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尚六幾星霜

1名無しさん:2017/12/18(月) 19:25:09
9,10月に、書き逃げにいくつか投下した者です。
私も尚六の初夜話を書きたいなあと色々妄想した結果、ちょっと長くなりそうなので別スレ立てます。まだなんとなくの流れしか決まっていないんですが、とりあえず書き始めたので投下します。
最初はごく普通の主従関係で、互いにそういう意識もしていない状態です。

2「隠し事」1:2017/12/18(月) 19:28:28
第一話「隠し事」

夏のある日の夕刻、いつものように玄英宮を抜け出した六太は、関弓の街をひとりで歩いていた。
雁国の夏は黒海からの条風に曝されて涼しく、雨は少ない。晴天が続くこの時期は外で遊ぶのにもってこいの季節だ、と六太は思う。もっとも、他の季節も頻繁に外へ遊びに行っているので、そんなことをうっかり朱衡に言おうものなら、嫌味と小言をたくさん聞かされることだろう。

尚隆の治世は八十数年になり、関弓の街にはもう折山の荒廃の面影は全く感じられない。活気のある雑踏の中を、六太はぶらぶらと歩いた。
行きつけの甘味屋に入ってみたものの、好物の団子は売切れだった。肩を落とす六太に、店主は苦笑して「次に来た時おまけするから、またおいで」と言った。
六太も笑って頷いてから、店主に軽く手を振って広途へと出た。

その時ふと、道端に座り込んでいる人物が六太の視界に入った。夏の蒼穹のような明るい青色の髪の少年だ。
数日前に関弓に降りた時にもこの近くで会ったな、と六太は思い出す。
年の頃は十五、六だろうか。なんとも言えない独特な雰囲気を持つ少年だ、とその時は思った。彼のほうから声をかけてきて、当たり障りのないことを少し話した。それだけのことだったが、目立つ髪色と不思議な雰囲気が、六太の印象に残っていた。

少年は俯いて座り込んでいる。具合が悪いのかと思い、六太は彼に歩み寄って行った。
「よう」
声をかけると、少年は緩慢な動作で顔を上げる。六太と視線が合うと彼は微笑した。
「……また会ったね」
六太も笑みを返しながら、少年が僅かに首を傾けて微笑む仕草と表情に、やはり不思議な雰囲気を感じていた。これくらいの年頃の少年は、こんなふうに笑うものだろうか。だが、単に大人びているというのとは違うような気がした。

「お前、こんなところに座ってどうしたんだよ。どこか具合でも悪いのか?」
「うん……ちょっとね……」
少年は傍らに置いてある荷物に目をやった。
「少し……眩暈がするだけ。お使いから帰るところなんだけど、休んだら良くなるかと思って……」
そう言ってから、少年は再び顔を上げて六太に微笑みかけた。
「……心配してくれて、ありがとう」
少年の声にも表情にも張りがない。かなり体調が悪そうに見えた。
「休んで、少しは良くなったか?」
「……全然」
「じゃあ、家に帰ってちゃんと休んだほうがいい。荷物持ってやるからさ。––––立てるか?」
僅かに少年は首を振った。
六太は地面に置いてある荷を持ち上げて抱えてから、少年に手を差し伸べる。彼はその手に縋って立ち上がり、六太の肩につかまった。
「肩……借りていい?」
六太は頷いてから少年に家の方向を訊ね、そちらへ向かってゆっくりと歩き出した。

3「隠し事」2:2017/12/18(月) 19:39:13
少年は六太の肩に置いた手に少し体重をかけて俯きながら、ゆっくりと歩を進めた。六太は体調が悪そうな彼を慮って、時折道順を確認する以外には言葉を交わさず、街路を歩いて行く。
彼の家は、六太が普段あまり近付かない界隈にあるらしい。緑色の柱の楼が建ち並ぶ花街。六太はもちろんそこで遊んだこともなければ、遊びたいと思ったこともない。
そこに近寄るのは気が進まないのだが、荷物を持ってやると言った以上、家まで送るのが筋だろう。

「もう一本先の通りだよ」
花街に差し掛かったところで、少年がそう言った。六太は頷いて、そのまま足を進める。緑色の柱の並ぶ街路を横目に通り過ぎ、一本先の角を曲がると、その通りには緑色の柱はなかった。
夏の夕日は斜めに差して、建物の影が地面に広がっている。まだ明るい街路には通行人が何人かいたが、全員男だった。
道端に立ち話をしている二人組の男がおり、彼らが何故か無遠慮な視線を向けてくるので、六太はなんだか落ち着かない。早く通り過ぎようとして、肩につかまる少年の顔を窺った。
「もう少し速く歩けるか?」
「うん……大丈夫だよ」
少年が頷いたので、六太は少しだけ足を早めた。

「あの宿屋が、僕のうち」
少年が指差した宿屋は、六太が今まで泊まったことのある宿とは全く趣が違っていた。窓も扉も全て閉まっており、普通の宿屋のような開放的な雰囲気がない。
建物の正面の、閉ざされた大扉の前まで着くと、六太は少年に荷物を渡そうとした。早くここから立ち去りたいと思った。だが少年は、荷物を受け取らずに微笑んだ。
「うちに寄っていってよ」
そう言って彼は六太の背中を扉の方へ押した。
その時目の前の扉が内側から開いて、男が顔を出した。
「おかえり。……友達連れてきたのか」
男は少年をちらりと見てそう言ってから、六太の顔をじっと見つめた。
「うん、ちょっと遊んでいってもらおうと思って」
少年がそう言いながら六太の背中を押し、それと同時に男に腕を掴まれて扉の中に引き込まれた。

扉の中は、全く外から採光していないようで、幾つかの灯りが揺らめいている薄暗い堂室だった。
普通の宿屋は食堂も兼ねているところが多く、そこにも卓と椅子が並んでいたが、いま食堂として使われている様子はなかった。椅子に座っていた数人の人影が、全員こちらに目を向けた。
むせ返るほどの芳香が漂っている。その中に微かに混じる、汗の匂いと血の臭気。六太は眉根を寄せた。
後ろで扉が閉じる音がして、六太は少年を振り返った。
「おれ帰るから、扉閉めるなよ」
扉に錠を下ろした少年は、くすくすと笑い出す。彼は六太に向き直ると小首を傾げて微笑んだ。
「だめだよ。せっかく連れてきたのに」
少年は下ろした錠を背に隠すようにして立っている。さっきまではふらついていたのに。体調が悪そうに見えたのは演技だったのか、と六太は悟った。
「きみが優しい子で良かった。こんなに簡単について来てくれるなんて」
「何を……」
六太は眉をひそめ、少年の微笑を凝視する。彼の狙いは何なのだろう。六太が麒麟であることを気付かれたのか。
「兄さんたちと、遊んでいって」
「え?」
意味が分からず聞き返した六太の肩を、少年の手が、とん、と押した。
後ろに一歩下がった六太の左腕が、強い力で掴まれた。振り返った視線の先で、男の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。

4「隠し事」3:2017/12/18(月) 19:52:28
六太はいつの間にか三人の男に囲まれていた。影の中の使令が臨戦態勢に入っているのが伝わってくる。まだ何もするな、と心の中で命じながら、男達を見回した。
「お前、可愛い顔してんなぁ」
正面の男がにやにや笑いながら六太の頰に手を伸ばしてきたので、反射的にその手を払い除ける。
「手を離せよ」
六太は上腕を掴んでいる男を睨んだが、その男は下卑た笑みを浮かべて、掴んでいる腕を更に引き寄せる。息がかかるほどの至近距離まで顔を近づけて、男は言った。
「生意気そうな目つきも、そそるじゃねえか」
言い知れぬ不快感が背筋を這い上った。
六太は身を引いて腕を振りほどこうとしたが、掴む力は腕に食い込むほどに強く、全く動かない。
男は唇を歪めて卑猥に囁いた。
「これから俺たちと遊ぶんだろう?」
「遊ばない。帰る」
言い返す声は、震えた。
やっと六太は状況を理解した。ここがどういう宿屋なのかということも。
空色の髪の少年が、六太の両肩に後ろから手を置いた。
「そんなこと言わないで。みんな、きみのこと気に入ったみたいなのに」
ねえ、と少年は媚びるような声で男達に同意を求める。
「上玉だな。お前は俺らの好みをよく分かってる」
下品な笑い声をたてて、正面にいる男がそう答えた。
少年はくすくす笑いながら、六太の耳元で囁いた。
「大丈夫、痛いのは最初だけ。すぐに良くなるから」
六太は唇を噛んだ。鳩尾のあたりが鷲掴みにされたように息苦しかった。
この少年は先日会った時、そういうつもりで声を掛けてきたのだろうか。最初から、ここに連れ込もうと考えていたのだろうか。

「みんなで可愛がってやるから、安心しな」
そう言いながらもう一人の男が右腕を掴んできた瞬間、六太は耐えきれず、使令に命じた。
ここから逃がしてくれ、と。
使令達は速やかに命令に従った。
僅かな灯りが消え、あたりは暗闇に包まれた。物が倒れる音、誰かの怒声。
背後の少年が悲鳴を上げて倒れた。
六太を掴んでいた男達の腕を、悧角の爪が引き裂く。暗くて見えなくとも、血しぶきが飛び散るのを感じた。男達は呻き声を上げて六太から手を離す。
後ろから鈍い音が響いた。錠を壊した音だろう。暗闇の中で振り返ると、沃飛の手に腕を取られた。足元から少年の苦しげな声が聞こえる。六太は耳を塞ぎたかった。
扉が開き、外の眩しい光が射し込んでくる。六太は沃飛に腕を引かれてそこから飛び出した。
通りに出ると、沃飛は姿を消し、悧角が足元から浮かび上がる。六太がその背にしがみつくと、悧角は高く跳躍した。

5名無しさん:2017/12/18(月) 20:10:41
うわ、なんか、出だしから読み応えありそうでドキドキします
続き、楽しみに待ってます

6名無しさん:2017/12/18(月) 20:34:34
すごい、尚六が花ざかり!
9・10月の書き逃げすごくおもしろかったです。姐さん、がんばって!

7「隠し事」4:2017/12/18(月) 20:38:31
街の外れまで悧角で逃げ、ひと気のないところで降りた。六太が呼吸を整えてから指笛を鳴らすと、いくらもしないうちに騶虞が隔壁を飛び越えて姿を現し、六太の傍らに降り立った。
六太はとらの首に腕を回して、そこに顔を埋めた。
ひどい眩暈がする。血の臭気と、人を傷つけたが故の怨詛が、六太に纏わりついている。
「悧角、先に戻って体を洗え。おれもすぐ戻るから」
六太は顔をとらの毛並みに伏せたまま命じた。悧角からは濃厚な血の臭いがして、とてもそばに置いておけない。
御意、という声を残して悧角の気配は遠ざかって行った。

早く戻らなければ、と理性で考えながら、六太は暫く動けずにいた。
とらの首筋に縋りながら、微かに呻くような声を漏らした。
情けない。百年近くも生きているくせに、あんなことにも冷静に対処できないなんて。
自分の身を守るためとはいえ、民を傷つけてしまった。その事実が、麒麟である六太にとっては心に重かった。もっと早く彼らの意図に気付いていれば、誰も傷つけずに逃げられただろうに。
あの少年の口振りから察するに、おそらく彼は男娼だ。あの宿で男達の相手をしているのだ。少年らしからぬ雰囲気を纏っていたのは、そのせいなのだろう。
同性を好む性的指向の人がいることは、知識としてはもちろん知っていたし、そういう人達の中には、年端のいかない少年を好む者もいるのだろう。だが、自分にそういう欲望が向けられる可能性は、考えたことすらなかった。

六太は歯を食いしばって顔を上げた。
とらが心配そうに様子を窺ってくる。その首筋の毛並みを撫でながら、努めて平静な声を出した。
「戻るぞ、とら」
くおん、と鳴いたとらに縋るようにして騎乗する。いつもより慎重に、とらは飛び立った。

関弓の街から禁門までの短い飛行時間、騶虞の鞍上で眩暈をこらえて俯きながら、嘘をつかなければ、と六太は思った。
この状態で戻ったら、血に酔った理由を尚隆に必ず問われるだろうが、本当の事を話したくなかった。
だが、ただ黙っていたら、尚隆は使令から聞き出すだろう。基本的に王の命令が優先されるから、隠すことは不可能だ。
使令があの男達の意図を理解していたかどうかは分からないが、事実をありのまま話せば、尚隆は察するだろう。それは、どうしても嫌だった。
嘘をつかなければ。
尚隆に知られたくないのなら。

8「隠し事」5:2017/12/18(月) 20:40:31
衣服に血糊をつけ、蒼白な顔をして玄英宮に戻った麒麟は、官吏の手によって即座に仁重殿の臥室に運び込まれた。
すぐに黄医が呼ばれて、六太は診察を受ける。怪我がないことを確認され、薬湯を飲まされた。
眩暈と高熱で全身が怠かった。何があったのかと心配そうに問う女官達に、
「あとで話すから、とりあえず寝たい。もし尚隆が来たら起こしてくれ」
と言って、六太は衾褥の中に潜り込んだ。
しかし、全く眠れそうになかった。
掛布の下できつく目を瞑りながら、穢瘁というのはこんなに息苦しいものだったろうか、と考える。
耳元で囁いた少年の声、腕を掴まれた感触、卑猥に歪んだ男達の笑み。六太の耳と腕と瞼の裏に焼きついたように、振り払おうとしても離れてくれない。早く消えてくれ、と強く念じた。
暫くの間じっと動かず、眠ったふりをしていた。鈍く回転する頭の中で、血に酔った嘘の理由を考えながら。

どれくらい経った頃か、尚隆が臥室に入って来る気配を感じた。牀榻の中に控えていた女官が、衣摺れと共に遠ざかって行く音が微かに聞こえる。
六太が衾褥の中で息をひそめていると、尚隆が寝台の傍らの床几に腰掛けるのが分かった。
ひとつ息を吐き出してから、六太は掛布をゆっくり引き下ろす。顔を出すと、意外なほど近くから尚隆が覗き込んでいた。彼は軽く眉を上げる。
「なんだ、起きておったか」
その暢気な声がひどく耳に心地良くて、六太の中で張り詰めていたものが、ぷつんと切れたような気がした。
声を出そうと息を吸うと、喉の奥が震えた。それから急激に全身が震えだして、うまく言葉を発することができない。
「寒いのか?」
軽く眉をひそめて尚隆が問う声に、違う、と答えようとしたけれど、声が出なくて六太はただ首を振る。
大きな掌が、そっと首筋に触れてきた。
「……かなり熱が高いな。だから寒気がするんだろう」
尚隆の手が触れたところから、沁み入るように安堵感が広がった。六太の視界は不意に滲んで、こらえる間もなく涙が零れた。一度あふれ出した涙は止めようがなく、次から次へと零れ落ちていく。
六太は両手で顔を覆った。
泣きながら六太は、ああ、自分は怖かったんだ、とようやく自覚した。

91:2017/12/18(月) 20:45:50
第一話もう少し続きますが、とりあえず初回はここまで
>>5 >>6
いきなりコメントいただきありがとうございます
頑張ります

10名無しさん:2017/12/19(火) 09:17:19
尚六祭りの時はご投稿ありがとうございます!徐々に初夜を迎えるような関係になっていくのですね…続きを全裸待機でお待ちしております!(〃ω〃)

11「隠し事」6:2018/01/04(木) 22:38:50
暫く涙は止まらなかった。
六太が泣いている間、尚隆は無言のまま、頭を軽く撫でてくれた。優しくて、暖かい手だと思った。
高ぶっていた感情が、ゆっくりと凪いでいく。先程までの妙な息苦しさは、涙の中に溶けるようにして、少しずつ流れて消えていった。
やがて涙が止まると、六太の頭はようやく思考力を取り戻し始めた。六太は深く息を吸って吐き、呼吸を整えてから、顔を覆ったまま声を発した。
「ごめん」
頭を撫でていた尚隆の手が、止まった。
「……何がだ」
「民を傷つけた」
何かの報告をする時のように、敢えて淡々と六太は言った。尚隆の答えは、すぐには返ってこなかった。
少しの沈黙が流れた後、六太の頭から尚隆の手が離れていき、低い声が聞こえた。
「……その手を除けろ、六太。俺の目を見て話せ」
六太はのろのろと顔を覆っていた手を外し、尚隆に視線を向ける。
その顔には、いつもの笑みは浮かんでいなかった。尚隆は、その双眸を真っ直ぐ六太に向けている。
「何があった」
尚隆が低く訊く。六太はひとつ息をつき、意を決してから話し始めた。
「知り合いが、男三人に絡まれて、多勢に無勢でやられそうなところに出くわしたから、仲裁しようと思ったんだ。でも結局相手は引いてくれなくて、逃げようとした。その時、使令でその男達に怪我をさせてしまった」
尚隆から視線を逸らさないように気を付けながら、六太は淀みなく話した。
我ながらありがちで単純な嘘だと思うが、綿密な作り話はそう簡単には考えつかなかったし、むしろありがちなほうが信憑性があるはずだと思うしかない。
表情を動かさずにそれを聞いていた尚隆は、そのまま無言で六太を見据える。
嘘だとばれただろうか、と不安に駆られるが、嘘をつく時に喋りすぎは禁物なので、六太は黙って尚隆を見返した。
「……怪我の程度は?」
「多分、そんなに重傷じゃないはず。逃げる隙を作れば良かっただけだから」
確認したわけではないが、使令には必要以上に重傷を負わせないよう言いつけてあるし、六太に命の危険があったわけではないから、実際彼らは重傷ではないだろう。
尚隆はそれからいくつか質問をしたが、六太は嘘と事実を織り交ぜながら簡潔に答えた。

「だいたい事情は分かった」
尚隆は腕を組んで溜息をついた。
「人助けするなとは言わんが、血に酔うようなことは避けろ。使令が病んだら身を守れなくなるだろうが」
「うん……。ごめん、気をつける」
説明に一応納得した様子を見せる尚隆にほっとして頷き、六太は素直に詫びる。
「……民を、傷つけないようにするから」
「いや、今回の件に関しては、怪我した連中は自業自得だろう。喧嘩を売ったのは、そいつらだからな」
「うん、でも……」
「お前は自分の身を守ることを最優先に考えろ。その結果、誰かが多少の怪我をしても仕方がない場合もある」
もちろん六太には自分の身を守るべき責任と義務があり、それが最優先事項であるのは確かだ。だが今日のことは、避けられることだったのではないか。
生命の危機があったわけでもないのに、衝動的に相手を攻撃して逃げたのだ。
麒麟のくせに、民を傷つけるなんて。

12「隠し事」7:2018/01/04(木) 22:41:20
六太が無言で目を伏せていると、
「お前が助けた知り合いは、女か?」
突然からかうような口調で尚隆が問うてきた。
「へ?……いや、男だけど?」
六太は唖然として尚隆を見返し、つられるように気の抜けた声で答えた。
「なんだ、つまらんな」
「は?」
「女にいいところを見せようとしたんじゃないのか」
残念そうな声を出す尚隆に、六太は呆れた。
「違うって。それに、人助けに男も女も関係ないだろーが」
「いや、あるな。男が女を助ける理由は八割がた下心だ。お前はそういう世間の常識が分かっとらん」
「そんな常識あるもんか。お前を基準にするんじゃねえ」
呆れた声で言い返しながら、六太はふと考える。
尚隆は女好きで遊び人ではあるが、本当に助けを必要とする人なら老若男女問わず助ける男だと、六太も分かっている。こんな軽薄な冗談を言いだしたのは、この件についての真面目な話はもう終わりだということだろうか。
そう思い至って、六太は少し気が楽になった。尚隆は六太の嘘を信じてないかもしれない。だが一応六太から事情を聞き出したからには、使令に問うこともないはずだ。

「まったく、お前は頻繁に街へ降りる割には世間知らずな奴だな。……まあ、餓鬼だから仕方ないが」
六太は不満顔を作ったものの、咄嗟に言い返すことが出来なかった。
ただの軽口なのだろう。だが尚隆の言葉は正鵠を得ていて、六太の耳に痛かった。
「もっと下界で見聞を広めろと言いたいところだが、それは当分まわりが許さんだろう。まあ、ほとぼりが冷めるまで、街へ降りるのは諦めるんだな。暫くおとなしくしておれ」
「う……分かってるよ」
「とにかく今日はもう寝ろ。早く体調を戻さんと、仕事が溜まる一方だぞ」
「あー……それ、考えるだけで憂鬱だな……」
六太は大げさに溜息をついてから目を閉じた。
「子守唄でも歌ってやろうか」
「いらねーよ」
六太は目を瞑ったまま、軽く笑って断った。そんなもの聞かされたら、却って眠れなくなりそうだ。
暖かい手が頭を軽く叩いた。尚隆が立ち上がる気配はない。六太が眠るまで、そばにいてくれるのだろうか。
尚隆の気配が間近にあるだけで、心地よい安堵感に包まれる。麒麟てのは本当に単純な生き物だな、と六太は改めて思った。

眠りに落ちる前の薄れていく意識の中で、六太はもう一度尚隆に詫びる。
––––世間知らずな餓鬼でごめん。また同じようなことがあっても、次はちゃんと対処する。尚隆の民を、もう傷つけたりしないから。

13「隠し事」8:2018/01/04(木) 22:43:52
六太はすぐに眠りについた。
尚隆がそっと首筋に触ってみると、まだかなり熱は高い。だが寝息は穏やかで、苦しそうな様子はなかった。
その寝顔を暫く見つめてから、金色の頭を軽く撫で、尚隆は立ち上がった。

臥室を出た尚隆は、正寝に戻る回廊を歩いて行く。とうに日は暮れていた。等間隔に点された灯りが並び、回廊の床に複数の影を落としている。
歩きながら尚隆は、心の中だけで問う。
––––本当は、何があった
あんなふうに泣く六太を見たのは初めてだった。
小刻みに身体を震わせて涙を流し始めた時、実のところ尚隆はかなり狼狽した。両手で顔を覆って静かに泣く六太に、何と声をかければ良いか分からず、黙って頭を撫でてやることしか出来なかった。
ようやく泣き止んだ六太は、打って変わって淡々と話し始めた。その落差はあまりにも不自然で、話の内容よりも、そのことばかりが気になった。
六太の話はおそらく嘘だ。全てが嘘ではないとしても、何かを隠している。

民に傷を負わせたこと、そのせいで血に酔ったことは事実だろう。
麒麟が争いを厭う生き物であり、理由もなく人に危害を加えることは絶対に出来ないことは良く分かっている。だから民を傷つけてでも身を守るべき事情があったことは間違いない。六太に怪我はなかったし、ちゃんと自分の身を守れたことは、かつて人質の命を惜しんで虜囚になった頃に比べれば、精神的に成長した証とも言える。
尚隆はそう考えて、これ以上の詮索は不要と判断し、追求するのをやめたのだった。本当のことを話せと六太に命じるか、使令から聞き出すかすれば、真実は分かるだろうが、それはしたくなかった。
六太は幼い子供ではないのだ。それなりに隠し事があるのは当然だろう。無理に聞き出すことではない。
そう自分に言い聞かせたが、あまり納得出来ていないことは自覚していた。

尚隆は大きく息を吐き出して、無意味に続きそうな思考をそこで断ち切った。彼方の雲海に視線を転じると、細い月が水平線に沈もうとしている。
「……正寝に戻ったら酒でも飲むか」
敢えて声に出して独りごちた。

尚隆はこの日の六太の涙を、いつまでも忘れることはなかった。

14「隠し事」9/E:2018/01/04(木) 22:47:55
数日が経過すると、六太の体調は完全に回復した。
ひとりで下界をうろついた挙句、血に酔って戻った麒麟に肝を冷やした官吏たちは、暫くの間は自重しろとばかりに監視の目を厳しくした。
こうなると朝議も政務もサボるわけにはいかず、快癒した次の日からは仕事漬けの日々が始まった。

降り注ぐ日差しは日毎に弱くなり、黒海からの条風も少しずつ弱まっていく。季節は夏から秋へ、移り変わろうとしていた。
政務の合間の休憩中、六太は雲海に面した広徳殿の露台で秋めいてきた空をぼんやりと眺めながら、空色の髪の少年のことを考えた。
体調が回復した後になって、密かに使令にあの宿の様子を見に行かせたところ、もぬけの殻だったという。あの少年の姿も見当たらなかったらしい。
雁では売春は違法ではないし、真っ当な商売をしているなら、男娼のいる娼館も、もちろん適法だ。だが、六太が連れ込まれたように、これまでにも目をつけた少年を宿に連れ込んで関係を強要していたのだとしたら、それは完全に犯罪行為だ。
そこまで考えが及んだ時、宰輔として靖州候として、看過してはならないだろうと思い、使令に調べさせたのだった。
彼らはどこかへ拠点を移したのだろうか。ひょっとしたらあの日の騒ぎのせいで役人に踏み込まれることを恐れて、そうなる前に逃げ出したのかもしれない。

