。ともに思惑が一致してのトレード話だったというが、巨人が有田との交換で投手の定岡正二に白羽の矢を立てたことで、事態は混乱。江川卓、西本聖と“先発3本柱”を形成し、人気もあった定岡だったが、移籍を拒否して現役を引退。結局、左打者が欲しいという近鉄の希望もあり、長く代打に甘んじていた外野手の淡口憲治と投手の山岡勝、この2人と有田との交換でトレードが成立した。
淡口は「これは(定岡の)身代わりですか、って訊いたら、違う、と。どう考えても身代わりですけどね(笑)」と振り返るが、近鉄は淡口の地元でもある関西の球団ということもあり、中軸として活躍。近鉄がリーグ優勝を飾った89年オフに現役を引退したが、「わくわくしながらやれた4年間でした」と振り返る。また、有田は山倉の牙城を崩すことはできなかったが、おとなしいタイプの選手が多かった当時の巨人で、攻守にパワフルなプレーで異彩を放つも、奇しくも淡口が現役を引退した89年オフにダイエー(現在のソフトバンク)へ移籍している。一方、巨人の山倉も89年の前後は激動にあった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 16:19:30
プロ野球回顧録
定岡正二、任意引退の衝撃「巨人軍は僕にとっては青春そのものだった」【プロ野球回顧録】
2022年4月3日(日) 11:00
1975年、ドラフト1位で入団し、80年代前半は、江川卓、西本聖と「先発三本柱」と呼ばれる。甘いマスクで若い女性ファンの人気も絶大だった定岡正二。しかし、85年オフ、突然の任意引退が発表された。まだ、28歳だった。
結婚していたら違っていた

武器はスライダー。引退後はタレントとしても活躍した定岡
11月2日の夕方、巨人・定岡正二は、後楽園球場近くのホテルで長谷川実雄球団代表との話し合いをするも、平行線のまま、退団、任意引退が決まった。定岡は、そのまま記者たちとともに後楽園球場に足を運び、ロッカールームの整理をした。
そのとき練習着をじっと見て、周囲にいた記者たちにこう言った。
「これ、一着だけもらえないかな。飾るんじゃなくて、思い出として、タンスの奥にしまっておきたくてね」
記者たちは定岡の口から球団批判を期待し、さまざまな質問をしたが、「巨人に反発? いえ、絶対にそんなことはありません。僕のわがままです。野球をやめるときは巨人のユニフォームを脱いだときと決めていただけです」と淡々と答えた。
11月8日には球団が定岡の任意引退を正式に発表。人づてに戦友ともいえる江川卓、西本聖から「送別会というと寂しいから、激励会をやろうじゃないか」と伝言をもらったというが、「気持ちだけで十分。ありがとうと伝えてください」と断った。「話せば、やっぱり寂しいからね」と静かに笑った。
85年、槙原寛己、斎藤雅樹ら若手投手の成長もあってリリーフに回ったが、47試合に投げ、4勝3敗2セーブ、防御率3.87は、まずまずとも言える。しかし、巨人・王貞治監督は、かねてより山倉和博のサポート捕手として近鉄の有田修三獲得を球団に要請。巨人は定岡に交換要員として白羽の矢を立てた。これに対し、当初から難色を示していた定岡だったが、球団は、「いくらトレードならやめる、と言っても生活がある。現実を直視すれば気持ちも変わるだろう」と軽く考えていたようだ。
実際、定岡も「結婚していたら受けていたと思う」と話していた。
30
:
名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 16:20:57
プロ野球回顧録
定岡正二、任意引退の衝撃「巨人軍は僕にとっては青春そのものだった」【プロ野球回顧録】
2022年4月3日(日) 11:00
1975年、ドラフト1位で入団し、80年代前半は、江川卓、西本聖と「先発三本柱」と呼ばれる。甘いマスクで若い女性ファンの人気も絶大だった定岡正二。しかし、85年オフ、突然の任意引退が発表された。まだ、28歳だった。
結婚していたら違っていた

武器はスライダー。引退後はタレントとしても活躍した定岡
11月2日の夕方、巨人・定岡正二は、後楽園球場近くのホテルで長谷川実雄球団代表との話し合いをするも、平行線のまま、退団、任意引退が決まった。定岡は、そのまま記者たちとともに後楽園球場に足を運び、ロッカールームの整理をした。
