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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

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1011よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/28(日) 05:40:58 ID:wAe3wtnM0
秀吉邸宅のびょうぶ 江戸時代の制作か
10月28日 5時7分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121028/t10013067531000.html

新潟県上越市の博物館が保管している、豊臣秀吉の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」を描いたびょうぶが、秀吉が死去して半世紀ほどたった江戸時代の17世紀中ごろに制作された可能性が高いことが分かり、専門家は、徳川の時代になっても秀吉をしのぶ風潮が残っていたことをうかがわせる興味深い資料だとしています。

「御所参内(ごしょさんだい)・聚楽第行幸図屏風(じゅらくだいぎょうこうずびょうぶ)」には、豊臣秀吉が京都に建てた「聚楽第」に向かう後陽成(ごようぜい)天皇と、それを出迎える秀吉が描かれています。
保管する上越市立総合博物館の調査委員会が調べた結果が、27日に開かれたシンポジウムで発表されました。
それによりますと、絵の描き方から、聚楽第があった当時に描かれた絵を、秀吉が死去して半世紀ほどたった江戸時代の17世紀中ごろに、別の絵師がびょうぶに写し描いた可能性が高いことが分かったということです。
また、後陽成天皇と秀吉が対称に描かれている構図から、秀吉の政治的な力を強調して描かれたとみられ、徳川の時代になっても秀吉をしのぶ風潮が残っていたことをうかがわせる興味深い資料だとしています。
調査委員会の上越教育大学大学院の川村知行教授は、「徳川の政権になって豊臣の文化はすべて捨て去られたと思われているが、そうではないことがうかがえる」と話していました。
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1012よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 12:49:38 ID:xqSAix/E0
切手「悠久の古墳」 世界遺産目指し大阪の有志が商品化
2012.10.28 18:48
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121028/wlf12102818500016-n1.htm

 世界遺産登録を目指す大阪府東南部の古市古墳群を知ってもらおうと、同府松原市の写真家保田紀元さん(72)や地元郵便局長らがオリジナルフレーム切手「悠久の古墳」を商品化した。

 保田さんが知人のエッセイスト川上恵さん(65)から5年前に「登録に向け、できることをしよう」と呼び掛けられたのがきっかけ。同古墳群を撮影した4千点の写真から11点を選んだ。「地域の歴史や素晴らしさが伝わればうれしい」と切手の効果に期待している。

 切手シートは今月25日から大阪府藤井寺市など9市町村65郵便局で計千枚が販売されている。1シートは80円切手が10枚だが、値段は1200円。

1013よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 13:10:31 ID:xqSAix/E0
「大坂の陣」400年で企画 3日に道明寺合戦まつり
2012年10月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121028/20121028022.html

 大阪はもとより日本の歴史の大きな転機となった「大坂の陣」(1614〜15年)からまもなく400年を迎える。大きな節目を前に「夏の陣」合戦場の一つ、大阪府藤井寺市道明寺の商店主らが主体となって11月3日に地元で「道明寺合戦まつり」を企画した。歴史の舞台・道明寺の知名度アップと地域おこしを目指そうと準備に追われている。

 道明寺合戦は15(慶長20)年5月に徳川軍と豊臣軍が河内国道明寺村で激突。徳川側の伊達政宗と豊臣側の真田幸村という二大武将が唯一対峙(たいじ)した戦いでも知られる。

 まつりの発起人は地元在住でNPO法人「大阪城甲冑(かっちゅう)隊」創設者の河井計実さん(50)。真田幸村を筆頭に「大坂の陣や大坂を守ろうとして散った人々の顕彰」を信条に、甲冑姿で多彩な歴史イベントや奉仕活動を展開しており、約10年前から「大坂の陣400年祭」の草案を練ってきた。戦いのあった各地で行政や市民が連携する、地域おこしのイベントを仕掛けるプロジェクトだ。

 今回のまつりは400年祭の重要なプレイベントという位置付けで、今春に実行委を設置。道明寺商店街有志や阪南大学などの多くの協力者と協議を重ねて、ようやく開催の運びとなった。

 まつり当日は午前9時に近鉄阿部野橋駅発で道明寺駅まで甲冑隊員が乗り込む臨時列車の運行で幕開け。道明寺商店街一帯ではスタンプラリー、古戦場をめぐるフリーハイキング、合戦の模様を彫刻しただんじりの展示、甲冑試着体験など趣向を凝らしたプログラムが予定されている。

 商店街や道明寺天満宮、道明寺の周辺では順次のぼり旗の取り付け作業が行われ、商店会理事で実行委員長の森田剛浩さん(50)は「400年という節目をうまく地元活性化に生かしたい」と期待を込め仲間と準備に汗を流す。河井さんは「藤井寺一帯は現在も大坂の陣当時の風景が残っている貴重な地域。『古墳群のまち』だけではなく、戦国時代の重要な舞台であったことも全国に広く発信したい。400年祭では慰霊のほかに石川河川敷で数千人規模の合戦を再現できれば」と壮大なプランを練る。

1014よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 13:20:50 ID:xqSAix/E0
安倍晴明ゆかりの望遠鏡など 沢田さんが所蔵品公開
2012年10月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121029/20121029030.html

 大阪市に住む男性が、平安中期に活躍した“陰陽師(おんみょうじ)”として知られる安倍晴明にまつわる科学作品をコレクションしている。その子孫は天文時計などを発明しており、「江戸時代にこれだけ優秀な技術があり、ハイテク国家の基礎があった」と話している。

 和科学学会会員などを務め、テレビの鑑定番組にも出演する沢田平さん(77)=東成区=は、江戸期に製作された天体望遠鏡や“正密”時計など千点を超す作品を所有する。晴明の命日とされる9月26日には、ゆかりの深い阿倍王子神社(阿倍野区阿倍野元町)でコレクションのうち約20点を公開した。

 晴明は、暦をつかさどる家柄で明治期まで続いた土御門家の祖とされる。沢田さんは「安倍晴明公は科学者だった」と題した講演で「天候や豊凶作を占うには天体の変化を察知しなければならない。魔術師ではなく科学者だった」と説明した。

 江戸時代には、授時簡(じゅじかん)(天体観測用和時計)や当時の宇宙観を表した須弥山儀(しゅみせんぎ)などが発明され、正密時計は今に直して1日当たりの誤差が2、3秒、月差は15秒ほどだったという。「世界と比べても優れた技術。阿倍野区に住むみなさんにとっても誇りに思ってほしい」と話した。

1015よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 21:29:43 ID:cgNEt0TQ0
旭堂南陽のブラリ講談 歴史あるき

武士の魂「楠木正成」桜井の別れ・島本町の巻
2012年10月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/rekiwalk/121027/20121027055.html

ここがそうだと知ってました?

 昔は多くの人が歌ったと言われる唱歌「楠公の歌」。最も有名なのは「青葉茂れる桜井の」からはじまり、6番まで続く「桜井の決別」の場面を歌ったところです。死にゆく父、父の思いを受け継ぐ子、故郷で待っている母。昔なら何ともなかったと思うのですが、今では僕も息子のいる身。思わず、涙に誘われます。

 さて、桜井の別れの地は現在、島本町にあります。JR京都線島本駅前ロータリーの横に広がるのが桜井駅跡。そこには楠木親子がその下で別れたと言われる老松の一部や明治維新時に日本で大活躍した外国人パークス英国公使の楠木親子を讃(たた)える碑、そして滅私奉公という字が書かれた台座にのる子別れの石像などがあります。

 赤坂城の合戦後、行方をくらました正成。しかし、隠れた身の上で金剛山の一角に千早城をつくり、戦に備えた正成は赤坂城跡地にできていた幕府駐屯地を襲撃。威風堂々、奇略、計略により幕府軍を打ち破った。時同じくして後醍醐天皇も隠岐を脱出。足利尊氏が京都六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻略。こうして鎌倉幕府が滅亡しました。

 ところが、後醍醐天皇がこの後おこなったのが建武の新政。鎌倉幕府をつぶすためにまとまった武士たちでしたが、新しい政府に対しての思いはバラバラ。何か今の政治を見ているような気がします。こんな状況では何をしてもどこかに不満が残る。そんな中、足利尊氏が挙兵したのでした。不満武士たちが一同に尊氏の味方をする。楠木正成と足利尊氏がいよいよ京都で激突します。正成の知略は尊氏の大軍をもろともせず、見事尊氏を追い払うことに成功したのはさすがです。

 ところが、時代の流れは足利尊氏に向いていた。正成は再び立ち上がった尊氏の大軍との最後の決戦に向けて兵庫に向かいますが、その途中桜井の地で息子、正行に「2千人の兵と共に故郷に帰るように」と後を託すのでありました。あと見送った正成、わずか700人の兵を引き連れて兵庫に向かった。この続きは来週のお楽しみ。

(大阪講談協会所属)
 ◇旭堂南陽の公演情報 「大河ドラマ講談 平清盛を語る」=11月4日午後2時、同4時開演、神戸・元町プラネットアース、1500円(1ドリンク付き)。問い合わせは「元町で講談会」事務局、電話0798(49)6004。

