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プロレス・格闘技クリッピング▲6▼

111名無し部員:2007/03/23(金) 03:47:34
プロレスの証言者 藤波辰爾(13)
 2007年3月。53歳になった藤波辰爾は、東京・青山の「無我ワールド」の事務所にいた。昨年6月に旗揚げから34年間所属した新日本プロレスを退社。自分の理想を実現させるため新団体を立ち上げた。肩書は「社長」。新日本時代にも同じ地位に就いたが、業界最大手と所属選手6人の小団体では、立場も仕事内容もまるで異なる。

 営業マンとして入場券を売り歩き、イベントにも出演して大会をPRする。試合会場では客席に席番を張り、リングを組み立て、解体まで手伝う。社長、レスラー、営業マン、裏方とあらゆる仕事をこなす。かつての栄光の時代からは想像もできないが、藤波本人はむしろ今の自分を楽しんでいるように見える。

 藤波「プロレス人生で一番の思い出はタイトルを取ったことでも、長州力との名勝負でもない。新日本旗揚げのため、必死になっていた18歳のころなんだ。選手数は少なかったけど『自分たちの理想のプロレスをやろう』という情熱で一致団結してね。道場まで自分たちで造った。もう1度、原点に戻りたかったんだ」。

 もっとも藤波が「無我ワールド」で目指す理想のプロレスは、興行の成功ではない。プロレスを通じての青少年教育と普及、そして自分のようなストロングスタイルを身につけた本格派レスラーの育成にある。今は興行の合間に福祉施設を訪問し、試合前には子供レスリング教室を開催。地方興行には地元のスポーツ少年団を招待し続けている。

 藤波「自分は本当にいい時代にレスラーをやった。たくさんのベルトも巻けた。この素晴らしいプロレスを未来に残すために、今度は自分が何か貢献できないか考えた。いろいろ考えた末に思いついたんだ」。

 その夢はもう10年以上前から温め続けていた。95年に藤波は新日本の団体内に「無我」という独立グループを立ち上げた。無我ワールドの前身である。同年10月に大阪で自主興行を開催した。わずか3試合だったが、試合前には普段の練習を見せる「公開スパーリング」と子どもレスリング教室を開催した。しかし、99年6月の新日本社長就任以降は活動を中断していた。

 無我ワールドは昨年8月2日のプレ旗揚げ戦から7カ月で23大会を開催した。いずれも収容1000人程度の小会場で、4度行ったシリーズは平均5大会。試合数も各大会平均5試合と、大手団体の半分ほどだ。しかし、無理して増やすつもりはない。収益を選手の報酬として分配するため、赤字を出すわけにはいかないからだ。あくまで身の丈にあった経営を心掛ける。

 藤波「気持ちは無我を立ち上げた95年当時と少しも変わっていない。あのころは無我のリングで勝ち上がった者を新日本のリングに上げるイメージで、若手を育てていた。無我ワールドは今は我慢の時。でも興行が軌道に乗れば、自分は若手を育てる『藤波道場』のようなものに戻りたい」。

 世間ではプロレス人気低迷が叫ばれて久しい。加えて無我ワールドには大手スポンサーも、テレビ放送もない。無謀な挑戦かもしれない。しかし、その逆境こそ藤波のプロレス人生の原点なのだ。格闘技経験もなく故郷大分を飛び出し、ひたすら夢だけを追って生きてきた。あの16歳の雑草魂は、今も藤波の心に生き続けている。

 藤波「苦しいのは当たり前だけど、どうしようもない苦しさはない。自分のやるべきことをやる。夢がある。だから何があっても続けられるんだと思う」。

 藤波の第2の挑戦は始まったばかりだ。【来田岳彦】(おわり)

http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20070322-173224.html




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