そのとき練習着をじっと見て、周囲にいた記者たちにこう言った。
「これ、一着だけもらえないかな。飾るんじゃなくて、思い出として、タンスの奥にしまっておきたくてね」
記者たちは定岡の口から球団批判を期待し、さまざまな質問をしたが、「巨人に反発? いえ、絶対にそんなことはありません。僕のわがままです。野球をやめるときは巨人のユニフォームを脱いだときと決めていただけです」と淡々と答えた。
11月8日には球団が定岡の任意引退を正式に発表。人づてに戦友ともいえる江川卓、西本聖から「送別会というと寂しいから、激励会をやろうじゃないか」と伝言をもらったというが、「気持ちだけで十分。ありがとうと伝えてください」と断った。「話せば、やっぱり寂しいからね」と静かに笑った。
85年、槙原寛己、斎藤雅樹ら若手投手の成長もあってリリーフに回ったが、47試合に投げ、4勝3敗2セーブ、防御率3.87は、まずまずとも言える。しかし、巨人・王貞治監督は、かねてより山倉和博のサポート捕手として近鉄の有田修三獲得を球団に要請。巨人は定岡に交換要員として白羽の矢を立てた。これに対し、当初から難色を示していた定岡だったが、球団は、「いくらトレードならやめる、と言っても生活がある。現実を直視すれば気持ちも変わるだろう」と軽く考えていたようだ。
実際、定岡も「結婚していたら受けていたと思う」と話していた。
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 16:29:40
今までと同じ生活はできない
直後の定岡のインタビューも再録しておこう。素直で実直な性格がにじみ出る受け答えになっている。
──現在の肩書は。
「プー太郎かな。はっきり言って失業者です(苦笑)」
──これからはどうする?
「まったく考えていません。ずっと野球一筋の生活でしたからね。2カ月くらいは、何もせず、ゆっくりしたいなと思っています」
──退団のときは、先のことを何も考えていなかったということ?
「みんないろいろ書いてくれたけど(モデル業、タレントなど)、計算はまったくなかったんです。あとのことまで考えて結論を出すのが普通かもしれないけど……」
──巨人が自分を必要でないと知ったのは。
「日にちは覚えてないけど、何人かの関係者に会って、巨人では来年の戦力に入ってないと言われました」
──その時点で退団するか、トレードを受けるか、2つに1つしかなくなったわけだけど。
「正直言って、迷いました。簡単に結論は出ないですからね。野球をやめるのはすごく寂しいし、結論を出すまで何日もかかりました」
──最初から長谷川球団代表と話していたらトレードを受けたかもという話もあるが(最初は管理部長から告げられ、それが不信感につながったとも)。
「う〜ん、そうなっていたかもしれませんね」
──退団するということは月給170万円も捨てることになるが。
「やめるとき、そこまでは考えてなかった。それより気持ちですね。小さいころから巨人にあこがれて、その巨人をやめなきゃいけない悲しみのほうが大きかったです」
──12月までは170万の月給は出るのでしょう。
「それが、任意引退だとダメらしいですね。もうないよと言われました」
──建設中の新居は。
「家を売って、まず借金をなくせ、とアドバイスしてくれる人もいますが、せっかく建てたら、一度は住んでみたいし……」
──生活も変えざるを得ないか。
「今までと同じような生活はできないでしょうね。危機感も必要でしょう。バスに乗ったり、電車に乗ったり。ガソリン代という目先のことではなく、自分の置かれた立場というものを、気持ちの中で植え付けていくためにもね」
──大変なことがたくさんあるが、それでも巨人を退団した真意は。
「自分でもよく分からないんですよ。悔しさもあったし、いろいろなものが交錯して。でも、現実にこうなったのだから、これ以上、悔いみたいなものは残したくありません。自分で出した結論ですから」
ファンあってこそ
──巨人軍って何だったの。
「僕にとっては青春そのものだったと思います」
──巨人での最後のシーンは覚えている?