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1019名無しさん:2012/10/30(火) 15:16:36 ID:ZKAndj8E0
文楽の魅力を多くの人に
http://www3.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005550661.html?t=1351577669940
大阪の伝統芸能、文楽の魅力を多くの人に知ってもらおうという催しが、きのう大阪で開かれました。この催しは、大阪市や市内の商店街などが上方文化の再生を通じてまちの活性化をはかろうと開き、大阪・中央区のホールには100人余りが集まりました。
文楽の実演では、太夫の豊竹呂勢大夫さんによる語りと鶴澤燕三さんの奏でる三味線にあわせて、3人の人形遣いが巧みな技を披露しました。
人形遣いの桐竹勘十郎さんらがあやつる女性の人形の優美な動きに、集まった人たちが見入っていました。
技芸員の座談会では文楽の世界の裏話が披露され、三味線で同じ節を繰り返し演奏したり、人形遣いが床を踏んで何度も音をたてるのは、観客に拍手を求める合図であることが紹介されました。
関東出身の技芸員は、大阪発祥の文楽にふさわしい語り口を身につけようと、ふだんの生活でも大阪弁を使っているということです。京都から訪れた女性は「実演を見ることができただけでなく、文楽の裏話も聞けてとても面白かったです」と話していました。

10月30日 08時34分

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1025よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/01(木) 21:24:40 ID:jfzkFJc.0
健やか成長願い 住吉大社で七五三準備ピーク
2012年11月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121101/20121101031.html

 11月にシーズン本番を迎える「七五三まいり」を前に、住吉大社(大阪市住吉区、真弓常忠宮司)で31日、参拝客に配布する撒下品(お下がり)を袋詰めする作業が大詰めを迎えた。この日までに計6千セットを準備し、本番に備える。

 境内にある連歌所では、髪に挿頭(かざし)と呼ばれる飾りをつけた神楽女(かぐらめ)(巫女(みこ))たちが千歳飴(ちとせあめ)や鉛筆、折り紙などの縁起物を袋詰め。黙々と、手際よく作業を進めた。

 同社によると、近年では祝祭の15日周辺にこだわらずに前倒しでの参拝も多いそうで、10月末時点で既に800組が参拝している。11月にはさらに約5千組を見込んでおり、大安の土曜日に当たる10日がピークと予想している。

 この日は6人の職員が袋詰めに参加。神楽女の一人(21)は「お子さまが元気で成長していただきたいと願い作業した。ご家族の笑顔が見られれば」と話した。

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1028よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/03(土) 23:04:41 ID:f9eap8vw0
環濠集落の跡地、石垣残る 2012年11月2日桑津コース
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/asobo/121102/20121102033.html

 いよいよ大阪あそ歩'12秋がスタートした。今回はJR大和路線東部市場駅前をスタートし、桑津環濠(かんごう)集落の跡地や作家の故開高健さんゆかりの地を巡り、近鉄南大阪線「北田辺駅」を目指すコースに参加した。

 ガイドを務めるのは、コースのある東住吉区出身で、地元のなにわの伝統野菜「田辺大根」の普及活動などに取り組む吉村直樹さん(66)。参加者の方とともに出発した。

 吉村さんはこの辺りについて「昔は百済郡といわれ、朝鮮半島から人・文化などいろいろと先進の文化が伝わった所」と教えてくれた。

 駅を出てほどなく歩くと杭全交差点に到着した。杭全は大阪の中でも難読地名の一つに数えられる。「杭(くい)を打ち尽くした」など、地名の由来の諸説について解説してくれたが、実際はどれが正解なのかは分からないという。市内でも交通量が激しく珍しい五差路の交差点で、横断歩道がないため五角形の歩道橋が架けられている。

 その後、住宅街の川沿いを歩くと、「五輪橋」に着いた。近くに五輪塔があることが由来だそうだ。大坂夏の陣では、この辺りは戦場となり、豊臣方の柴田権十郎正俊と徳川方の蜂須賀九郎右衛門が死闘を繰り広げたという。結局、柴田権十郎正俊が蜂須賀九郎右衛門の首を討ち取るも、自ら命を落とした。住民らが供養のため二つの五輪塔を建立したが、現在は柴田権十郎正俊の五輪塔が残るのみだ。

 閑静な住宅街を行くと、一帯は桑津環濠集落跡だ。戦乱が多かった中世以降、村などは周囲に水濠などを巡らして自衛したそうで、道に沿うように石垣が残っていた。吉村さんは「石垣は昔の環濠の名残で、地元の人でも知らない」と教えてくれた。

 仁徳天皇の后(きさき)・髪長媛(かみながひめ)の伝説が残る桑津天神社を経て、桑津小学校に着いた。小学校の前には桑津遺跡を知らせる石碑が建っていた。1929年に弥生時代の土器などが出土し、桑津には約1万年以上前から人々が住み始めたことが判明したという。

 ゴールの北田辺駅近くにはかつて芥川賞などを受賞した作家、故開高健さんが少年・青年期を過ごした家があった。現在は当時の建物は取り壊され、真新しい住居が建っていた。北田辺駅に到着すると、開高さんがこの地で過ごしたことを今に知らせる文学碑がまち歩きの一行を迎え、今日のコースを終えた。

 兵庫県宝塚市から参加していた北山茂さんは「環濠集落跡など、街の歴史が感じられた」と話していた。

 ○…吉村さんのガイドで大阪でも最も古い歴史を持つとされる桑津のまち歩きを堪能した。環濠集落の名残など、地元の人も知らないような場所を巡り、貴重な体験ができた2時間余りだった。

1029よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 05:37:23 ID:f9eap8vw0
与謝野晶子歌碑 大和川にも 寄付募る
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121103-OYT8T00103.htm

 堺の生んだ女流歌人・与謝野晶子(1878〜1942)が短歌に詠んだ大和川で、晶子ファンや大和川の研究者らが、晶子の歌碑を建立する計画を進めている。全額を寄付で賄う予定で、10日には協力を呼びかけるイベントを開催する。来年9月の除幕を目指しており、関係者は「晶子の歌碑で関心を集め、多くの人が大和川に親しむようになってほしい」と話している。(中筋夏樹)

 大和川にまつわる活動をする団体・個人でつくる「大和川市民ネットワーク」で、「晶子の歌碑があれば、川に人が集うのでは」との声が上がり、5月の総会で歌碑建立を決めた。晶子の研究者らでつくる「与謝野晶子倶楽部(くらぶ)」(堺区)によると、堺市内に晶子の歌碑は23基あるが、大和川沿いにはないという。

 8月には、晶子ファンの講談師・旭堂南陵さんや作家・田辺聖子さんらが呼びかけ人となり、「大和川に与謝野晶子の歌碑をたてる会」が発足。堺区香ヶ丘町の川べりに歌碑を建てることにし、イメージ図=写真=も作った。

 晶子は幼少時、自宅の大人が蚊帳を洗うために、水のきれいな大和川まで荷車で運ぶ際、一緒に乗って行って川遊びを楽しんだ、とのエピソードを自身の随筆に書いているという。

 大和川を詠んだ歌は「大和川 砂にわたせる板橋を 遠くおもへと 月見草咲く」「沙(すな)白き 新大和川 我が町に さかひ少女(おとめ)の 浄(きよ)かれと添ふ」「橋一つ 越え大阪に 続くより 近きこころに 作れ都も」の三つが知られ、この中から碑文を選ぶ。

 制作費の80万円については、1口1000円で寄付を募る。同会などはPRイベントとして、晶子と大和川を題材にした南陵さんの講談を、10日午後2時から堺市堺区のサンスクエア堺で開催する。入場無料。

 寄付は郵便振替(00940・4・288826、大和川に与謝野晶子の歌碑をたてる会)で受け付ける。問い合わせは「たてる会」の小松清生(すがお)事務局長(080・2444・2098)へ。

(2012年11月3日 読売新聞)

1030よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 05:42:53 ID:f9eap8vw0
屈指の人気作に酔う 国立文楽劇場で公演初日
2012.11.3 22:37
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121103/waf12110322430012-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121103/waf12110322430012-n2.htm
 
 国立文楽劇場(大阪市中央区)で3日、赤穂浪士のあだ討ちを題材にした文楽屈指の人気作「仮名手本忠臣蔵」の公演が初日を迎え、太夫、三味線、人形遣いの三業が一体となって繰り広げる忠義と情のドラマに満員の観客が酔いしれた。

 今回の公演は、1日がかりで上演する本格的な“通し狂言”で、大阪では平成16年以来、8年ぶり。

 この日、初日を待ちかねたファンが劇場に詰めかけ、昼の部、夜の部ともにほぼ満員。初めて文楽を見に来たという大阪府大東市の郡(こおり)睦美さん(60)は「人形の繊細な動きに驚いた。日本の文化はすごい。また見に来たい」と感激冷めやらぬ様子だった。

 文楽は今年、文楽協会への補助金削減をめぐって大阪市の橋下徹市長と対立。先月、橋下市長と“和解”し、補助金が支給されることは決まったが、集客努力など改革を迫られている。公演は25日まで。

