5.525 文「(∃x ) . fx 」を――ラッセルがそうしているように――「fx は可能である」によって言葉に表わすのは不当だ。
或る状況の確実性なり可能性なり不可能性なりは、文によってではなくて、或る表現がトートロジーなり有意味な文なりコントラディクションなりであることによって表現される。
ひとがきまって引き合いに出したがるかの先例は、当のシンボルそのもののうちに既に在るはずだ。
5.526 ひとは完璧に一般化された諸文によって世界を完全に記述し得る。つまり、そもそも何か或る名称を特定の対象に対応づけるようなこと無く。
さらに通常の表現法に到るためには、ひとは「・ ・ ・ のようなただひとつの x が存在する」というような表現のあとに、そしてその x は a である、と言う必要があるだけだ。
5.5261 完璧に一般化された文は、他のあらゆる文と同様、合成されている。(このことは、我々が「(∃x, φ ) . φx 」において「φ 」と「x 」に別々に言及する必要がある点に自ずと顕現する。どちらも、一般化されていない文においてと同様、独立して世界との表示関係に在る。)
合成されたシンボルの徴: それは何かを他の諸シンボルと共有している。
5.5262 どんな文の真偽も世界の一般的構造がもつ何かを変えるのだ。そして、基本的文の総体によって世界の構造に許容される遊びの範囲それこそが、全く一般的な文全般が劃すものだ。
(或る基本的文が真であれば、それとともに少なくとももうひとつの基本的文が真だ。)
5.53 対象の同一性を私は記号の同一性によって表現する。等号なるものの援けにはよらない。対象間の相違は記号間の相違によって。
5.5301 同一性が対象間の関係ではないことは明らかだ。それは、ひとが例えば文「(x ) : fx . ⊃ . x = a 」を考察すれば顕著になる。この文が述べているのは、a だけが関数 f を充たすということに過ぎず、a に対して或る関係をもつようなものだけが関数 f を充たすということではない。
ひとは、もちろん、ここで、まさに a だけが a に対してこの関係をもつ、と言い得るだろうが、しかし、それを表現するためには、我々は等号そのものを必要とする。
5.5302 ラッセルの「=」の定義は十分ではない。ひとは、それに随えば、ふたつの対象が総ての属性を共有すると言うことができないのだから。(決して正しくはないにしても、やはりこの文は意味をもつ。)
5.5303 大雑把に言えば、ふたつのものについてそれらが同一だと言うことはナンセンス〔ein Unsinn〕というものであり、ひとつのものについてそれがそれ自体と同一だと言うことは全く何も述べていない。
5.531 私は、だから、「f (a, b ) . a = b 」ではなく、「f (a, a )」(あるいは「f (b, b )」)と書く。また「f (a, b ) . 〜a = b 」ではなく「f (a, b )」と。
5.532 また同様に、「(∃x, y ) . f (x, y ) . x = y 」ではなく「(∃x ) . f (x, x )」と、そして「(∃x, y ) . f (x, y ) . 〜x = y 」ではなく「(∃x, y ) . f (x, y )」と。
(したがって、ラッセル流の「(∃x, y ) . f (x, y )」に替えて「(∃x, y ) . f (x, y ) . ∨ . (∃x ) . f (x, x )」と。)
5.5321 したがって、「(x ) : fx ⊃ x = a 」に替えて我々は例えば「(∃x ) . fx . ⊃ . fa : 〜(∃x, y ) . fx . fy 」と書く。
また、「ただひとつの x だけが f ( ) を充たす」という文は「(∃x ) . f x : 〜(∃x, y ) . fx . fy 」だ。
5.533 等号は、だから、概念記法の本質的成分ではない。
5.535 それとともに、そうした見かけの文に結びつけられていた総ての問題ももう片がつく。
ラッセルの「無限公理」に伴う総ての問題は、これでもう解かれ得る。
無限公理が述べているとされることがらは、相異なる意義をもつ無限に多くの名称が存在することを通じて、言語において自ずと現われることだろう。
5.54 一般的文形式では、ひとつの文がひとつの文の中に現われるのは、もっぱら諸真理オペレーションの基底としてだ。
5.541 一見、或る文は別の或る文の中に別の仕方でも現われ得るかのようではある。
特に、「A は p が成り立っていると信じている」や「A は p と考える」等々のような心理学の或る種の文形式において。
ここでは、表面的には、文 p が対象 A と或る種の関係にあるかのような訳だ。
(また、現代的認識論(ラッセル、ムーア等々)においても、こうした文は実際そう解されてきた。)
5.542 だが、「A は p ということを信じている」、「A は p と考える」、「A は p と言う」が「「p 」は p と述べる」という形式をもつことは明らかだ。そして、ここで問題なのは、或る事実と或る対象の対応づけではなくて、諸事実の対象間の対応づけを通じての、事実間の対応づけなのだ。
5.5421 このことは、また、今日の皮相な心理学において解されるような魂――主観等々――なるものは馬鹿げていることを示している。
合成された魂など、もはや魂どころではないだろう。
5.5422 「A は p と判断する」という文の形式のまっとうな説明は、ナンセンスというものを判断するのは不可能なことを示すはずだ。(ラッセルの理論はこの条件を充たさない。)
5.5423 ひとつの複合体を知覚するとは、その諸成分が互いにしかじかに係り合っているのを知覚することを意味する。
このことは、ひとが図形
画像を立方体として二通りに見ることができることおよび似たような現象の総てをたしかに説明しはする。我々はとにかく実際にふたつの相異なる事実を見るのだから。
(私がはじめに a の四角を見て、そしてほんのちらりと b を見れば、a が手前に見えるし、逆の場合も同様だ。)