少年に囁かれた言葉を、今は冷静に思い出せる。彼も最初は無理強いされたのではないかと思えた。自分と同じ境遇に、六太を引き込みたいと思ったのだろうか。
そう思うと彼を憐れみこそすれ、恨む気には全くならなかった。実際に何かをされたわけでもないのだ。

平常心を取り戻した今となっては、なぜ尚隆に嘘をついたのか、自分でもよく分からなかった。絶対に知られたくないとあの時に思ったのは確かなのだが、そこまで頑なに隠す必要はなかったのでは、と後になって思った。
欲情した男に襲われそうになったとしても、あんなふうに泣いたりせずに「変わった趣味の奴もいるもんだよな」と、なんでもないことのように笑って、軽く言ってしまえたら良かったのに。
もちろん積極的に話したいことではないし、今更話す気はない。寝込んでいる間に何度か様子を見に来てくれた尚隆も、その話題に触れてくることはなかった。

ふと、六太は両手を広げ、それをじっと見つめた。男らしさの全くない、頼りないほど細い手だ、と思う。
六太の姿はこれからもずっと、十三の少年のままだ。市井に降りた時は金髪を隠し只人のふりをしているのだから、いかにも非力で無防備に見えるだろう。
だからこの先も、そういう嗜好の男達に目をつけられることがあるかもしれない。むしろ、長く治世が続けば続くほど民の数も増えるのだから、変わった嗜好の人も増えていくのが自然だろう。
そう心得ておけば、冷静に対処できるはずだ。自分には使令がついているのだから。

背後から侍官の声が聞こえて、休憩時間の終わりを告げられる。生返事をしてから、六太は振り返る前に関弓の街を見下ろした。
––––次に街に降りられるのはいつだろう。そういえば甘味屋の店主がおまけしてくれると言ってたけど、当分あの辺には行きたくないな……。
内心で独りごちてから踵を返した六太の背を、雲海上を吹き渡ってきた夏の名残りの風が押す。弄ばれた長い髪に陽光が反射して、視界の隅で黄金色の光が舞い上がった。

第一話「隠し事」終わり

ーー
第二話へ続きます。

15名無しさん:2018/01/06(土) 07:15:33
続きが!新年早々更新ありがとうございます!二人にとってけして軽くない出来事がこの先どう絡んでくるか楽しみです…☺️

16書き手:2018/01/26(金) 10:12:10
第二話は尚隆視点の回想です。
回想している内容は全て第一話より後の出来事で、百年以上経ってから思い出しているような感じ。

17「ある国の王と麟」1/5:2018/01/26(金) 10:15:01
第二話「ある国の王と麟」

あれはもう随分と昔のことだ。
六太と共に行った雁南部の街で、朱旌の小説を観たことがある。ある国の王と麒麟の物語だった。
元々その小説を観ようとしていたわけではなく、朱旌の一座がその街にいたのは単なる偶然だった。
朱旌の天幕を見つけた六太が、
「せっかくだから観ようぜ」
と言ったので、どんな演目があるのか知らずに観ることにしたのだった。

昔々の遠い国での物語という体裁だったが、どの主従をなぞらえた話なのかはすぐに分かった。直接彼らを知っていたからだ。
雁とは交易が盛んな国だったため、その主従と対面したことは何度もあった。精悍な若き王と玲瓏たる麟。二人は仲睦まじく、さながら夫婦か恋人のようだった。
王朝の形を整える最初の十年を彼らは上手く乗り越えて、治世は長く続くのではないかと思えた。だが、そうはならなかった。
治世が五十年を過ぎた頃、王が冢宰を斬り殺したのだ。登極して間もない頃に、王が自ら抜擢して冢宰に据えた男だった。王にとって一番の寵臣であり、最も信頼している男だったのではなかったか。

その一報が入った時の衝撃は大きかった。共に報告を聞いていた六太は身じろぎひとつせず、暫し絶句していた。
長い沈黙の後で六太が発した「なんで……」という悲痛な呟きには、答えようがなかった。
台輔失道の報が入るまで、さして時間はかからなかった。そして凰がその国の末声を鳴くまでの期間は、更に短かったのだ。

小説を観たのは、二十年近くの空位が終わり、新王が登極したばかりの頃だったろうか。
斃れた王が悪しざまに言われるのは、世の習いだ。たとえその治世の大半が平和な時代だったとしても。
空位の時代に作られたであろうその小説は、王が道を失うさまを描いていた。
舞台上で演じられた王は、麒麟に恋着して嫉妬に狂い、猜疑に駆られて忠臣を斬り殺す、愚かな男だった。

18「ある国の王と麟」2/5:2018/01/26(金) 10:17:05
幕が上がると、最初の場面は王宮だった。
登極したばかりの王は、国土を見はるかす露台に立ち、傍らの半身の手を取り誓う。
『必ずお前の望む国を作ってみせよう』
美しい麟は頷いて、幸福そうに微笑んだ。

王は麒麟を寵愛し、彼女もその想いにこたえた。
だが穏やかな治世に、やがて暗雲が垂れ込める。王の心の闇を表すように、舞台には暗い影が落ちた。
麒麟への寵愛はやがて歪んだ執着と独占欲に変質し、王は麒麟を後宮に籠めて、誰の目にも触れさせようとしなくなったのだ。

王に後宮から出るなと命じられれば、麒麟は逆らえない。軟禁状態の台輔は、王に勅命を解くよう懇願するが、王の返答は取りつく島もなかった。
『ならぬ。お前は私だけを見ていれば良いのだ』

国政を蔑ろにし、後宮に閉じこもりがちになった王に、台輔と共に外に出てくるよう、冢宰は諫言する。国政をおろそかにしてはなりませぬ、と。
再三の諫言は逆効果となり、王は冢宰を疎んで遠ざけようとした。麒麟は、明らかに理のある冢宰に味方した。それが王の逆鱗に触れたのだった。
王は冢宰を糾弾した。その声は、怒りと悲哀と狂気を孕んでいた。冢宰の言葉に一切耳を貸すことなく、王は自らの手で彼の首を刎ねた。

慈悲深き台輔は、冢宰の死を深く悲しんだ。そして何よりも、王の愚行により天意が去り、国が荒廃することを恐れた。民の苦難を思い涙を流して、麒麟は王を詰った。
『なんという愚かなことをなさったのです』
王は冷淡に言い放つ。
『あんな男を庇ったお前が悪い』
『私が悪いのでしたら、私を罰すれば済むことでしょう。私の咎をなぜ冢宰に負わせたのです』
涙ながらに問う言葉に、愚かな王は暗く笑った。
『道を外れています、主上。どうか、これ以上は……』

冢宰を斬ったことで箍が外れたのか、舞台上の男は次々と臣を斬っていく。女は悲嘆に暮れて涙を流し続ける。そして天意の器たる麒麟は、ついに失道の病に伏した。
街にも里廬にも妖魔が湧き、天変地異が国土を襲った。しかし道を失った王は、民の辛苦を顧みることはなかった。

血に濡れた剣を手に、王は台輔の病床を訪れる。
『……誰を斬ってきたのです』
抑揚のない声で、麒麟は王を責めた。
『邪魔な者は皆斬った』
王は満足げな笑みを湛えて、麒麟の牀榻に歩み寄る。病み衰えた半身の頬を、愛おしそうに優しく撫でた。
『お前は私だけのものだ。誰にも渡さぬ』
睦言のようにそう囁く王を、麒麟は憐れむような瞳で見つめ、ゆっくりと首を振った。
『私があなたのものである為には、あなたは私の王でなければなりません。ですが、民のことを顧みないあなたは、もはや王ではないのです。……私は天のもの。決して、あなただけのものにはなりません』
慈愛と憐憫に満ちた口調で、麒麟は残酷な言葉を吐いた。
愚かで憐れな男は、狂気の笑い声を上げる。男が手にした剣の切っ先が、麒麟の細い首に突きつけられた。
女は悲しげに、諦めたように瞑目する。
剣が閃き、血しぶきが上がった。

隣に座っていた六太が、たまらず顔を背けたのを、視界の端に捉えた。

舞台が暗転する。
『崩御!』
暗闇の中で、白雉が末声を鳴いた。

19「ある国の王と麟」3/5:2018/01/26(金) 10:19:08
小説の幕が下りると、六太は席を立った。
「外、出てる」
短く言い残して、こちらを一瞥もせずに六太は背を向けて歩き出した。
小説が終わった後も、朱旌の出し物は休憩を挟んでまだ続くが、六太は次の演目を観る気がないのだろう。
席の間を縫って歩み去る六太の後ろ姿は、普段よりも頼りなく小さく見えるような気がした。尚隆は思わず立ち上がり、その背を追った。

薄暗い天幕から出ると、そこは傾きかけた日差しの降り注ぐ街の広場だった。
六太は広場の片隅にある茶屋の近くに佇んでいた。ぼんやりと店の方を眺めている。
「腹が減ったのか?」
六太が天幕を出たのは空腹のためではないと、もちろん分かっていたが、尚隆は敢えてそう声をかけた。
「……別に、減ってない」
無愛想に言ってから見上げてきた六太の顔色は、冴えない。
「なんで尚隆まで出てきたんだよ。出し物はまだ続くだろ」
尚隆は軽く笑って、それには答えなかった。
「顔色が悪いな、六太。血しぶきが怖かったのか?本物の血でもあるまいに」
揶揄するように言うと、六太は顔をしかめた。予想通りの反応だ。
「本物じゃなくても、気分のいいもんじゃない」
ふいと顔を逸らした六太は、
「……おれ、先に宿に戻ってる。お前は適当に遊んでこいよ」
と言うなり、返事も待たずに歩き出そうとする。その細い腕を、尚隆は殆ど無意識のうちに掴んでいた。
六太は驚いたように尚隆の顔を見上げた。
「……なんだよ」
「いや……」
我に返って六太の腕を放す。
「……俺も宿に戻ろうと思ってな」
言いながら、何をやっているんだ、と尚隆は内心で苦笑した。
六太の驚きの表情はすぐに消え、少し皮肉げに訊ねてくる。
「酒場とか、賭場とか、妓楼とか……行かねえの?」
「酒は宿でも飲めるだろう。賭場も妓楼も行く気はないな」
もとよりそのつもりはなかった。そんなところに行く気があるなら、はなからひとりで出奔している。
「ふーん」
返ってきた六太の声が、どこか嬉しそうな響きを含んでいるように感じたのは、尚隆の思い込みだったのかもしれない。

20「ある国の王と麟」4/5:2018/01/26(金) 10:21:11
舎館へ戻る頃には、街は黄昏の色が濃くなっていた。
部屋に入ると、六太は頭に巻かれていた布を無造作に取った。明るい金色の髪が、ぱさりと微かな音を立てて背中に落ちる。黄昏の光が射す部屋で、それは先程の小説で見た作り物の金髪とは比較にならない輝きを放った。

六太は榻の端にすとんと腰を下ろして、窓の方を眺めやった。先程から口数が少ない。
やはり小説の内容が堪えているのだろうか。王が麒麟を斬り殺す場面など、見たくはなかっただろう。

尚隆は部屋に入ってからずっと、衝立のそばに突っ立ったまま、六太を眺めていた。ふとそれに気付いて、微かに自嘲する。何をぼんやりしているのか。
腰に帯びていた刀を外し、上衣を脱いで適当に部屋の片隅に置いてから、榻に歩み寄って六太の隣に座った。
無口なせいだろうか。六太はいつになく大人びた雰囲気を纏っている気がした。

暫しの沈黙を破ったのは、ごめん、という六太の小さな声だった。
何がだ、と尚隆は返した。
「……おれが観ようって言ったのに」
途中で出てしまったことを詫びているらしい。六太にしては珍しい、殊勝な態度だった。
「続きを観たかったら俺一人でも残った。飽きてきたところだったから俺も出たのだ。詫びなどいらん」
「うん……」
六太は片膝を立てて抱え込み、そこに顎を載せた。視線は窓を向いたままだ。
「なあ……。あの小説、観てよかったと思うか?」
「……まあな」
「ふうん……」
「お前はどうなんだ。観たことを後悔しているのか?」
「いや……そういうわけじゃ、ない」
そう言って、六太は溜息をついた。
「ま、これも勉強かな。民の幻想の中の王と麒麟は、ああいうものなんだって」
もうひとつ小さな溜息を零してから、六太はこちらに顔を向け、少しだけ首を傾げた。
「……なんであいつは冢宰を斬った?あの時お前は分からないって言ってたけど、今なら分かるか?」
「……さてな。実際あの王が斬った本当の理由など、誰にも分からんよ」
「そりゃそうだけど……。じゃあ、さっきの小説の中での理由なら、分かるのか?」
「お前は分からんのか?」
「分かんねえから、訊いてんだろ」
六太は、むっとしたような顔をした。
「あいつは宰輔が好きだったんだろ?なんで好きな奴を悲しませるようなことをする」
尚隆は苦笑した。
どうもこの麒麟は見た目の幼さ通り、色恋沙汰には疎い。それとも麒麟は、恋情や独占欲、嫉妬心などの人の愛憎を、真に理解することができない生き物なのだろうか。
いずれにせよ多くを語る気にはならず、尚隆は簡潔に答えた。
「愚かだったからだろう」
「……そんなんじゃ、分かんねえよ」
「所詮あの小説は民の妄想だろうが。それに対する俺の解釈を聞いてどうする」
六太は尚隆を軽く睨むと、ぷいと顔を背け、また窓の方を見やった。

王に斬られた麒麟は、民にとっては悲劇の主人公であり、好奇の対象だったのだろう。誰が言い出したのか、民は憐れな麟を「傾国の美女」と呼び、王との間に起こった様々なことが小説や講談で語られた。
しかし所詮それは、真実を僅かに含んだだけの妄想の産物だ。彼らの間で交わされた約束も、最期の言葉も、第三者が知る由もないことなのだから。

21「ある国の王と麟」5/E:2018/01/26(金) 10:23:52
やがて、独り言のように六太は呟いた。
「傾国の美女、なんてさ……。嫌な言葉だよな」
「それほど美しい麒麟だった、という称賛も込められていると思うがな」
「そんな称賛、絶対喜んでねーよ。国を傾けたと言われて、嬉しいわけないだろうが」
「まあ、確かにその通りだが……。多くの国の史書にも記されているだろう。斃れた王の寵姫が傾国の美女と呼ばれることは、珍しくはない。こちらの世界だけでなく、昔の漢にもいたようだしな」
淡々と言う尚隆の言葉に、納得いかないという表情で、六太は押し黙る。
「……だがな、国を傾けるのは美女ではない。美女に溺れた愚かな王が、国を傾けるのだ」
はっとしたように六太は顔を上げ、僅かに目を見開いて、尚隆の顔を見つめた。
尚隆は口の端だけで笑う。
「国を傾けるのは、王だ」
低い声で言い切ると、紫色の瞳は不安定に揺らいで、それを隠すように六太はまた顔を背けた。
「……分かってるよ、そんなこと」
小さく言ってから、六太は黙り込んだ。

窓の外からは夕刻の街の喧騒が流れ込んでくる。それに聞き入るように、六太はじっと窓の方向を見つめていた。
部屋を満たす赤橙色の光のせいだったのだろうか、妙に儚げに見えたその横顔を、何故か今でも思い出すことがある。

尚隆は我知らず手を伸ばしていた。しかしその手が触れる前に、六太が不意にこちらを向いて、にやりと笑った。
いつも通りの悪戯めいた笑い方を見た瞬間、伸ばした手は行き場を失ったように感じた。
「どっかの昏君が美女に溺れて道を失わないことを祈るわ。相手の女が憐れすぎるからな」
悪戯めいた笑みを浮かべたまま、皮肉っぽくそう言った六太に対して、自分は何と言葉を返したのか。
今はもう、思い出せない。

王が冢宰を斬った理由を、あの時六太には言わなかったが、尚隆の中に答えはあった。もちろん推測に過ぎないが。
終わりのない重責がどれほど人を疲弊させるか、尚隆は知っている。
あの男は苦しかったのだ。王であることが。
遅かれ早かれ、あの王朝は倒れていただろう。
だが愚かにも麒麟に恋着したことが、悲劇を大きくした。冢宰を始め当時の六官はことごとく誅殺され、仮朝を立てることすらままならなかった。混乱に乗じてのし上がった官吏達は私腹を肥やすのに熱心で、国政は急速に腐敗した。
国土の荒廃は加速し、斃れた王を怨む声は大きくなった。麒麟を残さなかったため、次の王がすぐに立つことはなく、その間にも民の命は着実に失われていくのだ。

あれから幾つもの王朝の終焉を見た。王と麒麟の最期を。
––––その結末は、いつも悲劇だ。


第二話「ある国の王と麟」終わり

22名無しさん:2018/01/27(土) 11:27:23
続き待ってました!

しかし麒麟ちゃんたちの思考もわからんでもないけど
ここまで人間と思考が乖離してるとうまくいってる時はいいけど
王がドツボにはまり始めたら逆に追い詰めて悪化させるタイプだよなー…

これってアレかな天帝的には瑕疵が見え始めた王はもうどうでもよくて
むしろさっさと退場してほしいから麒麟にフォロー設計を入れてないとかだったら怖いな

23書き手:2018/01/27(土) 22:42:13
コメントありがとうございます。

あの世界では麒麟て本当に神聖な生き物で、人とは全く違う扱いされてるから、きっと「民が考える麒麟」は人と全く違う思考回路なんじゃないかと。だから民の作った小説の中の麒麟はあんな感じにしました。
実際ああいう時、麒麟はどんな最期の言葉を言うんでしょうね…

でも「華胥の幽夢」の采麟は精神かなり病んでて、これじゃ王を追い詰めるだけだよ、と思いましたよ…
天帝は王をフォローする気はなさそうですよね。西王母も冷たかったし

24名無しさん:2018/01/28(日) 10:51:31
あー采麟たんかなり病んでましたもんね
身体的にどうだったかは分からないけどああやって精神的に不安定になるのが
失道ならマジで王へのフォロー機能はなさげ…
天にとっては結局王も失道時の荒廃で死ぬ民の命も取り換えがきくものでしかないのかも

25名無しさん:2018/01/28(日) 11:03:23
更新ありがとうございます!麒麟は二形の生き物だからやっぱり人であり、人でない神聖な思考も持っていそうですね…。続きが楽しみです!待ってます!( ´ ▽ ` )

26書き手:2018/02/09(金) 20:07:06
第三話の途中まで投下します。
一、二話は前置きで、ここからが本題です。

27「人を模した神獣」1:2018/02/09(金) 20:09:54
第三話「人を模した神獣」

雁州国の長い秋は穏やかでふわふわと暖かく、雨季に入る前はさほど雨が降らない。晴れ渡った青空の下で田畑が黄金色に輝く、美しい季節だ。
今年も雁全域に大きな自然災害はなく、穀物の生育は概ね順調だった。大地からの実りを存分に得て、これから各地で収穫祭が行われるだろう。

現王朝の治世は二百八十年を超えた。
治世が長く続けば国土の隅々まで治水は行き渡り、多少の天候不順など大した問題にならず、そもそも王が玉座にいることで大きな天災は殆ど抑えられている。
多くの民にとって、毎年豊作であることは当然のことに思われた。
もちろん他国に比べて雁の治世は相当に長く、恵まれた環境であることは分かっている。荒廃した国から流れてきた人々は、雁の豊かさを目の当たりにして、必ず感嘆し、次いで自国の貧しさを嘆くのだから。
雁の民は荒民を不憫に思いながらも、自分がこの国に生まれた幸運に感謝し、口々に言うのだった。
主上は稀代の名君だ、と。


さて、そんな美しい秋を迎えた雁国。靖州の端にある大きな街で、その稀代の名君は、半身である麒麟から罵倒されていた。
「また借金してたのかよ⁉︎ほんと懲りねえ奴だな、お前は!」
「金は貸してもらえるうちが花だぞ」
「は?なんだそれ」
「金を返せなくなったら次に貸してもらうこともできぬ。ちゃんと返して信用を得ているからこそ、貸してくれるのだ」
「それって、カモにされてるってことだろうが。そもそも借金するほど遊ぶんじゃねーよ!自分に賭け事の素質はねえって、そろそろ学んだらどうだ」
「六太、お前の言うことは分かる。だがな……」
「あーもういい、言い訳すんな!いいからさっさと金返してこいよ」
「お前は来ないのか」
「おれはここで待ってる。お前と一緒に行ったら『こんな阿呆の身内だなんて可哀想』とか思われそうだし」
「……六太。お前、もう少し主に対して敬意ある態度を示さんか」
「うるせー借金王。早く行きやがれ」
六太は追い払うように手を振った。
尚隆は肩を竦めて軽く溜息をつく。そっぽを向いた六太の横顔を少しだけ見やってから、踵を返して歩き出した。

尚隆の後ろ姿は、緑色の柱の立ち並ぶ通りに吸い込まれて行った。それを遠目に眺めて、六太は大きく息を吐く。
「……バカ殿」
ほんの僅かだけ唇を動かして、ぼそっと呟いた。

28「人を模した神獣」2:2018/02/09(金) 20:12:06
ここは街道の要衝となる大きな街なので、それに見合った規模の歓楽街がある。六太が今いるのは、その歓楽街の入り口となる広途で、そこからは酒場や賭場が軒を連ねた通りや、妓楼の立ち並ぶ花街が視界に入る。
薄暮のこの時分、これから歓楽街に繰り出す人々が大勢行き交っていた。

今日の午後、六太は久しぶりに尚隆と共に玄英宮を抜け出した。特に行き先も目的も決まってはいなかった。ただ、六太はこの時季の黄金色の大地を見るのが好きだったので、尚隆と一緒に見られるなら、なおさら嬉しいと密かに思っていた。
二人で騶虞に騎乗して関弓山を後にすると、まず行かねばならない所がある、と尚隆が言い出した。そして最初に寄ったのがこの街である。
ここの妓楼で作った借金を返さねばならないという。大勢の妓女と騒いで調子に乗り、くだらない賭け事に興じた挙句、大負けしたのだ。これまで何度も繰り返してきたことなのだが、六太は心底呆れ、そして不愉快だった。なんだか水を差されたような気がしたのだ。
ひとりで出奔した時に返しに行けよと思ったが、借金は早く返すに越したことはないから、その言葉は口には出さなかった。

腹が立つのは、尚隆が全く悪びれないところだ。すまないな、とか詫びの一言でもあれば、少しは気分も変わるだろうに。もちろん尚隆がそんなことで詫びるほど殊勝な性格でないことは承知しているけれど。
二人で別々に出奔することの方が多いので、尚隆と下界で行動を共にすることは意外と少ない。だから六太は嬉しかったのに、尚隆にとってはどうでもいいんだと思えた。
六太の中の理性的な部分が、そんなの当たり前だろう、と言う。自分は麒麟で王のそばにいるのが嬉しい生き物だが、王は違うのだから。
それに対して、そんなの分かってる、と憮然と言い返す自分もいる。ただ拗ねているだけなのだ。我ながら本当に餓鬼くさい。

六太は近くの壁に凭れ、花街が視界に入らないように逆の方向に目をやった。
ぼんやりと人々の流れを見やりながら、最近の尚隆はここに通い詰めていたんだろうか、と考えた。
尚隆が言った通り、金を貸してもらえるのは必ず返すという信用があるからだ。一見の客に貸すことは絶対にないだろうから、尚隆は何度も同じ妓楼に通い、これまでに大金をつぎ込んだのだろう。
––––別に、どうでもいいことだけど。
内心で呟いて、六太は深く溜息をついた。

暫くの間、六太は広途の雑踏に漠然と目を向けていたが、視界に入る人々のことは殆ど認識していなかった。意識はずっと、ひとつの気配に向いていたから。
金を返すだけならすぐ戻って来るはずなのに、一向にその気配は動き出さない。馴染みの妓女につかまって、遊んでいってと誘われているのかもしれない。

ここで待ってる、と先程言う前に、尚隆が金を返しに行っている間に六太が先にひとりで舎館を探す、という選択肢も思い浮かんでいたが、それは自分の中で即却下した。子供がひとりで宿泊を申し出れば事情を訊かれることが多いので、面倒だという理由もあったが、ここで待っていた方が尚隆は早く戻ってきてくれるだろうと思ったからだ。
––––なのに、遅い。
西の空に僅かに残っていた茜色は、もうすっかり消えてしまった。
六太は視線を下げて、自分の靴の先を見つめた。溜息が零れた。
「……早くしろよ」

