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☆近畿百科☆ニュース その8

1212よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/01/01(水) 16:27:26 ID:CPRLApf.0
有馬の湯「恩人」 秀吉の震災復興
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1365410718012_02/news/20131210-OYT8T00937.htm

 裏六甲の山峡にある有馬温泉(神戸市北区)は、古来の名湯だ。「関西の奥座敷」といわれる老舗旅館街では、多くの客がそぞろ歩きを楽しむ。

 その一角にある大型日帰り温泉「太閤の湯」は、2005年に改装オープンした。入館料2400円はスーパー銭湯より割高だが、「太閤」「ねね」「ひょうたん」などと名付けた24種の風呂があり、名湯を天下人の気分で味わえるしつらえだ。年間40万人が訪れる。

 改装前の名は「有馬ヘルスセンター」だった。島倉千代子ら演歌歌手のショーが人気を博したのは昔のこと。閑古鳥が鳴き、運営する有馬ビューホテルは13年連続の赤字に陥っていた。


「温泉好きの太閤さんに褒めてもらえるような施設に」と話す入谷泰正さん(神戸市北区有馬町の「太閤の湯」で)

 再建のため親会社の阪急電鉄から出向いてきたのは同ホテル社長・入谷泰正さん(56)。「温泉テーマパーク」をうたった「太閤の湯」を足がかりに大改革でV字回復を果たした。「グループ内でお荷物だった赤字ホテルが、トップクラスの黒字を達成した。立身出世の太閤さんにあやかったおかげです」

◆慶長地震で壊滅◆

 有馬と豊臣秀吉との縁は深い。ここに寺を開いた奈良時代の僧・行基、温泉を再興した平安末期の僧・仁西とともに「有馬の三恩人」と呼ばれる。

 文献によれば、少なくとも秀吉は9回訪れている。大坂から近い上、含鉄強塩泉(金泉)に強く魅せられたのだろう。

 家臣もそうだ。軍師・黒田官兵衛が有岡城(兵庫県伊丹市)で1年幽閉された後、傷を癒やした様子は司馬遼太郎の「播磨灘物語」にも描かれる。

 秀吉は、時には正室・北政所(きたのまんどころ)や側室と訪れ、諸大名や千利休らを従えて茶会を催し、湯女(ゆな)に扶持(ふち)米を与えた。

 有馬が湯治場から、にぎやかな娯楽、遊興の場へと変化するのは、秀吉がきっかけと見ることもできる。

 その集大成といえるのは1594年に建てた大別荘「湯山御殿」。旅館など65軒を立ち退かせたと伝わる事業規模からも、巨大なリゾート施設だったことがうかがえる。

 2年後に起きた慶長伏見大地震で、有馬は壊滅的な被害を受け、湯山御殿も崩壊した。温泉は熱湯になったらしい。

 「恩人」たるゆえんは、秀吉が自ら号令をかけ、温泉街の大改修を施した功績にある。

 「見事な都市計画だった」。有馬の歴史に詳しい元神戸市北区役所・有馬連絡所長、妻木敏彦さん(68)は語る。

 「六甲川を付け替え、元の川を埋めて道を通したと言われています。そこをメーン街道に旅館や商店が軒を連ね、栄えたのでしょう」。この復興事業が、のちに「有馬千軒」と称される繁栄の礎になった。

 湯山御殿も再建されたが、秀吉は新しい湯を楽しむことなく世を去る。御殿は徳川の世に取り壊され、地中に埋もれた。


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