1031よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 05:50:06 ID:f9eap8vw0
豊臣時代の大阪城石垣遺構 特別公開始まる
2012年11月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121102/20121102022.html

 大阪城天守閣前の本丸広場にある豊臣時代の大阪城の石垣遺構の特別公開が1日、現地で始まった。付近では豊臣時代の大阪城を25分の1のスケールで再現する砂像の作製が最終段階を迎えており、多くの歴史ファンらが訪れている。

 大阪市は大阪城の観光拠点化の一環として、大坂夏の陣から400年にあたる2015年度をめどに、豊臣時代の石垣の一般公開を計画している。今回の特別公開は豊臣時代の石垣復興の機運を高めようと、秋の観光シーズンに合わせて企画された。

 特別公開されている石垣遺構は1959年に「大阪城総合学術調査団」によって発見された。地下約7・5メートルに位置し、地上から金属製の格子越しにライトアップされた石垣を見ることができる。

 門真市から訪れていた調理師、和多美智夫さん(53)は「歴史を感じる。当時の大阪城をイメージすることができた」と話していた。

 石垣遺構の特別公開と、敷地内にある普段は非公開の旧第四師団司令部庁舎(旧大阪市立博物館)などもボランティアが案内するガイドツアーは11日まで。4日には砂像の完成イベントも予定されている。

1032よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 06:00:57 ID:f9eap8vw0
獅子舞や曲芸優雅に 生國魂神社で神話と神楽のイベント 大阪
2012.11.3 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121103/osk12110302060003-n1.htm

 国重要無形民俗文化財の伊勢大神楽を鑑賞する「神々の世界への誘(いざな)い」(産経新聞社主催)が2日、大阪市天王寺区の生國魂(いくくにたま)神社で開かれた。獅子舞や曲芸の披露、神楽をテーマにした対談などが行われ、訪れた人たちは多彩な伝統芸を楽しんだ。

 伊勢大神楽は、伊勢神宮(三重県伊勢市)への信仰を広めるため江戸時代から各地を巡り、芸能を披露したり神札を配ったりしてきた。現在は6組の社中が主に西日本を回っている。境内の会場では、神話や神楽に詳しい大阪城天守閣研究主幹の北川央(ひろし)さんが現代語訳した神話を、元OSK日本歌劇団の美砂(みさご)まりさんが朗読し、同神社の神職と巫女(みこ)が新作神楽を披露。対談では、北川さんと伊勢大神楽の加藤菊太夫さんが「日本の大多数の獅子舞が、伊勢大神楽に学んだ」などと話した。

 このあと公演が行われ、優雅な獅子舞や刀を使ったスリル満点の技などが披露された。獅子が花魁(おいらん)に扮(ふん)して練り歩く場面もあり、多彩な芸に盛んな拍手が送られた。

1033よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 22:26:37 ID:E8/7is2.0
暗越奈良街道 再認識を イベント通じ発信
2012年11月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121104/20121104025.html

 大阪市東成区内を横断する暗越(くらがりごえ)奈良街道を区民に重要な歴史的資源と再認識してもらい、街への愛着を深めてもらおうとするイベント「ひがしなり街道玉手箱」(同実行委員会主催)が3日、玉造や深江、東成しんみちロード商店街の各会場で昔懐かしい写真の展示やフォークソングライブ、落語寄席などが行われた。4日まで。

 前身の東成新道・暗越奈良街道フォーラムから数えて、ことしで6回目。2日間で35の団体や企業が、公園や神社、空き店舗などでイベントを実施する。

 この日商店街では、突然音楽が鳴りだし、踊りだす人が出現する「フラッシュモブ」が行われた。通行人は、突然始まったダンスパフォーマンスに足を止めて眺めていた。

 子どもとめいを連れ、イベントに参加した同区の古庄千波さん(41)は「東成区は、お年寄りが多い街。子どもから大人まで楽しめるイベントはいいと思う」と話していた。

 4日も各所でイベントを行う。約4キロの街道パレードは、午前11時に東小橋北公園を出発し、午後3時半の西深江公園の到着を予定している。

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1036よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/06(火) 08:17:30 ID:MUJk4M3c0
楠木正成ゆかりの重文・建掛塔 「頭」すっきり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121106-OYT8T00085.htm
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 河内長野市の古刹(こさつ)・観心寺で、室町時代前期の武将、楠木正成(1294〜1336年)ゆかりの重要文化財「建掛塔(たてかけのとう)」(高さ10メートル80)の修復が完了した=写真=。

 同寺は楠木家の菩提(ぼだい)寺。正成は子どもの頃に同寺で修行に励んだとされる。鎌倉幕府倒幕後に正成は三重塔を建立しようとしたが、途中で足利尊氏軍に敗れて戦死したため、2層目以上は完成せずに初層(1階)だけの珍しい様式で残ったとされる。

 市教委によると、現在の建掛塔は、1503年に再建された。茅(かや)の劣化が進み、1984年以来の修復を6月から実施。同市内で採れた茅17トンで屋根全面をふき替え、塔を覆っていた足場も撤去した。

 同寺の永島弘教寺務長は「紅葉シーズン前に修復が終わり、美しくなった塔を参拝者に見てもらいたい」と話していた。

(2012年11月6日 読売新聞)

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1038よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/06(火) 19:41:17 ID:tuw4enxc0
「永遠」表現の舟も 高津宮命の尊さ訴え秋まつり
2012年11月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121106/20121106027.html

 「芸術」や「食」などを通し、命の尊さについて考えてもらう「とこしえ秋まつり」が10月28日、大阪市中央区高津1丁目の高津宮(小谷真功宮司)で開かれた。2万年前の地層から出土した神代杉を使った巨大芸術作品「とこしえの舟」が同宮の参道にお目見えしたほか、境内ではうどんなどを味わえる屋台が並び、多くの人らでにぎわった。

 同まつりは命の尊さを訴える新たな秋祭りとして、同宮が初めて企画した。

 参道にお目見えしたとこしえの舟は、小谷宮司の依頼で芸術家の伊原セイチさんが手掛けた。全長約5メートル。上部の神代杉を「時空を進む“動力”」として、永遠=とこしえ=に向かう姿を表している。参道にはとこしえの舟とともに奈良県天川村から切り出した杉を使った長さ約25メートルの“桟橋”も登場。この日、朝から雨模様の天候ながら、傘を差した参拝者の目を引いていた。

 境内では「氏子グルメ屋台」として「道頓堀今井」がうどんなどを販売。手作りの工芸品などを扱うブースなども人気を集めていた。

1039名無しさん:2012/11/07(水) 17:38:32 ID:DkYwJ.mU0
都市改良と遷都 大阪時事新報 1919.1.6(大正8)
名古屋高等工業学校長 工学博士 武田五一氏談

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00747189&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
西隣支那大陸との交通、台湾、朝鮮等の新領土の編入其他戦後に於ける南洋発展の計を
想わば日本の首府の永久に東京に存在する事は稍々東方に僻在する事となり早晩或は大阪
に遷都を見るやも計られず実に大阪市は将来日本の経済上の中心点たらざる可からざると同時
に又政治上の中心となる可き可能性を有するものにして新日本の中心地は大阪市を以て最理想の処

大阪の地たる上古浪花の都と称し仁徳帝の天下を統御し給いし以来我が国中世に於ける
交通政治の中心となり来り彼の豊太閤の雄闘を抱いて茲に築城したるより考うるも覇を東洋の
天地に唱えんとする雄大なる帝国の使命を果さんとせば実に海陸の便四通八達なる我が大阪
に首府を移すべきことは蓋し当然なり

摂河泉の広大なる大平原を控え海波静かに打寄する大阪湾頭新になれる一大首都「大大阪」
の都を想見せよ帝国の首府として決して不適当にあらずして否寧ろ日本の首都として最適恰の
土地たる事を失わず

1040よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:29:20 ID:WWMHs/sg0
旧居留地は神戸だけ? 新島襄といえば京都? 大阪の幻の外国人居留地が存在感アピール
2012.11.11 21:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n2.htm

 レトロな洋館に異国情緒あふれるガス灯…。関西で外国人の旧居留地といえば、だれもが思い浮かべるのが神戸市だ。しかし、大阪市にもかつて居留地があったことはあまり知られていない。大阪港にも近い西区にあった旧川口居留地には、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する新島襄(1843〜90年)も、京都で現在の同志社大学を創立する直前の一時期、滞在。地元では、「来年の大河ドラマを機に、そして6年後の大阪港開港150年に向けて、大阪にも居留地があったことを広く知ってもらいたい」という声が高まっている。

(袖中陽一)

西洋料理も散髪も…文明開化の発信地

 川口居留地があったのは、現在の住所でいえば、大阪市西区川口1丁目付近。ともに大阪港に注ぐ安治川と木津川が分岐するあたりだ。

 外国人居留地は日米修好通商条約など幕末に外国と結ばれた条約により、横浜、神戸、長崎、築地(東京)、大阪、函館、新潟の7カ所に設けられることになった。川口居留地は慶応4(1868)年、大阪港の開港とほぼ同時期に開かれた。