29「人を模した神獣」3:2018/02/09(金) 20:15:11
周囲に全く気を配っていなかった六太は、声をかけられるまで、近付いてきた人がいることに気付かなかった。
よう、とかなんとか声が聞こえた気がして、はっとして王気を探る集中力を緩め、目の前の誰かに初めて意識を向けた。
見上げると、視界を塞ぐように男が二人立っていた。二十代後半くらいの、大柄な男達だった。
お世話にも上品とは言えない笑みを浮かべて、六太の顔をじろじろ見てくる。
「お前、ひとりでなにしてるんだ?」
「……待ち合わせ」
「さっきから、随分待たされてるよなぁ」
待たされているのは事実だが、他人に指摘されると面白くない。むっとして言い返す。
「あんた達には関係ないだろ」
男達はちらりと視線を交わして、くつくつと可笑しそうに笑い出した。
「寂しそうな顔して溜息ついてたからさあ、慰めてやろうと思ったわけだ」
「振られたんじゃねえのか、お前」
そう言って、右側の男が六太の肩に馴れ馴れしく手を置いた。酔っているわけでもなさそうなのに、妙な絡み方をしてくる。
「うるさいな、もうすぐ来るよ」
肩に置かれた手を払おうとしたが、逆に力を込められてしまった。
もう一人の男が、六太の左の上腕を掴んだ。
「可愛い顔して、気が強いなぁ」
息がかかるほどの至近距離まで男が顔を近付けてきた。唇を歪めて下品な笑みを浮かべている。
遥か昔の嫌な記憶が、ふっと脳裏に甦った。六太は唇を引き結んで強く拳を握る。不快感を押し殺し、冷静になれ、と自分に言い聞かせた。

こういう場所に六太ひとりでいると、声をかけられるのはよくあることだった。歓楽街で遊ぶには幼すぎる外見だから、目立つのだろう。大抵は、治安維持のために巡回している役人か、親切でお節介な人が、子供がひとりで来るところじゃないよと言ってくる。
そしてごく稀にだが、下心があって声をかけてくる輩もいる。昼間の街ではまずないことだ。
こいつらはそういう連中か、と六太は努めて冷静に考えた。逃げたいが、壁を背にしており二人が前に立ち塞がっているので、普通に逃げるのは無理だ。使令に命じて隙を作って逃げようか。

「俺たちと遊ばねえか」
「やだ。二人で遊んでろ」
六太は素っ気なく言い放つ。
声をかけられた時、冷たくあしらうと諦める人もいなくはないが、強引な男達が大半だった。はなから六太の合意など求めてないのかもしれない。
「二人じゃ無理なんだよなあ、お前が相手してくれないと」
「だから、おれは人待ってんの。遊び相手なら他あたれよ」
「待ち人なんて来ないって分かってんだろ?だから溜息ついてたんじゃねえのか」
「俺たちと来たら美味いもん食わしてやるからさあ」
「とりあえず一緒に来いや」
両側から掴まれた肩と腕を、強い力で引っ張られる。
「離せよ」
言いながら六太は彼らの手を振りほどこうとしたが、腕力では全くかないそうにない。
「つべこべ言わずに来い」
腕を掴んでいる男の強圧的な低い声が、左耳に響いた。自分より弱い相手を従わせようとする恫喝だ。

すぐ逃げようと決意し、隙を作れと使令に命じようとしたが、その前に、尚隆はどこだろうかと気配を探った。先程よりずっと近付いている。もう間もなくこの場所が見える位置に来るだろう。
そういうことなら、と六太は使令に命じるのをやめた。使令よりも尚隆のほうが、男達を安全に追い払えるはずだと思ったから。

30「人を模した神獣」4:2018/02/09(金) 20:17:45
妓楼の女将に金を返してさっさと戻る気でいた尚隆だったが、馴染みの妓女達になんだかんだと話しかけられ、遊んで行けと誘われた。せっかく金離れの良い客が顔を出したのだから、逃してなるかと思ったのだろう。それをかわして妓楼を出るのに随分時間がかかってしまった。
そのうえ花街の奥にある妓楼から六太の待つ広途に戻るためには、緑色の柱が立ち並ぶ通りを抜けて行かなければならない。ひとりで歩いていると、案の定、数歩ごとに客引きに声をかけられた。

もし六太が一緒にいれば、先程金を返した後もすぐに妓楼から出られただろうし、客引きに声をかけられることもないだろう。だから本当は六太を連れて来たかったのだが、嫌がるものを無理に連れて来れば、余計に機嫌を損ねることになる。
では正直な理由を言って、付いて来てくれと頼んだらどうだったろうかと考えてみるが「自業自得だ、おれを巻き込むな」と指を突きつけてくる六太が思い浮かんで、尚隆は軽く苦笑した。
まあ仕方がないかと溜息をついて、夕餉には六太の好物を奢ってやろうと考えながら、尚隆は通りを抜けて行く。

次々に声をかけてくる客引きを適当にあしらって、ようやく広途に出た。
日が暮れてからだいぶ時間が経ってしまった。この辺りは夜でも燈火は多いのだが、それでも広い通りには灯りが届きにくい場所があり、端々に闇が淀んでいる。
六太の待つはずの場所へ歩いて行くと、二人の男が壁際に立つ誰かを囲んでいるのが薄闇の中に見えた。訝しく思い、尚隆は足を早める。
近づいて行くと男の横顔が見えた。卑猥な笑みを浮かべた、あからさまな下心が覗くその表情から、一緒に遊ばないかと女を誘っているのだろうと思った。夜の歓楽街ではよく見かける光景だ。

更に近づくと、男達に囲まれている小柄な姿が、二人の間からようやく見えた。頭に布を巻きつけて髪を隠した少年。男の一人に腕を掴まれ、もう一人に馴れ馴れしく肩を抱かれている。
それが六太だと認識した瞬間、尚隆の内に未経験の衝動が駆け抜けて、血潮が沸騰したように、かっと全身が熱くなった。
六太がこちらを見た。視線が合うと、驚いたように目を見開いた。
「風漢」
六太が尚隆の別字を呼ぶ。その声で二人の男もこちらを振り向いた。初め尚隆を睨むように視線を向けてきた彼らは、次いで怯んだような表情になった。
男達の手の力が緩んだのだろう、六太が掴まれていた腕を振りほどき、駆け寄って来る。目の前まで来た六太の手が、尚隆の右手を押し留めた。
気付けばその右手は、刀の柄にかかっていた。
「よせ、もう充分だから」
六太が囁く。尚隆は息を吐き出して、柄を強く握り締めていた右手の力を抜く。ゆっくりと刀の柄から手を離した。
尚隆の右腕に六太は両腕を絡めるようにして掴まり、男達を振り返った。
「言ったろ?待ち合わせだって」
ごく平静な口調で六太が言う。男達は面白くなさそうに舌打ちした。
「なんだ、そいつの稚児ってわけか」
「そうかい、よろしくやってろよ」
吐き捨てるように言う男達に顔を向け、六太は僅かに首を傾けて大人びた微笑みを浮かべた。
尚隆は六太の顔を凝視する。そんな表情をする六太を見たことがなかった。全く似つかわしくない。

「行こう、風漢」
六太が尚隆の腕を引く。
歩き出しながら尚隆が男達を睨むと、彼らは怖じけたように視線を逸らした。

31「人を模した神獣」5:2018/02/09(金) 20:19:51
広途を暫く歩いたところで六太は後ろを振り返り、ほっと溜息をつくと尚隆の腕から離れた。
「はー、びっくりした。お前さあ、いくら脅すためだからって、刀に手をかけるこたないだろ。あいつら丸腰だったのに。すげー顔で睨んでたし、抜刀するかと思った」
普段通りの生意気な口調で、六太は文句をつけてきた。あまりにも平然としたその態度が、何故だか癇にさわる。尚隆は六太の上腕を掴んだ。強い力で。驚いたように尚隆を見上げる顔を、無言で見下ろした。
「いや、えーと。おかげで……助かったけど」
戸惑った様子で六太が言った。
何も言葉を返さぬまま、尚隆は六太の腕を引いて歩き出す。少し広途を歩いてから角を曲がった。
「どこ行くんだよ、尚隆。宿探すならそっちじゃないだろ」
尚隆は何も答えず、六太を引きずるようにして大股で足早に歩く。ひどく苛立っていた。

やがて歓楽街の喧騒は遥か後方に去る。
燈火も人通りも殆どない小途に入ってから、尚隆は立ち止まり六太の腕を解放した。上腕を取られて半ば走るような状態だった六太は、軽く息を弾ませていた。
「……お前、怒ってるのか」
「……」
「尚隆…?」
六太が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
尚隆は気を鎮めるため、ひとつ大きく息を吐いた。
「……何なんだ、あいつらは」
「いや、何って言われても……知り合いじゃねえし」
「そんなことを訊いているのではない。奴らの目的が何だったか、お前は分かっているのか」
「分かってるよ」
あっさりと、六太は言う。
「分かっている、だと?」
意図せず険のある声が出た。
「では奴らが何故お前を狙ったか、言ってみろ」
「何故って……。おれが非力な餓鬼に見えるから、好きなようにできると思ったんじゃねーの」
どこか投げやりな調子で六太は答えた。なんでそんなこと訊くんだ、とでも言いたげに。
数瞬の間、尚隆は絶句した。
六太は彼らの意図を正確に理解していた。そして、ああいう連中に絡まれた経験が何度もあるのが明らかだった。だから平然とこんなことを言うのだ。
「何故すぐに逃げなかった」
「逃げようとしたよ、使令で隙作ってさ。でも尚隆の気配が近くまで来てるの分かったから……」
六太はそこまで言って、はっとした表情になった。
「あー、ひょっとして、お前を巻き込んだから怒ってんのか?」
六太は軽く首を傾げる。
この麒麟は、なんという的外れなことを言うのか。
「莫迦か、お前は」
低く吐き捨てると、六太はむっとしたように睨んできた。
「は?じゃあ何なんだよ。さっきからわけ分かんねぇな、お前は」

じゃあ何なんだ、と自分に訊きたいのは尚隆のほうだった。自分は怒っているのだろうか。何に対して?
あの男達に対して、だろうか。
無意識に刀の柄に手をかけたあの瞬間、尚隆の内に湧き上がっていたのは、斬り捨てたい、という衝動だ。
それを自覚して、そんなことを思った自分自身に驚く。これまで人を斬ったことは数知れずあるが、状況を鑑みて斬るべきだと判断した時だけだった。私怨や私憤で誰かを斬りたいと思ったことなど一度もないのに。

32「人を模した神獣」6:2018/02/09(金) 20:22:16
「さっさと使令で逃げろって言いたいのか」
「……」
尚隆が沈黙していると、六太は不満げに言い募る。
「でもさ、結果的には問題なかったじゃん。尚隆が来たから、あいつらは自ら引いたんだ。使令だと相手に怪我させる可能性あるし」
「怪我?」
「いや、あくまでも可能性だって」
六太は慌てたように視線を逸らした。
失言だったと悔いているのだろう。六太は感情が表に出やすい。そういうところは相変わらずで、まるで子供だ。
「……六太、正直に答えろ。お前はこれまでにも、ああいう連中に絡まれたことがあるな?」
少しの間をおいて、六太は無言で頷いた。
「何度もあるのか」
「……そりゃ、何百年も生きてるからな」
六太は軽口を叩くような口調で言って、視線を尚隆に戻した。
「けど、毎回ちゃんと逃げてる」
そんなのは当たり前だ、と思ったが口には出さず、尚隆は次の問いを投げる。
「使令で相手を傷つけたこともあるのか」
「……」
「あるんだな?」
「……一度だけ」
尚隆は大きく息を吐いて、六太の顔を見据えた。六太は再び視線を逸らし、言い訳めいた言葉を継いだ。
「その時は、ああいう奴らに絡まれたの初めてだったから、ちょっとびっくりしたんだ。……でも、一度だけだから。その後はちゃんと対処できてるよ」
言い終えてから黙り込んだ六太を、尚隆はじっと見つめた。
「……それは二百年程前のことか」
「さあ……。いつのことか、忘れた」
六太は目を合わせようとしない。
「嘘をつくな」
尚隆の脳裏には、小刻みに身体を震わせて静かに泣く六太の姿が甦っていた。
ずっと鮮明に覚えている、あの日の涙。
「血に酔って戻って来たことがあったろうが」
「……あったかな」
「あの時嘘をついたな、血に酔った理由を」
「……」
「本当は覚えているんだろう、六太」
暫しの沈黙の後、六太は小さく溜息をついてから顔を上げた。
「……お前こそ、よく覚えてんな。そんな昔のこと」
「……何だと」
「あれは嘘ついたっていうか、本当のこと言うのが面倒だっただけ。官にばれたら一人での外出は当面禁止とか言われそうだし、尚隆に言ったって……」
六太は少し唇の端を持ち上げて、皮肉げに笑った。
「悪趣味な奴らもいるものだな、とかからかわれるだけだしさ」
「六太」
尚隆は六太の両肩を掴んだ。
「本気で言ってるのか」
「え……」
「あの時、お前は何故泣いた」
紫色の瞳を彷徨わせて、六太は顔を背けた。
「……忘れた」
「お前、本当は––––」
「なんで今更そんなこと訊くんだよ。尚隆には関係ないだろ!」
吐き捨てるように六太は言って、尚隆の声を遮った。
突き放す六太の言葉。尚隆は冷水を浴びせられたような心地がした。
「関係ない?」
知らぬ間に頭に上っていた血が、すっと下がるのを自覚した。
「––––そうか」
六太の肩から手を離し、尚隆は低く呟いた。その声は自分でも驚くほど冷淡に響いた。
六太は顔を背けたまま、唇を噛んだ。

冷たい声音を戻す気にもならず、尚隆は短く言う。
「帰るぞ」
「……ひとりで帰れよ。おれはまだ帰らない」
「お前も帰るんだ」
敢えて高圧的に命じると、六太の瞳は反抗的な光を湛えて尚隆を見返した。だがそれは一瞬のことで、その目はふいと逸らされた。
尚隆は踵を返して歩き出す。六太は数歩遅れて無言で後に続いた。

33名無しさん:2018/02/11(日) 13:48:47
更新あった!ありがとうございます!ぶっきらぼうな尚隆と反抗期六太のやり取りにドキドキします。ああこれからどうなっていくんだ…

34名無しさん:2018/02/11(日) 22:31:49
むふー
どっちも無自覚w

35書き手:2018/02/12(月) 10:24:27
ありがとうございます。
書きたくて書いてる文章ですが、読んでくれる人がいると励みになります(^-^)

どっちも無自覚なうえに素直じゃないですw
そんな二人を書くのも楽しい…

36名無しさん:2018/02/12(月) 19:32:17
尚隆はろくたんがいつのまに
すれてしまったんだというショックもありそうw

37「人を模した神獣」7:2018/02/16(金) 23:31:14
尚隆が騎乗する騶虞のたまから少し離れた中空に並んで、六太は悧角の背に跨っていた。
街から飛び立つ時は二人でたまに騎乗していたのだが、少し飛行したところで「お前は悧角に乗れ」と言われ、それから別々に飛んでいる。騶虞の方が速いのに、わざわざ悧角に乗れと命じたのは、一緒に乗りたくないという意思表示だろう。
尚隆はそれから一言も発せず、こちらに一瞥もくれない。だが悧角に合わせてたまの速度を抑えて飛んでいるので、六太の存在を忘れているわけでもないようだった。
尚隆は怒っている。理由は分かるようで分からない。

先程から六太は、尚隆との会話を何度も思い返している。
二百年も前のことを尚隆が覚えているとは思わなかった。しかも泣いた理由を問われるなんて。
怖かったとは言いたくないし、尚隆のそばに戻って安堵したら泣いてしまったなんて、なおさら言いたくなかった。
尚隆には関係ない、と思わず言い放ったが、あれで余計に怒らせたに違いない。無口になったのも、尚隆らしからぬ頭ごなしの命令も、激怒の表れだ。

そもそも尚隆はなんで怒り出したのだろう、と六太は考えを巡らせる。
尚隆を巻き込んだせいではないとすると、すぐに逃げなかったからだろうか。だが特に危害を加えられたわけでもないから、怒る理由にはならない気がする。
自分の言動を振り返りつつ考えて、ひとつの可能性に思い至った。
ひょっとして、あの男達を慮るようなことを言ったからだろうか。
彼らを脅すために刀の柄に手をかけた尚隆に、六太は文句をつけた。相手は丸腰だったのに、と。
使令だと怪我させる可能性がある、という六太の言葉も、彼らに怪我をさせないよう、使令で逃げることを躊躇したと受け止められたかもしれない。
慈悲を与える相手を間違えるな、と何度も言われたことがある。絡んできた相手を心配するような発言が、尚隆の気に障ったのだろうか。

二頭の乗騎の前方には、関弓山が夜空を黒く貫いている。数刻前、浮き立つ気持ちでここを出発したのが遠い昔のように感じられた。
視線を横に滑らせ、月明りのない闇を透かして尚隆の横顔に目を凝らす。灯りなどなくとも、六太の目には尚隆の姿はいつでも明るく見えている。
その横顔は無表情に前だけを見据えていた。

莫迦か、と吐き捨てた尚隆の声が耳に残っている。あんなに強い口調で言われたことが今までにあっただろうか。
なんだよ、と反発したくなる。
元はといえば、尚隆が妓楼に借金をしたのが悪い。そのせいで六太はあんな所で待つ羽目になり、変な奴らに絡まれたのに。
「尚隆が悪い」
敢えて小さな声に出して言ってみる。だが悪態をついてみても、全く心は晴れなかった。

間もなく玄英宮に着く。尚隆は何を言うのだろう。自分は何を言えばいいだろう。
ああそういえば、とふと思いつく。
尚隆のおかげで男達を追い払うことができたのに、まともに礼も言ってなかった。そのことで尚隆が怒っているとは思わないが、ちゃんと言っておこう。

関弓山が眼前に迫る。中腹にある禁門前の篝火が、赤く小さな点に見えていた。

38「人を模した神獣」8:2018/02/16(金) 23:33:41
関弓山中腹の禁門前に、王の乗る騶虞と宰輔の乗る使令が並んで降り立った。
門番達は戸惑いながら王と宰輔を出迎えた。主従が揃って出奔する時は、大抵長らく帰って来ない。それなのに半日も経たずに戻ったのは、彼らにとって想定外の出来事だった。
ひらりと騎獣から降りた王は、厩舎に戻せ、と騶虞の手綱を下官に預ける。
使令の背から降りた宰輔をちらりと振り返り「ついて来い」と淡白な口調で言うと、王はさっさと歩き出した。
宰輔である少年は、珍しく何も口答えせずに王の後ろに従った。

二人の姿が門をくぐって遠ざかり、禁門の大きな扉が再び閉ざされると、門番達は顔を見合わせた。
主従の間に流れる空気が、明らかにいつもと違っていた。普段二人で出奔した時は、互いに悪態をついたり軽口を叩き合いながらも満足そうに戻って来るのに。
あまり感情の起伏を表に出さない王はともかく、妙におとなしい宰輔の様子が特に気になった。
宰輔の身に何かがあって急遽戻ってきたのだろうか、と話し合ってみたものの、特に体調が悪そうにも見えなかったから違うのかもしれない。
真実がどうであれ、主従の側仕えでもない彼らにはそれ以上のことは分からず、ただ顔を見合わせて首を捻った。

39「人を模した神獣」9:2018/02/16(金) 23:36:11
尚隆は正寝へ向かう回廊を歩いて行く。六太は数歩下がってついてきている。互いには話しかけなかったが、出迎えた官とは適当に言葉を交わした。

玄英宮への帰路、たまと悧角に別れて乗った理由は、六太と二人で一緒に騎乗することが何故だか耐え難かったからだ。無性に苛ついて、これでは冷静になれないと思い、悧角に乗れと六太に命じたのだ。
少し距離を置いたことで、多少は頭が冷えた。ここへ戻るまでの飛行時間、出来る限り自分を客観的に見ようと努めた。

自分の中に怒りのような感情があるのは否定できない。
先程はあの男達に対して怒っているのかと思ったが、考えてみればあんな奴らはどうでもいいのだ。尚隆が刀に手をかけて睨んだだけで怯んだ連中など、取るに足らない。最初の怒りが彼らに対してだったとしても、それだけならとうに収まっているはずだった。

六太が男達に見せた微笑みを鮮明に思い出した時、尚隆はたまの鞍上で思わず小さく舌打ちしていた。
あの表情を見た瞬間、咄嗟に言葉にならなかったが、そんなふうに笑うな、と強く思った。だがいったい何が気に食わなかったのだろうか。誰に対しどのような表情を向けるのも、六太の自由だろうに。

尚隆には関係ない、と吐き捨てた六太の声が耳に残っている。
二百年も前の嘘を今更問われたことに対する反発か。涙のわけを尚隆には話したくないという拒絶か。
いずれにせよあの言葉は氷の刃のように突き刺さり、今も尚隆の心を凍りつかせている。
だが少し冷静に考えれば、自分の方に理がないのは明白だ。
六太が泣いたあの日、何かを隠していると分かっていたのに敢えて追及しなかった。その判断を下したのは尚隆自身だ。それを今更問い詰めて、答えない六太に憤るのは筋違いというものだ。

胸の奥底に何かがわだかまっている。その正体がはっきりすれば、この苛立ちは消えるだろうか。
街では反抗的な態度を見せていた六太は、今はおとなしく付き従っている。王命だから渋々従っているだけで、尚隆と同じように苛立っているのだろうか。それとも少しは冷静になったのか。
このまま離れると禍根を残すような気がして、ついて来いと言ったものの、自分が何を話したいのかも分からない。

自分の言動の先が読めない。こんなことは初めてだった。

40「人を模した神獣」10:2018/02/16(金) 23:38:20
正寝の一室に着くと、尚隆は官に人払いを命じてから室内に入った。六太も続いて入室する。
適当に荷を置き、卓の傍らにある椅子を引いて無造作に座った。
六太は卓の近くまで来たが椅子には座らず、尚隆から少し離れた位置に立ち止まった。
尚隆は何を言うべきか、言葉を探して沈黙する。六太も無言のまま立ち尽くしている。衣擦れの音すらない静寂が、広い室内に訪れた。
暫くの間、身動きひとつせず、互いに目も合わせなかった。

「……さっきはありがとう」
不意に六太が呟いた。いきなり何を言い出すのかと、尚隆は六太に目を向ける。
やや不貞腐れた様子で六太は続けた。
「尚隆が来たおかげで助かったのに、ちゃんと礼を言ってなかった」
ああ、と尚隆は失笑気味の声を漏らす。また的外れなことを言う、と少し可笑しくなった。
「礼を言われる筋合いのことではない」
尚隆が淡々と返すと、六太はちらりと視線をこちらに向けたが、すぐに逸らして再び黙り込んだ。

六太らしくもなく素直に礼など言い出したのは、和解したいと考えてのことだろう。
これまでのことを思い返せば、例えば喧嘩した後に、多少なりとも六太が歩み寄る姿勢を示せば、尚隆はすぐに許していた。喧嘩の原因などいつも些細なことだったし、そもそも尚隆が本気で怒ったことなど殆どなかったからだ。
たとえ的外れでも六太が歩み寄ろうとしているなら、その意を汲んでやりたいところだが、今の尚隆には無理だった。
自分が何に怒っているのか分からないのに、和解も何もあったものではない。許す許さない以前の問題だった。

六太は俯き加減で、拗ねたような表情を浮かべている。それをじっと見つめていると、氷塊のようだった心がふと溶け出すような感覚がした。
六太らしい子供じみた表情だ、と安堵に似たものが湧き上がる。それは、六太が男達に向けた大人びた微笑みを目にした時の違和感とは対極にあるものだった。
そうか、と尚隆は内心で独りごちる。
自分は、六太には子供のようでいて欲しかったのかもしれない。永遠に成長しない見た目と同様に。
なんという莫迦げた望みだろう。世間知らずな餓鬼だと揶揄したこともあったが、本心からそう思っていたつもりはなかったのに。
外見年齢は変わらずとも、内面が変わらないはずはないのに、心のどこかで六太はずっと変わらない気がしていたのだ。

微かに苦笑すると、六太は怪訝そうにこちらを見た。
「……なんで笑ってる」
いや、と言ってから尚隆はひとつ息をついた。
「世間知らずな餓鬼だと思っていたが、そうでもなかったようだな」
ほぼ平常通りの尚隆の口調が意外だったのか、話の内容が唐突だったからか、六太はきょとんとして何度か瞬いた。
それから脱力したように、肩を落として息を吐きだした。
「何言ってんだよ今更。おれを何歳だと思ってんだ。いつまでも中身まで十三のままだと思ったら大間違いだ」
またもや六太らしい生意気な口調だ、と思う。尚隆の前では六太はいつもこんな調子なのに、尚隆の知らないところで、見たこともない表情をしている。
それが何故だか気に食わない。

