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自民党スレ

1とはずがたり:2013/09/03(火) 17:12:12
なかなか潰れない政友会の我田引鉄以来の伝統を持つ日本のバラマキ保守政党

自公保スレ(前スレ)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1067007932/l30

自民党政権スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1354356742/l30

自民党
https://www.jimin.jp/

2784チバQ:2018/01/27(土) 09:53:18
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASL1V64MYL1VUTFK02H.html
野中氏を惜しむ声 小沢氏「深い哲学持ち、果断に行動」

01月26日 22:19

閣議前に小渕恵三首相(右)と話す野中広務官房長官=1998年9月、国会

(朝日新聞)

 野中広務氏の往時を知る政界関係者からは、惜しむ声があがった。

 森喜朗・元首相 個人や党を超えて、国家としての政治の安定を何より望んでおられた。小沢一郎さんにひれ伏してでも、「国家のために」と協力を求めた。いまの政界には、野中さんのような人はもういない。人間としても、政治家としても、多くを学ばせてもらった。心から感謝している。ひとつの時代がこれで本当に終わった。お世話になりましたと申し上げたい。

 古賀誠・元自民党幹事長 92年の人生のすべてを国家と国民に尽くされた政治家。政治生活を一緒にできたことを誇りに思う。

 青木幹雄・元自民党参院議員会長 野中先生の奥様が島根の竹下登と同じ地元。ご縁もあり、昔から非常によくおつきあいをさせて頂いた。非常に残念だ。

 小沢一郎・自由党代表 私が政治改革を志して、その道を進み始めたときから、考え方や政治的な立場は異なったが、政治的手腕・力量は他の追随を許さず、同じ政治家としていつも感服していた。また、ご自身の体験・経験に裏打ちされた深い哲学・思想を持ち、常にそれに基づいて果断に行動されてきた信念の政治家。存在そのものに大きく重く説得力があった。

 鈴木宗男・元官房副長官 巨星墜つという感じを持っている。一番は平和主義者だった。戦争経験者として戦争に対する特別な思いを持っていた。町議にはじまり遅咲きで国会議員に、自治相まで務めた。絵に描いたようなたたき上げ、地方議員出身の国会議員のモデルといって良い。

 亀井静香・元自民党政調会長 まさに巨星墜(お)つ。大変な政治家だった。

 二階俊博・自民党幹事長 偉大な先輩を失って、大変残念でさみしい。当選早々にして早くも大先輩の風情で党内を圧倒していた。細かいことから大きなことまで細大漏らさず一生懸命やっていた。もう少し指南役として、ご指導をお願いしたい気持ちは私だけではあるまい。

 石破茂・元自民党幹事長 田中派事務所の職員として、野中さんの最初の選挙の1983年の衆院補選で、(京都府の)舞鶴に1カ月泊まり込んで選挙を手伝った。演説が非常に上手だった。弱者への思いやりとか、今の自民党から失われつつあるようなものを持っていた政治家だった。

 額賀福志郎・自民党額賀派会長 正義感に燃えた素晴らしい政治家だった。日本にとって大きな存在を失った。

 辻元清美・立憲民主党国会対策委員長 野中さんは社会党委員長だった土井たか子さんとも非常に親しく、お二人とも戦争体験者で、戦争だけは絶対あかん、憲法9条は絶対守るという意志が非常にお強い方。平和のともしびが消えてしまった。日本のひとつの良心だった。この時代に、もう少し頑張ってほしかった。

 野田聖子総務相 郵政相就任時も今回もとても喜んでくれた。お祝いに頂いた高級ペンは大臣室の私の傍らにある。尊敬する先生をまた一人失い、悲しい気持ちでいっぱいだが、「その分しっかりとした政治家になるんだぞ」といま一度背中を押されている気がする。

2785チバQ:2018/01/27(土) 09:54:16
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20180127k0000m010119000c.html
<野中広務さん死去>孤独な闘士、最後まで貫く

01月26日 20:37

野中広務氏=宮本明登撮影

(毎日新聞)

 ◇評伝

 午前6時に鳴った電話口から甲高い声が響いた。

 「何や、この記事は。党があきらめても、政府は断念なんかしませんよ」

 1999年5月26日の毎日新聞朝刊1面トップは「国旗・国歌法案 政府・自民 今国会の提出断念」という“特ダネ”だった。目にした野中広務官房長官は番記者の私に「私は闘う」と宣言したのだ。

 今では想像しにくいが、当時は自民党ですら国旗・国歌法制化に慎重論が強く、小渕恵三首相も2月に一度は国会で「当面法制化しない」と明言していた。

 会期が大幅延長され約1カ月後、法案は衆院8割超、参院7割の賛成で成立。剛腕の面目躍如だった。

 野中氏は在日朝鮮人、同和、沖縄、ハンセン病などの差別問題に熱心な強面ながら弱者に寄り添うリベラルのイメージだったので、「なぜ右寄りの法案に肩入れするのか」という疑問をしばしば耳にした。