 「当時の欧米から見ても、大阪は日本の経済の中心。大阪にも当然居留地が欲しいし、その近くの港ということで神戸も、という流れで場所は決まったのでしょう」。大阪市史編纂(へんさん)所所長の堀田暁生さんはこう推測する。

 川口居留地の広さは約1万坪で、当時の記録によると、明治21(1888)年で欧米人157人が住んでいたという。住人にはビジネスマンが多かったらしく、神戸市にある国の重要文化財、旧ハンター住宅で知られる英国人実業家のエドワード・ハンター(1843〜1917年)も、ここに家を持っていたという記録がある。

 居留地内は欧米風のモダンな街並み。洋服や西洋料理、近代的な散髪など、さまざまな文物・風俗が、この町から大阪に広まっていったという。

 川口居留地に遅れること6年、木津川の対岸、江之子島には明治7(1874)年に大阪府庁が建設された。さらに明治22(1889)年に大阪市が誕生すると、市役所は当初、府庁内に、そして10年後の明治32(1899)年には府庁の北向かいに置かれた。当時、この一帯はまぎれもなく大阪の中心地だったのだ。

浅い水深がネック、神戸に奪われた貿易港の座

 その川口居留地が、なぜその後は発展しなかったのか。

1041よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:31:11 ID:WWMHs/sg0
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n4.htm

 ネックとなったのが、水深の浅さだ。水運に使っていた安治川が浅く大型船の航行には不向きだったため、外国船の多くは神戸港を使うようになった。そのため川口居留地に住んでいた外国人たちも、次第に神戸へ移っていったようだ。

 「その跡地に教会、学校、病院などができ、後のプール学院、桃山学院などミッション系の学校の発祥の地になったのです」と堀田さん。だが、それらもその後、川口の地を離れていった。

 居留地そのものも条約改正により明治32(1899)年に廃止。現在の旧居留地でわずかに往時をしのぶことができるのが、明治14(1881)年に設立された川口基督(キリスト)教会だ。現在残る礼拝堂は大正9(1920)年に再建されたもので、居留地時代のものではないが、国の登録有形文化財に指定されており、旧居留地らしい雰囲気を醸し出している。

同志社は大阪に出来ていたはず?!

 「旧川口居留地は大阪におけるテニス発祥の地でもあったんです」と話すのは、旧居留地近くでお好み焼き店を経営する北村一男さん(67)だ。

 生まれ育った場所に居留地があったことは知っていたが、その価値に気づいたのは、6年ほど前。趣味のテニスについて調べるうちに、自宅近くの旧居留地にテニスコートがあり、そこからテニスが大阪に広まっていったことを知った。4年前、「川沿いを歩ける町づくりの会」を結成し、旧居留地をめぐる地図を作るなど活動を続けている。

 北村さんは来年のNHK大河ドラマの主人公が、同志社大学を創立した新島襄の妻、八重であることに注目。「ほとんど知られていないが、新島は一時期、大阪の居留地付近に逗留(とうりゅう)し、この土地で学校を作ろうとしたんです」と話す。

 明治8(1875)年1月、横浜から大阪を訪れた新島は、川口居留地近くの宣教師宅に居住。大阪で学校を開こうとするが、大阪府知事の賛同が得られなかったため断念した。その後、4月に京都府幹部と面会して学校の誘致を受け、それが京都での開校につながったとされる。

 北村さんは「新島が住んだのは短い期間だが、大河ドラマを機に新島ゆかりの地を訪れるツアーを企画して、川口の旧居留地を盛り上げたい」と意気込みをみせる。

1042よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:32:40 ID:WWMHs/sg0
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n5.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n6.htm

少ない観光資源…ぜひ記念館を

 旧居留地近くに住む大阪芸術大学短期大学部ビジネス学科長の谷口靖弘さん(67)=観光学=は、川口や九条など安治川と木津川にはさまれた西区の下町を紹介する「大阪・九条下町ツアー」を主宰し、この十数年で延べ1000人を案内してきた。「ここはガイドにとってやりがいのある土地」と強調する。

 案内といっても、旧居留地にある観光資源は極めて少ない。しかし谷口さんは「私がいつも心に置いているのが、『ハードよりハートでご案内』という言葉。ハード(施設)を見てもらうのではなく、心で見てもらうガイド。小さなものでも観光資源にはなりうるのです」。

 例えば、現在の川口聖マリア幼稚園の近くにはかつて立派な教会があったが、先の大戦で焼けてしまい、今はレンガの土台が約30センチの高さで残っているだけだ。「それだけのものといえばそれまでですが、そこから想像力をふくらませてもらうのが効果があるようです」。ツアーの参加者からは「明治時代や大大阪のころの大阪を想像して振り返るのが楽しかった」という感想が多いという。

 「ハードよりハート」という谷口さんだが、「それでもやはり居留地の記念館のようなハードがあれば…」と残念そう。堀田さんも、「川口の旧居留地は大阪の近代文化発祥の地。記念館や資料館のようなものを作ってもらいたい。そして、大勢の人にこの土地の歴史を知ってほしい」と話している。

1043よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:34:37 ID:WWMHs/sg0
国史跡「郡山宿本陣」 秋の特別公開始まる 大阪
2012.11.11 02:34
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121111/osk12111102340001-n1.htm

 江戸時代、「忠臣蔵」で知られる赤穂藩主、浅野内匠頭(たくみのかみ)をはじめ参勤交代の大名が泊まったという茨木市宿川原町の国史跡「郡山宿本陣」で10日、秋の特別公開が始まった。

 同本陣は京都〜西宮(兵庫県)を結ぶ西国街道の中間にあり、正面入り口の門に大きなツバキがあったことから「椿の本陣」とも呼ばれている。浅野内匠頭が数回宿泊したほか、幕末維新期には薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)の関係者が頻繁に訪れており、宿帳などが残されている。

 特別公開では、こうした資料や大名が泊まった部屋「上段の間」、米蔵、茶室などを見ることができる。また、納屋では企画展「旅する小物〜江戸時代の旅じたく」を開催している。

 17代目当主の梶洸(かじ・たけし)さんは「日本地図を作製した伊能忠敬(ただたか)も泊まっていますが、測量の際は地元の人を大勢雇うなど地域振興にも貢献しました」などと、宿帳を示しながら見学客たちに説明していた。

 18日まで。入館無料。問い合わせは、茨木市教委地域教育振興課((電)072・620・1686)。

1044名無しさん:2012/11/12(月) 02:43:08 ID:8RYs5C0U0
>>1041
安治川に限らず、川に土砂が堆積して大阪平野ができたのは、奈良京都での環境破壊のせいというかおかげ
上流での土木開発で木を切り倒したため、下流にそうした土石が流れ込んだ

神戸の上流にはそうしたものがなかったちめ、神戸の港の水深は浅くならずに済んだ

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1051名無しさん:2012/11/16(金) 12:41:18 ID:Mii5n1..0
文楽好調、来場者1.7倍 大阪市の補助金問題で注目
2012年11月16日
http://digital.asahi.com/articles/OSK201211140039.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_OSK201211140039
 【向井大輔】大阪・日本橋の国立文楽劇場で上演されている人形浄瑠璃文楽の11月公演「通し狂言 仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」の観客数が、昨年の同じ月に比べて約1.7倍も増えている。文楽で一、二を争う人気演目の8年ぶりの上演に加え、大阪市の補助金問題で注目を集めたことが幸いしたようだ。

 劇場によると、公演が幕を開けた今月3日から10日間の来場者は約1万人にのぼり、昨年の約6千人を大きく上回った。昨年まで過去3年間の11月の総来場者数は毎年減り続けていたが、今公演の週末はほぼ満席で「近年にない入り」と劇場側。初めて足を運ぶ人が多いためか、予約した弁当の受け取り方や、トイレの場所を尋ねる観客も目立つ。

 理由の一つは「仮名手本忠臣蔵」という演目のおかげだ。赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)の家臣の大石内蔵助(くらのすけ)らが、主君の敵である吉良上野介(こうずけのすけ)を討った事件をもとにした物語は、文楽を見たことがない人にも広く浸透する。

 だが全編を通した上演時間は約11時間もあり、技芸員(演者)の負担は重い。大道具も多く、他の演目より手間も予算もかかるため、通常は記念の年に上演されることが多い。今回は、補助金問題で逆風にさらされた文楽の気概を示そうと上演が決まった。

 さらに補助金問題で文楽がこれまで以上にメディアに取り上げられ、関心が高まったことが追い風になったとみられ、劇場の「ご意見箱」には「応援してますよ」といった激励メッセージが多く寄せられているという。

 公演は25日まで

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1055よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/19(月) 21:22:33 ID:3o53U.3k0
無事の復帰、おめでとうございます。


脳梗塞で療養の人間国宝・竹本住大夫さん、文楽初春公演で復帰へ
2012.11.19 13:09
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121119/wlf12111913120010-n1.htm