41「人を模した神獣」11:2018/02/16(金) 23:41:02
「あんな奴らによく絡まれているとは思わなかったな」
尚隆が皮肉めいた言い方をすると、六太は不快そうに顔をしかめた。
「……滅多にねえよ、あんなこと」
「そうか?随分あしらうのが上手いから、頻繁にあって慣れているのかと思ったがな」
「あしらうのが上手いって、どういう意味だ」
「そのままの意味だが」
「なんだよ、そのままって」
むっとした表情で、六太は突っかかってくる。
「最後あいつらに笑ったろう」
「笑った?」
「まさか、無意識か」
「いや……そうじゃないけど。笑ったこととあしらうのが上手いのと、何の関係があるんだよ」
尚隆は呆れると同時に、また苛立ちが募った。意識的に笑ったくせに無自覚な六太に、無性に腹が立った。
「やはりお前は世間知らずだな」
「は?」
「だからああいう連中に狙われるんだ」
もはや苛立ちを隠すこともせず、尚隆は理不尽な言葉を吐き捨てた。
六太は絶句したように僅かに硬直した後、怒気をみなぎらせた目で睨みつけてきた。
「ふざけんな。今日のことは、元はといえばお前が妓楼で借金したせいだろうが。だからあんな所で待つ羽目になって、あいつらに絡まれたんじゃねーか!」
「あそこで待つと言ったのはお前だ」
「だから全部おれのせいか」
「ひとりでいたら絡まれると分かっていたんだろう」
「分かんねーよ!滅多にないって言ったろうが」

尚隆は平手を卓に叩きつけて椅子から立ち上がった。六太に近づき、目の前に立つ。間近に少年の顔を見下ろした。
貴石のような紫色の瞳が尚隆を睨みつける。
きめ細かく滑らかな肌が、怒りのために紅潮している。幼さを残す丸みのある頰。桜色の唇は微かに震えている。
美しい顔立ちをしている、と場違いな感想を抱いた。六太の外見が整っていることは、もちろん昔から認識している。だがそれに特別な意味など感じたことはなかった。
しかし今改めて考えると、この外見こそが事の発端なのだ。
少年愛の嗜好を持つ男がいるということは、無論承知している。そういう男にとって、六太は極上の好餌に見えるに違いないのだ。何故今までそんなことにも気づかなかったのだろうか。
だが、それは当然のことかもしれない。
王宮の中で麒麟にそんな欲望を向ける者などいない。仮にいたとしても、表に出すはずがない。もし街で誰かが六太に目をつけたとしても、隣に尚隆がいたら絶対に声をかけはしないだろう。
尚隆には知りようがなかった。それでも想像力が欠如していたことは否めない。尚隆は己の迂闊さに舌打ちした。

「……なんだよ」
六太が舌打ちの音に反応したが、尚隆は何も答えない。
「黙って舌打ちしてんじゃねえよ」
強気で反抗的な、怒りを孕んだ声。六太は昔からこうだ。麒麟のくせに王に歯向かう。
尚隆は口の端を少し持ち上げた。頰が引きつっているような気がした。
「中身がこんな糞餓鬼とも知らずに手を出そうとするとは、間抜けな奴らだ」
尚隆が低く言うと、六太は息を吸い込んだところで一瞬止まり、次いで絞り出すように震える声を発した。
「お前……!」
「転変しろ」
尚隆は六太の言葉を遮り、短く命じた。
「は?」
「今すぐにだ」
「なんでだよ」
「勅命と言わねば、従わぬか」
有無を言わさぬ口調で言うと、六太は言葉もないまま大きく肩で息をしてから、くるりと背を向け尚隆から数歩離れた。
僅かに仰向いた少年の後ろ姿が、揺らいで溶ける。その金色の塊は、瞬時に一頭の獣の姿となった。
金色の獣が身体を揺らすと、背から床に衣服が落ちる。その姿を眺めやり、尚隆は皮肉げに笑った。
「その姿のほうが余程可愛げがあるな。当分そのままでいろ。無断で転化することは許さぬ」
麒麟が首を巡らせて、まっすぐ尚隆に視線を向けた。表情は読めない。
「王宮から出るな。––––勅命だ」
思いつくまま言い放ち、尚隆は踵を返した。背後から六太の怒鳴る声が聞こえたが、一切耳を貸さず、大股に歩いて部屋から出た。

42書き手:2018/02/16(金) 23:43:06
尚隆ヒートアップ中ですが、今回はここまで

43名無しさん:2018/02/17(土) 12:21:45
尚隆、病みかけ……?w

44名無しさん:2018/02/17(土) 19:34:51
こじらせ尚隆…w 嫌がらせが転変なんてなんてロイヤル…

45名無しさん:2018/02/17(土) 20:11:21
自分の感情に振り回される尚隆… イイっす姐さん!

46「人を模した神獣」12:2018/02/24(土) 17:18:50
六太を残して部屋を出た尚隆は、その足で玄英宮を後にして関弓の街に降りた。
感情の抑制が効かないまま王宮にいるべきではないと思ったからだ。王として振る舞える気がしなかった。

騶虞で降り立ったのは街の片隅、夜は殆ど人通りのない場所だ。たまをその場で解放し、尚隆は特にあてもなく歩き出した。
ひとりで冷静になれば、胸の奥底にわだかまっているものの正体を掴めそうに思った。だが奇妙なことに、それを知るべきではないと、どこかで歯止めがかかっている。何かがそれを理解するのを拒んでいるような気がするのだ。

六太に投げつけた幾つもの理不尽な言葉を思い返すと、自己嫌悪を通り越して呆れ果てる。
男達に狙われたのは六太のせいではないと、もちろん分かっている。あの時、絡まれた六太自身が最も不快な思いをしていただろうに、冷静に対処しようとしたのだ。責めるべきことは何もない。
それなのに感情的な台詞を吐いた尚隆に、六太は激怒しているだろう。部屋を出る時背後から罵声を浴びせられたが、当然のことだ。

暗い夜道をひとり歩きながら尚隆の脳裏に去来するのは、六太が今日見せた様々な表情だった。
昼間玄英宮を共に出奔する時に見せていた、楽しげな笑顔。
金を返しに行かねばならぬと尚隆が告げた時の、心底呆れたような顔。
今まで見たこともなかった大人びた微笑み。
嘘をつく時に逸らされた視線。
拗ねたように俯いた、子供じみた表情。
睨みつけてくる怒りに満ちた瞳。
こんなに喜怒哀楽が豊かに表れる麒麟が他にいるだろうか。十三で成長の止まった幼い外見も、王に歯向かう態度も、他に類を見ない。
いったい何故だろうか、と尚隆は自問する。天は何故、あれを半身として尚隆に与えたのだろう。

ふと気がつくと、尚隆が歩く街路の先からは人々の喧騒が聞こえてきた。日頃の習慣とは恐ろしいもので、こんな心理状態でも足は自然と歓楽街へと向かっていたらしい。尚隆は自嘲するように口元だけで笑んだ。
今夜は妓楼も賭場も行く気にならない。楽しめないと分かり切っている。だが酒を飲むのは悪くないかと思いながら、そのまま歩を進めていった。
行きつけの酒場で顔見知りに会うのは避けたかったため、よく訪れる界隈からは離れた場所へ行くことにした。花街への曲がり角には目もくれずに直進する。少し行ったところで、一本の通りに何気なく目を止めた。
そこがどういう場所かということを、尚隆は不意に思い出した。男色の嗜好を持つ者が集まる通りだ。花街の妓女のように、ここでは男娼が男の相手をする。そういう娼館が立ち並ぶ通りだった。
尚隆は全く興味がなかったので、今までそこに足を踏み入れたことはなかった。ただそういう場所だと知っていただけだ。

今日行った街にもこういう場所があるのだろうか、とふと思った。あれだけの規模の街だ。あって当然かもしれない。六太が待っていた広途の近くに、ここと同じような通りがあった可能性はある。
少年を買おうと歓楽街へ向かっていた男達が、その途中で見かけた六太に目をつけた。大方そういうことだったのだろう。

47「人を模した神獣」13:2018/02/24(土) 17:21:06
尚隆はその通りへと足を向けた。興味が湧いたと言うと語弊があるが、なんとなくどんな場所か知りたくなった。
周囲を観察しながら、尚隆は街路を歩いた。当然ながらそこを往来するのは男ばかりだ。
既に夜はかなり更けているが、人通りは多い。宿から出てくる男もいれば、入っていく男もいる。帰って行く客を見送る、男娼とおぼしき少年がいる。客引きに声をかけられたが、完全に無視した。
花街とさして変わらない、と尚隆は思った。娼館で客を取るのが男だという点を除けば。
楼の二階を見上げると、あでやかな衣装を身に付けた少年が窓から手を振ってきた。もちろん手を振り返す気にはならない。
目を逸らして前を向いたところで、誰かと接触しそうになり、咄嗟に身をかわした。
娼館から出てきたらしいその男は、
「おっと、すまんな」
と言い、宿の扉の前で見送っていた少年に手を振った。十六、七に見えるその少年は、手を振り返しながら艶然と笑みを浮かべた。
それを目にした途端、六太の微笑んだ顔が閃光のように甦る。尚隆は舌打ちしたくなるのを抑えて大きく溜息をついた。
その音が耳に届いたのか、先程ぶつかりそうになった男がこちらを振り向いた。
「お前、風漢じゃねえか」
驚いたような声で言われ、尚隆は男の顔を改めて見やった。見覚えのある顔だ。名は忘れたが、確か賭場で何度か顔を合わせたことがある。
「こんなところで会うとはなあ」
男の驚きの表情は、すぐに意味ありげな笑みに変わった。娼館から出てきたということは、この男は当然あの少年を相手に遊んできたわけだ。そしてこんなところにいる尚隆を、同好の士だと思ったのだろう。
否定するのも面倒なので、尚隆は無言で僅かに笑みを浮かべた。
「そういや以前、十三くらいの坊やと一緒にいたよなあ。そういうことか」
にやにやと男が笑う。
この男が言っているのは、当然六太のことだ。いつのことか不明だが、一緒にいるところを見られていたらしい。
「可愛い顔してたよなあ、どこの宿の子だ?紹介してくれないか」
気軽な調子で言いながら、ぽんぽんと肩を叩いてくる。
こいつを斬り捨てたい、という激情が濁流のように尚隆の内を駆ける。右の拳を強く握り、刀の柄に手をかけぬよう自制した。しかし御しきれなかった感情は、思わぬ言葉となって口をついた。
「あれは俺のものだ」
「ん?」
「手出しは許さぬ」
押し殺した低い声に、男がたじろいだ表情をした。おそらく尚隆の反応が予想外だったのだろう。
「……手ぇ出す気はねえよ。そんなに睨むな、冗談の通じんやつだな」
男は言い訳するような台詞を吐いて、そそくさと立ち去った。

男の姿が見えなくなるまで睨み据えてから、尚隆は踵を返した。
街路を足早に通り抜けながら、胸の奥底でわだかまっていたものの形が、はっきりと見えてきた。その正体をようやく悟り、思わず尚隆は笑い出した。
気づいてみれば、なんと単純なことだろうか。
六太に欲望を向けた連中に対する、斬り捨てたいという衝動。あれは強い独占欲の発露だ。彼らと自分は同じ穴の狢だと、本能的に察知したのだ。

暫く歩いて人影のない暗い路地に入り、黒い闇の中で尚隆は立ち止まった。近くの壁に背を預けて瞑目し、目元を左手で覆った。
ああ、と微かに嘆息が漏れる。
これは毒だ。王と麒麟を、ひいては国を殺す毒。だから知るべきではないと、無意識に歯止めをかけていた。理解することを拒んでいたのに。

48「人を模した神獣」14:2018/02/24(土) 17:23:09
台輔が人型に戻れない、という報告を朱衡が耳にしたのは、翌日の昼下がり、内殿へ向かった時のことである。仁重殿に仕える女官が、遠慮がちに声をかけてきた。
朱衡は眉をひそめて、どういうことかと問い返す。
「勅命で転化を禁じられた、と台輔は仰っています」
更に詳しい話を聞くと、事が起きたのは昨夜だった。正寝の一室で主従が言い争うような声が聞こえたかと思うと、王ひとりだけが出てきた。王は猛烈な勢いでその場を去り、そのまま王宮から姿を消したらしい。扉の外で控えていた官が室内の様子を窺ったところ、獣型の麒麟が怒りに震えて立ち尽くしていたという。

朱衡は呆れて溜息をついた。どうやら喧嘩の結果そうなったようだが、全く意味不明の勅命である。
主上は、と問えば、未明に帰ってきたがまだ臥室で休んでいるらしいという。
「台輔はどうなさっているのです。台輔のご気性なら、勅命を解け、と主上に直談判しに行きそうなものですが」
「台輔は、あっちから詫びを入れてくるまで許さない、と仰ってまして……。ご自分から主上を訪ねるつもりはないようなのです」
なるほど、と朱衡は苦笑した。どうやら六太は怒り心頭のようだ。

麒麟は王宮内では人型で過ごすのが基本なので、ずっと獣型のままでは様々な支障がある。身辺の世話をする女官が困惑するのも無理はない。
いつ勅命を解いてもらえるのか、それが気になっているようだが、王に直接訊ねることはできないのだろう。だから王に対して遠慮なくものを言える朱衡に、遠回しに助けを求めているのだ。
「分かりました。台輔への勅命を解くよう、私から主上に進言致しましょう」
朱衡がそう言って微笑むと、女官はほっとしたような表情を浮かべ、深々と頭を下げた。

すぐに正寝へ向かうことにした朱衡は、回廊を歩きながら考えを巡らせる。
主従の喧嘩は珍しいことではないが、状況を聞いた限りでは、今回はいつもの喧嘩とは何かが違う気がした。
何か裏があるのでは、と勘繰りたくもなる。というのも、主従が大喧嘩の芝居を打ってまわりを油断させておいて、実は裏で結託し、散々官を振り回した挙句逃げ出した、という出来事が昔あったからだ。
そもそも昨日揃って出奔したのに半日も経たずに戻ってきたところからしておかしい。更に、帰還後すぐに喧嘩して、尚隆だけ再び出奔したというのも解せない。そのうえ尚隆は未明には戻ってきたというのだから、何が狙いなのかさっぱり分からない。
とにかく主上と話をせねば、と朱衡は王の元へと急いだ。

49「人を模した神獣」15:2018/02/24(土) 17:26:00
正寝の主殿、長楽殿に辿り着いた朱衡は、緊急の奏上がある、と王への取次ぎを求めた。
通された広い居室で王を待つこと暫時。短気な朱衡が、やはり臥室を直接訪ねれば良かったかと後悔し始めた頃になって、ようやく尚隆が姿を現した。

官に人払いを命じてから、尚隆は榻に歩み寄り、どさっと身体を投げ出すようにしてだらしなく座った。
朱衡はことさら丁寧な拱手をして、
「おはようございます、主上」
と挨拶の言葉を述べた。
尚隆は軽く眉を上げて朱衡を見返し、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「なんだ、まだ朝だったか。とうに昼を過ぎたかと思うていたが」
不真面目な王の返答に対し色々と言いたいことはあったが、ここに来たのは嫌味を言うためではない。
ひとつ息をついてから、朱衡はさっそく本題に入ることにした。
「昨夜台輔と喧嘩なさったそうですね」
ああ、と軽く頷いて尚隆は笑った。
「緊急の奏上とは、その話か」
「ええ、そうです。意外でしたか?」
柔和に微笑んで朱衡が言うと、いや、と短く声が返ってきた。
この件で朱衡が苦言を呈しに来たのは想定内だったようだ。そういうことなら、と単刀直入に訊くことにした。
「喧嘩の腹いせに、獣型でいろと命じたのですか」
「なに、可愛げのない餓鬼の姿より、獣の姿のほうが良かろう」
王の返答は、普段通りの暢気な口調だ。喧嘩して不機嫌というわけでもなさそうだった。
そもそも六太と喧嘩して尚隆が不機嫌になることはまずない。少なくとも朱衡が憶えている限りでは、これまでなかったことだ。
「神獣の優美なお姿を拝めるのは大変ありがたいことでございますが、残念ながら獣型のままでは政務につくことができません」
尚隆は笑った。
「政務などいつもサボっておるから変わらんだろうが」
「その点は否定致しません。ですが政務だけでなく、当然ながら日常生活にも支障をきたします。身辺の世話をする女官達の困惑はいかばかりかと」
尚隆は大儀そうに溜息をついた。
「要は、早く勅命を解け、と言いたいわけか」
「ご理解いただけたようで」
朱衡はにっこりと笑う。
「今後は周囲に類が及ぶような勅命は慎むよう、お願い申し上げます。喧嘩の原因が何かは存じ上げませんが、主上と台輔のお二人の問題なのですから、お二人の間で解決なさってくださいませ」
不意に尚隆の顔から笑みが引いた。
「……二人の問題、か」
低く呟く声に、朱衡は僅かに困惑しながら頷いた。王の反応は思いがけないものだったのだ。
だが真顔になったのは、ほんの束の間のことだった。ふと微かな笑みを浮かべ、尚隆は窓の方へ顔を向けた。
「事はそう単純ではない」
その言葉の真意を測りかね、朱衡は軽く眉をひそめて尚隆の横顔を見つめた。

50「人を模した神獣」16:2018/02/24(土) 17:28:06
「六太はどうしている」
淡々と問われ、朱衡も淡々と返答する。
「直接お会いしたわけではありませんが、大層お怒りのようです。主上のほうからの謝罪がなければ許さない、と」
「そうか」
尚隆は苦笑した。
「とにかく早いうちに仁重殿にお渡りになって、台輔への勅命を解いてくださいませ」
「……ああ」
おざなりの生返事をしてから尚隆は黙り込んだ。何か物思いにふけっているように見えた。
朱衡としてはいつまでに勅命を解くのか言質を取りたいところであり、普段は遠慮なく要求するのだが、今は何故か言葉を発するのがためらわれた。

「天は何故、麒麟に二形を与えたのだと思う」
少しの沈黙が流れた後で、呟くような尚隆の声が朱衡の耳に届いた。唐突な問いに戸惑いながらも冷静に問い返す。
「それは……獣の姿だけでなく、人の姿も持っているのは何故か、という疑問でございますか」
尚隆はだらしなく榻に座ったまま窓の外を眺めている。朱衡の言葉を肯定も否定もしなかった。答えを待っているという雰囲気でもなく、尚隆の意識の中に朱衡はいないのではないか、とさえ思う。
天の思惑など分かるはずもないが、朱衡は個人的な見解を述べることにした。
「……王が人型の半身を欲したからではないでしょうか」
外を眺める王の横顔は、表情を変えない。長い沈黙が降りた。どこか様子のおかしい尚隆に内心で首を傾げながら、朱衡はじっとその場に控えていた。
やがて尚隆の微かな呟きが、その沈黙を破る。
「なるほどな……」
尚隆の口の端が、僅かに上がる。
そして皮肉げな微笑を浮かべたままのその唇が、朱衡、と呼んだ。
「明日には勅命を解く。––––気が変わらなければな」
「……それを台輔にお伝えしても、よろしいでしょうか」
「かまわん」
その横顔を暫し見つめた後で朱衡は丁寧に礼を取り、王の居室を退出した。

51名無しさん:2018/02/26(月) 07:25:25
更新ありがとうございます!尚隆が自覚した!なんか悪い男になってるww

52書き手:2018/02/26(月) 23:13:39
尚隆、感情的に振る舞った挙句ようやく自覚しましたw

まだたいして長くないけど、既に自分の中では最長です
破綻せずに書き上げたい…

53「人を模した神獣」17:2018/03/06(火) 19:41:28
眼前に広がる凪いだ海は、黄昏の光を弾き返して錦繍のように煌めいている。玄英宮の片隅、雲海に面した園林で、麒麟はただ一頭で佇んでいた。
意識の端で尚隆の気配を追いながら、昨夜の出来事が思考の大半を占めている。

昨夜尚隆が部屋を出て行った後、残された六太は、怒りのあまり身動きも出来ずに暫し呆然としていた。
尚隆があんなに感情的になるのを見たのは初めてだった。彼の苛立ちの理由も勅命の意図も、全く分からなかった。
少しの間をおいてから扉の外に控えていた官が入室してきて、何があったのかと問われたが、答えようがない。
「知らねーよ、あんなやつ!」
と怒鳴って部屋を飛び出した。
その時、王気は禁門の方向から感じられたので、尚隆が再び出奔するつもりなのだと分かった。麒麟の脚なら追いつくのはたやすいが、追いかける気には全くならず、勝手にしろ、と吐き捨てた。

仁重殿まで宙を駆けて、主殿から離れた園林の片隅に降り立った。夜には全く灯りの届かない場所だった。誰も来ないところで、六太はひとりになりたかった。
激しい怒りはそう長くは続かなかった。逆巻く感情が収まるにつれて、心が凍えるように冷たく、空虚になっていく気がした。
なんであんな言われ方しなきゃならないんだ、と敢えて怒った声を出す。
そんなことをしても、急速に萎んだ怒りの感情はもう戻って来なかった。入れ替わるように心を占めていくのは、痛みと寂しさ、困惑と疑問、そして少しの後悔。

これまでに尚隆が怒っているのを見たことは何度もある。大抵の場合、尚隆は計算ずくで怒っている節があった。自分の怒りを見せることで相手に何かを悟らせるため、敢えてそうしているように思えたのだ。かつて元州の乱の折、六太に対して怒ったように。
だがいくら考えても、今日のことは分からない。尚隆は六太に何かを悟らせたかったのだろうか。そうとは思えない。感情のままに振る舞っていたようにしか見えなかった。

六太は四肢を折って、短い草の上に寝そべった。鼻先を持ち上げて天を仰げば、そこには無数の星が散りばめれられている。月のない夜、満天の星だけが夜空を美しく輝かせていた。
見上げながら六太は溜息をつく。
人の姿をしていれば、仰向けに寝転んで星空を眺められるのに。
実際六太は、この場所で夜空を眺めることが時折あった。そして背中と髪に草をつけたまま臥室に戻り、側仕えの女官に呆れられるのだ。また子供じみたことをなさって、と。
ああそうか、と六太は内心で自嘲した。
こういう子供じみたところがそもそもの原因かもしれない、と思った。結局自分は何百年生きても「世間知らずな餓鬼」のままで、それが尚隆を苛立たせたのだろうか。

男達に対して笑ったことが、どうやら気に食わなかったらしい。何故なのかは分からないけれど。きっとそれが分からないところも「世間知らずな餓鬼」たる所以なのだろう。
あれは無意識ではなかったが、わざと笑ったわけでもない。彼らが予想通りの誤解をしたのが可笑しかった。そして予想以上に面白くなさそうな顔をしたのも。
さすがに声を上げて笑えないので、こらえて微笑んだ。なるべく平静に見えるように気をつけながら。

54「人を模した神獣」18:2018/03/06(火) 19:43:55
これまでああいう連中に絡まれて、笑えたことは一度もなかった。そんな気持ちの余裕など全くない。本当はいつも怖いのだ。腕力ではかなわない大人の男、しかも大概は複数だ。そして人数が多いほど強引で、六太の抵抗は殆ど意味をなさない。
そんな相手でも、怪我をさせたくないと思ってしまう。それは麒麟の性だ。誰かを傷つけるのが怖い。しかし身を守るためには、使令をうまく使って逃げるしかないのだ。
今日だってそうだった。不快で、怖かった。それでも懸命に冷静さを保って、できることなら穏便に追い払いたいと我慢していた。だから尚隆の気配が近くに来たのを感じて、心底ほっとして、嬉しかった。
でも、と六太は考える。そうやって尚隆に頼ってしまったことが事の発端なら、いつも通り自分ひとりで対処すればよかった。
自分の選択が悪かったとは今でも思わない。それでも、絡まれた時にためらわず逃げていれば、と後悔が募る。もしそうしていれば、今頃は街の舎館で夕餉を取って、酒でも飲んでいたかもしれない。尚隆と一緒に。

六太はうなだれて目を閉じた。
尚隆の気配はとうに王宮から消えている。ひょっとして暫く帰ってこないのでは、と思いついてひどく心許ない気持ちになった。
当分そのままでいろ、と尚隆は言った。当分、とはどれくらいの期間だろうか。転化できないことは、六太にとってたいした問題ではないが、あんな喧嘩をして和解もしないまま、長らく離れてしまうのが嫌だと思った。

身じろぎひとつせずに目を瞑っていると、夜風に乗って遠くから複数の人々の声が聞こえてきた。耳を澄ますと、天官や夏官が六太を探しているようだった。
尚隆と喧嘩したことは当然伝わっているはずだし、正寝から仁重殿へ駆けてきたのは見られていただろうから、なかなか主殿に戻らない六太を心配して探しているのだろう。
灯りを持って余程近くまで来ない限り、ここにいる六太を見つけるのは難しい。じっとしていれば暫くは見つからないだろうが、あまり周囲に心配をかけるのは本意ではない。
六太は溜息をひとつ吐いてから立ち上がり、主殿へ向かってゆっくりと歩いて行った。