「覚えていますよ。最終戦の阪神戦。出番の予定はなかったんですけど、8回の一死一塁だったかな。あのとき、やめるつもりは全然なかったけど、いま思えば忘れられないんですよね。ショートゴロのゲッツー。僕らしい終わり方でした。ゲッツーを取るピッチングが僕の持ち味だったから」
──ファンの人たちに何か。
「僕がお礼を言いたいのは、ちょっと臭い話になるかもしれないけど、俺一人でここまで来れたわけじゃないし、ファンの人たちの声援に乗せてもらったというか。勝つことは僕もうれしいんだけど、周りの人がもっと喜んでくれてね。俺はいつもポーズをつけているけど、今だから素直に、俺はファンの人に見守られ、支えられてここまでやってこれたことに感謝したい。そんなことを言うのは、自分自身に対してもちっとも恥ずかしいことじゃないし、ファンに育てられた選手だと思うし、ありがとうの一言です。ファンの人にとっては(僕は)短い野球人生かもしれないけど、自分なりにやりました」
──ファンレターは。
「やめた後は前よりたくさんいただいて、すべて読んでます。半々ですね。トレードでもやってほしいというのと、ご苦労様でしたというのと」
──みんなが注目しているし、みっともないマネはできないね。
「いや、今から僕はみっともないこともやらなきゃいけないと思っているんですよ。こういうやめ方をして、これからも泥はかぶるし、頭を下げることも必要だと思う。みっともない真似でも、胸を張って生きていきたいと思います」
なお、定岡の引退でミソがついた形となった近鉄とのトレードだったが、その後、巨人が淡口憲治と山岡勝を近鉄に放出することで、有田とのトレードが成立した。一方、定岡は選手としての最後のけじめをつけるべく、巨人の了解を得て翌86年春のドジャースのベロビーチキャンプに参加。プロに入って初めてのキャンプを過ごした思い出の地で、ユニフォームに別れを告げた──。
『よみがえる1980年代のプロ野球 1985年編』より
写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:04:04
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:05:32
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:06:46
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:11:07
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:22:25
プロ野球はみだし録
中尾孝義がトレードで巨人へ。山倉和博はラストイヤーに「球宴は胴上げしながら運んでもらった」【プロ野球はみだし録】
2022年11月17日(木) 10:00
トレードの2人がカムバック賞に

1987年にはMVPに輝いた山倉
V9時代にはアマチュアから次々に有力な捕手を獲得した巨人。彼ら“刺客”におびやかされながらも、司令塔の座を譲らなかったのが森昌彦だった。時は流れ、1980年代の司令塔となった山倉和博も、森ほどではないものの、ポジション争いとは無縁ではなかった。ライバルは、トレードで移籍してきた“刺客”たちだ。
山倉が初めて出場100試合を超えたのは80年で、最後が87年。投手陣から圧倒的な信頼を集めながらも、打撃では“意外性の男”の異名もあった山倉だったが、この87年は打撃も好調で、22本塁打など打撃3部門でキャリアハイとなり、MVPにも輝いた。だが、翌88年からは故障に苦しむように。そのオフ、中日から中尾孝義が移籍してくる。82年にセ・リーグの捕手として初めてMVPとなった中尾だが、星野仙一監督の就任で外野に回り、それでも捕手へのこだわりを捨てきれずにいた。トレードを告げられて涙を流した中尾だったが、巨人への移籍で、ふたたび捕手として活躍することになる。
ただ、中尾の移籍は交換トレード。中日で長く司令塔を担い、外野に回っても打撃に期待されている中尾の獲得のためには、実績のある選手を交換で出す必要があった。白羽の矢が立ったのは2人の投手で、西本聖と加茂川重治。中でも西本は、87年いっぱいで現役を引退した江川卓のエースの座を争い、その87年に中日へ来た落合博満と名勝負を繰り広げるなど歴戦の右腕だ。巨人のフロントには「西本は闘志むきだしで巨人に対してくるはず。中日に出していいのか」という声もあったというが、「ライバルチーム同士でも、こういったトレードが球界の活性化につながる」という藤田元司監督の意向で、西本は中日へ移籍した。
コーチとの確執や江川の引退で闘志を失いかけていた西本は、これで完全に復活。巨人戦5勝を含む20勝で初の最多勝に輝いて、89年のカムバック賞を贈られたのは西本と中尾の2人だった。一方、山倉は出場機会が激減。それでもラストイヤーはファン投票1位で球宴に出場、「胴上げしながら運んでもらったようなもの。一生、忘れません」と振り返っている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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