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労働運動
1
:
とはずがたり
:2005/04/29(金) 21:14:23
連合…民主党系
http://www.jtuc-rengo.or.jp/new/
全労連…共産党系
http://www.zenroren.gr.jp/jp/
全労協…新社会党系
http://www.zenrokyo.org/
大原社会問題研究所
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/
戦後の労働組合の歴史
http://homepage3.nifty.com/54321/roudouundoushi.html
1052
:
とはずがたり
:2016/01/17(日) 09:37:17
学歴ネタだけど労務視点っぽいので此処へ
最後の記事の都司(つじ)氏灘中学から麻布高校出て東大工学部の秀才のようでかなり偉そうな事言い放ってるけどなんで准教授止まりなんだ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%8F%B8%E5%98%89%E5%AE%A3
>3ヵ月もあれば、大学の学部を卒業した学生たちの力を確実に見定め、研究者としての適性の有無などがわかります。特に、基礎学力や英語力、論文を書く力、(専攻である)地球物理への興味や関心の程度、ビジネスマンとしての行動力、意志疎通する力などは、かなり正確にわかります。
それは兎も角この吉田某も他人をこき下ろしててそれなりにルサンチマンを抱えていそうだ(;´Д`)
2010年04月16日 08時00分 更新
吉田典史の時事日想:
“偏差値神話”は本当なのか 日大が早稲田をアゴで使うとき
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1004/16/news008.html
日本社会の能力観には2つのニュアンス
その本は『日本的経営の編成原理』(岩田龍子、文真堂)という学術書であり、もう30年以上前に書かれたものだ。著者の岩田氏は当時(武蔵大学教授)、終身雇用や年功序列など日本的経営を文化論からアプローチすることで一躍注目を浴びた。
岩田氏は、学歴うんぬんを論じる前に、日本の社会の能力観には2つのニュアンスが含まれていると言及する。
「(1)能力は、ある漠然とした、一般的な性格のものとしてうけとめられることが多いこと (2)能力は、訓練や経験によってさらに開発されるべき、ある潜在的な力であり、したがって、ただちに実用に役立つ力、つまり“実力”とは考えられていないこと」(150〜151ページから抜粋)
一方で、米国の能力観を「訓練と経験によって現実に到達しえた能力のレベル」(149ページから抜粋)ととらえている。そして、これらの能力観から、日本の競争とは違った意味合いを持つ競争になると説く。「米国社会では、人びとは、いわば局部的にしか競争にまき込まれていない」「競争における個々の勝敗は、人生における長い一連の“戦い”の局面にすぎない」(149〜150ページから抜粋)
そして日本の能力観にもとづくと、次のような意識を人々が持つことになりがちと説く。
「“できる人”は潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されており、彼がその気になりさえすれば、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮するのであり、逆に、“駄目な奴”は乏しい潜在的な能力しかもちあわせていないために、何をやらせてもうまくゆかないのである」(151ページより抜粋)
さらに岩田氏はこう進める。
「わが国では、一流大学の卒業生達は、その“就職戦線”において、他の卒業生よりはかなり有利な立場に立っている。このことは、彼らが、“実力”において他に抜きんでているからではない。むしろ、これは、彼らがよりすぐれた“潜在的な能力”をもっていると“想定”されるからであり、入社後の長期にわたる訓練の結果、次第にその“能力”を発揮すると期待されているからである」(151ページより抜粋)
“能力”を発揮すると期待されていない人がブレイク
いかがだろうか。読者の中には、岩田氏のとらえ方に違和感を感じた人がいるかもしれない。私は、この本を始めて読んだ1991年のときは、ところどころに疑問を感じた。ここまで単純明快に言い切れるのだろうか、という問いである。しかしその後、取材の仕事を20年近くすると、その間に見てきたものとかなり重なるものがあると思うようになった。
例えば、私が就職活動をしていた20年近く前にも多くの企業の人事部員が、「学歴なんて関係ない」といったことを就職情報誌などで説明していた。だが、少なくとも歴史のある大企業は、いざふたを開けると、東大卒業生を中心に採用していた。これは、いまも大きくは変わらない。当時もいまも岩田氏の唱える日本的な能力観に支配されている限り、結局は変わらないのである。
1053
:
とはずがたり
:2016/01/17(日) 09:37:39
悶える職場
http://diamond.jp/category/s-worry_office
2013年07月09日〜2014年04月22日
「負け組酒場」に集う高学歴ダメ社員の
屈折した自尊心
吉田典史 [ジャーナリスト] 【第6回】 2015年3月10日
http://diamond.jp/articles/-/68070
他人をこきおろす“高学歴な負け組”たちの
底知れぬ心の病み
http://diamond.jp/articles/-/84419
吉田典史 [ジャーナリスト] 【第1回】 2016年1月12日
「会社員」を徹底的にこきおろす
高学歴な負け組たちの6つの共通点
?前述した3人の女性たちとコンサルタントの男性(とは註:4人のエピソード省略)には、いくつかの共通点がある。
(1)超高学歴である(全員が名門大学の修士課程修了)
(2)学部卒でいったん卒業し、会社員になるが、数年で退職・就職を繰り返し、30歳前で3〜4つの会社に籍を置いた経験を持つ
(3)そのいずれの会社でも、さしたる実績を残していない
(4)会社員を辞めて、社会人として大学院の修士課程に進む
(5)修士号を得て、また社会に戻るが、大きな活躍ができない。めぼしい実績もない
(6)「母校」を愛するが、大学教授などとして迎えられることはない
?この(1)〜(6)に加え、会社員を徹底して否定することも共通項と言えよう。冒頭で述べたように、本連載では、このようなトリッキーな言動をとる人たちを「学歴病」と捉えることとする。
?
