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習志野原の掲示板2022-2

714エル・アルコン:2025/05/12(月) 21:11:29
1954年の豊富村合併前は大穴、古和釜、坪井以北は豊富村なので豊富小の学区のはずです。
豊富小の沿革を見ると、1968年に古和釜分校が廃止され、1974年に八木が谷が外れたとあります。豊富中の学区もその時期に変更されており、1968年に大穴、古和釜、坪井が学区から外れたとあり、八木が谷も1976年に外れています。
八木が谷があまりにも遅すぎますが、八木が谷小の沿革を見ると1973年に三咲小からの分離で発足(1976年までは三咲小併設)、1977年に八木が谷北小を分離とあるので、早い段階で八木が谷の西部は三咲小の学区になり、残る部分が1974年に移管でしょうか。あるいは三咲小の分離と同じタイミングでしょうか。(三咲小の沿革は明らかな誤りが散見されるので)

1968年の豊富小からの分離は同年発足の古和釜小で、その後1971年に大穴小、1975年に坪井小が分離しています。高根台第一小の発足は1961年ですから、大穴小が高根台第一小からの分離であれば1961年に豊富小から高根台第一小への移管になるので豊富小の沿革に書いてあるはずで、だとすると大穴地区は全域がいったん古和釜小で受けたことになります。大穴小の学区は全部が古和釜中だったことも考えると古和釜小の学区だったという方が話が通りますが、大穴南の人に高根台からの分離だったという話を聞いたことがあり、そこはどうだったのか。古和釜小の沿革を見ると1971年の移管は161名とあり、今の大穴南の当時の人口を考えると少なすぎますし。(大穴小は発足時に1学年4〜5クラスはあった)

そして中学校がややこしく、1961年に高根台中が発足し、1968年に古和釜地区が豊富中から移管され、1972年に古和釜中が分離しており、こちらは豊富→高根台→古和釜→大穴という流れです。
なお高根台中は御滝中からの分離のはずで(高等小の関係から新学制発足時に三咲小、高根小に中学校を併設後、合併して御滝中が発足)、学区がかなり広いですが、長らく北部エリアは古和釜、豊富しかない状態が続き、八木が谷とかバス(今の船09など)で御滝中に通学していました。

ちなみに習志野原エリアは旧二宮町なので、二宮中から習志野台中が分離し、二宮小から薬円台小が分離し、そこから習志野台第一小、第二小と分離しています。(習志野台、西習志野のほか前原、飯山満、芝山は旧二宮町)


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