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【トラベル】〜〜第二講座〜〜
4
:
名無しさん
:2024/11/26(火) 11:11:53
3 事実の論理的像は思考〔der Gedanke〕だ。
3.001 「或る事態が思惟可能である」とは、我々がその事態の像を自らに齎し得ることを意味する。
3.01 真な思考の総体は世界の像だ。
3.02 思考はそれが考えている当の状況の可能性を含む。思惟可能なことがらは可能でもある。
3.03 我々は非論理的なことは何も考えることができない。そんなことができたら非論理的に考えていることになるだろうから。
3.031 嘗てひとは言った。神は総てを創造し得るが、しかし、論理法則一般に反するものごとだけは創造し得ない、と。――我々は「非論理的」世界なるものについて、それがどんなふうなのかを述べることはできない、という訳だ。
3.032 ひとが言語において「論理に反していること」を表わし得ないのは、幾何学において空間の法則一般に矛盾する図形をその諸座標によって表わし得ないこと、言い換えれば、存在しない点の座標を特定し得ないことと同断だ。
3.0321 たしかに我々は物理法則一般に反する事態を空間的に表わすことはできるが、しかし、幾何学の法則一般に反する事態をそうすることはできない。
3.04 アプリオリに正しい思考というのは、その可能性がその真理性を伴うようなものだろう。
3.05 或る思考が真であることを我々がアプリオリに認識し得るのは、その思考そのものから(比較するもの無しに)その真理性を認識し得るとき、ただそのときだけだろう。
3.1 文において思考は感官的に知覚可能なように現われる。
3.における「事実の論理的像は思考だ。」とはセンスがよいように思える。飲み物が欲しいとき、飲み物を買いに行く、という論理的像は思考にうちにあるであろう。飲み物が欲しいという事実、それゆえに飲み物を買いに行くという事実、それらの論理的像が思考において納得いくものである。
3.13 文には、その射影に属すことがらの総てが属すが、当の射影されることがらは属さない。
だから、射影されることがらの可能性は当の文に属すが、射影されることがらそのものは属さない。
文には、だから、その意味は含まれてはいないが、それを表現する可能性は含まれている。
(「文の内容」とは有意味な〔sinnvollen〕文の内容のことだ。)
文には、その意味の形式が含まれているが、内容は含まれていない。
3.14 文記号は、その諸要素、諸単語がそこにおいて一定の仕方で互いに係り合っている点に依拠している。
文記号は事実だ。
3.141 文は単語の寄せ集めではない。――(音楽的主題が音の寄せ集めではないように。)
文は分節されている。
3.142 事実だけが何らかの意味を表現し得る。名称のどんなクラスにもそれは為し得ない。
3.143 文記号が事実であることは、筆記なり印刷なりの通常の表現形式によって覆い隠される。
というのは、例えば印刷された文においては、文記号は単語と本質的に異なっては見えないからだ。
(だから、フレーゲが文を合成的名称と呼ぶことも可能だった。)
3.1431 文記号の本質は、それが諸文字記号ではなく空間的諸対象(例えば、テーブル、椅子、本)から構成されているのを我々が想像するとき、顕著になる。
その場合、それらのものの相対的な空間的配置が当の文の意味を表現する。
3.1432 「複合的記号「aRb 」は a が b に対して関係 R にあることを述べている」という訳ではなくて、「a 」が「b 」に対して或る関係にあることが aRb ということを述べているのだ。
3.144 状況をひとは記述することはできる。名指すことはできない。
(名称は点に似ている。文は矢印に。それは意味〔Sinn〕をもつ)
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