 軽い脳梗塞のため療養していた文楽太夫の人間国宝、竹本住大夫さん(88)が、来年1月3日に始まる大阪・国立文楽劇場の文楽初春公演から復帰することが19日、分かった。天下泰平と五穀豊穣を祈念する演目「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」の翁を勤める。

 住大夫さんは今年7月12日に自宅で気分が悪くなり、病院に搬送。軽度の脳梗塞と診断され10月1日まで入院、その後は自宅で療養していた。

1056よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/22(木) 05:49:11 ID:Cd2mVJDk0
羽曳野・誉田中校庭から大量の埴輪 大阪
2012.11.22 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121122/osk12112202020004-n1.htm

■応神天皇陵近くに未知の古墳存在か

 国内2番目の巨大前方後円墳、応神天皇陵(羽曳野市誉田(こんだ)、全長425メートル)近くの市立誉田中学校校庭で、古墳時代中期(5世紀前半)の水鳥や家、甲冑(かっちゅう)などをかたどった埴輪(はにわ)が市教委の発掘調査で大量に見つかった。同天皇陵に付随する未知の古墳が近くに存在した可能性もあり、注目されそうだ。

 埴輪はいずれも破片で数百点に上り、高貴な人物が座るための椅子、冠、馬、円筒埴輪などバラエティーに富んだ種類が確認された。室町時代ごろ(14世紀)に整地された土とともに出土したことから、近くに埴輪を立て並べた古墳があって整地に伴い壊された可能性が高いという。

 円筒埴輪をモデルにした棺(ひつぎ)(長さ約1メートル、直径約50センチ)も出土。鉄斧などが副葬されており、集団のリーダーの墓だったという。

 23日午前10時〜午後2時に現地見学会が行われる。小雨決行。駐車場はない。問い合わせは羽曳野市教委歴史文化推進室((電)072・947・3903)。

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1058よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/23(金) 20:29:01 ID:yIyocs060
“幻の都”とも言える難波宮。
その全貌が、ゆっくりと、しかし、着実にその姿を私たちの前に姿を現しつつあるようです。


大阪・難波宮:従来想定より広かった 新たな建物跡発見
毎日新聞 2012年11月23日 10時34分(最終更新 11月23日 11時05分)
http://mainichi.jp/feature/news/20121123k0000e040153000c.html

 大阪市中央区の大阪医療センター敷地内の発掘調査で、大化の改新(645年)後に孝徳天皇らが造営し、天武天皇時代に火災で焼失したとされる「前期難波宮(なにわのみや)」(7世紀中ごろ〜後半)の役所の一部とみられる建物跡が見つかり、22日、大阪文化財研究所が発表した。

 建物跡が見つかったのは、朝廷の公式行事や政務を行った「朝堂院(ちょうどういん)」の西約300メートルで、これまで宮の西端と考えられてきた場所からさらに西へ約100メートル離れた地点。そのため、同研究所は「宮殿の範囲が従来の想定より西へ広がる可能性が出てきた」としている。

 医療センターの建て替えなどに伴い、同研究所が今年8月から約1900平方メートルを調査していた。調査地からは、東西16メートルの掘っ立て柱建物跡のほか、建物に伴う大型の塀跡(東西41メートル以上)を確認。建物や塀は方角をそろえて規則的に配置されており、宮の西に広がる役所群「西方官衙(せいほうかんが)」の一角とみられる。近くでは谷を埋め立てた大規模な整地跡も見つかり、整地土には7世紀中ごろ以前の土器が多数含まれていた。

 現地説明会は、12月1日午後1時半〜同3時半。少雨決行。問い合わせは、同研究所難波宮調査事務所(06・6943・6836)。【林由紀子】

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1060よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/23(金) 20:40:29 ID:yIyocs060
大阪あそ歩 〜街の達人たち〜

愛染さんから四天王寺へ
2012年11月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/asobo/121123/20121123046.html

大阪三大夏祭り「裏話」を聞く

 今回は大阪市営地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘駅」前を出発して、「愛染(あいぜん)さん」の愛称で親しまれている愛染堂や清水寺などを巡り、四天王寺を目指すコースに参加した。ガイド役は大阪城などを回るコースでも案内役を務め、学生時代は今回のコース付近の学校に通っていたという竹山栞さん(64)だ。

 竹山さんは駅を出た一行に早速、「夕陽ケ丘」という地名について、歌人の藤原家隆が夕陽庵(せきようあん)で「契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入り日を 拝みつるかな」と歌を詠んだことが由来と説明してくれた。

 ほどなく歩いてたどり着いたのは愛染堂。愛染堂と聞いて思い浮かぶのは大阪三大夏祭り。愛染堂の「愛染まつり」、住吉大社の「住吉祭」、大阪天満宮の「天神祭」を大阪三大夏祭りというが、愛染堂だけが寺である理由について竹山さんは「神仏習合時代の名残」として、大阪三大夏祭りの一つについて、愛染まつりを生國魂神社の「いくたま夏祭」と入れ替える人もいると解説してくれた。

 「若者にタイガース神社と呼ばれ、多くのタイガースファンが訪れる」という狛(こま)犬ならぬ狛虎のある大江神社に参拝して次に向かったのが、清水寺。京都の清水寺から譲り受けたという十一面千手観世音菩薩を本尊としている。境内にある大阪市内唯一の天然の滝の「玉出の滝」を見た後、「清水の舞台」に立つと、阿倍野区で建設が進む超高層ビル「あべのハルカス」が間近に迫っていた。

 戦火や天災などで、度々焼失した四天王寺の再建に携わってきた現存する世界最古の企業、金剛組本社前を通り、今日の最終目的地である四天王寺に向かった。

 境内にある石舞台は日本三舞台の一つとされる国の重要文化財。毎年4月、聖徳太子の命日に合わせ、太子の聖霊を慰めるために「聖霊会舞楽大法要」が行われる。竹山さんが持参した資料をもとに舞の衣装などについて説明を受け、今も生き続ける太子信仰を感じた。

 ○…竹山さんがガイドを務めるコースに参加させてもらったのはこれで2度目になる。前回同様、多くの資料を手に丁寧にそれぞれのスポットを説明してくれる竹山さん。そのガイドぶりから誠実な人柄が伝わってきた。

1061よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/23(金) 21:48:10 ID:yIyocs060
難波宮、想定超える規模か…宮殿の一部?出土
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121123-OYO1T00512.htm?from=newslist

 大阪市中央区の難波宮(なにわのみや)跡の南西部で、飛鳥時代に孝徳天皇(在位645〜654年)が造営した前期難波宮の宮殿の一部とみられる遺構が出土し、市教委などが22日発表した。従来考えられた宮殿の範囲の外側にあたり、前期難波宮が西に100メートル以上広がっていた可能性があるという。

 国立病院機構大阪医療センターの敷地内を調査。役所や倉庫とみられる建物跡4棟と建物を区画する塀跡(東西約41メートル)などが7世紀中頃の土器とともに見つかった。これまで宮殿の範囲は東西約650メートル、南北約700メートルと推定されてきたが、市教委は「宮殿がどんな構造だったのか再考を迫る発見」としている。

 前期難波宮は645年の大化の改新後、孝徳天皇が造営した「難波長柄(ながら)豊碕(とよさき)宮」とみられ、686年に焼失した。過去の調査で火災の痕跡も見つかっている。

 現地説明会は12月1日午後1時30分から。小雨決行。問い合わせは大阪文化財研究所難波宮調査事務所(06・6943・6836)。

(2012年11月23日 読売新聞)

1062よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/23(金) 22:08:29 ID:yIyocs060
大阪の魅力発信施設に 山本能楽堂改修募金協力訴え
2012年11月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121123/20121123021.html

 大阪の魅力を発信する観光施設としての機能向上を目的に、改修工事を行っている山本能楽堂(大阪市中央区)。舞台照明や客席など本年度の改修工事がほぼ完成したのを機に、費用の一部を民間から募ろうと22日、同能楽堂を運営する代表理事で能楽師の山本章弘さんや、応援団長に就任した大阪出身のファッションデザイナー、コシノヒロコさんらが会見を開き、協力を訴えた。

 同能楽堂は、1927年に先代の山本博之氏が設立。大阪大空襲で焼失したが、50年に再建し、能楽堂として初めて06年に国の登録有形文化財に指定された。大規模な改修は行っておらず、耐震面の不安などから改修工事を計画。11年に始まった文化庁の「重要文化財建造物等公開活用事業」に全国で初めて採択され、観光振興・地域活性化の拠点として、登録有形文化財建造物を効果的に公開活用するための計画策定や設備の整備に対する補助を受けた。

 総事業費は約1億5千万円を見込み、補助金、自己資金が3分の1ずつで、残りの5千万円程度を募金で集めるのが目標。耐震補強をはじめ客席やトイレ、空調など観光施設としての設備、能楽が屋外で演じられていたころにより近い、自然光や前衛的な表現ができるLED照明といった演出設備の強化、能に興味を持つ人が勉強できるライブラリー新設など、来年度まで工事は続く。

