したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

工藤遥ブサイクすぎワロタwwwwww

1名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:13:46
テラワロスwwwwwwwwww
http://i.imgur.com/110b1eI.gif

2名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:14:49
>>1
草不可避

3名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:16:32
>>1
テラスハウスwwww

4名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:16:33
ぶっせ

5名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:17:01
狼落ちてむしゃくしゃするから工藤叩くわ

6名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:18:14
テレビに映れて嬉しそうやな

7名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:18:32
http://i.imgur.com/SF3DB1a.gif

8名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:18:51
これなーショックだわ
思ってた顔と違いすぎる

9名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:20:38
>>7
横顔がうつらないように工夫してあるってこと?

10名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:23:36
愛佳そっくりやん!

11名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:24:02
IP筒抜けなのによくやるわ

12名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:24:27
シャクレてるやん

13名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:26:15
女らしい光井の方がぜんぜんマシ

14名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:28:50
>>5
どっちみち叩くんでしょ

15名無し募集中。。。:2015/01/11(日) 16:31:06
かわいいよね

16名無し募集中。。。:2015/07/20(月) 04:55:00
  

グロ総合スレ
http://www.logsoku.com/search?q=%E3%80%900%2C%2C0%E3%80%91%E3%82%B0%E3%83%AD%E7%B7%8F%E5%90%88%E3%82%B9%E3%83%AC+&site=2ch.sc
http://www.logsoku.com/search?q=%E3%80%900%2C%2C0%E3%80%91%E3%82%B0%E3%83%AD%E7%B7%8F%E5%90%88%E3%82%B9%E3%83%AC+&site=2ch.net

17名無し募集中。。。:2021/01/26(火) 23:11:11
https://i.imgur.com/oPcSmcG.jpg

18名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 22:08:41
プロ野球はみだし録
トレードの“通告”と“うかがい”。淡口憲治の場合は「どう考えても身代わりですけどね(笑)」【プロ野球はみだし録】
2021年12月18日(土) 11:00

「1週間、返事を待ってほしい」

85年オフに近鉄へのトレードを“通告”された淡口

巨人の定岡正二が近鉄へのトレードを拒否して現役を引退した1985年オフ。このときのことを、2015年のインタビューで「当時、トレードには“通告”と“うかがい”があって、“うかがい”の場合は断ってもいいけど、“通告”は行かなきゃならない。でも、定岡は“通告”したのに行かないと。それで、やめるとなった。まだ若いのに、もったいなかったね」と振り返るのは淡口憲治だ。淡口は1971年に巨人へ入団した左の強打者。よく少年たちが真似していた尻(腰?)をプリッ、プリッと振るスイングからすさまじいスピードの打球を放った左打者で、勝負強さと安定感を兼ね備えながらも、左投手に弱いというレッテルもあって代打の切り札に甘んじることが多かった。この淡口が、右腕の山岡勝とともに捕手の有田修三とのトレードで近鉄へ移籍することになる。

「どうしても(有田を獲得する)この話を成立させたかったんでしょうね。違う方向性を探ったら、近鉄が『左打者が欲しい』となって、僕に話が来た。まず僕は『これは身代わりですか』と聞いたんです。そうしたら『違う』って。どう考えても身代わりですけどね(笑)。そして『“通告”ですか、“うかがい”ですか』と聞いたら『“通告”と取ってほしい』って。そのとき、『1週間、返事を待ってほしい』と言ったら、『キミ、1週間もいるのか』って(苦笑)」(淡口)

86年から4年間、近鉄でプレーした

定岡と同様、引退も考えた淡口だったが、プロ15年目を終えたばかりとはいえ故障もなく、長男が背中を押したことや西宮に住む母親の病気もあり、“通告”を受け入れることに。結果的に、これは吉と出た。85年は69試合の出場で16安打に終わっていた淡口だったが、近鉄1年目の86年は115試合で107安打と復活、89年のリーグ優勝にも貢献して、「日本シリーズでは巨人に3連勝で、『よし、日本一になるんだ』と思ったら4連敗でしたけど(笑)」(淡口)。これが現役ラストシーンとなった。一方、巨人へ移籍した有田も存在感を発揮して、88年にはカムバック賞。淡口が引退した89年オフにダイエー(現在のソフトバンク)へ移籍して、91年までプレーを続けた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

19名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 22:18:05
プロ野球20世紀・不屈の物語
左投手に弱い? “コンコルド打法”淡口憲治が戦ったレッテル/プロ野球20世紀・不屈の物語【1975〜89年】
2020年5月27日(水) 11:05

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「ずっと使ってくれたら3割はいける」

初対面の人に対して、誰しもが何らかの印象を持つ。いわゆる第一印象というものだ。これには、他者の言動や外見、雰囲気などとともに、自身の経験などに由来する判断力のようなものも影響を与えているだろう。そのバランスが偏り、自身の感覚が肥大化すると、それは先入観となり、他者の実像と離れていってしまう。バランスが取れていたとしても、自身の感覚で他者を見るということは先入観の一種なのかもしれない。それくらいの危機意識をもっていたほうが、他者に誤ったレッテルを貼るリスクを回避できそうだ。

実際、ひとたび誤った先入観で“初期設定”されてしまうと、そこから脱却するのは難しい。中には状況が変わったことに対応するのが苦手で、どんなに新しい情報を上書きしても脳内の情報が更新されない人もいて、そんなときは思わず人間関係を“強制終了”したくなるのだが、残念ながら人間はリセットできないし、してもいけない。人生のノウハウで「第一印象は大切です」などと言われるのも、そういうことなのだろう。

近年は昔ほど言われなくなったが、かつて「左打者は左投手に弱い」というのはプロ野球の定説だった。そして、そのイメージで語られる打者の筆頭は、巨人と近鉄で活躍した淡口憲治ではないだろうか。だが、淡口は「実際は、そんなに(左投手に対する)打率も悪かったわけじゃないんですけどね」と苦笑い。そして「左は不得意というレッテルを貼られていました」と言い切る。