主殿へ戻ると、官たちの質問責めにあった。
獣型でいるのは何故か、喧嘩の原因は何か、王は出奔したようだがどこへ行ったのか、等々。
だが答えられるのはひとつだけだ。
「勅命で転化を禁じられた」
淡々とした声で答えてから、六太は臥室へ向かった。
側仕えの女官たちが獣の姿に戸惑いながらも、六太の世話をするためいつも通りに取り囲んでくる。
「もう寝る。世話はいらない」
それだけ言うと、六太は牀榻に入った。

55「人を模した神獣」19:2018/03/06(火) 19:46:03
そうやって昨夜のことをつらつらと思い出しながら、雲海に沈み行く夕日を眺め、六太は長い溜息をついた。
仁重殿に閉じこもっていても鬱々としてしまうので、昼間は気を紛らわすために王宮内を駆け回った。そのせいか、なんだか疲れた気がする。寝不足も原因かもしれない。

昨夜はなかなか寝付けなかった。そもそも人型に合わせて作られている寝台は、獣の姿ではあまり寝心地のいいものではないし、何より色々考えすぎて目が冴えてしまったのだ。
明け方になって尚隆の気配が王宮に戻ったのを感じて、六太は安堵した。長期間戻って来ないのではという懸念が杞憂に終わったからだ。それからやっと少しだけ眠ることができた。

尚隆が正寝にいると分かっていても、六太のほうから訪ねる気にはならなかった。尚隆の怒りの原因は不明だし、自分が悪いとは思ってないのに詫びるのは愚の骨頂だ。どう考えても昨夜の尚隆の態度はおかしい。詫びるべきなのは尚隆のほうだ、と自分に言い聞かせて、周囲の官にもそう言明した。

午後も遅くなってから仁重殿を来訪した朱衡によると、明日には勅命を解く、と尚隆は言ったらしい。裏を返せば、今日は六太を訪ねる気はないということだ。
「主上のほうからの謝罪がなければ許さない、と台輔が仰っているとお伝えしておきました」
と、朱衡は言っていた。
それを聞いてもなお、明日と言ったのは、明日まで放っておいても構わない、と思ってのことか。尚隆は六太の怒りなど意に介してないのだろうか。

意識の端でずっと追っていた尚隆の気配は、次第に遠ざかり、どうやらまた禁門から出て行ったようだった。関弓に降りて遊ぶつもりなのだろう。いつものように、麒麟は置き去りにして。
こんなに心が沈むのは麒麟だからか。
王に理不尽な言葉を投げつけられたのに、怒りは長続きせず、悲しみと寂しさは時が過ぎるごとに増していく。
視線の先で、今日最後の陽光が雲海の果てに消えた。西の空は刻々と色を変えていく。茜から紫、薄藍、そして濃紺へ。やがて夜の帳が完全に下りるまで、麒麟はただ一頭でそこに佇んでいた。

56「人を模した神獣」20:2018/03/06(火) 19:48:07
「台輔はいつまで獣型のまま王宮をうろつくつもりなんだ」
朱衡の官府を訪ねてきた帷湍が苛立った声でそう言ったのは、翌日の昼下がりのことである。
「さて。今日中には人型に戻るはずですが」
「今日中とはいつのことだ。もう午後だぞ!勅命を出した阿呆はまだ戻って来んのか」
「お戻りではないようですねえ」
のんびりと答える朱衡を、帷湍は睨みつけた。
「昨日から丸二日だぞ。仁重殿から出るなとは思わんが、せめて内宮の中でおとなしくしていればいいものを」
「あの台輔がおとなしくしているわけがないでしょう」

どうやら六太は王宮から出るなという勅命を、王宮内なら自由に行動して良い、と解釈したらしい。仁重殿でおとなしくなどしておらず、内宮はもとより、外殿の外まで好き勝手に駆け回っているのだった。
いたるところで宙を駆ける神獣の姿が目撃され、どこそこの官府の二階の窓から麒麟が覗いていただの、池で泳いで滝に打たれていただの、幾つも噂が飛び交っている。人型の時でさえ思わぬところに顔を出し、神出鬼没と言われる宰輔のこと、麒麟の脚で駆ければなおさらだ。もちろん捕まえることなど不可能である。

「妙な勅命を出されて可哀想に、と少しでも同情した俺が莫迦だった。政務できないし仕方ねえじゃん、とか言っていたが、堂々とサボる口実ができたと内心ほくそ笑んでいるんじゃないのか」
そうかもしれない、と思い朱衡は軽く笑った。帷湍は腕を組んで溜息をついてから、はたと表情を変えた。
「ひょっとして、一昨夜のあいつらの喧嘩は芝居だったんじゃないか?実は裏で結託していて、官をからかって楽しんでいるんだろう」
さあ、と言って朱衡は首を傾げる。
「それはどうでしょうね。せっかく二人揃って出奔したというのに、そんなことのために半日も経たずに戻ってくるでしょうか?」
「……うむ。まあ、それもそうだな」
帷湍は少し考え込むようにする。しかし一瞬の後には顔を上げ、
「とにかく、早く勅命を解いてもらわんと迷惑だ」
と言いながら、さっと踵を返した。
「連れ戻しに行くのですか」
朱衡の問いに、帷湍は頷く。
「あの莫迦のことだ、戻るに戻れなくなっている可能性も否定できん」
ああ、と朱衡は苦笑する。
昔、借金のかたに騎獣を取られ、妓楼で庭掃除をしていたという王の逸話を思い出した。
「そうですね。所持金は多めが良いと思いますよ、念のため」
「無論、分かっている」
キッと鋭い視線を朱衡に送ると、帷湍は足を床に叩きつけるようにして部屋から出て行った。

57「人を模した神獣」21:2018/03/06(火) 19:50:08
帷湍の後ろ姿を苦笑混じりに見送ってから、朱衡は書卓につき、そこに積まれていた書類を手に取った。だが書面の文字を目線でなぞりながらも、主従のことが頭から離れなかった。

一昨夜の喧嘩はおそらく芝居ではなく本気だろう、と朱衡は思っている。帷湍に言った理由もあるのだが、それよりも引っ掛かるのは昨日の尚隆の様子だ。
常日頃思い悩む姿を見せることのない王が、物思いにふけるような様子を見せたのは、それだけでも極めて珍しいことだ。しかも不可解な問いを発しておいて、答えを求めていたのか、いなかったのか。朱衡の返答をどう受け止めたのかも、尚隆の反応からは窺い知れなかった。

一方の六太の様子は、どうも判然としない。
昨日の午後、仁重殿の園林をぶらぶらしていた麒麟に対面し、明日には勅命を解くという王の言を伝えたのだが、六太の反応は素っ気ないものだった。
「あっそ」
とだけ言って、そのまま立ち去ろうとする。それを朱衡が呼び止めて喧嘩の原因などを聞き出そうとしてみたが、
「尚隆に訊けよ。あっちが難癖つけてきたんだから」
と言うだけで、全く要領を得ない。
口調には王に対する怒りが込められていたものの、なにしろ獣の表情は読みにくい。人の姿をした六太は感情が顔に出やすいので、機嫌の良し悪しなどは、王と比較すれば格段に分かりやすいのだ。
だからこそ余計に、六太の様子をどう捉えるべきか判断が難しかった。単純に考えれば、怒っていたのだろうが。

暫くの間、書類の処理をしていたが、あまり集中できず効率が上がらない。
帷湍は尚隆を探し当てることができただろうか。官が把握している王の行きつけの店のどこかにいるならば、そろそろ見つけて戻ってくる頃合いだ。
そう考えた朱衡は、おもむろに立ち上がり、下官に休憩する旨を告げると官府を後にした。

秋の風を感じながら歩いて行くと、正門へと続く石段へと辿り着いた。そこから見下ろしていると、程なくして朱衡の期待通りの人物が足音高く上ってくる姿が見えた。やはり禁門は通らずに正門から戻ってきたらしい。
「いかがでした」
朱衡が声をかけると、帷湍は憮然とした顔を上げる。
「行きつけの酒場の座敷で転がっていた。珍しく賭場で勝ったから、知り合いに大盤振る舞いして朝まで飲んでいたんだと」
実に尚隆らしいと思い、朱衡は笑った。
「そうでしたか。まあ、庭で箒を握っていなかっただけましですね。––––それで、今はどこに?」
「とりあえず正寝に戻った。あいつの言葉に嘘偽りがなければ、すぐに仁重殿に向かうはずだ」
そう言いながら、帷湍がかなりの疑念を抱いているのは表情と声音から明らかだった。王のこれまでの所業を思えば、疑われるのは当然のことではあるが。
「主上の様子はいかがでしたか」
「いかがも何も、いつも通りだ。早いとこ台輔に詫びを入れて勅命を解いてこい、と言ったら面倒くさそうな顔をしていたぞ。そんなにあの餓鬼の姿がいいのか、とかなんとか言ってな」
「そうですか……」
「まったく、いいとか悪いとかの問題ではないだろうに。何を考えているんだ、あの昏君は」
「ええ……本当に」
相槌を打ちながら、朱衡はふと帷湍から視線を逸らし、内殿へと続く石段の先を見上げた。
その奥に、正寝と仁重殿を含む路寝がある。喧嘩の後二日間を経て顔を合わせる王と麒麟の間に、果たしてどのような会話がなされるのだろうか。
昨日尚隆に言った通り、これは二人の問題であり、自分が立ち入るような話ではない。そう考えつつも、朱衡は長いこと路寝の方角を見つめ続けていた。

58名無しさん:2018/03/08(木) 21:53:27
六太やっぱり頑固ww これどうなるんだろう、超気になりますwww 更新ありがとうございました!

59書き手:2018/03/15(木) 22:36:29
第三話の最後まで投下します
一続きの場面ですが、尚隆と六太の視点が1レスごとに入れ替わります

60「人を模した神獣」22:2018/03/15(木) 22:38:49
尚隆が仁重殿へと向かうと、女官達は少し慌てたような様子で王を迎えた。いつも先触れなど出さずに突然訪ねるので、慣れているはずなのだが。
おそらく王が来訪した目的は承知しているのに肝心の宰輔の行方が知れないからだろう、と尚隆は推察した。
六太は、と問えば、案の定どこにいるか分からないという。
半刻ほど前に仁重殿の上空を駆けている姿を見かけたから、おそらく園林のどこかにいるはずだと言い、
「すぐに探してまいりますので、主上はこちらでお待ちくださいませ」
と、王を主殿の一室へ通そうとする。尚隆はそれを断り、
「どこぞで昼寝でもしとるんだろう。どの辺りにいるか見当はつく」
笑ってそう言うと、六太を探しに行こうとする女官達を制止した。

尚隆はひとりで園林の奥へと足を進めて行った。
玄英宮の仁重殿の園林は広い。他国の仁重殿と比較しても広いだろう。宰輔の居宮だから元々広かったのだが、尚隆の登極直後に建材を売り払うために幾つも建物を解体したので、そのぶん園林は更に拡がった。
さすがに主殿の近くは整えてあるが、遠く離れれば殆ど手を入れてない場所もある。良くいえば自然のままの庭だ。
そういう場所を六太は好んだ。それゆえ、園林全体を整えるだけの余裕がある現在になっても、敢えて放置している部分が多いのだった。
六太の気に入りの昼寝場所を、尚隆は何ヶ所か知っている。季節と時間によって快適な場所は違うから、そのとき一番いいところで昼寝するんだ、と六太は以前言っていた。
今は秋の午後、おそらくあの場所だろうと推測して、尚隆はそこへ向かって行った。

暫く歩いて行くと、思った通り、灌木に囲まれた芝の上に一頭の獣が寝そべっているのが見えてきた。間近まで歩み寄り、静かにしゃがみ込んでその姿をじっと見つめた。
雌黄の毛並み、金の鬣、真珠色の角。紫の瞳は瞼に隠れている。
尚隆は微かな笑みを浮かべて、眠る獣の傍らに腰を下ろした。
右手を伸ばして麒麟の鬣を撫でる。人型の時の髪色と同じく、黄味の強い明るい金色。だが転変すると細く短くなる鬣は、はるかに柔らかい手触りがする。微かな風になびくさまは、揺らめく陽炎のようだった。
美しい獣だ、と心中に呟いた。

初めて獣型の六太を見た時のことを、尚隆は思い出す。
麒麟とはこんな優美な獣だったのか、と感嘆した。神獣と呼ばれるにふさわしい姿だと。褒めるような言葉は、一切口には出さなかったが。
馬と鹿の間のような生き物だと揶揄したのは、一種の照れ隠しであり、生意気な表情ばかりする餓鬼の姿より獣型のほうが好ましい、とさえ思っていたような記憶がある。
そう思っていたはずなのに。いつの間にこうなったのだろうか。いま尚隆の脳裏に浮かぶのは、生意気な餓鬼だと思っていたはずの少年の表情ばかりだ。人型の六太の寝顔が見たかった、とふと思い、転変しろと命じておきながら勝手なことを、と自嘲した。

昨夜は関弓の賭場で遊び酒場で飲んだ。気を紛らわせるためだったが、その間でさえ、六太のことが一瞬たりとも頭から離れることはなかった。
賭博に全く集中していなかったのに、かつてないほど大勝ちしたのは、皮肉としか言いようがない。

尚隆は暖かな体温を掌に感じながら、麒麟の首を撫で、背を撫でた。耳がぴくりと動いたが目を覚ましそうにない。熟睡しているようだ。
獣のくせに無防備だな、と可笑しく思った。王の気配に対しては警戒心が湧かないものなのかもしれない。
金の鬣を再び撫でながら、その中にごく小さな橙色の花が幾つも絡んでいることに気づく。ほのかに甘い香りがした。

61「人を模した神獣」23:2018/03/15(木) 22:41:45
何かの重みが背に乗っている。とても暖かくて心地良いもの。そこにあるだけで安堵を覚える、おおらかで明るい気配。

六太は半覚醒の頭の中で、なんだろう、と考える。まだ重たい瞼を押し上げて、自分の背中に目を向けた。
雌黄の毛並みの上に流れる黒髪が見える。麒麟の五色の背を枕にして寝転んでいるのは、六太の主、延王尚隆。驚愕のあまり、眠気の残滓は一気に吹き飛んだ。
眠ってはいなかったのだろう、六太の身動きに反応したように尚隆は目を開けた。次いで軽く身を起こした彼は、いつものように人の悪そうな笑みを浮かべた。
「一昨夜は悪かったな」
至極あっさりとした尚隆の謝罪。六太は唖然として、咄嗟に何も言葉にならない。
「勅命を解く」
これまたあっさりと言われて、顔を合わせたら言ってやろうと思っていた文句は、ひとつも口から出てこなかった。

なんでこんな状況になっているんだ、と六太は覚醒したばかりの頭で考える。そもそもいつの間に寝ていたのだろうか。
今日も昼過ぎまでは王宮内を駆け回っていたのだが、尚隆の気配が禁門に戻ったのを感じて、六太も仁重殿に戻ったのだった。すぐに来てくれるだろうかと待ちわびながら、園林で寝そべって王気を探っているうちに、眠ってしまったのかもしれない。きっと二晩続いた寝不足のせいだ。
高い位置にあったはずの太陽は低く傾いて、周囲の灌木の影は長く伸びている。かなり長時間眠っていたようだった。

尚隆の表情を注視する。一昨夜のような苛立った雰囲気はまるでない。憑き物が落ちる、とはこういう状態を表すための言葉だったんだ、と六太は長い生の中で初めて実感した。
何も言えずにいるうちに、尚隆の手が伸びてきて麒麟の鬣を撫で、そこについている何かを摘み上げた。
「鬣に花が入り込んでいるぞ」
大きな手に摘まれたそれは、橙色の小さな花だった。
「丹桂だな。ここに木はないようだが」
どこで咲いていた花か、六太はすぐに思い出した。
「ああ……それ、あっちの崖に岩棚があってさ。そこで、咲いてた」
尚隆が平常通りの口調なので、つられたようにごく普通に言葉を返してしまい、言おうと思っていた文句はどうしたんだ、と六太は頭の片隅で考えた。
「岩棚?」
「うん、宙を駆けないと行けないところ。おれも今日初めて行った」
「ほう」
尚隆がにやりと笑った。
「お前、その姿で王宮内を所構わず駆け回っていたらしいな。帷湍が迷惑だと言っておったぞ」
「おれも言われた。文句があるなら尚隆に言えって言っといたけどな。妙な勅命出したお前のせいだし」
六太は不満を込めた声を出したが、尚隆はそれを気にする様子もなく、面白そうに言う。
「六太が転化できなくて困ったのは、周囲の官達だったようだな。お前はむしろ楽しんでおったか」
「別に、楽しんだわけじゃないけど。……どうせ獣型でいるなら、人型で行けないとこ探検しようかなって思っただけ」
そうか、と言って尚隆は笑った。
「面白い場所は見つかったか?」
「うん、まあ……さっき言った岩棚くらいかな。狭いけど、西向きに雲海を臨む場所だから、誰にも邪魔されずに夕日を眺められる」
「なるほど。それはいいな」
そう言いながら尚隆は西の空へ視線を転じた。六太もそちらを眺めると、空は夕暮れの色を湛え始めている。
今からあの岩棚に行けば、一面に広がる雲海へ沈む夕日を眺められるだろう。
六太は軽く四肢に力を入れ、すっと立ち上がった。
「どうした」
芝に座ったままの尚隆が六太を見上げる。
「その岩棚に行く」
「今からか?」
「うん。尚隆にも場所教えてやるよ」
「宙を駆けないと行けない、と言わなかったか。俺は駆けられんのだが」
「乗せてってやる」
「……お前がか?」
尚隆は驚いたように目を瞠り、まじまじと六太を見る。
うん、と麒麟が頷くと、王は破顔した。
「麒麟に乗るのは久しぶりだな。––––お前のほうから乗せると言ったのは、初めてではないか」
「そうだっけ?……まあ、ただの気まぐれ」
言いながら尚隆から視線を逸らして、六太は前方に顔を向けた。
「早くしろよ、おれの気が変わらないうちに」
麒麟の広い視野の端で、尚隆が立ち上がった。

62「人を模した神獣」24:2018/03/15(木) 22:43:49
尚隆が麒麟の背に跨ると「飛ぶぞ」と六太の声。次の瞬間、神獣の蹄は軽く地面を蹴り、ふわりと飛翔した。
園林の木々を越え、麒麟は空へ駆け上がり、この世で一番速い脚で西へと向かう。幾つもの建物が瞬く間に後方に流れていった。
不思議な感覚がした。自分の跨る獣は間違いなく六太なのに、六太ではないような。
麒麟の首に掴まり真珠色の角を見つめながら、尚隆は考えた。
乗せてやると急に言い出したのは、尚隆の謝罪を受け入れて、許してやる、という意思表示だろうか。本当にただの気まぐれなのかもしれないが、予想だにしなかった六太の行動に、尚隆の胸中には驚きと喜びと安堵が入り混じっている。
一昨夜のことに対する文句がなかったのは、寝起きで頭が働いてなかったからか。六太のことだから、後で何か言ってくるに違いないが。

思考を巡らすうちに、麒麟は関弓山西側の崖に沿って駆ける。一本の木が生えた小さな岩棚が見えてきた。麒麟はまっすぐそこに向かい、足音も軽く着地した。
狭いながらも土があり、短い草が生えていた。そこに一本だけ生えている木は、尚隆の身の丈の倍近くあるだろう。緑の葉を繁らせ、橙色の小さな花を無数に咲かせ、甘い香りを振りまいている。木の根元には、落ちた花が錦のように敷き詰められていた。
「こんなに狭いところでよく育ったものだな」
尚隆は感心して言いながら、麒麟の首筋を軽く叩いた。騎獣から降りる時、労いを込めていつもするように。
麒麟の背から降り、岩棚に降り立つ。
「たまと同じくらいは乗り心地が良かったぞ」
鬣を撫でながらにやりと笑ってみせると、
「騎獣と比べるなよ。麒麟のほうが貴重だぞ」
不満げな六太の声が答えた。少年の表情まで目に浮かぶようで、尚隆はふっと笑みを零した。

獣の頭を撫でると、紫の瞳が尚隆を見つめた。
人の姿の六太と同じ色の瞳だ。当たり前のことなのに、今はそれが不思議な気がする。ふと湧いた疑問を口に出した。
「獣の時は感覚が切り替わる、と以前言ってたな。人型の時に頭を撫でられるのとは、違う感じがするか」
「……うん、違う」
「どう違う」
「どうって、言われても……」
戸惑ったような声。獣の表情はあまり変化がなくとも、その声音だけで、困惑した少年の表情がありありと浮かぶ。
「多分……たまが撫でられてる時は、同じ感じがしてるんじゃないかと思う」
「そうか」
頷きながら、尚隆は鬣から背中へ掌を滑らせる。つややかな毛並みの下、獣の背骨の形を指先で感じた。
「……なんでそんなこと訊くんだ?」
「二形を持つというのはどんな感じなのか、俺には分からんからな」
「訊いてみたくなったのか?今更?」
「……まあ、そうだな」
ふうん、と呟いて、六太は言葉を継いだ。
「獣としての感覚が強くなるっていうか……。聴覚と嗅覚は、人型の時より鋭くなるし……あと、景色の見え方も違う」
言い終わるか終わらないかの刹那、唐突に獣の姿が揺らいで溶けた。
尚隆が息を飲む間に、溶けた金色の塊は少年の姿を形作る。明るい金の髪が覆うのは、透き通るように白い華奢な背中。
突然の転化に、尚隆は不意打ちをくらった気分だった。
「丹桂っていい匂いだけどさ、獣の鼻にはちょっと強すぎる」
顔にかかった一房の金髪を無造作に払いながら、六太は尚隆を見上げて笑った。
「それに獣の時は視野が広いけど、景色に奥行きがあって綺麗に見えるのは人型の時なんだよな」
六太が説明を続ける声は、尚隆の耳をほぼ素通りした。数瞬、尚隆が硬直していると、六太は怪訝そうに首を傾げた。
「……勅命、解くって言ったよな?」
確かに言った。つまり六太はいつ人型に戻っても良いのだ。だからといって、何の前触れもなく転化するとは。
尚隆は無言のまま、重ね着していた袍を一枚脱いで六太にばさっと掛けた。
「……馬鹿のくせに風邪を引いたら洒落にならんぞ」
尚隆はなんとか平静な声を出すことに成功した。
「風邪なんか引くもんか。おれは神獣だぞ」
そう言って六太は袍を肩に羽織り直し、長い金髪を袍の外に跳ね上げた。広がった髪が風になびいて、袍を羽織った背にふわりと落ちかかる。黄昏の光が水平から差して、その髪の黄金色は更に輝きを増していた。
尚隆は目が離せなかった。そして今更ながらに自覚したのだった。
例えば出奔先の舎館で、髪を隠すための布を六太が取り去るとき、金の髪が零れ落ちるさまにいつも無意識に目を引きつけられていた。
そうか、いつも見惚れていたのか、と。

63「人を模した神獣」25:2018/03/15(木) 22:45:50
六太が改めて見上げると、尚隆は珍しく呆けたような顔で、瞬きもせずにこちらを見ている。
「……なんかついてるか?」
どうしたんだろう、と思い六太が訊ねると、尚隆はようやく瞬いた。
いや、と言って尚隆は笑みを浮かべた。
いつも通りの笑顔に安堵して、六太も笑う。
「戻る時はまた転変して乗せてやるから」
「……ああ」
気の抜けたような返答だった。変なやつ、と内心で呟きながら、六太は西に視線を転じた。

眼前は一面の雲海。太陽は着々と高度を下げて、海の果てに向かっていく。さざ波の立つ水面に黄金色の陽光が反射して、きらきらと輝いていた。
綺麗な景色だと思った。これを一緒に見たかったから、尚隆を背に乗せてここまで駆けて来たのだ。
玄英宮は絶海の孤島だ。その断崖から雲海を見渡せば、この世に二人きりのような錯覚に陥る。
尚隆はこの場所を気に入ってくれただろうか。
隣を見上げると、彼は西日の眩しさに目を細めながら、遠くを眺めている。
「いい景色だろ」
「……そうだな」
返ってきた声は、穏やかだった。