?なぜ、高学歴の人たちが「学歴病」になってしまったのか――。その理由は今後、この連載で解き明かしていくのだが、それに関して手がかりとなる文献がある。『日本的経営の編成原理』(岩田龍子・文真堂)という学術書であり、40年近く前に書かれたものだ。筆者がここ二十数年の間に、20〜30回も読み込んだものである。
?著者の岩田龍子氏は、この本を著した1977年当時、武蔵大学教授だった。終身雇用や年功序列など日本的経営の課題について、文化論の側面からアプローチすることで注目を浴びていた。日本的経営の研究者として名高い小池和男氏(当時、法政大教授)などにも論争を挑む、気鋭の学者だった。
?
?岩田氏は、学歴云々を論じる前に、日本社会の能力観には2つのニュアンスが含まれていると言及する。「(1)能力は、ある漠然とした、一般的な性格のものとして受け止められることが多いこと、(2)能力は、訓練や経験によってさらに開発されるべき、ある潜在的な力であり、したがって、ただちに実用に役立つ力、つまり“実力”とは考えられていないこと」(150〜151ページから抜粋)である。
?一方で氏は、米国の能力観を「訓練と経験によって現実に到達しえた能力のレベル」(149ページから抜粋)と捉えている。そしてこれらの能力観から、米国では日本の競争とは違った意味合いを持つ競争になると説く。「米国社会では、人びとは、いわば局部的にしか競争にまき込まれていない」「競争における個々の勝敗は、人生における長い一連の“戦い”の局面にすぎない」(149〜150ページから抜粋)
1054
:
とはずがたり
:2016/01/17(日) 09:37:54
>>1052-1054
?さらに日本の能力観に基づくと、人々が次のような意識を持つことになりがちだと説く。
「“できる人”は潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されており、彼がその気になりさえすれば、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮するのであり、逆に、“駄目な奴”は乏しい潜在的な能力しかもちあわせていないために、何をやらせてもうまくゆかないのである」(151ページより抜粋)
高学歴者が“潜在的な能力”を持つと“想定”する日本企業の能力観
日本企業の能力観は「高学歴者は“潜在的な能力”を持つと“想定”される」というもの
?岩田氏はこう論を進める。
「わが国では、一流大学の卒業生達は、その“就職戦線”において、他の卒業生よりはかなり有利な立場に立っている。このことは、彼らが、“実力”において他に抜きんでているからではない。むしろ、これは、彼らがよりすぐれた“潜在的な能力”をもっていると“想定”されるからであり、入社後の長期にわたる訓練の結果、次第にその“能力”を発揮すると期待されているからである」(151ページより抜粋)
?岩田氏の指摘を踏まえると、前述した4人の超高学歴な人たちは、それぞれが経験した20〜30年前の大学受験という競争では、“勝利者”だったと言える。そして、就職戦線では“潜在的な能力”を持っていると“想定”された。ところが会社に入り、一定の月日が過ぎると、その想定は誤りだった可能性がある。4人とも、実績を残すことなく、明確な理由もなく、数年で転職を繰り返した。30歳前で、その数は3〜4つになった。その転職の流れやキャリアに一貫したものがない。こうなると、通常はキャリアダウンであり、労働市場においての価値は著しく下がって行く。
?一方で、4人の同世代の会社員の中には、30代前半〜後半で早々と課長、部長などに昇進した人もいたはずである。その中には、4人よりも難易度の低い大学を卒業した人も少なからずいるだろう。
?岩田氏の言葉を借りれば、「“能力”を発揮すると期待されていない人」が、「潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されていて、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮する人」をはるかに追い抜かしてしまったのである。
?前述の能力観をベースにして考えると、4人は拭い去れない劣等感を持っている可能性がある。それは言い換えると、「恐怖心」なのではないか。自分が「実は潜在的な能力が低い人」とレッテルを貼られることに怯え、ささやかなプライドを守るために、会社員をけなし、否定するのではないだろうか。
?岩田氏が唱えるような旧態依然とした日本の能力観が、日本の企業社会の隅々に浸透しているがゆえに、様々な問題が生じることをこの連載では考えたい。たとえば、新卒の採用方法が時代の変化についていけない理由の1つも、このあたりにあるのではないだろうか。社内では、職務給や成果主義がフェアな形で浸透していない。グローバル化が進まない壁の1つも、ここにある。社内でのいじめやパワハラ、セクハラ、長い労働時間、過労死などが発生する大きな理由も、実はこの能力観にあると筆者は考えている。
あなたには見えるか?日本社会に巣食う「学歴病」の正体
?冒頭で紹介した東京大学地震研究所の都司嘉宣・元准教授は、取材の最中、こんなことを語られていた。
「3ヵ月もあれば、大学の学部を卒業した学生たちの力を確実に見定め、研究者としての適性の有無などがわかります。特に、基礎学力や英語力、論文を書く力、(専攻である)地球物理への興味や関心の程度、ビジネスマンとしての行動力、意志疎通する力などは、かなり正確にわかります。
?民間企業も、新卒のとき、たった一度の採用試験で内定を出そうとするから、学歴を重視した形にならざるを得ないのだと思います。多くの会社が、一定期間のインターンシップなどを設けて、その過程で学生を選ぶようにしたほうがいいと私は考えています。そのようにすると、東大を中心とした高学歴層の学生を重視した採用も、やがて変わっていくのではないかと思います」
?
?あなたは、この指摘をどのように受け止めるのだろう。次回からは、具体的なケースを挙げながら、日本社会に巣食う「学歴病」の現状と、その向こうにある闇に迫る。
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