1971年に巨人へ入団し、長嶋茂雄監督1年目の75年に代打として頭角を現した。5月からは先発も増え、三番、五番で王貞治の前後を打つことも多かったが、規定打席には届かず。翌76年には柳田俊郎、原田治明、三田学園高のチームメートでもあった山本功児と“左の代打カルテット”と呼ばれ、4月は打率.407、8月18日の時点でも打率.330で“隠れ首位打者”といわれたが、やはり規定打席に届かず、打率も3割を下回った。最終的には巨人で6度、近鉄で1度、シーズン350打席を超えたが、「自慢じゃないけど、規定打席に足りたのは1回だけ。ずっと使ってくれたら3割はいける、と思っていました。83年に初めての規定打席で打率.302。やっと証明ができたと思いました」(淡口)。

「尻じゃなくて腰なんです(笑)」
巨人では次々に外国人選手が加入し、そのたびに外野のポジションを争った。「彼らが打つならあきらめもつくんですが、そうでもなかった(笑)。巨人は大物が多いので、ある程度、打たなくても使わざるを得ないんですね」(淡口)。

85年オフには、捕手の有田修三とのトレードを投手の定岡正二が拒否して引退し、淡口が近鉄へ移籍することに。「まず『身代わりですか』って聞いたら『違う』って。どう考えても身代わりですけどね(笑)」(淡口)。近鉄では89年の優勝にも貢献し、巨人との日本シリーズを最後に、ユニフォームを脱いだ。

巨人での若手時代、筑波大のテストで王のスイングスピードを上回る140キロが計測され、それが球界最速ともいわれた打球スピードを呼び、“コンコルド打法”といわれた。「長嶋さんが、当時あった超音速旅客機のイメージだと、つけてくれました。野手が捕れない打球、早い打球を打てたらプロで生活していけると思ったんですよ」(淡口)。打席で構えて2度から3度、尻を振るのも印象的だが、「ファンの方から尻を振ってセクシーと言われましたが、ほんとうは尻じゃなくて腰なんです(笑)」(淡口)。

レギュラー張り続け、左投手でも代えられなかったら、レッテルを払拭することもできたかもしれない。その逆もしかりだ。その意味では、決して恵まれた現役生活ではなかったのかもしれない。一方で、好調でもレギュラーに定着できないという限られた出番で、これほどまでにインパクトを残した選手も珍しい気がする。当時、そのスイングスピードや打球スピードには遠く届かなかったが、その尻を振る打法を真似する野球少年は、たくさんいた。少なくとも、その出番を少年ファンは心待ちにしていたのだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

20名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 22:27:31
プロ野球1980年代の名選手
淡口憲治 王を超えるスイングスピードを誇った“コンコルド打法”/プロ野球1980年代の名選手
2019年2月28日(木) 11:05

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

尻を振って“二等辺三角形”を意識

1980年代の少年ファンがテレビ中継の巨人戦にかじりつき、選手のプレーをマネていたことは、この連載で何度か書いてきた。もしも、もっともマネされていた選手は誰か、という“選手権”があれば、その王座に輝くのは淡口憲治ではないだろうか。

西本聖の左足を突き上げる投球フォームや、クロマティのクラウチングスタイルのように、そのままの流れで投球、あるいは打撃に入っていくわけではないので、マネしやすかったのもあるだろう。また、成長期の少年ならではの独特な感性のようなものを刺激した部分もあったのかもしれない。バットを構えたときに、尻を2、3度、プリップリッと振る。リトルリーグなどでは難しかったかもしれないが、空き地が“本拠地”の少年ファンたちは、競うように尻を振っていた覚えがある。

“ご本人”のほうは、尻を振って構えると、スタンスを狭くして、二等辺三角形を意識しながらスムーズに回転して鋭く振り抜いた。さすがに、そこまでコピーできた少年はいなかったのだろう。筑波大のテストでスイングスピードが計測されたことがあったが、チームの先輩で同じ左打者でもある王貞治を上回る140キロを叩き出した。もちろん、その“コンコルド打法”の神髄は、そこにある。

長嶋茂雄監督が就任した75年がプロ5年目。10日で1万スイングをこなして打撃開眼、代打としてのスタートだったが、三番や五番での先発出場が増えていき、王とクリーンアップを形成した。だが、外野守備の不安や、次々に大物の助っ人が補強される巨人にあって、高校時代のチームメートでもある山本功児らと“左の代打カルテット”がメーンに。翌76年も1試合だけだが四番打者も務め、4月は打率.407、8月18日の時点でも打率.330で“隠れ首位打者”とも言われたが、結局、規定打席未満に終わった。

それでも、79年から6年連続100試合以上に出場し、80年からは4年連続で370打席以上。当時の規定打席は403だから、あとわずかで規定打席に届いていたことになる。初の規定打席到達は83年だ。三番、五番、六番など中軸を転々としながら打率.302をマーク。これがキャリア唯一の規定打席到達となったが、そこで打率3割をクリアした。

定岡の“代打”で近鉄へ

左投手に弱いというイメージもあったが、右投手に強過ぎた、というほうが正確なのかもしれない。この83年は右投手に対して打率.313。シーズン10本塁打すべてを右投手から放っている。ただ、打撃が好調を維持していても、相手チームの先発に左投手が予想されるときにはスタメンを外されたり、左投手がリリーフに上がると代打を送られたりということも多く、左投手に苦手意識はなかったが、それ以前に、左投手に対して打席に立つチャンスを与えられることが少なかった。

翌84年から徐々に出場機会が減少。11年ぶりに100打席を下回った85年オフ、巨人は定岡正二と近鉄の有田修三とのトレードを画策するも、定岡が拒否して引退したため、その“代打”で移籍が決まった。

兵庫県の出身で地元にも近く、高校時代のチームメートだった羽田耕一もいた近鉄の自由な雰囲気にアジャスト。主に五番打者として115試合に出場して、一時は首位打者をもうかがう勢いで意地を見せたが、最終的には394打席と、あとわずかで規定打席に届かなかった。古巣の巨人との日本シリーズを花道に、89年限りで現役引退。19年の現役生活で、ほとんどを第一線で過ごした。