 だが、その不可解さこそ野中氏の真骨頂だった。法案は単純な2条構成。

 国旗は、日章旗とする。

 国歌は、君が代とする。

 制定趣旨も歴史も、義務や罰則の規定もない徹底した実務本位である。野中氏は、教育行政の愛国ナショナリズムと教職員組合の反戦平和運動の板挟みになって高校校長が自殺した悲劇を繰り返させたくないと説いた。現場の混乱をなくすため思想対立を棚上げする発想だ。イデオロギーへの融通無碍(むげ)と言い換えてもいい。左派は信頼する野中氏なら警戒を緩める。右派は批判しづらい。右と見せて左、左かと見えたら実は右。戦後政治の左右対立を逆手に取り両方のバネを巧みに利用して、現実課題を片付けていく処理能力が野中政治の神髄だった。

 法案成立が確実になった時、そんな解説記事を書いたら、野中氏は私をチラリとにらんでつぶやいたものだ。

 「インテリさんは、好き勝手に書きよるな」

 旧制中学卒業後、旧国鉄に勤務。敗戦の年の兵役経験が終生、反戦の原点となる。

 25歳町議、33歳町長、41歳京都府議、53歳副知事。たたき上げの行政手腕、社共革新府政と和戦両様渡り合った議会経験により、57歳で国政に出た時にはベテランの実力を備えていた。

 80年代後半、自民単独政権末期を牛耳った竹下派(経世会)で、派閥オーナーの竹下登元首相を後ろ盾に、北朝鮮外交で金丸信会長の信頼も勝ち得る絶妙の立ち位置で頭角を現す。

 細川政権誕生で野党に回ると、当時政界最強だった小沢一郎氏に公然と対抗して自らも台頭。不祥事を暴いて政敵を次々倒す破壊力に加え、自社さ、自自、自自公から今に続く自公体制まで平成政治の激動をけん引した。小渕政権の官房長官が権勢の頂点だろう。

 東西冷戦が終わり、左右の対立軸が消えた時代。日本政治も政界再編と国家指針を模索しながらバブル崩壊やテロ・大災害の対応に追われた。時代の特異な難題が野中氏の異能を求めた。連立政治の定着と国家危機管理に果たした功績は評価されるべきだ。

 金融危機回避に必要なら野党案を丸のみし、銀行も潰す。敵と味方を大胆に入れ替える手法は「あざとい」と批判され、敵は多く孤独だったが、政治の術の可能性をあれほどまで追求した政治家は多くない。冷徹さの裏に情があり、政治が面白かった。

 権勢は長くなかった。病に倒れた小渕氏の後継に森喜朗政権への禅譲を謀議した「密室の5人組」と指弾され、自民党幹事長に栄進しても影を引きずった。

 下り坂への転機となった「加藤の乱」で加藤紘一元幹事長が自滅へ突き進んだのは、野中氏の影響下で首相になりたくない反抗期にも似た衝動があった。確かに野中氏は往年の「金丸・竹下・小沢」(略称・コンチクショウ)のようなキングメーカーを狙っていた。野中氏もまた権力のおごりを免れなかったのだ。

 国旗・国歌法に野中政治の予見性を見る気がする。今日の政界総保守化を先取りしていた。自由投票だった旧民主党は、衆院本会議採決で賛否真っ二つに割れたトラウマを引きずり昨年、民進党分裂に至った。

 野中氏が成立にこだわったのは、公明党政権入りを巡る小沢氏との主導権争いと、法案に慎重な同党に権力を担う覚悟を固めさせるためだった。公明党の政権参画が平成政治史の過半に及ぶ礎は野中氏が築き、端緒は国旗・国歌法だった。

【編集委員・伊藤智永】

2786チバQ:2018/01/27(土) 09:55:25
https://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-180126X301
野中広務氏死去、92歳=「政界の狙撃手」、官房長官など歴任

01月26日 23:04

官房長官や自民党幹事長などを歴任し、「政界の狙撃手」の異名でも呼ばれた野中広務(のなか・ひろむ)元自民党衆院議員が26日午後、京都府内の病院で死去した。92歳だった。【時事通信社】

(時事通信)

 官房長官や自民党幹事長などを歴任し、「政界の狙撃手」の異名でも呼ばれた野中広務(のなか・ひろむ)元自民党衆院議員が26日午後、京都市内の病院で死去した。92歳だった。京都府出身。昨年11月、同市内での会合中に倒れ、病院に救急搬送されていた。党関係者によると、葬儀は親族のみで行い、後日「お別れの会」を開く。

 京都府園部町(現南丹市)生まれ。国鉄職員を経て、園部町議、同町長を務めた後、京都府議となり、野党の立場で革新府政の蜷川虎三知事と対峙(たいじ)。保守府政奪還後に副知事を務めた。中央政界入りは57歳と遅く、1983年の衆院補選で初当選。当選7回。

