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【トラベル】〜〜第二講座〜〜

6名無しさん:2024/11/26(火) 12:08:18
3.33 論理的構文論においては、記号の意義が何らかの役割を果たすことは決して許されない。論理的構文論は、記号の意義が話題にされることなど無しに、組み立てられ得るのでなければならない。それが前提とすることが許されるのは、ただその諸表現の記述だけだ。
3.331 この所見をもとにラッセルの「タイプ理論」に目を向けよう。ラッセルの錯誤は、その記号規則全般を立てる際に当の諸記号の意義について語るはめになった点に自ずと顕現する。
3.332 文が自らについて何ごとかを言明することなどあり得ない。文記号がそれ自体に含まれることはあり得ないから。(これが全「タイプ理論」だ。)
3.333 どんな関数も自らのアーギュメント〔いわゆる引き数〕ではあり得ない。関数記号はそのアーギュメントのプロトタイプをもう含んでいるのであり、自らを含むことはあり得ないから。
仮に関数 F (fx ) が自らのアーギュメントであり得たとしよう。そうすると「F (F (fx ))」という文が齎されるが、この文において、外側の関数 F と内側の関数 F は相異なる意義をもっているはずだ。内側の方は φ(fx ) という形式を、外側の方は ψ(φ(fx )) という形式をもっているのだから。両方の関数に共通するのは文字「F 」だけだが、しかし、それは単独では何も表示しはしない。
このことは、「F (F (u ))」に代えて「(∃φ ) : F (φu ) . φu = Fu 」と書けばただちに明らかになる。
これでラッセルのパラドクスは片がつく。

ーーーーーー

3.42 ひとつの文は論理的空間のただひとつの軌跡を規定し得るだけではあるものの、当の文によって論理的空間全体が既に齎されているはずだ。
(そうでなければ、否定、論理和、論理積等々によって、絶えず新たな要素が――座標系に〔in Koordination〕――導入されることになるだろう。)
(像を囲む論理的な足場が論理的空間を規定する。文は論理的空間全体に手を伸ばす。)
3.5 適用された、考えられた文記号は思考だ。
4 思考は有意味な文だ。
4.001 文の総体が言語だ。
4.002 人間は、それぞれの単語が何をどう指すのかについての漠然とした知識も無しに、諸々の言葉を組み立てる能力をもっており、それであらゆる意味が表現され得る。――ひとは、また、個々の音声がどうやって発されるのかを理解すること無く喋る。
日常言語は、人間という有機体の一部であり、それに劣らず複雑だ。
ひとつの言語論理〔die Sprachlogik〕を日常言語から直接取り出すことは人間には叶わない。

言語は思考を扮装させる。しかも、ひとが当のドレスの外形に拠っては覆われている思考の形を推論し得ないほどに。それは、そのドレスの外形が中身の形を認識させるためとは全く違う目的に随って形成されているからだ。
日常言語の理解のための暗黙の協定全体は度外れに複雑だ。
4.003 諸々の哲学的なものごとについて書かれて来た教義や問いの大部分は、誤りではなく、ナンセンスだ。我々は、だから、その種の問いにそもそも答えることなどできず、ただそれらのナンセンス性を確かめることができるだけだ。哲学者たちの問いと教義の大部分は、我々が自分たちの言語論理を理解していないことに基く。
(それらは、善は美と多少なりとも一致するか、といった類の問いだ。)
そして、最も深遠な諸問題が実は何の問題でもない、というのは驚くべきことではない。
4.0031 総ての哲学は「言語批判」だ。(ただし、マウトナーの意味でではない。)ラッセルの功績は、文の見かけの論理的形式が当の文の実際の形式だとは限らないことを示したことだ。

……「思考は有意味な文だ。」という意見もてきとうである。

「文の総体が言語だ。」、とは大雑把な言い方である。文の総体が文字をとしての言葉の群である、というならまだ理解できる。

しかしながら、文の総体が言語だ、とウィトは言いたかったはずなのだ。

ウィトは言語は思考可能なものであると考えた。そして、文の総体さえも思考できるのではないか、と。


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