層の厚い巨人だから控えに甘んじた部分もあっただろう。逆に巨人だからこそ、多くのファンが打席での一瞬の動きをも印象に残しているともいえる。身長173センチとプロ野球選手としては小柄だったが、若手時代から潜在能力を球界屈指と評され、練習熱心でも知られたが、その才能をフルに発揮できたわけではないのかもしれない。ただ、どんな起用でも、くさることなく、打席に集中した。シーズン350打席以上は6度を数える。

写真=BBM

21名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 22:41:26
プロ野球1980年代の名選手
加藤初 41歳まで投げたポーカーフェースの鉄仮面/プロ野球1980年代の名選手
2019年1月9日(水) 11:05

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

81年にスライダーで復活

1980年代、巨人の投手陣といえば、まずは江川卓、西本聖、定岡正二の先発三本柱がいた。やがて定岡が去り、江川が去り、西本が去っていき、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄らが成長して、新たな三本柱としてチームを支えていくことになるわけだが、そんな潮流とは一線を画し、モデルチェンジと浮き沈みを繰り返しながらも投げ続けた右腕が加藤初だ。

どんなピンチにも表情を変えず、逆に勝っても笑顔を浮かべることは少なく“鉄仮面”とも評されたが、それは打者に心の動きを読まれないように心掛けていたためだという。なにかとドラマチックだった巨人の投手陣にあって、さまざまな思いがあったに違いないが、その心は読みにくい。ただ言えるのは、淡々と投げ続け、結果を残したことだけだ。

巨人はプロ入りに際して、誘いを断ったチームでもある。71年秋のドラフトで注目されたが、所属していた大昭和製紙では左腕エースの安田猛(のちヤクルト)が指名されることが分かっていたため、会社が各チームに「2人が抜けるのは厳しい。加藤の指名は遠慮してほしい」と通達。実際、その年の指名はなかった。だが、自身はプロ入りを強く希望していて、自ら西鉄に連絡を取る。その噂を聞きつけ、誘ったのが巨人だった。

当時の西鉄は、いわゆる“黒い霧事件”の渦中。一方の巨人は、V9という空前絶後の黄金時代を謳歌していた。それでなくても、巨人というだけで入りたがる選手は多い。80年代の主力でもある江川と原も、前者は前代未聞の事件を経て、後者は高校で指名されず大学へ進み、悲願をかなえた。その後も、こうした選手は後を絶たない。だが、しかし。

「どうせなら強いチーム相手に投げたい」

選んだのは西鉄だった。1年目から17勝を挙げて新人王。チームは低迷を続けたが、東尾修と切磋琢磨しながら経験を積んでいく。だが、75年オフに2対2のトレード。伊原春樹とともに移籍したのが巨人だった。移籍1年目の76年、6試合目の登板となった4月18日の広島戦(広島市民)で、習得したばかりのフォークを初めて使うと、いきなりノーヒットノーラン。その後も先発、救援に投げまくって、最終的に15勝8セーブ、リーグトップの勝率.789で長嶋茂雄監督の初優勝に貢献した。

翌77年からは肋膜炎などもあって失速したが、藤田元司監督となった81年に堀内恒夫から教わったスライダーを駆使して復活の12勝。リーグ3位となる防御率2.91の安定感も発揮して、やはり藤田監督の初優勝を支えた。

37歳で完成した投球リズム

83年に血行障害の手術。すでに34歳となっており、どうしても故障とは無縁ではいられなかった。それでもシーズン8勝、西武となった古巣との日本シリーズでも勝ち星を挙げている。翌84年には3年ぶりの規定投球回到達で、やはり3年ぶりの2ケタ10勝。だが、続く85年は精彩を欠く。球種が見破られることも多く、世代交代もあって引退もささやかれたが、そこからフォームをノーワインドアップに改造した。

そして迎えた86年、みたび復活を遂げる。2年ぶり6度目の2ケタ14勝を挙げて、リーグ4位、自己最高の防御率2.76。37歳にして、「自分のリズムができあがった」と語ったが、その後も故障は続いた。

翌87年のキャンプで左の臀部に痛みが走ると、さらに左足かかとの軟骨が出て、地面に足を着けることもできなくなる。江川に、「今年で一緒にやめよう」と冗談を言ったこともあったというが、特殊な足底板を作ってもらい、これで痛みが半減すると、7勝。続く88年には夢だった東京ドームでの登板も果たした。

89年からはコーチ兼任となり、90年限りで現役引退。“外様”ながら41歳まで現役を続け、ストレートの球速は最後まで140キロを超えていた。ちなみに、マウンドではポーカーフェースの“鉄仮面”だったが、家に帰れば明るいパパだったという。

写真=BBM

22名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 22:51:01
プロ野球1980年代の名選手
西本聖【前編】同期1位は定岡。ドラフト外で巨人へ/プロ野球1980年代の名選手
2019年1月7日(月) 11:05

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

子どももあこがれる豪快な投球フォーム

1980年代はプロ野球のテレビ中継の黄金時代だった。プロ野球、といっても一部地域を除いて中継されていたのは巨人戦だ。巨人ファンではなくでも、プロ野球が好きなら巨人戦を見るしかなかった。巨人戦は、どんな人気番組であっても、それを押しのけて放映され、にもかかわらず、試合が長くなれば若干の延長はあったものの、どんなに緊迫した展開であろうと無情にも決められた時刻になったらブツッとCMに切り替えられ、うわの空のまま天気予報を眺めていたような覚えがある。特に80年代の前半はドーム球場などなかったから、翌日の天気予報も重要な情報には違いなかったのだが。

まだまだ「一億総中流」などと言われていた時代でもある。実際には中流に届かない家庭の子もいて、そんな子は球場の近くに住んでいたとしても、そこへ足を運ぶなんて夢のまた夢、ひたすらテレビでプロ野球を見ていた。学校が終われば空き地で野球。首都圏でも空き地が残っていた時代だ。リトルリーグにも入れず、グラブも買ってもらえず、おもちゃ屋や駄菓子屋で買ってもらったプラスチック製のバットとボールが宝物。そんな子たちが何人か集まり、飛んでいったボールを追いかけ、お隣さんの庭に侵入して犬にほえられたり人間に怒鳴られたりしながらも、日が暮れるまでは懲りずに野球に興じていたものだった。