 自民党が下野した細川、羽田両内閣時代に、野党府議の経験を生かし衆院予算委理事として政権追及に活躍。自民、社会、さきがけ3党連立の村山内閣誕生の立役者となった。村山内閣では自治相・国家公安委員長として、阪神大震災や、地下鉄サリンなどオウム真理教による一連の事件への対応に当たった。

 参院選惨敗を受けて98年7月に発足した小渕内閣では官房長官に就任。政権基盤強化のため、旧竹下派分裂以来、宿敵関係にあった小沢一郎氏率いる自由党(当時)との自自連立、さらに公明党を加えた自自公連立の樹立へ抜群の行動力を発揮し、「影の総理」と形容された。森内閣で、加藤紘一元幹事長(故人)らが野党提出の内閣不信任決議案に同調しようとした2000年の「加藤の乱」では、幹事長として鎮圧に当たった。

 小泉内閣に対し反主流の立場を貫き、03年の総裁選では小泉純一郎首相(当時)の再選を支持した青木幹雄氏らと対立。同年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。

 抜群の政局観と情報量で政敵から「政界の狙撃手」と恐れられた一方、外交や安全保障に関してはハト派で知られた。97年4月の駐留軍用地特別措置法改正の際、担当委員長として衆院本会議で「国会審議が大政翼賛会にならないようお願いする」と異例の発言を行った。03年7月にはイラク支援特別措置法の採決を退席した。

2787チバQ:2018/01/27(土) 09:56:35
https://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/sankei-plt1801260046.html
【野中広務氏死去】言葉の武闘派、気配りの人

01月26日 21:39

平成13年6月、自民党総裁の小泉純一郎首相(手前)と野中広務氏。小泉氏から「抵抗勢力」として標的にされた=自民党本部

(産経新聞)

 先の大戦の悲惨さが再び繰り返されることのないよう、いつも心を砕いていた。

 使用期限切れ後も米軍用地の暫定使用を認める駐留軍用地特別措置法の改正をめぐり、平成9年4月、衆院本会議の委員長報告でこんな発言をした。

 「国会の審議が大政翼賛会のようにならないよう、若い方々にお願いしたい」

 同法は、自民、旧新進両党などの賛成多数で衆院を通過した。戦中派としての矜持(きょうじ)がそうさせたのは疑いようがない。

 かつて周辺に、自身の政治原点を聞かれ、「京都の体験が血肉になっている」と話したという。旧園部町議、同町長、京都府議、副知事と地方政治の階段を一段ずつのぼった。特に、野党として革新系の蜷川虎三知事と全面対決した府議時代の教訓は小さくない。

 自著「私は闘う」(文芸春秋)でも、「野党経験は(略)、本当に役にたった」と認めており、実際、5年7月の衆院選で自民党が野党に転落すると府議時代の経験にものをいわせ存在感を発揮。党内外で認知を得た。

 その政治手法には、「大きな敵」に捨て身で切り込む迫力があり、同時に、自身の存在感を高めていくしたたかさものぞいた。何よりも、ここぞというタイミングを見計らい、「言葉の武器」で政敵を攻め立てるセンスは圧巻だった。政治的な戦闘性の高さを評され、「武闘派」「豪腕」「狙撃手」など物騒な代名詞をつけられた一方、社会的弱者への視線を絶えず持ち、「義理人情に厚い」「気配りの人」と慕われもした。

 これほどの人間像を周りに印象づけた政治家はそうおらず、だからこそ言うに尽くせぬ魅力を醸していた。(松本浩史)

2788チバQ:2018/01/27(土) 09:58:05
少なくとも国政では平成の政治家ですけどね
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20180127k0000m010076000c.html
<野中広務氏死去>最側近・古賀氏「また昭和が遠く」

01月26日 19:12

衆院本会議を前に笑顔を見せる古賀自民党国対委員長(右)と野中自民党幹事長 (肩書きはいずれも当時)=2000年11月20日、宮本明登撮影

(毎日新聞)

 26日に死去した元衆院議員、野中広務氏の最側近として知られた古賀誠・元自民党幹事長は、野中氏の病状を案じて今月22日に地元・京都の事務所を訪ねたばかりだったという。

 古賀氏は毎日新聞の取材に対し「また『昭和』という時代が遠くなってしまいました。野中先生が衆院議員に当選された昭和58(1983)年以来、ずっと薫陶を受けてきました。平和や政治において何を大切にすべきかということを教えてくださった。私が政治活動を全うできたのも、野中先生と出会い、巡り合ったおかげです。本当に誇りに思います。野中先生の92年の人生を振り返る時、国家と国民をずっと考えて歩んでこられたと言えます。今、悲しい、寂しいということじゃなくて、本当に長い間お疲れさまでした、と申し上げたいですね」と悼んだ。【中澤雄大/統合デジタル取材センター】


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