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☆近畿百科☆ニュース その8

1213よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/01(水) 16:28:35 ID:CPRLApf.0
>>1212

◆「阪神」も乗り越え◆

 1995年の阪神大震災。有馬温泉は大きな揺れに見舞われ、湯山御殿の湯殿跡と伝わる極楽寺の庫裏も被害を受けた。

 庫裏の建て替えに伴って市教委が初めて発掘したところ、97年に蒸し風呂や岩風呂、泉源の跡が出土。木樋(もくひ)跡にも金泉の赤いさびが数センチの厚さで付着し、伝承通りの遺構とわかった。

 慶長以来4世紀ぶりの大地震で御殿がよみがえる偶然に、有馬の人々は勇気づけられた。震災後、温泉街では有馬川に架けられた新橋を「ねね橋」と命名、隣の「太古(たいこ)橋」も2001年の架け替えを機に「太閤橋」と改名した。老舗の「陶泉 御所坊」は湯殿付き茶室「偲豊庵(しほうあん)」を設けた。いずれも、復興のシンボルにしたいという狙いだ。

 有馬温泉観光協会長の當谷正幸さん(63)は「太閤さんが有馬の復興を、また助けてくれたんですよ」と真顔で語る。

 日帰り温泉「太閤の湯」の蒸し風呂と岩風呂も、実は、出土遺構と同じサイズで再現されている。来年は、秀吉の茶室を思わせる「黄金の蒸し風呂」を増設するそうだ。

 社長の入谷さんは思いを打ち明ける。「太閤さんが生きてはったら次はどんな風呂に入りたかったか。夢を描いてみたいんです」。秀吉と有馬の絆はこれからも、絶えることはない。(岸辺護)

 秀吉の有馬行は、大坂城築城の歴史とも重なる。本人の手紙などによると、最初に訪れたのは1583年。前年に本能寺の変で亡くなった主君・織田信長の後継者としての地歩を固めた頃だ。湯船で戦の疲れを癒やしたのか、新たな政権構想を練ったのか。ひと息ついてから大坂に戻り、大坂城の築城を命じたといわれる。

 翌年には、織田信雄・徳川家康勢との小牧・長久手の戦いのさなか、有馬で湯につかってから大坂に帰り、大坂城への移徙(わたまし)(引っ越し)の儀を行ったと伝えられている。

 大坂城から有馬まで、どのルートで通ったのだろうか。史料は乏しいが、兵庫県西宮市の生瀬、船坂を通過する有馬街道が有力とみられている。

(2013年10月16日 読売新聞)


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