ピッチャー役の子の多くは、そうすれば速球が投げられるような気がしたのだろうか、投げる前に耳を引っ張り、鼻の穴を膨らませて投げ込む。一方、運動神経に自信がある子は、左足をピンと上げてから投げていた。投げるほうはイマイチでも、左足だけはキチンと上がっていた子も少なくない。前者はガキ大将、後者はガキ大将のケンカ相手というパターンが多かった気がする。前者が誰の真似をしていたかは言わない。後者は、明らかに巨人の西本聖を意識していた。“怪物”と呼ばれ、高校時代から快速球で全国区だったチームメートの江川卓をライバルと定め、その存在を超えるべく、天を貫かんばかりに真っすぐ左足を上げて、投げまくった右腕だ。

話の舞台をプロ野球のグラウンドに、そして時計の針を70年代に戻す。愛媛は松山商高から75年にドラフト外で巨人へ。

「スカウトの方が指名すると言ってくれたからドラフトの日もラジオを聞いて待っていた。でも最後まで名前が呼ばれず、裏切られたと思って大学へ進もうと。そこからドラフト外の話が来た。嫌だったけど、広島に入っていた兄(西本明和)に『巨人でやれるなんて、すごいじゃないか。あの長嶋(茂雄)さんが監督だぞ』と言われて、思い切って入団を決めました」

23名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 22:56:50
定岡の次は江川

同期の1位は甲子園でアイドル的な人気を誇った定岡正二だ。契約金3000万円に、背番号20の定岡に対して、契約金は800万円、背番号58。ファンやマスコミから注目を集める定岡の隣にいると、まるで透明人間のようだった。

「悔しかった。でも、僕には何もなかったから。あるのは135キロのストレートと曲がらないカーブ、ナチュラルのシュートだけ。必死に練習しましたよ。練習量は誰にも負けなかった」

最初のライバルは定岡だった。2年目の76年に定岡よりも先に一軍デビュー。翌77年には8勝4セーブ。巨人の先輩で、伝説的な右腕でもある沢村栄治のように、左足を上げるフォームも話題となる。制球力も安定、シュートも数種類を投げ分けられるようにもなり、定岡を抜いた、と実感したシーズンだった。だが、79年に江川が入団すると、その球に驚かされる。とても球速では勝てない。8勝6セーブ、初めて規定投球回にも到達してリーグ2位の防御率2.76をマークしたが、危機感しかなかった。

「今度は江川さんに負けたくないと。投手の練習の後に、内野手に交じってノックを受けたりもしましたね。ヒザの強化と柔らかい使い方を覚えるのに効果があるんです。いまでは珍しくないけど、当時は『目立とうとするな』と言われました。日本で他人と違うことをすると、すぐ攻撃される。でも、僕は自分のためにやることだから気にしなかった」

珠玉のライバルストーリーが幕を開けた。

写真=BBM

24名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 23:10:05
プロ野球1980年代の名選手
西本聖【後編】“怪物”と呼ばれた天才に努力で立ち向かった右腕/プロ野球1980年代の名選手
2019年1月8日(火) 11:05

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

日本シリーズで29イニング連続無失点

そこにスター選手の天真爛漫さはない。すさまじい気迫に隠された打者との駆け引き、打者の内角に迫る鋭いシュート。そこには西本聖という人間の生き様が、にじみ出ているかのようだった。

1980年代、ライバルは同じ巨人の江川卓。“怪物”と呼ばれた天才に、努力で立ち向かっていった。快速球で三振を奪う江川とは対照的に、絶妙な制球力と数種類のシュートで凡打の山を築く。ストイックに日々の練習を積み重ね、現在では常識だが、いち早くアクティブレストを取り入れて、オフには水泳やテニス、ゴルフで気分転換をしつつ、積極的に体を動かすことで、体力の回復にも務めた。

80年に初の2ケタ14勝。沢村賞にも輝いた翌81年には18勝を挙げたものの、20勝で最多勝の江川には届かず。84年に15勝で並んだことはあったが、最後までシーズンでは白星で上回ることができなかった。

「ライバルと言われ、仲が悪いと思われていたようですが、それは違います。ただ、言葉にはしませんでしたが、『打たれろ、負けろ』と思ったこともある。江川さんが負けて、僕が勝って、じゃないと“価値観”が作れない。大事な試合では江川じゃない、西本だ。そう思ってくれるものを作りたかった。ライバルって同じチームの同じポジションにしかいないと思う。同じ条件で戦う中で、どっちが上かを競うんですね」

その“価値観”は81年と83年、2度の日本シリーズで作られることになる。

「日本シリーズはプロにとって最高の舞台。自分の“価値観”を作れる場所でもある」

日本ハムを破った81年は2勝、防御率0.50でMVP。西武との“盟主決戦”となった83年には2勝1敗、防御率1.73で、81年の第2戦(後楽園)の2回から83年の第5戦(後楽園)の3回まで29イニング連続無失点も。

「あのときの29イニング連続無失点には、僕の野球人生すべてが詰まっています」

だが、87年オフに江川が突然の引退。

「ずるい、逃げられたと思いましたね(笑)。だから、通算で(江川の135勝を)抜いたときは、うれしかったですよ。でも、僕は江川さんがいたから、ここまでできた。天性のスピードを持つ、あの人がいたから、僕は自分の投球術を磨けたんだと思う」

江川が去ると、まるで酸素を失った炎のように、勢いを失っていった。そしてトレードで中日へ放出。消えかけた炎が一気に燃えさかった。

「よかったのは、セ・リーグだったこと。だってジャイアンツに出されたわけですから、見返すにはセ・リーグの球団で対戦して勝つしかない。どのチームより、巨人には負けたくない、という思いがありました」