一昨夜のあれが何だったのか分からないが、既に尚隆の機嫌は直っているようだし、六太の怒りなどとうに消えている。だからもう蒸し返すべきではないのかもしれない。
それでもやはり訊いておきたい。そう思った六太は、意を決して尚隆の横顔に向かって問うた。
「……お前さ、一昨日は何に怒ってたんだよ」
「別段、怒ってなどいなかったが」
ちらりとこちらに顔を向け、尚隆は軽く言った。
「はあ?あんな不機嫌な態度取っておいて、よくそんなこと言えるな」
「そんなに酷かったか?」
「酷いもなにも、過去最低だ。自覚ないのかよ」
尚隆は苦笑して、六太から視線を逸らした。
「自覚はある。––––だがあれは怒りではない、別のものだ。……それが自分でも分からず苛立っていただけだ」
「別のもの?……なんだそれ」
「六太には分からんよ」
「なんで決めつけんだよ」
むっとして言うと、尚隆はただ笑った。
はぐらかそうとしているな、と思いながら、六太は問いを重ねる。
「それって……おれが餓鬼だから分からないって言いたいのか」
「そうではない。……まあ、敢えて言うなら……麒麟だからだな」
それがどういう意味なのか、六太は理解できなかったが、尚隆がそれ以上のことを話す気がないことは分かった。
「やっぱりわけ分かんねえな、お前。……じゃあ訊くけどさ、その別のものってのは、解決したのか?」
いや、と言って尚隆はまた笑う。
「解決しない問題だということが分かった」
「……なんだそりゃ」
六太の頭は疑問符だらけで、呆れた声が出た。
「もうひとつ分かったことがある」
「へえ、何が?」
「自分で思っていた以上に、俺は心が狭い」
六太はぽかんとして尚隆の顔を見つめた。皮肉めいた笑みを浮かべて、軽口を叩くような言い方。これは冗談なのだろうか。
「あー、そう。そりゃあ……自覚できて良かったな」
「あまり良くはないな」
少し困ったように、尚隆は笑った。
見慣れない笑い方だなと六太は思った。今日の尚隆はどこかおかしい。一昨夜とは全く違った意味で。思ってもない反応が返ってきて、なんだか掴みどころがないのだ。

そもそも尚隆は何かを問われても、真面目な答えを返さないことが多い。それは相手をからかうためだったり、本音を悟らせないためだったり、単に面倒だからだったりする。
今はなんだろう。六太をからかうためだろうか。

64「人を模した神獣」26:2018/03/15(木) 22:48:03
尚隆は、自分が独占欲の強い狭量な男だということを、一昨夜になってようやく自覚した。長く生きてきたくせに、自分のことすら理解できていなかったとは。
だが昔から確信を持っていたことがある。麒麟に手を出す王は、この上ない愚か者だと。
民意の具現であり天意の器である麒麟は、王が独占していいものではないのだ。王は所詮、天から玉座を借り受けているに過ぎない。玉座の象徴たる麒麟も同じだ。
にも関わらず、それが自分のものであると錯覚し執着し、それゆえ身を滅ぼす王は幾らでもいた。

尚隆が隣を見下ろせば、六太が不思議そうな表情を向けてくる。
王のものでありながら、王だけのものにはなり得ない、己の半身。
天意を受けるための単なる器に過ぎないと、人の姿も喜怒哀楽の表情も、全てが擬態なのだと割り切ることができたなら、惑わされずに済んだものを。ただの器だと思うには、麒麟はあまりにも人に似過ぎている。
これは天帝の罠だろうか。人を模した神獣を、敢えて半身として与え、王の心を惑わせる。天の掌の上で踊らされるのが王のさだめか。
高みからそれを眺めて楽しんでいるのが天帝なのだとしたら。
「……悪趣味な奴だな」
尚隆の低い呟きを訝しんだように、六太が眉をひそめた。

尚隆は手を伸ばして金色の髪に触れた。麒麟の鬣よりも、しなやかでなめらかな手触り。額の際の髪に指を通してゆっくりと梳いた。
髪を滑り下りた手が、首筋を通って肩に至る。尚隆は六太に向き直り、少年の両肩に手をかけて自分のほうを向かせた。
困惑の色を湛えた瞳が見上げてくる。尚隆は微笑して、囁くように問うた。
「本当は怖かったんだろう、六太」
「……え?」
「だからあの時お前は泣いた」
「……」
「何故俺に隠した」
数呼吸の間、六太は迷うように瞳を揺らした。
「……お前に話す義務ないし」
言いながら六太は視線を逸らす。また嘘をつこうとしている、と尚隆は察した。
「おれは使令で身を守れるんだから、別に怖くもない」
尚隆は微かに苦笑した。
「そんな言葉を信じると思うか?あんな泣き方をしたくせに」
両手で六太の頬を挟んだ。紫色の瞳は頑なに逸らされている。
「お前は意地っ張りだな」
六太が頬を挟む手を払い除けようとしたが、尚隆は手を離さない。
「……手、離せよ」
その声を無視して、尚隆は続ける。
「自分より遥かに体格のいい男達に囲まれたら、怖くて当たり前だ。連中を倒す手段があっても、お前は相手を傷つけることすら怖い。麒麟だからな」
「……」
六太は沈黙している。反駁する言葉が見つからないのか。
六太が肩に羽織っている袍を、尚隆は左手で掴んで引く。少年の華奢な身体から袍がするりと離れて、そのまま地面に落ちた。
僅かに身を引こうとする六太の上腕を右手で掴み、左手を背に回した。なめらかな素肌に掌を滑らせながら、指先で背骨の感触をなぞる。獣の時とは違う、人の背骨の形、人肌の温もり。
六太が身を強張らせるのが両手に伝わってきた。
「奴らの狙いを分かっていると、お前は言ったな。だが身をもって知っているわけではあるまい」
六太は息を飲み、次いで何か言いたげに唇を動かしたが、微かな吐息が漏れただけだった。
「教えてやろうか」
尚隆は、六太の瞳に狼狽の色をはっきりと見て取った。

––––自分はいったい何をしようとしている。
やめておけ、と理性の声が制止する。取り返しのつかないことになる、身を滅ぼすだけだぞ、と。
本能は正反対の囁きを聞かせる。欲望のままに奪ってしまえばいい。雁国の行く末も王と麒麟の最期も、今は考えるな、と。

二つの声が頭の中で反響する。尚隆は左腕で六太の細い腰を引き寄せた。

65「人を模した神獣」27/E:2018/03/15(木) 22:50:38
六太は咄嗟に逃げようと身を引いたが、強い力で引き寄せられて、尚隆の腕の中に捕まってしまった。
尚隆の言葉の真意を深く考える間もなく、大きな手に顎を掴まれた。上を向かされ、目の前に尚隆の顔が迫る。硬直しているうちに、暖かい感触に口を塞がれた。唇の間から柔らかいものが侵入してきて、生き物のように六太の口腔内を這う。思わず頭を引こうとすると、後頭部を掴まれた。
何をされているかを理解するのに要した時間は一瞬だったが、その間に六太は完全に動きを封じられた。
教えてやろうか、という言葉を脳内で反芻して、そんなの知りたくないと叫びたくなる。きつく抱擁されて自由にならない身体を必死に捩り、尚隆の腕から逃れようとした。
息が苦しくて、強く抱き締める腕が痛くて、何故だか怖くて逃げ出したかった。この行為の意図が全く分からず、頭の中は混乱していた。

抵抗が功を奏したのかは分からない。だが不意に抱擁の力が緩んだ。六太は尚隆の腕を振りほどく。
六太は混乱の中で、尚隆の左頬に向かって右の平手を全力で振り抜いた。ばしっと鋭い音が響き、右の掌から肩まで衝撃が走る。
痺れた右手を左の掌で押さえながら、尚隆を睨みつけた。六太の軽い腕で打った平手など、たいした打撃でもないだろうに、尚隆は顔を背けたまま暫く動かなかった。
六太も身動きできず、声も出せない。自分自身の荒い呼吸と、常よりも速い心音と、雲海の波音が、耳の奥で混じり合う。

「……冗談が過ぎたな。悪かった、忘れろ」
幾ばくかの沈黙の後、静かな声で尚隆が呟いた。
六太は震える喉を叱咤して、掠れた声を絞り出す。
「……忘れろって、なんだよ。……命令してんのか」
いや、と言って尚隆は笑った。どこか自嘲するように。
背けていた顔をこちらに向け、尚隆は六太を正面から見つめる。笑みを消した彼は、低く囁いた。
「すまなかった。……忘れてくれ」
いつになく真摯で切実な声音が耳を打ち、六太は再び言葉を失って硬直した。

尚隆は足元に落ちていた袍を拾い上げると、ばさっと六太の頭の上から掛けた。六太の視界は遮られたが、それを除ける気にはならなかった。
「悧角」
使令を呼ぶ尚隆の声が聞こえる。
「正寝まで乗せろ」
御意、と悧角の応じる声。
それから王を乗せた悧角が地面を蹴る音がして、王気は瞬く間に遠ざかっていく。

急速に脚の力が抜けて、六太はその場にへたり込んだ。目の前を覆う袍からは、尚隆の匂いがした。
のろのろと手を動かして袍を肩まで引き下ろす。まばゆく滲んだ赤橙色の光がまともに射し込んで、六太は反射的に目を閉じた。頰の表面を雫が滑り落ちる感触がして、自分が泣いていることを悟った。
息を吸い込むと、甘い花の香りがした。

六太は左手の甲で強く唇を拭った。そんなことをしても、尚隆の唇と舌の感触は消えてくれない。背筋を滑った大きな掌の感触も。
六太は膝を抱えてそこに顔を埋めた。
すまなかった、なんて詫びる言葉が欲しかったわけじゃないのに。
忘れてくれなんて言うくらいなら、なんであんなことをした。
涙が膝を濡らしていく。何故泣いているのかは自分でも分からない。分からないほうがいいと思った。この涙が止まるまでに、全部忘れることができたらいいのに。
少年の姿をした麒麟は、その場にうずくまったまま、長い間動けなかった。

赤い夕日は雲海の彼方へ沈んでいく。鉤爪のように細い月が、それを追いかけるように落ちていく。
やがて陽光も月光もない濃藍の空に、散りばめられた貴石のように星が瞬き始めた。


第三話「人を模した神獣」終わり

66書き手:2018/03/15(木) 22:53:27
やっと第三話終わった……
元はといえば初夜が書きたかっただけなのに、なんでこんな面倒くさいことになっているのかww
ここまでの流れは割とはっきり決まってたのでそれなりのペースで書けたんですが、この先はまだきっちりとは決まってないので次の話まで間があくと思います

67名無しさん:2018/03/18(日) 00:03:15
更新お待ておりました!なんて冷静で不器用な尚隆…六太の鈍感さがいい効果を出してハラハラして読んでしまいました!いや〜尚六っていいですねえ…(*´ω`*)

68名無しさん:2018/03/21(水) 17:13:50
獣形で宮城中好き勝手に飛び回ったりとか
二階の窓から覗き込んだりとか
六太いちいち可愛いなw
官はビックリしただろうけど

69書き手:2018/05/22(火) 19:37:38
二ヶ月ちょいあきましたが、ようやく第四話書き始めたので投下します。
第四話は尚六的には膠着状態
第三話ラストの翌日から。最初は朱衡視点

70「二つの道」1:2018/05/22(火) 19:39:41
第四話「二つの道」

朝議というものは、冢宰以下六官の長をはじめ高官が一堂に会して国の大事を話し合う、王朝にとって重要度の高い会議であり、当然のことながら王と宰輔も毎回出席するものである。
しかしここ雁州国では、王と宰輔の両方もしくは片方が朝議をすっぽかすのは、現王朝始まって以来日常茶飯事であった。

朱衡はその日の朝議に向かう途中、王は昨夕また出奔したため今日も朝議には出ないようだ、と下官から連絡を受けた。
またですか、と呆れ声と溜息を同時に吐き出しながら、尚隆らしくない、という感想が朱衡の胸中に浮かんでいた。
これで王は三晩続けて出奔したことになる。
数日ずっと戻らないというのなら珍しくもなんともないが、こんなに短期間に出奔と帰還を繰り返したことは、これまでにあっただろうか。三日前に主従揃って出奔したのを数え合わせると四度目にもなるのだ。

尚隆は好き勝手に遊びに行っているようでいて実はそうではなく、自分がいなくても政務が回るような状況を作り出し、時機を見計らって出奔している節がある。だからこそ、外で悶着を起こさぬ限り、ある程度は大目に見ておくかという暗黙の了解––––この境地に達するまでには長い年月を要した––––が諸官の間にはあるのだ。
だが三日前からの王の行動には、どうもそういった計画性が見えない。喧嘩の直後など、衝動的に王宮を飛び出したようにさえ感じられる。

やはり三日前のあの喧嘩はいつもと違う。朱衡は直感したが、では何があったのかという疑問には全く答えが思い浮かばなかった。
そもそも喧嘩の原因は何なのか。状況を考えると、主従揃って出掛けた時に何かがあったと考えるのが妥当だろう。
朱衡は考え込みながら朝議の間へと向かった。


意外なことに、六太は朝議に出席していた。
交わされる議論に耳を傾けながら、朱衡は六太の様子を窺う。いつものように時折あくびを咬み殺すような表情をしつつ、空の玉座の傍らで官の言葉を聞き流しているようだった。

一昨日に話した時は獣型だったこともあり、六太の感情を推しはかるのが難しかったが、今日は人型なので表情も読みやすい。尚隆はいつ戻ってくるか分からないうえ、喧嘩のことを訊いてもあの王からまともに答えが返ってくるとは思えない。ならば六太に訊いてみよう、と朱衡は決意した。

朝議が終わると、六太はさっさと堂室から立ち去っていく。朱衡はすぐに追おうとしたが、今日の議題の担当案件について冢宰に話しかけられてしまった。さすがに無視するわけにもいかずそれに応じているうちに、六太の後ろ姿は大扉の向こうに消えていった。
その後、冢宰との話を出来るだけ手短かに済ませ、朱衡も足早に堂室から退出した。伴っていた下官には先に官府へ戻るよう指示してから、朱衡は六太の後を追うべく回廊をひとりで歩いて行った。

71「二つの道」2:2018/05/22(火) 19:41:57
外殿から内殿へ向かう回廊に差し掛かったところで、ようやく金色の後ろ姿を視界の先に捉え、朱衡は声を上げて呼び止める。
「台輔!」
六太は足を止めて振り返った。朱衡は裾の長い官服で出しうる限りの最高速度で歩み寄って行く。その姿が可笑しかったのか、六太は軽い笑い声をたてた。
「珍しいな、朱衡が走って追いかけて来るなんて」
笑顔を見せる六太になんとなく安堵を覚え、朱衡は微笑みを浮かべながら少しの間呼吸を整えた。
六太は首を傾げて朱衡を見上げる。
「で、何か用か?」
「ええ、用といいますか、少々お訊ねしたいことがございまして……」
朱衡はそこで言い淀む。明らかに差し出がましい問いであることを自覚しているからだ。一昨日は、喧嘩は二人の問題だから二人の間で解決するように、と尚隆に説教したというのに、舌の根も乾かぬうちに首を突っ込もうとしている。
三日前の喧嘩の原因はいったい何だったのか、王からの謝罪はあったのか。いま人型に戻っているということは、尚隆は出奔前に六太に会い、勅命を解いたということだが……。

「尚隆の行き先なら、知らないぜ」
朱衡が逡巡している間に、先手を打って六太が言った。王の行き先も気になるところではあったが、いま訊きたいのはそのことではなかった。
そうですか、とだけ朱衡が呟くと、
「ま、少なくとも関弓にはいねぇよ。どこか遠くに行ったみたいだ」
六太は肩を竦めてそれだけ言うと、話は終わったとばかりに踵を返そうとした。
「お待ちください、台輔。伺いたいのは主上の行方ではございません」
「……じゃ、なんだよ」
六太は笑みを消して、怪訝そうな顔をする。
遠慮するなど自分らしくない、と朱衡は内心で呟き、改めて正面から六太の顔を直視した。
「昨日、主上にお会いになりましたね」
「うん」
「主上からの謝罪はあったのですか」
「あった」
六太の返答は極めて簡潔で、束の間、朱衡は言葉の接ぎ穂を失う。観察するように六太の表情をじっと見つめた。
凝視された六太は、ほんの僅か顔をしかめた。
「訊きたいことは、それだけか?」
「いえ。––––それで、台輔は主上のことをお許しになったのですか」
「うん」
「そうでしたか……。結局、喧嘩の原因は何だったのですか?主上が難癖つけてきた、と台輔は一昨日仰いましたが」
「あいつが難癖つけてきた理由なら知らねえよ。尚隆に訊けって、一昨日も言ったろ?」
「あいにくあれから主上と顔を合わせておりませんので、お訊きする機会もなく」
「あっそ。まあなんにしても、おれに訊いても無駄だから。––––じゃあな」

72「二つの道」3:2018/05/22(火) 19:43:59
また踵を返しかける六太を、再び朱衡は引き止める。
「お待ちください。台輔ともあろう方が、難癖つけてきたことに対して何の文句も言わなかったわけではないでしょう」
「文句は言ったけどさ、そしたら尚隆はわけ分からんこと言っただけ。––––もういいだろ、喧嘩の話なんか」
六太はあからさまに面倒くさそうな様子でそう言った。埒があかないので、朱衡は少しだけ質問の角度を変えてみる。
「三日前に主上とお出掛けになった時、何があったのですか」
「……別に。何もない」
六太はそっぽを向いた。
「何かがあったから半日もせずにお戻りになったのでしょう。それが原因で主上が台輔に難癖つけたのではありませんか」
「知らない。それも全部尚隆に訊けってば。そもそも、なんでそんなこと気にしてんだよ。朱衡には関係ないことじゃん」
「いつもの喧嘩なら何も申し上げませんが、今回は少し事情が違うように感じましたので、差し出がましいことを承知でお訊きしているのです」
「……」
六太はそっぽを向いたまま沈黙している。
「王と麒麟の仲違いは国の一大事ですので」
朱衡が畳み掛けると、少しの間をおいてから六太はやや不機嫌そうな声を出した。
「……仲違いとか、そんなんじゃない。許してやったって言ったろ」
「喧嘩の原因も分からないのに、ですか」
朱衡が問うと、六太は憮然とした表情で、半歩引いて身体ごと横を向く。庭院のほうに目をやりつつ黙り込んでしまった。
朱衡も無言のまま返答を待つ。微かに潮の匂いを含んだ風が吹き渡り、金色の髪をなびかせるさまを、じっと見つめていた。
やがて、六太は低く呟いた。
「……すまなかった、って言われたんだ。だから、忘れてやることにした。……それだけだよ」
そう言った六太の横顔が不意に歪んだように見えて、朱衡は一瞬どきりとした。六太が泣き出すのではないかと思ったからだ。だが朱衡がその表情をはっきりと確認する前に、六太はくるりと背を向けた。
「台輔」
朱衡が呼びかけた途端、六太の後ろ姿が揺らいで溶け、次の瞬間、金色の獣の姿となった。呆気にとられているうちに、麒麟は軽く蹄を鳴らして飛び上がる。
「台輔⁉︎」
唖然と見上げる朱衡の頭上に、六太が着ていた衣服が落ちてきた。
「それ、仁重殿に届けといて」
それだけ言い残して今にも駆け出しそうな麒麟に、朱衡は慌てて声をかける。
「どこへ行くのです」
「心配すんな、園林で昼寝したいだけだから。昨日昼寝しすぎて夜あんまり眠れなかったから、いま眠いんだ」
いま寝たらまた今夜眠れなくなるでしょう、とどうでもいいことを思ったが、何も言えないうちに麒麟は駆け出してして、あっという間にその優美な姿は見えなくなった。

73「二つの道」4:2018/05/22(火) 19:46:02
宰輔の豪奢な礼服を両手で抱え、呆然と麒麟の消え去った方向を眺めていると、背後から誰かが歩み寄って来た。朱衡は足音を聞いただけでそれが誰だか分かった。その人物は朱衡の脇まで来ると、回廊の床に落ちていた六太の帯を拾い上げた。
「なんだ、あれは」
朱衡は隣を見やる。帷湍が手にした帯を差し出してきたので、それを受け取った。
「……目の前で転変するのを見たのは初めてですが、見事なものですね」
「俺も転変するのを見たのは初めてだが、見事とか、そんな感想を聞きたいんじゃない。どうして台輔は転変したんだ?」
「一刻も早く仁重殿に戻りたかったんじゃないですか。昼寝するために」
「なんだ、そのふざけた理由は」
「台輔がそう仰ったんですよ。いま眠いから、と」
「お前が散々小言やら嫌味やら言うから、嫌になって逃げ出したのかと思ったぞ」
「小言や嫌味を言ってたわけではありませんよ。……まあ、逃げ出した、というのはその通りかもしれませんが」
逃げ出した理由は涙を隠そうとしたためではないか、と朱衡は考えたのだが、推測にすぎないことだし、いくらなんでも六太の内面に踏み込み過ぎる内容なだけに、相手が帷湍であっても軽々しく言うことはできなかった。

怪訝そうにする帷湍に向き直り、朱衡は軽く首を傾げて問いかけた。
「ところで、あなたが昨日主上を連れ戻しに行った時のことですが」
ああ、と帷湍は瞬く。
「主上が仰ったそうですね。そんなにあの餓鬼の姿がいいのか、と」
「ああ……そう言ってたな、確かに。面倒くさそうに溜息ついてな」
「主上はどういうつもりでそんなことを仰ったのでしょう」
「––––どういうつもりで?」
帷湍は何度か瞬いてから首を捻った。
「さあ、なあ……。あいつの考えていることなど分からんし、さして意味があって言ったとも思えんが」
「そうですか……」
朱衡は顎に軽く指を当てながら考える。
確かにただの軽口とも取れる発言だ。特に何事もない時にそれを聞いたのなら、気にも留めなかっただろう。しかし今の朱衡にとってその言葉は、一昨日に王が発した不可解な問いを思い起こさせるのだ。
「––––麒麟が獣の姿だけでなく人の姿も持っているのは、何故だと思いますか?」
そのままの姿勢で、朱衡は帷湍に問いを投げてみた。
「それはもちろん、人の姿がないと政務ができんからだろう」
昨日と一昨日の騒ぎが頭の中にあるからだろう、帷湍の答えは単純明快だった。朱衡は思わず笑い、帷湍の顔を見返しながらしみじみと言う。
「あなたはいいですねえ……」
単純で、という言葉を続けるのはやめておいたが、それが聞こえたかのように帷湍は憮然と顔をしかめた。
「……お前、莫迦にしてないか?」
「滅相もない。本当に心から羨ましいと思っているのです」
嘘をつけ、と言いたげな視線を返されたが、朱衡は柔和に微笑んでそれを受け流し、回廊の先を見やった。
「さて、私はこれを仁重殿に届けに行かねばなりませんので」
「そんなもの、下官に言いつければよかろうに」
「いえ、仁重殿の官に用がありますので、ついでですよ」
それでは、と言って朱衡は踵を返した。

74「二つの道」5:2018/05/22(火) 19:48:07
朱衡は仁重殿に向かいながら、三日前からの一連の出来事を一つひとつ思い出していく。どれかひとつだけを見てみれば些細なことと思える事柄だが、それを並べて俯瞰してみると違和感を禁じ得ない。
特に先程の六太の泣き出しそうな横顔は、朱衡にとってかなり衝撃的だった。なにしろ六太の泣き顔を見たことはこれまで一度もないのだから。
すまなかった、と尚隆は言ったという。まともな謝罪の言葉を口にすることは殆どない王がそう言ったのは、朱衡にとっては意外だった。それだけ反省した証であり、尚隆が難癖つけてきた、という六太の言い分は決して一方的なものではないのだろう。しかし、尚隆からきちんとした謝罪があり、許してやったというのなら、普段喧嘩のあと和解した時のように、晴れ晴れとした顔をしていてもいいはずだ。泣く理由などないだろうに。
それとも、泣き出しそうに見えたこと自体が朱衡の勘違いだったのだろうか。


仁重殿に到着すると、朱衡はある女官を呼び出して、事情を話して六太の衣服を手渡した。受け取った女官は恐縮し、何度も頭を下げた。
朱衡は微笑みを浮かべ、意識的に温和な声を出す。
「あなたにお詫びいただくことではありません。台輔に言いつけられただけですから。––––それよりも、主上が昨日こちらにおいでになった時のことを伺いたいのですが」
六太の近習である彼女は、一昨日朱衡に助けを求めてきた女官であり、その恩義もあるため朱衡の質問に出来る限り答えてくれるだろう、という読みがあった。
「はい。私に答えられることなら何なりと」
生真面目に応じた女官に、まずは順を追って王が仁重殿を訪ねて来たところから話してもらい、朱衡は幾つか質問を挟みながら耳を傾けた。
どうやら園林で二人きりで会ったらしい、ということと、王はその後主殿には姿を見せず、直接正寝に戻ったらしい、ということが判明した。
六太が主殿に戻ってきたのは日没からかなり経ってからで、尚隆から借りた袍を羽織っていたという。つまり、二人で会っている時、尚隆から袍を借りて転化したということだ。
「主殿に戻ってきた時、台輔は何か仰ってましたか?」
「特に変わったことは……。主上の袍だから返しておいてくれ、とは仰いましたね。あとは……やはり心配でしたので、主上とは仲直りなさったのですか、とお訊きしたところ、うん、と頷いておられました」
「その時はどんな様子でしたか?例えば、嬉しそうだった、とか」
「ええと……そうですね、少しぼんやりなさっているように見受けられました。どうなさったのかと思っておりましたら、昼寝しすぎてまだぼーっとしてるんだ、と仰ったので皆で笑ってしまいましたが」
「それは、実に台輔らしいですね」
朱衡が笑うと、女官も頷きながら控えめな笑顔を見せた。
その後の六太は喧嘩の話も尚隆の話も全くしなかったらしい。少なくともこの女官は聞いていないという。もちろん彼女たちは朱衡ほど無遠慮に聞き出したりしないだろうから、六太が自主的に話さなければ、それ以上の細かいことは分かるはずもないのだ。
一通り話を聞いた朱衡は、女官に丁寧に礼を述べてから辞去した。


仁重殿の回廊を歩きながら、朱衡は頭の中で状況を整理する。
尚隆が昨日出奔したのは日没の前後だと聞いていたのだが、六太が主殿に戻ったのは日没後かなり経ってからだという。
この時間差の意味するところは何だろうか。
外が真っ暗になってから戻って来た六太は、星を見ていた、と言ったらしい。髪に草がついていたから園林で寝転んで夜空を眺めていたのだろう。時々あることなんです、と女官は笑って言っていた。
朱衡はふと足を止め、秋の陽光が柔らかく射す広い園林を眺めやった。
転変して逃げ出した六太は、自分で言った通りに今頃この園林のどこかで昼寝をしているのだろうか。
そうではないだろう、と朱衡の勘が告げる。
だが、さすがにこれ以上は立ち入れない。
第三者から見た状況は一通り把握した。あとは当人達しか知り得ぬことであり、六太からあれ以上のことを聞き出すのは無理だろうし、かといって尚隆から何かを聞き出せる可能性は皆無に等しい。
王が帰還して主従が揃っているところをそれとなく観察すれば、何か分かるだろうか。
いずれにせよ、これは自分の胸の内だけに留めておこう––––朱衡はそう考えながら、改めて踵を返して仁重殿を後にした。

75名無しさん:2018/05/22(火) 20:40:08
新章ありがとうございます!朱衡視点で謎がどこまでとけるか楽しみです^_^

76名無しさん:2018/05/22(火) 23:29:47
姐さん待ってました!!