 コシノさんは、謡が好きだった祖父の影響で幼少期から歌舞伎や能に触れ、今も長唄を続けるなど伝統芸能に慣れ親しんできた。「譜面や指揮なしで呼吸を合わせる『間』に代表される日本人のセンスや五感は、海外からも高く評価されている。多くの人にこのすばらしい芸能を知ってもらい、人の手で文化を守りたい」と訴えた。

 募金の問い合わせは電話06(6943)9454、同能楽堂事務局へ。

1063よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/23(金) 22:10:53 ID:yIyocs060
張り子の虎大繁盛 少彦名神社「神農祭」
2012年11月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121123/20121123024.html

 “神農(しんのう)さん”の愛称で広く親しまれている少彦名(すくなひこな)神社(大阪市中央区、別所俊顕宮司)で22日、伝統行事の「神農祭」が始まった。家内安全や無病息災を祈願する参拝客らが縁起物の張り子の虎を買い求め、境内は終日にぎわいを見せた。23日まで。

 張り子の虎は、江戸時代の大坂でコレラが大流行した際、薬のまちである道修町の薬種仲間が虎の頭骨などを混ぜて作った丸薬と一緒に、厄よけとして患者に与えたのが由来とされる。

 ことしは道修町薬種屋仲間124軒が1722年、幕府から「株仲間」として公認されてから290年を迎えるとあって、例年にもまして境内はにぎわった。朝からみこの神楽鈴が鳴り響く中、張り子の虎の付いた五葉のササを買い求める参拝客でごった返した。

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1065よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/25(日) 21:55:50 ID:aMj4C8/I0
大阪の文楽入場者が60%増に 11月の忠臣蔵公演
http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112501001575.html

 大阪・国立文楽劇場で3〜25日に行われた11月公演「仮名手本忠臣蔵」の入場者総数が、前年比約60%増の約2万4千人だったことが25日、同劇場の集計で分かった。

 人気演目の通し上演だったことに加え、補助金をめぐる橋下徹大阪市長との交渉で文楽が社会的に注目されたのも背景にあるとみられる。文楽劇場は「初めて劇場に来た観客も多かったようです」としている。

 同劇場での今年の本公演の入場者総数も、前年比約25%増の約8万6千人に上った。

 太夫の豊竹英大夫さんは「まだまだ大阪には、文化に興味のある人がたくさんいると実感した」と盛況を喜んでいた。

1066よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/26(月) 21:29:14 ID:aWhyia0w0
文楽補助金 観客数連動で支給へ
11月26日 17時53分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121126/t10013760611000.html

伝統芸能「文楽」の運営団体に対する大阪市の補助金について、文楽側は来年度から観客数に応じて支給額を決めるなど、市が示した新たな仕組みを受け入れることになり、大阪市は凍結していた今年度の補助金を支給するための手続きに近く入ることになりました。

文楽の運営団体「文楽協会」への補助金を巡って、大阪市はこれまでに、文楽側に対し、来年度から、観客数に応じて支給額を決める新たな制度の導入や、支給を凍結している今年度の補助金3900万円についても、三味線など道具代の領収書の提出を求め、使いみちを透明化することなど、支給の在り方を見直す方針を伝えていました。
文楽側は26日、「市の指導を受けながら補助金の在り方の見直しに取り組んでいきたい」などと、大阪市の方針を受け入れる考えを文書で回答しました。
また、文楽側は今後、鉄道会社と協力して、電車の中で文楽を演じるPR活動など、新たな取り組みを検討していることも伝えました。
文楽側の対応に市も理解を示しており、大阪市は近く、凍結していた今年度の補助金を支給するための手続きに入ることにしています。
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1067よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/26(月) 21:50:28 ID:aWhyia0w0
四季鮮やか花の天井画 大阪・法性寺でお披露目
2012.11.26 07:54
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121126/wlf12112607590002-n1.htm

 「花の寺」として親しまれている大阪市中央区の法性寺(ほっしょうじ)で25日、新しい本堂の落慶法要が営まれ、境内の花をモチーフにした鮮やかな天井画が披露された。

 慶長3(1598)年の創建。空襲による焼失を経て昭和37年に再建された本堂が老朽化したため、昨秋から建て替えを進め、このほど完成した。

 この寺が境内で四季折々にさまざまな花を咲かせ、檀家(だんか)や住民らに親しまれていることから、山本信行住職(65)が本堂の建て替えに併せ、本堂外陣の天井を花の絵で飾ることを発案。境内に咲く約300種類の草花の中から144種を選び、住職自ら筆をふるって天井画の制作を進めてきた。

 また、本堂内陣の天井については、仏教の花の装飾文様「宝相華(ほうそうげ)」をモチーフに山本住職がデザインし、檀家有志が色付けをした絵160枚を飾った。

 この日、法要に続いて外陣の天井が除幕され、サクラやユリ、ヒガンバナなど四季の花を鮮やかに描いた格(ごう)天井が姿を現すと、参列していた檀家らから拍手が起こった。山本住職は「さらにお寺への親しみを持ってもらえれば」と期待している。

1068よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/26(月) 21:54:46 ID:aWhyia0w0
古墳時代の“九州・新潟出張”
2012.11.26 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121126/wlf12112607000000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121126/wlf12112607000000-n2.htm

 「鹿児島まで3時間44分」。昨年3月の九州新幹線全線開業で、南九州が一気に近くなった。と思ったら、はるか1600年前の古墳時代、大阪から鹿児島・宮崎までたくさんの人が“出張”していたらしい。

 府立近つ飛鳥博物館(河南町)の特別展「南九州とヤマト王権」(12月2日まで)で展示されている宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群出土の壺型埴輪(つぼがたはにわ)=5世紀=がそれを証明していた。

 「この埴輪は、大阪の職人が日向まで出向いて作ったとしか思えないんです」と森本徹総括学芸員が教えてくれた。埴輪の形や大きさ、作り方までが藤井寺市の野中宮山古墳出土の埴輪とうり二つ。会場では2つ並んでいたが、素人目には全く区別がつかない。「形をまねたというレベルではなく、細かい技法までそっくり。野中宮山古墳の埴輪を作った職人が、宮崎に行って作った可能性が高い」という。

 大阪から宮崎まで約500キロ。徒歩だったのか船なのか。なぜわざわざ? 疑問が次々と浮かんできた。

 ヤマトからの「風」は、東北へも吹いていた。今年9月、新潟県北部の胎内(たいない)市にある城(じょう)の山古墳(4世紀前半)を訪ねた。古代のヤマト王権(奈良県)で誕生した刀剣や銅鏡、勾玉(まがたま)の「三種の神器」がセットで出土し、畿内との密接な関係が浮かび上がった。矢を入れる革製の靫(ゆき)は滋賀県などで出土したものとそっくり。胎内市教委の水沢幸一文化財係長は「畿内から直接持ち運ばれたとしか思えない」と話していた。奈良から約500キロ、現代でも新幹線を乗り継いで5時間以上の距離だ。

 関西から南九州、あるいは新潟へ−。九州新幹線も上越新幹線もない時代、古代人たちは現代の新幹線網をたどるように、日本列島を歩き続けた。学術的には「ヤマト王権の支配力」というのが理由だろうが、便利さに慣れた身にとって、とてもまねのできない驚異の行動力を感じた。

(文化財担当 小畑三秋)

1069よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/27(火) 21:14:19 ID:wyR4AvGQ0
歴史都市・大阪、古都・大阪。
非常に長い歴史を誇る大阪の過去の姿が、ゆっくりと、しかし、着実に明らかになりつつあります。

しかしながら現王朝に繋がるお墓でもありますから、その調査・研究は慎重に節度あるものをお願いしたいものです。

真の履中天皇陵? ニサンザイ古墳が仁徳天皇陵の次に築造と判明
2012.11.27 19:56
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121127/wlf12112719570006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121127/wlf12112719570006-n2.htm

 宮内庁が陵墓参考地として管理する全国8番目の巨大前方後円墳、堺市北区のニサンザイ古墳(全長290メートル)で円筒埴輪(はにわ)などが出土し、同庁と堺市文化財課が27日、発表した。埴輪などの分析から、5世紀後半の築造で、国内最大の仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486メートル)の次に築造されたとみられる。16代・仁徳天皇の次に即位した17代・履中天皇の古墳の可能性も浮上し、天皇陵の被葬者論争に一石を投じそうだ。

 発掘調査は、宮内庁が墳丘1段目、堺市が墳丘縁辺部で実施。墳丘斜面に施された葺(ふ)き石や円筒埴輪、高温の窯で焼いた須恵器と呼ばれる土器などが出土した。円筒埴輪は、墳丘1段目の平坦(へいたん)面に5〜7本程度が築造当時の並んだ状態で見つかった。

 埴輪や須恵器は築造年代を絞り込む上で有効な遺物で、約1・5キロ北西にある仁徳天皇陵(5世紀中ごろ)より新しいことが判明。また、墳丘の長さが現在より5メートル以上長いことも分かり、全長が300メートルを越える可能性が高まった。