25名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 23:19:29
古巣に牙をむいて初の最多勝

中日1年目の89年に巨人戦の5勝を含む自己最多の20勝を挙げて、初の最多勝。これで江川の通算勝利も抜いた。勝率.769もリーグトップ。江川と競い合って投げていた巨人時代に7年連続で選ばれていたゴールデン・グラブにも返り咲く。ドラフト外から這い上がってきた男の、プロ15年目の姿だった。

翌90年にも2ケタ11勝を挙げたが、その後は椎間板ヘルニアに苦しめられる。それでも反骨の右腕は現役で投げ続けた。オリックスを経て94年に、プロ入りしたときの恩師でもある長嶋茂雄監督が率いる巨人へ。テストを受けての復帰だった。かつて背番号26でエースの座を争った男に与えられた背番号は90番。プロ入りしたときに長嶋監督が背負っていたナンバーだ。だが、一軍のマウンドには戻れないまま現役を引退した。

翌95年1月21日、多摩川グラウンド。かつてドラフト外で入団して、泥にまみれた場所で、最初のライバルだった定岡正二が声をかけて“引退試合”が行われた。長嶋監督も駆けつけて始球式のマウンドに立ち、最後の打席にも立った。この試合を完封したのは、天貫くかのように左足を上げて投げ込んだ背番号90。

「言葉がありません。ほんとうに幸せ。それ以上の言葉は浮かんでこない。いろいろな方が引退されたけど、僕は最高だと思います」

真冬の冷たい風を忘れさせる心あたたまる引退試合は、この男らしいフィナーレだった。

写真=BBM

26名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 14:16:12
プロ野球1980年代の名選手
山本浩二【前編】中距離打者から長距離打者への変貌/プロ野球1980年代の名選手
2018年9月9日(日) 11:06

絶頂の1980年

1980年は、昭和の広島黄金時代における最盛期だろう。75年に初のリーグ優勝。2リーグ分立の50年から、戦力不足や資金難に苦しみ、とにかく低迷が多かった市民球団にとって初の歓喜でもある。そして79年には2度目のリーグ優勝。近鉄との日本シリーズでは最終戦にクローザーの江夏豊が名勝負を演じ、いわゆる“江夏の21球”で初の日本一に。まさに絶頂で迎えた80年代。そんな広島の中心にいたのが山本浩二だ。

法大では西武の田淵幸一、日本ハムの富田勝らと“法大三羽ガラス”として活躍し、ドラフト1位で69年に広島へ。若手時代は長打力に機動力を兼ね備えた中距離ヒッターだった。75年に初めて打率3割を超え、その勢いのまま首位打者に。本塁打の30本台も初めてだった。24盗塁にとどまったが、どちらかといえばトリプルスリーを目指していくタイプで、歴代4位の通算536本塁打を残す長距離砲の面影は、まだない。

外野手としても302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立。法大1年までは投手だったこともあり、強肩も武器だった。この75年は攻守走にわたる貢献が認められてMVPに。まさに万能選手だった。

30歳で迎えた77年、突如として本塁打の量産体制に入る。翌78年も2年連続で44本塁打を放って初の本塁打王に。巨人の王貞治と競っての戴冠だった。日本一イヤーの79年は113打点で打点王だ。1人の選手としても、迎えた80年は絶頂期だったと言える。

6月に勝率5割を超えてから王座に登りつめた79年とは対照的に、序盤から快進撃。4月、5月は首位を譲ったこともあったが、5月13日に返り咲くと、球団史上初となる首位折り返し。そのまま優勝を決めた。そんな広島にあって“ミスター赤ヘル”の面目躍如。全試合に出場して、44本塁打、112打点で、本塁打王、打点王の打撃2冠に輝く。打率.336はリーグ3位だったが、得点、塁打、四球、長打率、出塁率のすべてでリーグトップ。リーグ連覇の立役者として2度目のMVPにも選ばれた。

一方の広島は、日本シリーズは79年と同様に近鉄との顔合わせ。4勝3敗で日本一となったのも同じだった。ドラマチックな展開も多かった79年のインパクトが強いこともあり、連覇の80年は影が薄くなりがちだが、危なげない戦いぶりもまた、黄金時代の一面なのかもしれない。

翌81年はチームこそ巨人に届かなかったが、2年連続で打撃2冠。43本塁打は5年連続の40本塁打以上で、10年連続で外野のダイヤモンド・グラブにも選ばれている。ただ、70年から続いてきた2ケタ盗塁は途切れ、ダイヤモンド・グラブも最後の受賞となった。35歳。30代で長距離砲として覚醒した珍しいタイプの強打者だったが、若手時代の機動力や守備力には、かげりが見え始めていた。82年は打率3割、30本塁打はクリアしたものの、無冠に終わる。

最高のお手本

実は、プロ入りしたときから腰痛に苦しめられていた。だが、四番打者は全試合に出てこそ、と教えられてきた。76年に腰痛もあって1試合だけ休んだのが、もっとも悔いが残っているという。その1試合を除いて、初優勝の75年から82年まで、起き上がれないほど腰が痛んだときも試合に出続けた。

古葉竹識監督の「プロならお客さんのために試合に出なきゃいかん」という持論もあったが、「衣笠(祥雄)という、よきお手本がいたからよ。連続試合出場を続けていたからね。彼がいなかったら、何試合か休んだかもしれん」

衣笠とは学年は同じだが、法大を経た4年だけ、プロでは衣笠が先輩になる。ともに広島ひと筋。互いに認め合った「コウジとキヌ」が試合に出続けていることで、「ワシらが出るなら休むわけにはいかん、となったんだね。全試合出場は、いつもカープの選手が一番、多かったんや」。

その全試合出場も82年が最後となった。

写真=BBM

27名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 14:31:26
プロ野球1980年代の名選手
山本浩二【後編】唯一無二の“第8戦”を最後に置いたバット/プロ野球1980年代の名選手
2018年9月10日(月) 11:06

