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やまいぬさん歓迎のスレッド

167風凛 ◆IuSmpGjaC6:2008/11/24(月) 00:11:12
>>166 続き

「何も無い所で悟ったのが仏。だから曼荼羅は必要無い。迹である」
は、誤りですね。
間違いです。
何も無い所で悟れるから仏です。
「『永遠の生命の中の修行の中で既に過去に悟った』というものを釈迦は持っていた」事を悟りました。
「既に、元から持っていた」のですよね。
でも、釈迦の仏の名は、妙法蓮華経でした。
南無を知っていても、釈迦の名前では無かったから、
「南無妙法蓮華経という仏の名」を名乗れるのは、その資格のある・日蓮大聖人様の語出現まで待たねばなりませんでした。
それまでは、知っていたとしても、大聖人様以外「南無妙法蓮華経」という仏名は誰にも名乗れませんでした。
文底に秘沈していたからです。

何も無くても悟れるのが仏=日蓮大聖人様でした。
勉強をして修行をして悟るという、普通の衆生とは、やはり差異あると思います。
同じ人間で同じ尊い生命をお互いに有していても、アインシュタインと一般の方は、差異あります。
例えるとすれば、そんな感じでしょうか・・・。
表現に苦慮しますが、やまいぬさんなら、私が言いたい事お分かりと思います。

上記のように書くと、仏が衆生と離れた所にいて遠い所・見上げねばならない・ひれ伏せねばならない等、ロムの方から勘違いされそうですが、
そういう意味では全く無いんです。
仏はとても近い場所にいて下さいますが、生命の基底部とするものが別という事なんです。
そして、御本尊に照らされる事で、私たちの仏界引き出されます。
仏は「別して」だからです。

御本尊は、目の前のとても近い場所に、同じ目の高さまで下りて来てくれて存在しています。
そして、衆生を照らして下さる。
仏界を常に固定し維持する事は困難極まりない。

上記は、私個人が感じている事のほんの一部です。
みなさんそれぞれ、言葉の表現・語彙量の違いあれど、似たような感じあるだろうと思います。
だから、仏が迹であるとする事も、わざわざ全てを本迹論で分けるという事も、
私には理解出来ません。
どうしてそんな難しい事しないといけないのか(理由は何となく感じていますが)、
素直に御本尊に向かえばいいだけなのに、と。
「御本尊=衆生の己心の妙法である」説ですが、こうなると曼荼羅不要で、自分を拝めとなってしまいますね。

  今回続いている事で教学含めて紛動された方は、もう一度、御本尊・信心・創価学会というものに本気で向き合う必要あると思います。
全て分かっているやまいぬさんに言う事では無いのですが、
ネット見てきてずっと、「どうして分からないのか(><)」と何度も思ったんです。
御本尊のありがたさ、先生のありがたさ、信心のありがたさ、創価学会のありがたさを。
そして、何があっても根底では「同志」というのがあるから、苦慮している方々が大勢いるだろう事を。
同志だから厳しい言葉も言うのだという事を。

やまいぬさん、お疲れ様です・・・。


PS/ 私は、同時中継でお題目をみんなで唱和している時に、
「仏が唱題を聞くとこんな感じなのかな?」と思う瞬間があります。
仏にとっては歌のように聞こえるんじゃないかな等感じて。
あそこは仏界だな、と。


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