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習志野原の掲示板2022-2
830
:
エル・アルコン
:2025/06/17(火) 21:16:09
市川橋付近への迂回をしなければ今の京葉道路のルートに近くなりますが、国府台付近まで広がる北総台地が消えて河道が広がっているエリアです。旧行徳町最北端は今の市川市大洲ですが、その名の通り砂州でした。明治後期の水害で江戸川放水路が建設されるような水害常習地でもあり、明治期の技術でこのルートはあり得ません。
なおもし直進ルートで総武鉄道が開業したとすると大災難というか大試練があったわけで、1917年のいわゆる「大正6年の大津波」(高潮)で大被害を受けていたでしょうね。当時市川駅南口も浸水したという記録があり、相当な区間が高潮で壊滅したと思われます。この時に行徳塩田が大被害を受けて衰退して昭和初期の塩田整理でいったん消滅し、戦時期に国産塩確保で細々復活したものの1949年のキティ台風でとどめを刺されています。ちなみに浦安は今の元町地区しかなかった時代で「大正6年の大津波」では全町水没という大災害になっています。
迂回の説明としては、軍関係の利用を念頭に置いたというほうが正しいでしょう。
国府台に教導団(下士官養成学校)が置かれ、また戦後国立病院となって今につながる陸軍病院もありました。当然習志野原の騎兵関係の諸施設や佐倉、四街道の部隊関係もあったわけです。
余談ですが、習志野原エリアは台地ですが、低地については水害リスクがあります。首都圏においてはこの「大正6年の大津波」「キティ台風」のほか、利根川本流が決壊した「カスリーン台風」については記憶しておくべき災害といえます。なお利根川放水路計画の中止は利根川の計画高水量を数合わせで賄えるとしただけで、花見川など数合わせでも足りない箇所があります。
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