37歳の本塁打王

一時的に失速し、衰えたかに見えたものの、迎えた1983年、ふたたびバットが火を吹く。4月の阪神戦(甲子園)ではプロ15年目にしてサイクル安打を達成。最後の1本は三塁打だったが、本塁打王争いのライバルだった三塁手の掛布雅之が微妙(というか絶妙?)なタイミングでタッチ、セーフとなっている。守備では長く中堅手としてセンターラインを支えてきたが、年齢もあって左翼へ。左中間の飛球を見誤って額に当てる“ヘディング”はご愛嬌。基本的には無難にこなした。

持病の腰痛もあって、全身のバネをフルに使ったフルスイングは影をひそめた。特にインコースをさばくときには、その場で腰を回転させる意識で振り抜いていて、それによってバットのヘッドが振り抜いて、飛距離を稼いでいた。さらに、本塁打にするには、「球をとらえてから、もうひとつ押す。球をバットで運ぶような感覚なんです」という。

どうしても腰に負荷がかかってきたが、もともと本塁打を狙って引っ張ろうとすると「リキんでしまって結果が出ない」タイプ。右方向へと巧みに運んで本塁打を量産するようになる。最終的には36本塁打。掛布や原辰徳(巨人)とのタイトル争いを制して、4度目の本塁打王に輝いた。そして、これが最後の打撃タイトルとなる。

翌84年は広島が4度目のリーグ優勝、そして3度目の日本一。もちろん、同じ数だけ美酒を味わってきていた。ペナントレースは序盤こそ精彩を欠いたが、夏場から復調。日本シリーズは初優勝の75年に激突した阪急と2度目の顔合わせとなった。当時は黄金時代を謳歌していた阪急だったが、このとき黄金期にあったのは広島。同い年の“鉄人”衣笠祥雄も絶好調で、小早川毅彦や長嶋清幸ら若手も育ってきている。そして4勝3敗で雪辱。確かに、世代交代は進んできていた。それでも、その存在感は健在だった。

続く85年は猛虎フィーバーに呑まれ、古葉竹識監督が勇退。阿南準郎監督が就任したが、“その次の監督”は既定路線だった。引き受けた阿南も「監督なんて柄ではないんだけどね。コウジに引き継ぐことだけを考えていた」と語っている(結果的には88年まで3年間、指揮を執ってから“禅譲”となった)。

その86年、巨人との激戦を制して5度目のリーグ優勝。27本塁打を放ったものの、それは投手力での優勝だった。優勝を決めると、ナインの手で宙に舞った。

「若いヤツらが一生懸命やって、ワシらを優勝させてくれた」

日本シリーズは西武と初の顔合わせ。リーグ2連覇を果たし、黄金時代を迎えた強敵だ。そんな頂上決戦に、引退を心に決めて臨んだ。

“ミスター赤ヘル”のラストゲーム

球史に残る名勝負となった日本シリーズだった。第1戦(広島市民)で9回裏に同点本塁打を放ち、試合はそのまま引き分け。その後3連勝も、そこから3連敗を喫した。第6戦(西武)は40歳の誕生日だったが、その日に日本一を飾ることもできず。史上初、第8戦での決着となった。もしかすると二度とないかもしれない“日本シリーズ第8戦”こそ、“ミスター赤ヘル”のラストゲームだった。

しかも、舞台は広島市民球場。広島のナインも、ファンも、日本一を目指していたことは間違いない。それも史上初の第8戦だ。

試合は敗れた。5度目の日本シリーズ、そしてラストゲームを、夫人と男子ばかりの子どもたちが見守った。満員のスタンドからは、「コウジ、コウジ!」とコールが止まらなかった。

胴上げされ、報道陣に囲まれると、号泣。

「山本浩二は幸せな男です」

背番号8は広島で初めて永久欠番となった。

ファンには勝利より、あるいは優勝より、さらには日本一より、大事なものがあるのかもしれない。またコウジが見られる、まだコウジが見られる……。去りゆく“ミスター赤ヘル”の名残を惜しむかのような、唯一無二の“第8戦”だった。

写真=BBM

28名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 16:02:20
プロ野球はみだし録
トレードで近鉄の有田修三が巨人へ…定岡正二は移籍を拒否して引退、淡口憲治は「身代わりですか?」【プロ野球はみだし録】
2022年11月15日(火) 10:00

激動の85年オフ

近鉄への移籍を拒否した定岡

V9という空前絶後の黄金時代を支えていたのは司令塔の森昌彦だったが、そんな森に対して次々に“刺客”を送り込むように、アマチュアの強力な捕手を獲得し続けた巨人。80年代の“テレビ中継の黄金時代”を支えた山倉和博も決して安泰ではなかったが、トレードで実績のある捕手を補強するとなると、同様に戦力として計算できる交換の選手が必要となる。大きな動きがあったのは85年オフだ。

巨人が獲得を目指したのは近鉄の有田修三。近鉄は有田と梨田昌孝という2人の捕手を、併用というより、実力が拮抗している2人の捕手で司令塔の座を分け合うような、独特の態勢だった。“アリナシ・コンビ”とも呼ばれた2人は、甘いマスクの梨田の一方で、有田は口ヒゲをたくわえ、強気のリードが持ち味と、スタイルも対照的で、そんな2人を使い分けられることが近鉄の強みでもあった。

圧倒的な人気を誇る巨人と親密な関係を築きたい近鉄と、黄金時代を謳歌している西武を牽制したいという巨人。ともに思惑が一致してのトレード話だったというが、巨人が有田との交換で投手の定岡正二に白羽の矢を立てたことで、事態は混乱。江川卓、西本聖と“先発3本柱”を形成し、人気もあった定岡だったが、移籍を拒否して現役を引退。結局、左打者が欲しいという近鉄の希望もあり、長く代打に甘んじていた外野手の淡口憲治と投手の山岡勝、この2人と有田との交換でトレードが成立した。

淡口は「これは(定岡の)身代わりですか、って訊いたら、違う、と。どう考えても身代わりですけどね(笑)」と振り返るが、近鉄は淡口の地元でもある関西の球団ということもあり、中軸として活躍。近鉄がリーグ優勝を飾った89年オフに現役を引退したが、「わくわくしながらやれた4年間でした」と振り返る。また、有田は山倉の牙城を崩すことはできなかったが、おとなしいタイプの選手が多かった当時の巨人で、攻守にパワフルなプレーで異彩を放つも、奇しくも淡口が現役を引退した89年オフにダイエー(現在のソフトバンク)へ移籍している。一方、巨人の山倉も89年の前後は激動にあった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