77「二つの道」6:2018/06/09(土) 21:42:37
慶東国との国境近く、虚海を臨む高い崖の突端に六太は立っていた。瑠璃色の天頂から視線を下げていくと、空の色調は徐々に変化して、海との境界線は細く朱に染まっている。間もなく夜が明けるのだ。
崖の下を見下ろせば、そこは暗い濃紺の海。星のように瞬く光が見えた。じっと見つめていると、それらはゆっくりと動いているのが分かる。深い虚海の底に住む妖魚の群れだ。
波濤が崖に打ち寄せて砕け散る音を聞きながら、雲海の波音と全然違うな、と六太は思った。
雲海の波は穏やかで、荒れることがない。玄英宮全体を包み込むように、いつでも一定の間隔で静かな波音が聞こえている。

ふと気がつけば、六太の右手の指先は唇に触れていた。無意識のその動作は、強いて考えないようにしていることを、身体が勝手に思い出しているようだった。六太は手を離して唇を強く噛んだ。まだそこに残っている感触を、痛みで上書きするように。
あの時と同じように崖から海を見渡しているから、思い出してしまうのだろうか。六太は振り返って海に背を向けた。
十歩ほど離れた木の根元には、騶虞のとらが身を伏せて休んでいる。

昨夜遅くに六太は玄英宮から抜け出した。ごく僅かの近習にだけ、出掛けてくると言い残してきた。どこへ行くのか、という問いには答えず、
「二、三日で戻るから心配すんな」
と笑ってみせて、騶虞で一晩東へ向かって飛んできた。
王の気配は遥か西方にある。関弓から東に向かったのは、目的地があったからではなく、王気と逆方向に進んだだけのことだった。

一昨日、玄英宮の崖に六太を残して去った尚隆の気配は、程なくして王宮から出て行った。六太は岩棚の上で膝を抱えながら、西の方へ離れていく王気を感じていた。

尚隆が忘れてくれと言ったから、忘れる。––––忘れたふりをしてやる。
王気がずっと遠くへ去ってから、六太はそう決意して、ようやく立ち上がった。とうに日は沈み、あたりが真っ暗になってからのことだ。
あれはいつもの喧嘩だったし、和解もちゃんとしたんだ、と六太は思うことにした。周囲にもそう思わせたかったから、努めていつも通りに振る舞った。尚隆がまた出奔してしまったため、自分まで姿を消すのは拙劣な行動だと思い、王宮に留まることにしたのだ。

翌朝、また寝不足でぼんやりしていた六太は、侍官に促されるままに朝議に出た。
そして朝議が終わった後に朱衡が追いかけてきて、喧嘩のことを問われたのだ。
朱衡は何故あんなに突っ込んだ質問をしてきたのだろう。普段通りにしているつもりだったが、朱衡から見たら様子がおかしかったのかもしれない。
不覚にも涙が出そうになって、咄嗟に転変して逃げてしまった。朱衡は驚いただろうし、何かあったのでは、という疑念は確信に変わっただろう。それでも涙を見られるよりは余程ましだ。
泣くほど引きずっていたなんて、自分でも想定外だった。忘れたふりくらいは出来ると思っていたのに。
また何か訊かれるかもしれないと思い、朱衡を避けるようにして王宮から出てきた。万が一にも尚隆を迎えに行けなどと言われては堪らない。今はまだ、尚隆には会いたくないから。

78「二つの道」7:2018/06/09(土) 21:44:41
そもそもあの時、ひとり残った岩棚で、泣いてしまったのは何故だろう。少なくとも怖かったからではない、と思う。
尚隆に抱擁され唇を塞がれて、確かに怖いと思った。その時は何故だか分からなかったが、怖いと思った理由は、尚隆の言葉の真意も行為の意図も全く分からなかったからだと、今なら分かる。
しかし尚隆の意図はもう明白だ。
冗談が過ぎたな、と彼は言ったのだから。
ちょっとからかってやろうと、おそらく軽い気持ちでした行為に、六太は全力で抵抗して平手打ちまでくらわせたのだ。六太の過剰な反発に、さすがに尚隆も悪いことをしたと思ったのだろう。
また王宮から出奔したのは、六太が落ち着くまで離れておこうと思ったのか。それとも少しは気まずい思いを抱いたからだろうか。

教えてやろうか、と言った尚隆の低い声がまだ耳に残り、その表情が瞼に焼き付いて離れない。まっすぐ六太に向けられていた瞳が、今までに見たことのない光を湛えているような気がして狼狽した。尚隆があんな顔をしていたから、余計に意図が分からなかったのだ。
普段六太をからかうときのように、にやりと笑っていたなら、あんなふうに狼狽したりせずに「知りたくねーよ、莫迦」とか、反射的に言い返せただろう。そうしたら、尚隆のその後の行動も違っていたかもしれないのに。

六太は俯いて、溜息をひとつ落とした。目を閉じると、寄せて返す虚海の波音と潮の匂いに包まれる。ほのかに甘い花の香りが、どこからか風に乗って届いた。
その香りを嗅いだ瞬間、不意に尚隆の手の感触を鮮明に思い出し、あの時と同じように寒気に似た感覚に襲われた。六太は思わず両腕で自分を身体を抱え込む。
指先で背骨をなぞるように、背筋を滑っていった大きな掌。
獣型の時にも同じように背を撫でられた。それは単純に、心地良くて嬉しい感覚だった。尚隆に問われて答えたように、騎獣を撫でてやると喜ぶのは、同じように感じているからだろうと思う。
だが人の姿をしている時は全く違ったのだ。鳥肌が立つような感覚がして、思わず身を強張らせた。誰かに素肌を直接撫でられることなどないから、慣れない感覚に戸惑い、うろたえてしまった。

尚隆が言った通り、六太が身をもって知っていることなど何もなかった。
男達に絡まれた時には毎回逃げてきたし、色事に興味もなかったので、自分には無縁のことだとずっと思っていた。だから経験による裏付けのない、僅かな知識があっただけだ。
それなのに、本当は怖かったんだろう、と尚隆に訊かれた時、怖くないと意地を張った。でもそんな子供じみた意地は、尚隆には見透かされていた。きっと、二百年前に泣いてしまったあの日から。
何も知らないくせに、本当は怖かったくせに、強がって平気なふりをした。本当に自分は、意地っ張りで世間知らずな、ただの子供だ。尚隆が呆れてからかいたくなるのも当然かもしれない。

79「二つの道」8:2018/06/09(土) 21:46:50
尚隆が去った後、甘い花の香りのする岩棚で、膝を抱えて泣きながら思った。詫びる言葉が欲しかったわけじゃない、と。
ではいったい、どんな言葉が欲しかったというのだろうか。あの時の自分がそう思った理由が分からない。
二百年前もそうだった。尚隆に嘘をついた理由が、数日後にはよく分からなかったのだ。
自分の考えたことなのに、何故分からなくなるのだろう。
六太はきつく目を瞑ったまま、長い吐息をついた。
忘れると決めたのに、また思い出している。考えても仕方がないことを、また考えている。
無理に答えを求めることは、多分意味のないことだ。きっと正しくない解に辿り着いてしまう、そんな気がするから。

思考を振り払うように、六太は軽く頭を振った。目を開けて、自身を抱え込んでいた両腕をほどき、俯いていた顔をぐっと上げる。木の根元で寝そべる騶虞までの十歩の距離を、背筋を伸ばして歩いた。
見晴らしの良いそこからは、立ちこめる朝靄の中に一面に広がる農地が見渡せた。薄明の空の下、収穫を目前に控えた田畑は、まだぼんやりとくすんだ黄色に見える。
寝そべっていたとらが身を起こし、問うように六太の顔を見て、小さく喉を鳴らした。
「朝日が昇ったら出発だ」
その言葉に納得したように、とらは再び喉を鳴らす。その頭と首筋を、六太は撫でてやった。
騶虞と並んで眼前の景色をじっと見つめるうちに、やがて背後から今日最初の曙光が射した。それが田畑を黄金色に輝かせる光であることを、六太は知っている。

刻一刻と日は昇る。力強さを増した日差しが朝靄を薙ぎ払い、視界が透き通っていく。
海のように広がる黄金色と、その向こうに見える深い緑の山々は、豊かな雁国を象徴する景色だ。
それは六太が望んだもの。そして尚隆がくれたもの。
この風景を見るたびに、あの日の約束を思い出す。六太のための場所をくれると言った、尚隆の約束を。大喧嘩をした時でも、どんなに腹が立つことがあっても、それで全てを許せるような気がした。少なくとも、これまではそうだった。

今日はとらの背に乗って黄金色の大地の上を飛び、緑の山々を越え、尚隆がくれた豊かな国を見て回ろう。
そうすればきっと前を向ける。全部許せる。
だから、今日一日だけ時間が欲しい。
明日にはもう忘れるから。

六太は目を閉じて、大きく息を吸う。清涼な朝の空気を胸に満たしてから、ゆっくりと吐き出した。そして目を開けた六太は、手綱を手に取り、とらの鞍上に飛び乗った。
「行くぞ、とら。黄金の大地の上を飛ぼう」

80書き手:2018/06/09(土) 21:49:20
短いですが六太視点はここまで。
会話や動作が殆どなくて心情を描写するのは難しいですね…
次回は尚隆視点ですが、こっちも苦戦しそうです…(ー ー;)

81名無しさん:2018/06/12(火) 10:51:03
更新ありがとうございます!六太健気…守ってあげたいけど尚六がみたく、続きをお持ちしております…!

82名無しさん:2018/06/13(水) 22:15:19
六太にも少しずつ自覚の兆しが…
すでに自覚している尚隆には辛い展開ですが、この先どう出るか楽しみです!

83「二つの道」9:2018/06/19(火) 15:30:33
それは真冬のことだった。尚隆は六太と二人で旅をしていた。その晩泊まった安宿には、狭い寝台が二つあった。
酒を飲んでほろ酔いの六太は、ほんのり上気した顔をして、寝台の上で胡座をかいて枕を抱えている。向かいの寝台に腰掛けている尚隆と他愛ない話をしながら、明るい笑い声を立てていた。

––––夢を見ているのだ、と尚隆は自覚した。しかもこれは昔の記憶だ。実際にあったことを、夢の中で思い出しているのだ。
数十年前か、あるいは百年近く前かもしれない。夢の中の六太の表情がこんなに鮮明なのは、それだけはっきりと記憶に刻まれているということだろうか。

そろそろ寝るかという段になって、六太は自分の寝台を見て軽く溜息をつき、それから再び尚隆に顔を向け、小首を傾げて訊ねた。
「前から不思議だったんだけど。お前さ、そんなにでかい図体してんのに、なんで狭い寝台から落ちないんだ?」
六太は寝相が悪く、旅先の狭い寝台からよく落ちる。寝台の寝心地に関する不満を六太が言うことは一切ないが、自分が寝台から落ちてしまうこと、それなのに尚隆が落ちないことがどうやら気に食わないらしい。
文句をつけるような六太の問いに、尚隆は軽く笑って答えた。
「六太と違って俺は寝相が良いからな」
「おれだってそんなに悪くねえよ。たまにしか落ちないし」
「たまにか?これくらいの幅の寝台からはほぼ毎回落ちとるだろうが」
「毎回じゃない。八割がた朝まで寝台の上で寝てるって」
「自覚がないようだから教えてやろう。お前はいつも床に転げ落ちている。寝呆けながら寝台に戻っているのを、覚えてないだけだ」
「でたらめ言うな」
「でたらめではない。お前が床に落ちる音で俺は毎回目を覚ましているんだからな」
「お前の言うことなんか信用できねーな」
「信じる信じないはお前の勝手だが、真実は変わらんぞ。まず間違いなく、今夜も落ちるだろうな。賭けてもいい」
「無意味な賭けするんじゃねえ。おれは絶対落ちないからな」
「ほう、言い切ったな。では夜中に落ちたら起こしてやろう。でないとまた寝呆けて寝台に戻るだろうし、朝になったら全部忘れて、落ちてないと言い張るだろうからな」
にやりと笑って言うと、枕が飛んできた。尚隆はそれを顔に当たる寸前で受け止める。
六太が寝台から飛び降りて灯りをふっと吹き消したので、室内は暗闇に包まれた。
「返せ」
という六太の声と同時に、尚隆の手から枕が奪い取られた。自分で投げつけてきたくせに、と尚隆は可笑しくて仕方なかったが、笑うのはやめておいた。ごそごそと衾褥に潜り込む六太に向かって声をかける。
「落ちないよう使令に支えてもらうのは、なしだぞ」
「そんなズルしねえよ!莫迦にすんな」
六太の声が勢いよく返ってきて、尚隆は吹き出しそうになるのを抑え、喉の奥だけで笑った。

実際のところ、六太は毎回のように寝台から落ち、自力で戻る時とそのまま床で眠っている時がほぼ半々だった。尚隆は物音で必ず目を覚ます。そして六太が起き上がる気配のない場合には、尚隆が抱き上げて寝台に戻しているのだった。まったく手の掛かる餓鬼だ、とぼやきながら。
だが六太は自力で戻った時ですら、半分は覚えてないらしい。尚隆が戻してやることもあるのだと言ったら、六太はどんな顔をしただろうか。

尚隆も寝台に横たわり、掛布を被って目を閉じる。ふと、夢の中なのに眠るのか、とどうでもいいことを考えた。

84「二つの道」10:2018/06/19(火) 15:32:37
真夜中、どさっという物音で目を覚ました尚隆は、二つの寝台の間の床に視線を落とす。床の上には、丸くなっている小さな身体があった。小窓から仄かな月明かりだけが射す中、床に広がった金髪は、その僅かな光を弾いて淡く輝いていた。
やはり落ちたな、と尚隆は内心だけで笑って、それを少しの間見つめていた。
六太が起き上がる気配がないので、尚隆は起き出して寝台から降り、床に落ちた金色の塊の傍らに片膝をついた。
落ちたら起こすと言ったものの、熟睡している六太を見るとそんな気にはならなかった。無理に起こしたら不機嫌になるのも確実だ。だがこのまま元に戻しては、六太は自分が落ちたことに気がつかない。さてどうしたものかと尚隆は思案する。
束の間の思案の末、尚隆は六太の身体を抱き上げて、自分の寝台にそっと下ろした。尚隆もその脇に横たわる。狭い寝台に並んで寝るのは不可能で、六太を腕の中に抱き込むようにしてから掛布を被った。
寒い冬の夜、小さな身体の温もりが心地良い。すやすや眠る寝顔は、あどけないほど幼く見えた。目を瞑ると、六太の寝息だけが至近距離から耳に届く。尚隆の胸中は、名状しがたい暖かさに満たされた。
六太が目を覚ましたら驚くだろうと思うと、自然と頰が緩んだ。

冬の長い夜が明けた翌朝、腕の中の六太の身動きで尚隆は目を覚ました。暖かくて心地良いのか、六太はもぞもぞと動いて体勢を変えてから、また寝息を立て始めた。
尚隆は微笑して、その無防備な寝顔を暫く観察してから、六太の肩を揺すった。
「六太、起きろ。朝だぞ」
「んー……」
六太の瞼が少しだけ上がり、また閉じた。かと思ったら再びぱっと開いて、驚愕の眼差しで尚隆の顔を凝視した。
「やっと目が覚めたか」
唖然とした顔をして、全く状況を飲み込めてなさそうな六太に、尚隆はにやりと笑ってみせた。
「なん……で、お前……」
「言っておくが、侵入者はお前のほうだぞ」
「……へ?」
六太は何度か瞬いてから、がばっと起き上がり、隣の寝台を見た。そちらが自分の寝台であることを認識したのか、尚隆に視線を戻してから、
「……なんで、おれ、こっちにいんの」
と、呟くような声で訊いてきた。
「お前が夜中に寝台から落ちたから、こっちに拾い上げたんだが。起こしても起きんのでな」
「……」
六太は何かを言いかけたが、結局口をつぐんで視線を逸らした。尚隆は身を起こして寝台の上に胡座をかくと、金色の頭をぽんと叩いた。
「まあ、そういうわけで予想通りお前は落ちたから、賭けは俺の勝ちだな」
「……そんな賭け、おれは乗ってねえぞ」
「賭けには乗っとらんが、絶対落ちないと宣言しなかったか?」
わざと意地悪げな言い方をすると、六太は憮然とした表情でそっぽを向き、少しの間沈黙した。
「……落ちたら起こすって言ったくせに。ちゃんと起こさなかったら、落ちたかどうかおれには分かんないじゃん」
そっぽを向いたまま、六太はぶつぶつと文句を言う。尚隆は笑い出したくなるのをこらえた。
「嘘だと思うなら、沃飛に訊いてみるといい。六太が落ちたと証言するだろうよ」
「やだ。そんな証言させるために使令がいるわけじゃねえもん」
拗ねたような声に、尚隆はこらえきれず吹き出した。声を上げて笑う尚隆を、六太は睨みつけてきた。

85「二つの道」11:2018/06/19(火) 15:34:43
ひとしきり笑ってから、尚隆は右手を六太の肩に置いた。
「六太。……黙っておこうと思うていたが、お前が落ちたことを認めたくないのなら、本当のことを教えてやろう」
「––––本当のこと?」
六太は胡散くさいものを見るような目つきになった。尚隆はことさら真面目な表情を作り、真面目くさった声を出した。
「お前は寝台から落ちたわけではない。夜中に自分で起き出して、寂しいから一緒に寝てくれ、と俺に泣きついてき––––」
言い終わらぬうちに、尚隆は顔面に枕を叩きつけられた。距離が近すぎて腕で受け止められず、敢えてよけることもしなかった。
「嘘つけ!そんなこと言うもんか!」
六太は大声でそう言うと、寝台から飛び降りた。ぱっと自分の寝台に駆け寄り、そこの枕も掴んで投げつけてきた。尚隆は難なく腕で受け止める。
「お前が落ちたことを認めんからだ。まあ、どちらの話が真実か、信じたいほうを信じるがいい」
「お前の話なんか、ぜんっぜん、ひとっつも、信用できねえ」
怒ったようにそう言うと、六太は尚隆に背を向けて部屋の隅に置いてある荷物のところまでずかずかと歩いて行った。荷物の中から袍と布を取り出して、身支度を始める。尚隆は寝台の上で胡座をかいたまま頬杖をついて、その後ろ姿を眺めていた。
六太は衣服を整えると、最後に布を頭に巻き付け始める。慣れた手つきで髪をまとめ、それを布の中に隠した。
金色の髪が隠れてしまうのが勿体ない、と尚隆はいつも思う。隠さねばならない事情は重々承知しつつも。
身支度を終えた六太は、尚隆を振り返った。
「おれは先に下行って朝餉食ってるからな」
「ああ、分かった」
「尚隆もさっさと支度しろよ。早くしないとお前の分も食うぞ」
「それは困る」
尚隆が笑って答えると、六太もちらりと笑みを浮かべた。それから六太はくるりと踵を返し、扉を開けて部屋から出て行った。
廊下を駆けていく軽い足音を聞きながら、尚隆は微かに笑い、寝台に仰向けに転がった。
見上げた天井が急速にぼやけて、身体の感覚が失われていく。
––––ああ、夢が終わってしまうのか。
そう思いながら目を閉じた。

86「二つの道」12:2018/06/19(火) 15:37:04
何か鈍い音が聞こえて、尚隆は目を覚ました。
六太が寝台から落ちた時の音に似ている、と莫迦げたことを考える。まだ夢が続いているのか、それとも現実に目が覚めたのだろうか。
顔だけ向きを変えて床に視線を落とす。そこに金色の塊が見え、尚隆は思わず跳ね起きた。上半身を起こしてよく見れば、それは床に落ちた月の光。明るい満月の金色の光が、小さな玻璃窓から射していた。
尚隆は目を閉じて大きく息を吐き出した。次いで、声を立てずに笑った。まったく阿呆らしい。六太が落ちているはずなかろうに。
先程の鈍い音は、おそらく隣の部屋からの物音だろう。薄い壁の向こうからは、今はいびきが聞こえてくる。ひとつだけ寝台のある部屋の中にいるのは、尚隆ただひとりだった。

玄英宮を出奔して半月になる。あの夜、鉤爪のように細かった月が、今宵満ちていた。
尚隆は寝台から足を下ろして座り直し、宙に向かって右手を差し出した。小窓から射す月光をその掌に受ける。何の感触も暖かさもない、冴え冴えとした光。
尚隆は金色に光る掌をじっと見つめた。いつも撫でていた金髪の、しなやかな手触りを思い出しながら。
暫くの間そうしてから、不意に我に返って莫迦莫迦しくなり、尚隆は寝台に身を投げ出した。なんて無益で感傷的な行為だろう。

満月の位置はまだ高く、夜明けまで時間がある。尚隆もう一度寝ようと掛布を被り直して目を瞑った。
しかし、すぐに眠りが訪れないことは確実だった。完全に覚醒してしまった意識は、簡単には鎮まらず、瞼の裏には先程の夢の場面が浮かんでは消えていく。
他愛ない会話、些細な言い合い。六太の笑顔、拗ねたような声。
懐かしいあの夢は、どこまでが真実の記憶だろう。六太は実際にあんな表情をしていたのか、それとも尚隆の脳内で補完され再構築された記憶だったのか。
いずれにせよ、ああして六太と共に旅をすることはもう二度とない。すべきではないと思っている。なんの邪念も下心もなく六太と添い寝していた夢の中の自分とは、もう違うのだから。
二度とないと思うからこそ、今になってあんな夢を見たのだろう。
未練がましいことだ、と尚隆は自嘲した。

あの頃の自分は、どんな想いを抱いていたのだろうか。心の表層ではなく、もっと深いところで。もちろん六太に対してある種の好意は持っていたし、それは自覚していた。だがその感情の種類がいったい何なのか、深く考えたことはなかった。
––––いや、考えることを避けてきたのだ、おそらく無意識のうちに。自覚してしまえば、六太との関係は変わらざるを得ない。だから見ないようにしてきたのだ。
六太には子供のようでいて欲しいと思ったのも、誰かが六太を性欲の対象とする可能性を全く考えてこなかったのも、その理由を突き詰めれば、己の奥底に潜む欲望から目を背けたかっただけなのかもしれない。

これがただの気の迷いなら、どんなに楽だろうか。だがそうではないことを尚隆は理解していた。
長い年月をかけて、意識の奥の深いところで知らぬ間に育ってきた想いは、深く強く根を張っている。臓腑を侵す病のように、気づいた時には手の施しようがないほど蝕まれていて、死ぬまで治りはしないのだと。

87「二つの道」13:2018/06/19(火) 15:39:33
尚隆は長い溜息をついてから瞼を上げ、寝台上で身体の向きを変えて床を見下ろした。月光の塊は位置を変え、足元の方向へ遠ざかっていた。
いま関弓では、月は出ているだろうか。
雁は間もなく雨期に入る。そろそろ雲海の下に雨雲が広がり始め、月を覆い隠しているかもしれない。