 仁徳天皇陵の南側には、宮内庁が指定する履中天皇陵(堺市西区、全長365メートル)があるが、埴輪などから仁徳天皇陵より古い5世紀初めごろとされ、仁徳天皇の次に即位した履中天皇の古墳ではないとの説が有力。ニサンザイ古墳については江戸時代、履中天皇の次の18代・反正天皇の古墳といわれたこともあった。

 一般公開は1、2両日の午前9時〜午後4時で、小雨決行。南海高野線・中百舌鳥駅から無料シャトルバスが運行される。駐車場はない。問い合わせは堺市文化財課((電)072・228・7198)へ。

         ◇

 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)の話「古市(ふるいち)古墳群(大阪府羽曳野市一帯)にも大規模な前方後円墳が築かれ、ニサンザイ古墳をそのまま履中天皇の墓と考えることはできないが、今回の調査で築造時期が絞り込まれた意義は大きい」

1070よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/27(火) 23:42:01 ID:AY2xyNNk0
大阪の文楽入場者が60%増に 11月の忠臣蔵公演
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/335899

  大阪・国立文楽劇場で3〜25日に行われた11月公演「仮名手本忠臣蔵」の入場者総数が、前年比約60%増の約2万4千人だったことが25日、同劇場の集計で分かった。

 人気演目の通し上演だったことに加え、補助金をめぐる橋下徹大阪市長との交渉で文楽が社会的に注目されたのも背景にあるとみられる。文楽劇場は「初めて劇場に来た観客も多かったようです」としている。

 同劇場での今年の本公演の入場者総数も、前年比約25%増の約8万6千人に上った。

 太夫の豊竹英大夫さんは「まだまだ大阪には、文化に興味のある人がたくさんいると実感した」と盛況を喜んでいた。

1071よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/28(水) 20:37:31 ID:DOK5KjvM0
文楽は「人形遣いを見てしまう」と向田邦子さんは言った
2012.11.28 12:57
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121128/wlf12112813020008-n1.htm

 向田邦子さんが、文楽を鑑賞すると「人形を見ないで人形遣いを見てしまう」と書いていた。「目立ってはいけない黒子(くろこ)の抑制の中にほんの一滴二滴、遣う者の驕(おご)りがないまぜになって、押えても押えても人形と同じ、いやそれ以上の喜びや哀しみや色気が滲(にじ)んでしまう」

 ▼約2万4100人が入場した国立文楽劇場の「仮名手本忠臣蔵」は、11月公演としては過去2番目の大入りだった。前年に比べて1・6倍増というから、補助金をめぐる橋下徹大阪市長とのバトルがPRになったのだろう。補助金問題は興行実績に連動して支給されるインセンティブ方式で決着するようで、こちらも千秋楽である。

 ▼初めて文楽を見た人はきっと、向田さん同様、「無表情の中に絶妙の表情がある」人形遣いに魅せられたに違いない。橋下さんは「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑(ふ)に落ちない」と言ったが、もう一度、自分の目で確かめていただきたい。選挙が終わったら、ぜひ

1072よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/29(木) 23:04:23 ID:ECsBNRL20
【10年前のきょう】
大阪・今城塚古墳 国内最大の埴輪祭祀跡(11月29日)
2012.11.29 03:07
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121129/art12112903080000-n1.htm

  大阪府高槻市の前方後円墳「今城塚(いましろづか)古墳」で、円筒埴輪(はにわ)列や馬具などをかたどった形象埴輪が30点以上見つかり、高槻市立埋蔵文化財調査センターが28日、発表した。形象埴輪はすでに確認されている分を合わせ計113点。この結果、埴輪祭祀(さいし)のスペースは国内最大と判明、大王級の葬送儀礼の規模が初めて明らかになった。

1073よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/30(金) 21:47:06 ID:7nnz69Q.0
大坂夏の陣、家康は堺で埋葬された

今回の案内人 亀井澄夫(日本妖怪研究所所長)
2012年11月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/121130/20121130030.html

南宗寺(堺市堺区)

 堺に徳川家康の墓があるのってご存じですか? 今回はちょっと講談調でお話しします。

 時は慶長20(1615)年、大坂夏の陣。豊臣方が優勢となり、徳川軍はちりぢりばらばら。勢いに乗った豊臣方の猛者、後藤又兵衛が見ると、一目散に逃げていく網代駕籠(あじろかご)がある。「なにやらあやしき駕籠、家康か」と思い、その駕籠ごしに槍(やり)でひと突き。「手応えあり!」と一気に引き抜いたが、まったく血のりがついていない。不思議に思った又兵衛だが、その隙に駕籠はもう遠くまで行ってしまった。

 そのとき家康は、たしかに駕籠に乗っていたが、痛いのを我慢して着物の袖で血をぬぐったというから、たいしたもの。その後、深手をおった家康は逃げきることができず、当時、宿院(しゅくいん)の南にあった南宗寺で息たえ、遺骸は敷地内の開山堂の下に埋葬された。以後、家康の代役を影武者が務め、立派に江戸幕府を開いたとか…。

 というのが、ここ南宗寺に伝わる話である。

 堺はこの戦いで丸焼けになり、南宗寺も焼失したが、元和3(17)年、当時の住職、沢庵和尚(たくあんおしょう)が、現在の地に再建した。

 この家康死亡説を指示するのは、2代将軍秀忠、3代将軍家光が、わざわざ南宗寺までやって来て参詣していることや、影武者となった人は木曽の出身で、それまで小さな藩だったのが一気に大きくなったと言われていることなど、他にもいろいろある。

 また、昭和42(1967)年、南宗寺境内に作られた徳川家康の立派な墓は、水戸徳川家初代家老の子孫、三木啓次郎を中心に、当時の堺市長・河盛安之助、国務大臣・塚原俊郎や松下幸之助までが協力して作っているのだ。

 この歴史ミステリーに興味のある方は、ぜひ、南宗寺に行ってほしい。丁寧で親切なガイドスタッフが案内してくれるし、他にも見どころがたくさんある。狩野信政が描いた八方睨(にら)みの龍(りゅう)の天井絵は、どこに行っても龍の目玉が追いかけてくるし、国の名勝庭園に指定されている枯れ山水庭園もある。

 もともと南宗寺は、三好長慶(みよしながよし)が父・元長の菩提(ぼだい)を弔うために弘治3(1557)年に建立。三好一族は文武両道に長(た)け、よほど人徳のあった人たちだったようで、今も遠方から三好を偲(しの)んで訪れる人が多い。

 大阪府内唯一の臨済宗専門道場で、歴史的にも興味のつきない、堺が誇る1万坪の寺、南宗寺である。

1074よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/30(金) 22:06:39 ID:7nnz69Q.0
水田の下に未知の古墳群… 大阪・河南町、未盗掘状態で出土
2012.11.30 16:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121130/wlf12113016520009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121130/wlf12113016520009-n2.htm

 大阪府河南町中の芹生谷(せるたに)遺跡で、古墳時代後期(6世紀後半)の横穴式石室4基が見つかり、町教委が29日発表した。これまで地元でも存在が知られていなかった古墳群で、副葬品の銀製イヤリングや土器などが未盗掘の状態で出土。当時の葬送儀礼を考える上で貴重な資料になりそうだ。

 調査は大型商業施設の建設に先立って実施。石室はいずれも長さ3・5メートル前後、幅2メートルほどで、最大1・5メートルの高さまで残っていた。墳丘はすでに失われていたが、直径12メートル程度の円墳と推定。地元の地名から石塚古墳群と命名された。

 見つかった4基のうち、同古墳群3号墳では葬送儀礼に使われたとみられる壺や高坏(たかつき)など約40点の土器、水晶や琥珀(こはく)玉などの装飾品が出土。被葬者が身につけていたとみられ、この地域の有力者が葬られたという。

 石室は当初、商業施設の駐車場造成で壊される予定だったが、業者の協力で設計変更が行われ、現地に埋めたまま保存されることになった。

 同古墳群はもともと水田地帯で、古墳の存在は知られておらず、町教委は「石塚という古墳を思わせる地名があったが、まさか古墳が眠っていたとは」と話した。現場はすでに埋め戻されている。

1075よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/01(土) 06:08:19 ID:qSR0Uc0w0
夜に浮かぶ金堂 観心寺ライトアップ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121201-OYT8T00117.htm

河内長野市寺元の古刹(こさつ)・観心寺で30日、府内最古級の国宝建造物の金堂をライトアップするイベント「観心寺 奥河内の灯里(あかり)」が始まった。2日まで。

 同寺は、南北朝時代の武将・楠木正成(1294〜1336)の菩提(ぼだい)寺。金堂は同時代に建造された折衷様建築の代表格で、1952年に国宝に指定された。

 イベントは、市観光協会などが奥河内の歴史文化を知ってもらおうと、初企画した。ライトアップは午後5時30分〜同8時30分。同6時から30分ごとに5回、極彩色で金堂壁面に四季などを表現するライティングショーが行われる。1日午後7時からは三十弦箏(そう)、2日午後5時30分からは和太鼓の演奏があるほか、梅どら焼きやコーヒーなどのミニ屋台も並ぶ。