29名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 16:19:30
プロ野球回顧録
定岡正二、任意引退の衝撃「巨人軍は僕にとっては青春そのものだった」【プロ野球回顧録】
2022年4月3日(日) 11:00

1975年、ドラフト1位で入団し、80年代前半は、江川卓、西本聖と「先発三本柱」と呼ばれる。甘いマスクで若い女性ファンの人気も絶大だった定岡正二。しかし、85年オフ、突然の任意引退が発表された。まだ、28歳だった。

結婚していたら違っていた

武器はスライダー。引退後はタレントとしても活躍した定岡

11月2日の夕方、巨人・定岡正二は、後楽園球場近くのホテルで長谷川実雄球団代表との話し合いをするも、平行線のまま、退団、任意引退が決まった。定岡は、そのまま記者たちとともに後楽園球場に足を運び、ロッカールームの整理をした。

そのとき練習着をじっと見て、周囲にいた記者たちにこう言った。

「これ、一着だけもらえないかな。飾るんじゃなくて、思い出として、タンスの奥にしまっておきたくてね」

記者たちは定岡の口から球団批判を期待し、さまざまな質問をしたが、「巨人に反発? いえ、絶対にそんなことはありません。僕のわがままです。野球をやめるときは巨人のユニフォームを脱いだときと決めていただけです」と淡々と答えた。

11月8日には球団が定岡の任意引退を正式に発表。人づてに戦友ともいえる江川卓、西本聖から「送別会というと寂しいから、激励会をやろうじゃないか」と伝言をもらったというが、「気持ちだけで十分。ありがとうと伝えてください」と断った。「話せば、やっぱり寂しいからね」と静かに笑った。

85年、槙原寛己、斎藤雅樹ら若手投手の成長もあってリリーフに回ったが、47試合に投げ、4勝3敗2セーブ、防御率3.87は、まずまずとも言える。しかし、巨人・王貞治監督は、かねてより山倉和博のサポート捕手として近鉄の有田修三獲得を球団に要請。巨人は定岡に交換要員として白羽の矢を立てた。これに対し、当初から難色を示していた定岡だったが、球団は、「いくらトレードならやめる、と言っても生活がある。現実を直視すれば気持ちも変わるだろう」と軽く考えていたようだ。

実際、定岡も「結婚していたら受けていたと思う」と話していた。

30名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 16:20:57
プロ野球回顧録
定岡正二、任意引退の衝撃「巨人軍は僕にとっては青春そのものだった」【プロ野球回顧録】
2022年4月3日(日) 11:00

1975年、ドラフト1位で入団し、80年代前半は、江川卓、西本聖と「先発三本柱」と呼ばれる。甘いマスクで若い女性ファンの人気も絶大だった定岡正二。しかし、85年オフ、突然の任意引退が発表された。まだ、28歳だった。

結婚していたら違っていた

武器はスライダー。引退後はタレントとしても活躍した定岡

11月2日の夕方、巨人・定岡正二は、後楽園球場近くのホテルで長谷川実雄球団代表との話し合いをするも、平行線のまま、退団、任意引退が決まった。定岡は、そのまま記者たちとともに後楽園球場に足を運び、ロッカールームの整理をした。

そのとき練習着をじっと見て、周囲にいた記者たちにこう言った。

「これ、一着だけもらえないかな。飾るんじゃなくて、思い出として、タンスの奥にしまっておきたくてね」

記者たちは定岡の口から球団批判を期待し、さまざまな質問をしたが、「巨人に反発? いえ、絶対にそんなことはありません。僕のわがままです。野球をやめるときは巨人のユニフォームを脱いだときと決めていただけです」と淡々と答えた。

11月8日には球団が定岡の任意引退を正式に発表。人づてに戦友ともいえる江川卓、西本聖から「送別会というと寂しいから、激励会をやろうじゃないか」と伝言をもらったというが、「気持ちだけで十分。ありがとうと伝えてください」と断った。「話せば、やっぱり寂しいからね」と静かに笑った。

85年、槙原寛己、斎藤雅樹ら若手投手の成長もあってリリーフに回ったが、47試合に投げ、4勝3敗2セーブ、防御率3.87は、まずまずとも言える。しかし、巨人・王貞治監督は、かねてより山倉和博のサポート捕手として近鉄の有田修三獲得を球団に要請。巨人は定岡に交換要員として白羽の矢を立てた。これに対し、当初から難色を示していた定岡だったが、球団は、「いくらトレードならやめる、と言っても生活がある。現実を直視すれば気持ちも変わるだろう」と軽く考えていたようだ。

実際、定岡も「結婚していたら受けていたと思う」と話していた。

31名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 16:29:40
今までと同じ生活はできない

直後の定岡のインタビューも再録しておこう。素直で実直な性格がにじみ出る受け答えになっている。

──現在の肩書は。

「プー太郎かな。はっきり言って失業者です(苦笑)」

──これからはどうする?

「まったく考えていません。ずっと野球一筋の生活でしたからね。2カ月くらいは、何もせず、ゆっくりしたいなと思っています」

──退団のときは、先のことを何も考えていなかったということ?