あの日、逃げるように関弓山を後にした尚隆は、高岫山を越えて隣国へ入った。それからこの国を一巡りして、現在は国境近くの黒海沿いの街にいる。この街からすぐ東の高岫山を越えれば、そこは雁。騶虞で駆ければ半日で玄英宮に帰れる距離だ。
さすがにそろそろ戻らねばと思う。雨期が始まる前に訪ねたいところもあるのだ。
それなのにぎりぎりまで帰還する日を引き延ばしているのは、六太と顔を合わせることを未だに躊躇しているからだった。

あの日の自分の行動は、愚かとしか言いようがない。獣型の六太に会い、言うべきことを言ったら、すぐに別れるつもりだったのに。乗せてってやる、と六太に言われたのが嬉しかったからといって、隔絶された場所で二人きりになるなど、軽率に過ぎる。
早く仁重殿に行け、と朱衡に促されてから更に一晩時間を置いたのは、いったい何のためだったのか。平常心で六太に会うためではなかったか。
結局のところ、自分は完全には冷静さを取り戻せていなかったのだ。だから不意打ちのような突然の転化に狼狽し、六太に触れたいという衝動が抑えられなかった。
甘い花の香りのする岩棚で、六太の髪を撫で、肌に触れ、腕の中に抱き寄せた時、眩暈がするほどの興奮を覚えた。熱に浮かされたように、強引に唇を奪って舌を絡めた。もっと深いところまで触れたい、全て自分のものにしたい、という欲望が溢れて、理性を押し流そうとしていた。
しかし六太の全力の抵抗と、尚隆の中にかろうじて残っていた僅かな理性が、抱擁する腕を緩めさせた。
六太の平手打ちなど軽いもので、頰の痛みはどうということはなかった。そもそもよけるつもりがあれば簡単によけられただろう。
むしろ尚隆は安堵したのだ。六太が抵抗してくれたことに。自分の暴走を止めてくれたことに。
尚隆の目の前で、六太は袍を羽織りもせずに人型に戻って素肌を晒した。男達に襲われそうになったことがあるというのに無防備すぎる、と思ったが、あれは尚隆に対してある意味での信頼があったことの証左だ。つまり、尚隆は絶対に自分に手を出すことはない、と六太は信じていたのだ。というよりは、手を出すとか出さないとか、そういったことは一切念頭になかっただろう。
それを裏切るような真似をしたのだ。平手打ち程度では罪滅ぼしにもならない。

すまなかったと言った時、六太は傷ついたような表情で絶句した。見上げてくる紫色の瞳は、今にも泣き出しそうに揺らいでいた。尚隆はそれ以上見ていられずに目を逸らし、六太の頭に袍を掛けて隠した。
あの後、六太は泣いたのだろうか。
泣かないでいて欲しいと思う。尚隆の愚かな所業など、早く忘れて欲しいと。
その一方で、泣いていて欲しいと思う自分もいる。あの行為が六太の心をかき乱していればいい、いつまでも深く記憶に刻み込まれていればいいと、心のどこかで願っている。
尚隆は微かに、苦く笑った。
まったく始末が悪い。まさか己の感情がこんなに度し難いものだったとは。

じっと見つめていた金色の光が、床の上からふっと消えた。雲が月を隠してしまったのだ。
不意に訪れた深い闇の中で、尚隆は再び目を閉じる。明日こそは高岫を越えようと、心を決めた。

88書き手:2018/06/19(火) 15:41:33
今回はここまでですが、もう少し尚隆視点が続きます。

言い訳
ラブラブ尚六はもちろん大好物なんですが、デキてないのに距離が近くて仲の良い二人というのも非常に好みなんですよね…
なので過去エピソードとしてそういう話を書きたかった。自己満足。そのために六太の寝相が悪いことにしてしまいましたσ^_^; すいません…

89名無しさん:2018/06/21(木) 23:08:50
わー更新ありがとうございます!!そうですよね、尚隆と六太の距離感もなかなか独特で悶えるものがありますよね!子供と大人、男と少年、主従、文字だけ見れば色気のない単語なのに何故かそこにエロさを見出してしまうのは尚六者だからでしょうか…(*´ω`*)

90書き手:2018/06/22(金) 22:29:11
エロ見出してしまいますよね分かります。
ほんと二人の距離感て他に無いし。
王と麒麟の関係性&五百年も一緒にいる、というだけでめちゃくちゃ萌えるので、もうデキてなくてもいい一緒に生きてるだけでいいよ…と思う賢者タイムの自分と、
でもやっぱりくっつけたい絶対デキてるこいつらと思う完全腐モードの自分と、
行ったり来たりしてますw
今はくっつけるために頑張ってるので、絶賛腐モードですがw

91「二つの道」14:2018/07/17(火) 19:39:44
翌日の午後、尚隆は国境の街にいた。
高岫山の峰に位置する、二つの国に跨る大きな街。その中央にある高い隔壁の向こう側が雁国だ。隔壁には大きな門があり、そこを通過するには旌券の検分を受けねばならない。旌券のない者は脇の建物に通され、官の尋問を受けることになっている。
そちらへ流れていく人々の列を、尚隆は見やった。彼らの大半は疲れ切った表情を浮かべ、足取りは重い。故郷を捨てて逃げてきた荒民だろう。

ここ半月で一巡りした隣国で尚隆が見たものは、妖魔に襲われ無人になった廬、収穫期にもかかわらず荒れ果てた田畑、洪水で決壊したまま放置されている堤。困窮した民は盗みを働き、捕まれば見せしめのような厳罰を受けていた。
––––この国は傾いているのだ、もう誰の目にも明らかなほどに。
最初にその兆候が見えたのは数年前になる。首都を訪れた時、どことなく不安げで、憂鬱そうに不満を漏らす民の様子に、尚隆は傾きつつある国特有の僅かな軋みを感じた。そして一年程前に来た時には、もう止まらないだろうと悟った。そして台輔失道の報が入ったのは半年前。もはや手の施しようがない段階まで来ている。
隣国の王と言えど、他国の内政に関して尚隆は殆ど無力だった。何か手助けできないかと親書を送ってみても、それを黙殺されれば延王としてできることは皆無だ。せいぜい隣国の様子を見に行って国境の警備を増やし、妖魔と荒民に対応する程度のことしかできず、雁まで自力で逃げて来ることのできない民を救う術はなかった。
王朝の死を見届けるのはいったい何度目だろう、と無意味な疑問が頭をよぎる。それを数えるのは、とうの昔にやめていたのに。
死にゆく国、故郷を捨て逃げてくる荒民。
それを目の当たりにするたびに、自分の肩に載っているものの重みを否応なく再認させられる。自ら望んで背負ったその重みは、己の存在意義であるはずなのに、時にひどく煩わしくもあった。

たまの手綱を引き、門を通る。旌券を検めた門卒は、裏書きを見て驚いたような表情を浮かべ、丁寧な礼をして尚隆を通した。
重苦しかった街の空気は、門を通過して雁に入ると一変する。整った石畳の広途も両側に並ぶ高い建物も、行き交う民の表情も、全てが明るく見えた。

尚隆は立ち止まり、門の脇の建物へ目を向けた。そこから出てきた人々の多くは、すぐ隣に建つ役所へ誘導されている。そこで荒民であることを申告すれば、当面の生活支援を受けられるようになっているのだ。
安全な場所へ辿り着いたことで、安堵するような表情も見られる。しかし将来への不安は拭い切れないだろう。家も土地もない彼らが雁で生きていくのは容易ではないのだから。
これから間違いなく荒民の数は増える。もう少し対応する人員を増やす必要がありそうだった。
荒民の列から視線を逸らして、尚隆は歩き出した。
雁の内政に大きな問題はなくとも、隣国が荒れれば悪影響は避けられない。時折それが、この上なく理不尽で不毛だと感じることがある。本音を言えば自国民のことだけを考えたいのだ。
だが六太はいつも、荒民を救えと言う。出来る限りのことをしてやりたいと。麒麟が慈悲を与える相手は雁の民だけに限らないのだ。全ての命が救われることを願う生き物だから。

92「二つの道」15:2018/07/17(火) 19:42:14
尚隆の数歩先には、年老いた男がふらつきながら歩いていた。日も高いうちから酒を飲んで酔っ払っているようだ。危なっかしい足取りだと思っていると、その老人は壁にぶつかり、そのままずるずると崩れ落ちた。尚隆はそばに寄って片膝をつき、老人の肩に手をかける。
「おい、爺さん、大丈夫か」
老人の濁った瞳が尚隆に向けられた。酒臭い息を吐き出しながら彼は言う。
「……大丈夫なものか」
老人は酔っているようだが、その声は意外にも明瞭だった。
「随分飲んだようだな。立てるか?」
苦笑して問いかけたが、老人はそれには答えず、尚隆の顔と傍らの騶虞を交互に見やった。
「……あんたは雁の民か。立派な騎獣を持っているし、さぞかし良い暮らしをしているんだろうな。延王の治世は長いし、まだまだ安泰だろう。……羨ましい限りだ」
殆ど独り言のように言いながら、老人は視線を落とした。
治世が長いことと今後が安泰であることは何の関係もあるまい––––尚隆はそう思ったが、もちろん口には出さない。
「……何があったか知らんが、こんなところで倒れていても碌な目に遭わんぞ。とにかく帰ったほうがいい。肩を貸そう」
老人の言った内容には触れずに、尚隆は彼を助け起こそうと腕を伸ばしたが、老いて痩せた手に弱々しく払い除けられた。
「儂は柳から来たんだ。帰るところなどありゃせんよ」
「だが、どこか滞在先があるだろう」
尚隆が推測していた通り、老人は隣国から逃げてきた荒民のようだ。だがここに家はなくとも、役所に申告すれば荒民ための避難所に暫く滞在できるようになっているはずだ。
しかし、老人は首を振った。
「あそこに戻っても仕方ない。……儂を待ってくれてた子は、もうおらんのだ」
老人は低く呟いた。大切なものを失った者の悲哀と寂寥が、その声音に滲んでいる気がした。尚隆が無言で見つめていると、老人は僅かに顔を上げて苦い笑みを佩いた。
「放っておいてくれていい。儂に関わっても何の得にもならんぞ」
自虐めいた言葉に対し、尚隆は敢えて軽薄そうに笑ってみせた。
「俺は人が良すぎるのでな、倒れている奴を放っておいたら寝覚めが悪くて仕方ない。だから爺さんをこのまま放っておくのは、俺のためにならんのだ」
「そうか……」
老人は失笑気味にそう言って、また俯いた。
そのまま黙り込んでいた老人は、暫くしてから不意に口を開いた。
「……なあ、あんたは分かるかい?––––王は不老不死なのに、なぜ王朝は滅ぶのか」
「さあ……考えたこともないな」
無論それは嘘だった。尚隆以上にそれを考えている者は、この世にそう多くはない。

93「二つの道」16:2018/07/17(火) 19:44:25
老人は、そうだろうな、と呟いた。
「雁の民なら空位の時代を知らんだろうが、そりゃあ酷いもんだ。儂はそういう時代に生まれた」
それから老人は訥々と語り始め、尚隆は黙って耳を傾けた。
玉座に王がいなければ、大雨、大雪、蝗害、疫病、渇水、そして妖魔。あらゆる災厄が人々を襲う。それが当たり前の時代に老人は生まれた。民は王の登極を待ち望んだ。そして現王が践祚すると途端に天候が安定し、妖魔は全く出なくなったという。少しずつ豊かになっていく国で、彼は成長し、そして平穏に年老いていった。
だが昨年の夏、状況は一変した。見たこともない程の大雨が降り、川の堤が切れて周辺の廬も農地も全てが濁流に飲み込まれた。元々さほど雨の多くない土地だったから、洪水への備えは殆どなかったのだろう。
生き延びた人々に、更に追い討ちをかけるようなことが起こった。今から数ヶ月前、台輔失道の噂が広まった頃に、里に身を寄せた民を妖魔が襲ったのだ。大人も子供も、何人もの犠牲が出た。
「……だがな、それ以上に堪えたのは、妖魔に襲われた直後の里を強盗に襲われたことだ。妖魔は金目のものを盗んだりせんからな、人がいなくなって盗むのに好都合だと思ったんだろう。実際は盗む価値のあるものなど、殆どなかったがな。……最後に奴らは里に火を放っていった。儂は里家の子供と一緒に逃げて、命だけは助かった。その時……逃げる途中に見てしまったんだ、強盗の顔をな。一人はよく知っている男だった。奴も儂に気づいてな、慌てて顔を隠しおった……」
老人は重く溜息を落として、痛ましい笑みを浮かべた。
「天災も怖い、妖魔も怖い。だがそれ以上に恐ろしいのは、人の心が惑うことだ……。これから国が荒れて、益々酷くなるだろう」
正鵠を得ていると尚隆は思ったが、肯定も否定も言葉には出さなかった。

一緒に逃げた里家の子は、妖魔に襲われた際に腕に重傷を負ったという。その子供と二人で近くの里に身を寄せたが、そこも困窮していることに変わりはなく、老人と大怪我をした子供は厄介者でしかなかった。しかも子供の怪我は、治るどころか悪くなる一方だった。老人は、瘍医に診せようと少し離れた大きな街まで子供を連れて行ったのだが、なかなか瘍医が見つからない。
「探し回っているうちに、瘍医を紹介してやると言って、とんでもない大金を要求してくる奴らが現われた。無論そんな金はなかったし、そういう連中が紹介するのは藪医者か偽者に決まってる。……どうせ里に戻っても厄介者なら、いっそのこと雁へ行こうと決意したんだ。雁のほうが、ずっと腕の良い瘍医がいるだろうと思ってな」
日に日に体調が悪くなっていく子供を連れて、老人は雁を目指した。そしてひと月ほど前にようやくこの街に辿り着いた。役所に申告すると、病人や怪我人を収容する施設に入所することになった。
そこの瘍医は親身になって診察してくれたというが、突きつけられたのは残酷な現実だった。––––もはや手遅れだったのだ。怪我をした子供の腕は壊死し、その毒素が全身に回っていた。もっとずっと早い段階で腕を切り落としていれば、あるいは助かったかもしれない。

94「二つの道」17:2018/07/17(火) 19:46:31
「十になったばかりの聡くて優しい男の子だった。……儂はあの子を助けてやりたかった。助けたくて雁まで来たのに……間に合わなかった。あの子は長く苦しんで––––二日前に死んだ」
感情を押し殺した低い声音で呟いて、老人はうなだれた。
それはよくあることではあった。命からがら逃げて来て、精根尽き果ててこの街で死んでしまう荒民は少なくない。
老人と死んだ子供に対して憐憫を抱かずにおれないが、陳腐な慰めの言葉など、この老人には響くまい。おそらく彼は苦しみを吐き出したいだけなのだから。
「それは……つらかったろう」
誰が、とは言わなかった。もちろん二人ともだ。
「……そうだ、あの子にはつらい思いをさせてしまった。柳にだって、まともな瘍医の何人かはいただろう。諦めずに探せば、見つけられたかもしれん。そうしたら間に合ってたかもしれんのにな……。結局、雁の瘍医に診せるなんてのはただの言い訳で、儂は逃げたかっただけなんだ。これから国を覆う荒廃が恐ろしくて、早く逃げ出したかった。……あの子は、儂のせいで死んだも同然だ」
「––––爺さんのせいではないだろう」
自責の念に駆られた老人に対し、その言葉は殆ど反射的に尚隆の口をついて出た。
しかし老人はうなだれたまま首を振った。
「儂のせいではなかったとしてもだ。雁に着けば絶対に治してもらえるから頑張れ、と言って、無理をさせてここまで来たんだ。だが余計にあの子を苦しませただけだ……」
老人は握りしめた両手の拳で顔を覆った。
「もう柳は終わりだ。もうすぐ空位の時代が来る。儂は老い先短いから、どうせ次の王が立つまで生きられん。だがあの子はまだ十だったんだ。大人になる頃には、故郷に帰れるようになったかもしれんのに……儂より先に、死んでしもうた……」
最後には嗚咽が混じり、ついに老人は泣き崩れた。尚隆は無言のまま、老人の痩せた背をそっと撫でてやった。かける言葉は何も持ち合わせていなかった。
暫くの間、老人は肩を震わせて泣いていたが、やがて落ち着きを取り戻したようで、しゃがれた声が尚隆の耳に届いた。
「……すまなかった。年寄りのたわごとを長々と聞かせてしまったな……」
いや、と尚隆は軽く首を振る。
「迷惑ついでに、肩を貸してくれんか。……儂を待つ子はいなくとも、今はあそこに帰るしかない」
尚隆はそれに頷き、半ば担ぐような状態で老人に肩を貸して立ち上がった。歩き出すと、老人は操り人形のようなぎこちない動きながらも、なんとか足を進め始めた。

95「二つの道」18:2018/07/17(火) 19:48:37
「儂が生まれたのは空位の時代で、このままだと、死ぬのも空位の時代だろう。……人の短い一生よりも不老不死の王の在位のほうが短いなんて、おかしいと思わんか」
俯いて歩きながら、老人は冗談のような口調でそう言い出した。
「おかしいな、確かに」
尚隆も軽く応じる。
「そうだろう?」
老人は笑ったが、尚隆は頷くだけにとどめた。
笑いを収めて少し沈黙した後、老人は声を落として問うてきた。
「––––あんたは、劉王は禅譲なさると思うかね?」
「……さてな」
尚隆はそう答えたが、禅譲しないだろうと確信していた。その気があればとうにしているはずだ。失道から既に半年、無為に玉座に居座り続けている王が、今更禅譲するとは思えなかった。
だがこの老人は、王朝の終焉が避けられぬのなら、せめて禅譲して麒麟を残して欲しいと願っているだろう。それが彼にとっての最後の希望であろうことを、尚隆は理解していた。
麒麟が残されれば空位は長く続かない。ひょっとしたら生きているうちに故郷に帰れるかもしれない。だがこのまま麒麟が死ねば、次王が立つまでどれだけの年月を待てば良いのか。十年か、二十年か。老いた彼には遥か遠い未来に思えるだろう。
老人は、微かに笑ったようだった。
「……なあ、あんた。儂と賭けをせんか?」
「賭け?」
「王が禅譲するか、しないか。あんたはどっちに賭ける?」
咄嗟に言葉を返せず尚隆が黙っていると、老人は苦笑した。
「こんな賭け、柳の民とはできん。……儂はな、禅譲しないほうに賭けるぞ。台輔はもうすぐ亡くなる。王は自ら玉座を下りる気はないんだろう。天に引きずり下ろされるまで、しがみついてるつもりなんだ」
その通りだろうと尚隆も思う。だが老人の言葉には、諦観とは程遠い何かが含まれているように感じられた。
尚隆は僅かに逡巡した後に、
「……俺は賭け事は好きだが、しょっちゅう大負けするんだ。だから、こういうことに賭ける時は、自分の望みとは逆に賭けることにしている」
老人は少しだけ顔を上げて、怪訝そうな視線を向けてきた。
「爺さんは禅譲するほうに賭けたほうがいい。それが望みなんだろう?俺もそう望んでいるんだ。––––だから、俺が禅譲しないほうに賭ける」
「……それで、あんたが大負けするってわけか?」
「そうだ。––––この騎獣を賭けてもいいぞ」
笑って、傍らに従う騶虞をちらりと見やると、たまは抗議するように小さく唸った。
老人がくつくつと笑い声をたてた。
「そりゃあ、いい。故郷へ帰るにも便利だろう。……だが儂には賭ける騎獣も金もないから駄目だ。賭けるものの釣り合いが取れんと不公平だろう」
「俺は構わんよ。もし爺さんが負けたら、うまい酒の一杯でも奢ってくれればいい」
「欲がないな、あんたは。……だがやはり駄目だ。そもそも騎獣の乗り方も知らんし、世話をするのも難儀だろう」
だから、と言って老人は顔を上げて尚隆と視線を合わせて笑った。
「もし儂が勝って台輔が残されて……そしてすぐに新王が践祚したら、その立派な騎獣で儂を故郷まで送ってくれないか」
「……ああ、分かった」
「じゃあ、賭けは成立だ」
老人はどこか吹っ切れたように笑って、街路の前方に顔を向けた。
「ああ……見えてきた、あの建物だ」
老人は痩せた腕を上げ、少し先の白い壁の建物を指差した。

96「二つの道」19:2018/07/17(火) 19:50:52
一年程前、隣国の王朝の死を確信した尚隆は、荒民の受け入れ態勢を整えるよう各官府に指示を出した。老人が指した建物は、その一環として新設されたもので、瘍医が常駐し怪我人や病人を受け入れる施設であった。尚隆が実際に見たのは初めてだったが、この真新しい建物の眩しいほどの白さは、何やら能天気で、荒民が入所するにはそぐわないような気がした。
門までゆっくりと歩いて近付き、門前にいる守衛に老人を任せると、老人に別れを告げて尚隆は踵を返した。
「世話になったな。……本当に、ありがとう」
背後から老人の声が聞こえ、尚隆は肩越しに振り返る。
「礼を言われる程のことをした覚えはないな」
笑ってそう言って、老人に片手を軽く上げてみせてから、尚隆はまた前を向き騶虞の手綱を引いて歩き出した。

病人でも怪我人でもない老人は、間もなくこの施設から出なければならない。何かしら仕事を斡旋してもらうのか、それとも里家に入るのか。いずれにせよ、賭けの結果が出る頃にはどこか別の場所に移っているはずだ。それを承知しているだろうに、老人は名乗りもしなかった。尚隆の名も訊いてこなかった。つまりあの賭けは、この場限りの戯れ言のつもりだろう。
だが尚隆がその気になれば、荒民の行き先を調べるのはそう難しいことではない。万が一老人が賭けに勝ったら、約束通り騶虞で送ってやろうと思っていた。尚隆はそうなることを願っているのだ。

王朝の終焉が避けられぬなら、せめて禅譲して欲しいと願っているのは、あの老人だけではない。柳の民はもちろんのこと、尚隆自身もそれを願っている。もう天意を失ったのだから早く麒麟を手放してやれ、と。
そうすれば残された麒麟は、程なくして次の王を選ぶ。民にとっても麒麟にとっても、それが最も幸福な形だろう。

この世界で一番穏やかな王朝の死は、禅譲だ。国土を荒らし尽くす前に、民を殺し尽くす前に、麒麟を手放してやり、王はさっさと死ねば良いのだ。
己の死に際は具体的に想像できるものではない。だが漠然と、六太には美しいままの雁を残してやろう、と思っていたような気がする。いつか全てを天に返すのだと。元々全てを失ってここに来たのだから、ためらう理由などないはずだ。玉座の重みに耐えかねたら、もしくは背負うことに飽いたら、緑の山野が欲しいと言った子供に約束通り一国を返そう––––そう思っていたはずだ、かつては。

麒麟が失道に罹れば、王の命運は尽きたと言っていい。手をこまねいていれば麒麟は死に、そして王も死ぬ。それは定められたこの世の摂理だ。禅譲せずとも己の死が不可避なのに、禅譲を選ぶ王は少ない。往生際悪く最期まで玉座にしがみつくのは何故なのか、昔の尚隆には不可解だった。
だが今は分かるような気がする。
王が最期までしがみついているのは、おそらく玉座ではなく己の麒麟なのだ。その身勝手な執着心が数多の民を災禍へ投げ込むと承知していながら、それでも手放すことができないのだろう。

––––翌日、尚隆が玄英宮に帰還した夜、鳳が隣国の台輔の死を鳴いた。

97書き手:2018/07/17(火) 19:53:44
萌えどころのない暗い話ですみません…
やっと玄英宮に戻ってきました。
次回は朱衡視点の予定です。

98名無しさん:2018/07/19(木) 06:22:21
更新お疲れさまです!
絡みはなくとも、ああ尚隆かっこいいなぁと改めて思える台詞の応酬に
萌えさせていただきました。
寝床から落っこちる六太もかわいい!
続き楽しみにしております。

99名無しさん:2018/07/20(金) 21:20:37
今回のお話とても素敵でした!本当に十二国記の世界観で不自由なく読めて尚隆の人柄と王の器を改めて感じ、惚れ直した感じがしますw 王は麒麟を手放したくないから、の説納得です。
次回の更新楽しみにしています!

100書き手:2018/07/21(土) 07:17:25
>>98 >>99
ありがとうございます。
尚隆かっこいいとか、惚れ直したとか言っていただけるとは思わなかったので、望外の喜びです(T ^ T)
王朝の終焉に関する尚隆の思いを書きつつ、荒民との会話の中で尚隆らしさを見せたいな、と思っていました。うまく表現できたか自分ではよく分からなかったので、本当に嬉しい……
続きも頑張ります!


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