「みんないろいろ書いてくれたけど(モデル業、タレントなど)、計算はまったくなかったんです。あとのことまで考えて結論を出すのが普通かもしれないけど……」

──巨人が自分を必要でないと知ったのは。

「日にちは覚えてないけど、何人かの関係者に会って、巨人では来年の戦力に入ってないと言われました」

──その時点で退団するか、トレードを受けるか、2つに1つしかなくなったわけだけど。

「正直言って、迷いました。簡単に結論は出ないですからね。野球をやめるのはすごく寂しいし、結論を出すまで何日もかかりました」

──最初から長谷川球団代表と話していたらトレードを受けたかもという話もあるが(最初は管理部長から告げられ、それが不信感につながったとも)。

「う〜ん、そうなっていたかもしれませんね」

──退団するということは月給170万円も捨てることになるが。

「やめるとき、そこまでは考えてなかった。それより気持ちですね。小さいころから巨人にあこがれて、その巨人をやめなきゃいけない悲しみのほうが大きかったです」

──12月までは170万の月給は出るのでしょう。

「それが、任意引退だとダメらしいですね。もうないよと言われました」

──建設中の新居は。

「家を売って、まず借金をなくせ、とアドバイスしてくれる人もいますが、せっかく建てたら、一度は住んでみたいし……」

──生活も変えざるを得ないか。

「今までと同じような生活はできないでしょうね。危機感も必要でしょう。バスに乗ったり、電車に乗ったり。ガソリン代という目先のことではなく、自分の置かれた立場というものを、気持ちの中で植え付けていくためにもね」

──大変なことがたくさんあるが、それでも巨人を退団した真意は。

「自分でもよく分からないんですよ。悔しさもあったし、いろいろなものが交錯して。でも、現実にこうなったのだから、これ以上、悔いみたいなものは残したくありません。自分で出した結論ですから」

ファンあってこそ

──巨人軍って何だったの。

「僕にとっては青春そのものだったと思います」

──巨人での最後のシーンは覚えている?

「覚えていますよ。最終戦の阪神戦。出番の予定はなかったんですけど、8回の一死一塁だったかな。あのとき、やめるつもりは全然なかったけど、いま思えば忘れられないんですよね。ショートゴロのゲッツー。僕らしい終わり方でした。ゲッツーを取るピッチングが僕の持ち味だったから」

──ファンの人たちに何か。

「僕がお礼を言いたいのは、ちょっと臭い話になるかもしれないけど、俺一人でここまで来れたわけじゃないし、ファンの人たちの声援に乗せてもらったというか。勝つことは僕もうれしいんだけど、周りの人がもっと喜んでくれてね。俺はいつもポーズをつけているけど、今だから素直に、俺はファンの人に見守られ、支えられてここまでやってこれたことに感謝したい。そんなことを言うのは、自分自身に対してもちっとも恥ずかしいことじゃないし、ファンに育てられた選手だと思うし、ありがとうの一言です。ファンの人にとっては(僕は)短い野球人生かもしれないけど、自分なりにやりました」

──ファンレターは。

「やめた後は前よりたくさんいただいて、すべて読んでます。半々ですね。トレードでもやってほしいというのと、ご苦労様でしたというのと」

──みんなが注目しているし、みっともないマネはできないね。

「いや、今から僕はみっともないこともやらなきゃいけないと思っているんですよ。こういうやめ方をして、これからも泥はかぶるし、頭を下げることも必要だと思う。みっともない真似でも、胸を張って生きていきたいと思います」

なお、定岡の引退でミソがついた形となった近鉄とのトレードだったが、その後、巨人が淡口憲治と山岡勝を近鉄に放出することで、有田とのトレードが成立した。一方、定岡は選手としての最後のけじめをつけるべく、巨人の了解を得て翌86年春のドジャースのベロビーチキャンプに参加。プロに入って初めてのキャンプを過ごした思い出の地で、ユニフォームに別れを告げた──。

『よみがえる1980年代のプロ野球 1985年編』より

写真=BBM

32名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 18:04:04
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00

原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森

2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。

原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。

時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。

山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

33名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 18:05:32
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00

原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森

2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。

原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。

時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。

山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

34名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 18:06:46
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00

原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森

2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。

原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。

時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。

山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

35名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 18:11:07
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00

原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森

2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。

原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。

時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。

山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

36名無し募集中。。。:2023/06/18(日) 18:22:25
プロ野球はみだし録
中尾孝義がトレードで巨人へ。山倉和博はラストイヤーに「球宴は胴上げしながら運んでもらった」【プロ野球はみだし録】
2022年11月17日(木) 10:00

トレードの2人がカムバック賞に

1987年にはMVPに輝いた山倉

V9時代にはアマチュアから次々に有力な捕手を獲得した巨人。彼ら“刺客”におびやかされながらも、司令塔の座を譲らなかったのが森昌彦だった。時は流れ、1980年代の司令塔となった山倉和博も、森ほどではないものの、ポジション争いとは無縁ではなかった。ライバルは、トレードで移籍してきた“刺客”たちだ。

山倉が初めて出場100試合を超えたのは80年で、最後が87年。投手陣から圧倒的な信頼を集めながらも、打撃では“意外性の男”の異名もあった山倉だったが、この87年は打撃も好調で、22本塁打など打撃3部門でキャリアハイとなり、MVPにも輝いた。だが、翌88年からは故障に苦しむように。そのオフ、中日から中尾孝義が移籍してくる。82年にセ・リーグの捕手として初めてMVPとなった中尾だが、星野仙一監督の就任で外野に回り、それでも捕手へのこだわりを捨てきれずにいた。トレードを告げられて涙を流した中尾だったが、巨人への移籍で、ふたたび捕手として活躍することになる。

ただ、中尾の移籍は交換トレード。中日で長く司令塔を担い、外野に回っても打撃に期待されている中尾の獲得のためには、実績のある選手を交換で出す必要があった。白羽の矢が立ったのは2人の投手で、西本聖と加茂川重治。中でも西本は、87年いっぱいで現役を引退した江川卓のエースの座を争い、その87年に中日へ来た落合博満と名勝負を繰り広げるなど歴戦の右腕だ。巨人のフロントには「西本は闘志むきだしで巨人に対してくるはず。中日に出していいのか」という声もあったというが、「ライバルチーム同士でも、こういったトレードが球界の活性化につながる」という藤田元司監督の意向で、西本は中日へ移籍した。

コーチとの確執や江川の引退で闘志を失いかけていた西本は、これで完全に復活。巨人戦5勝を含む20勝で初の最多勝に輝いて、89年のカムバック賞を贈られたのは西本と中尾の2人だった。一方、山倉は出場機会が激減。それでもラストイヤーはファン投票1位で球宴に出場、「胴上げしながら運んでもらったようなもの。一生、忘れません」と振り返っている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板