 永島龍弘住職は「京都や奈良ばかりでなく、奥河内にも古い歴史が残っていることを知ってほしい」と話している。入山料は小中学生100円、高校生以上300円。問い合わせは市観光協会(0721・53・1111)。

(2012年12月1日 読売新聞)

1076よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/01(土) 06:11:15 ID:qSR0Uc0w0
古墳築造労働者の宿舎? 河南の遺跡で大型竪穴住居跡 大阪
2012.12.1 02:15
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121201/osk12120102150004-n1.htm

 河南町中の芹生谷(せるたに)遺跡で、古墳時代後期(6世紀後半)の大型竪穴住居跡が府教委の調査で見つかった。近くには、当時の首長の墓とされる国史跡の金山古墳(双円墳、全長80メートル)があり、古墳造営労働者の臨時宿舎の可能性もあるという。

 竪穴住居跡は4棟(一辺約5メートル)を確認。2棟ずつ重なっており、同じ場所に建て替えたらしい。また、入り口は、約200メートル南の金山古墳に向いており、古墳築造で一時的に設けられた宿舎ともみられる。

 現地公開は1日午後1時から。近鉄長野線・富田林駅から金剛バス・馬谷口(まだにぐち)下車、南西約500メートル。問い合わせは芹生谷遺跡現場事務所((電)080・4978・3055)。

1077よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/01(土) 06:11:51 ID:qSR0Uc0w0
四條畷の遺跡から和鏡 「室町時代に神社」裏付け 大阪
2012.12.1 02:14
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121201/osk12120102140003-n1.htm

 四條畷市教委は30日、讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡(同市砂、寝屋川市新家)で室町時代の和鏡が見つかったと発表した。「大将軍社」という神社があったとされる場所で、市教委は「中世には神社が存在していたことを裏付ける発見」としている。

 和鏡は直径9・5センチの青銅鏡。和風の文様が施された「柴垣柳樹双鳥鏡(しばがきりゅうじゅそうちょうきょう)」と呼ばれ、中世にさかのぼる神社に伝わる例が全国でみられるという。

 市教委によると、大将軍社は明治期に存在したことは分かっていたが、いつからかは不明。明治44年、忍陵(しのぶがおか)神社(同市岡山)に合祀(ごうし)されて廃れ、現在は雑木林になっている。

 遺跡では、中世の住居や井戸の跡、朱塗りの漆器も出土。担当者は「集落内に小さな社があった風景がイメージできる」と話す。

 和鏡は、市立歴史民俗資料館で16日まで開催中の特別展「水辺のくらし」(入館無料)で、4日から展示される。問い合わせは、同館((電)072・878・4558)。

1078よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/02(日) 20:11:35 ID:D8jzmzTg0
狭山池への貢献者学ぶ 大阪狭山でシンポ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121202-OYT8T00099.htm

 国内最古の人工のため池・狭山池の歴史を考えるシンポジウム「ため池築造と偉人」が1日、大阪狭山市の市文化会館(さやかホール)で開かれ、約150人がため池築造にかかわった人物について学んだ。

 同シンポは、同じ工法で作られた韓国南西部の金堤(キムジェ)市にある同国最古のため池・碧骨堤(ピョッコルチェ)との世界遺産共同登載を目指し、2010年に始まり、3回目。日本と韓国の歴史学者3人が研究成果を報告した。

 服部英雄・九州大教授は、狭山池の改修を手掛けた鎌倉時代の高僧・重源(ちょうげん)(1121〜1206年)の功績や、中世の水利灌漑(かんがい)について、「重源は大陸文化に精通し、東大寺再建などの経験もあり、財力、知力を持ち合わせていた」と説明。

 参加者からは「なぜ僧が中世の事業の多くにかかわっているのか」と質問があり、服部教授は「今でも地鎮祭が執り行われるように、天候や大災害など人々が恐れることに立ち向かうカリスマ性や、国家と民をつなぐ役割が、僧侶に期待されたのだろう」と答えていた。

(2012年12月2日 読売新聞)

1079よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/03(月) 23:15:06 ID:2QBU/5VQ0
桂雀松さんが文之助襲名へ
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003910281.html?t=1354543724687

上方落語の大名跡、桂文之助の三代目を来年、桂米朝一門の桂雀松さんが襲名することになりました。桂文之助は、明治時代から続く上方落語の大名跡で昭和5年に二代目が亡くなって以降80年余り空席になっていました。
文之助を襲名することになった桂雀松さんは、3日、大阪・北区で会見し、「名前に恥じないよう自分にプレッシャーをかけて仕切りなおして頑張りたい」と意気込みを語っていました。
桂雀松さんは神戸市出身の56歳、古典以外に新作落語や英語を使った落語で活躍し、平成18年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。
桂雀松さんの文之助襲名披露公演は、来年10月から大阪など各地で行われるということです。

12月03日 19時43分

1080よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/03(月) 23:44:17 ID:2QBU/5VQ0
福娘50人そろい踏み 代表4人も決まる
2012年12月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121203/20121203022.html

 商売繁盛の「えべっさん」として親しまれている今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)の十日戎に花を添える第61代の福娘50人が2日、国際会議ホール(同市中央区)でお披露目された。このうち代表4人を決める選考会も行われ、福娘たちはものまねや歌など元気いっぱい特技をアピールしていた。

 ことしは2978人(昨年2984人)が応募。代表には、阪南大1年の竹井いづみさん(18)=富田林市=、大阪松蔭女子大3年の中川瑞さん(21)=堺市=、会社員の長野愛梨さん(18)=尼崎市=、立命館大3年のクリスティーンサアブさん(20)=ギリシャ=の4人が選ばれた。

 祖母と母、叔母が歴代の福娘だったという竹井さんは、「すごいプレッシャーだった。涙が止まらない。大阪に住んでいる人は1年は福娘で始まる。しっかりとご奉仕したい」と涙ぐみながら意気込みを語った。

 50人の福娘たちは、十日戎(1月9〜11日)の参拝者に福ザサを授けるほか、官公庁への表敬などを行う。

1081よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/03(月) 23:50:28 ID:2QBU/5VQ0
笑顔で繁盛届けます 今宮、布施戎の福娘
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121202-OYT8T01091.htm

 今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)の十日戎(来年1月9〜11日)で商売繁盛の福笹(ざさ)を授ける福娘50人の中から、2日、代表4人が決まった。

 阪南大1年の竹井いづみさん(18)、大阪樟蔭女子大4年の中川瑞(みずき)さん(21)、会社員の長野愛梨さん(18)、ギリシャからの留学生で立命館大1年のクリスティーン・サアブさん(20)。

 大阪市中央区のホールで行われた選考会では、2978人の応募者から選ばれた50人が晴れ着姿で登場し、歌や踊りで自己PRした。

 竹井さんは「祖母、母、叔母も福娘。50人で力を合わせて奉仕したい」と笑顔を見せた。

 この日は布施戎神社(東大阪市足代)でも新春の「布施戎」(来年1月9〜11日)を手伝う福娘が決定。「ミス福娘」に、同志社大4年中野由美子さん(22)、「準ミス福娘」には、関西大3年庄田彩乃さん(21)と、奈良県立大3年小野茜さん(21)の2人が選ばれた。中野さんは「誰よりも笑顔で頑張り、多くの人に福を届けたい」と語った。

(2012年12月3日 読売新聞)

1082よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/11(火) 21:51:50 ID:YEur3fps0
子ども四十七士 墓前で勝ちどき 大阪義士祭
2012年12月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121211/20121211025.html

 「忠臣蔵」の赤穂浪士の討ち入りの時期に合わせ、浅野家大阪菩提(ぼだい)寺である大阪市天王寺区六万体町の万松山吉祥寺(村山雅雄住職)で9日、大阪義士祭があった。四十七義士の法要が営まれ、義士に扮(ふん)した子どもらが行列をつくって大阪城を訪問した。

 大阪義士会(高橋博文会長)が主催。江戸時代より毎年、四十七義士の遺徳をしのぶ目的で吉良邸討ち入りの日の12月14日に義士の遺品を展示してきたが、戦後は占領軍の命により中断。遺徳を後世に伝えようと1953(昭和28)年に「赤穂奉賛義士祭」として再開してから、ことしで60回目を迎えた。

 墓前での法要のあと、2〜11歳の子どもらが、白と黒の山形模様の衣装に着替えて集合。大石内蔵助役の河崎汰寿久君(8)を中心に「エイエイオー」と勝ちどきを上げ、大阪城へ出発した。

 武道や太鼓の奉納、野だてや「討ち入りそば」の振る舞いもあり、境内は大勢の参詣者でにぎわった。

1083よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/13(木) 06:15:16 ID:L3U4soZE0
茨木で謎の土坑群 専門家も首ひねる
2012.12.12 22:29
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121212/waf12121222320053-n1.htm

 大阪府茨木市岩倉町の中条小学校遺跡で市松状に整然と並んだ120基以上の土坑(穴)が見つかり、市教委が12日発表した。弥生時代後期(2世紀後半)とみられるが、専門家は「墓でも貯蔵庫でもない。いったい何の穴なのか」と首をひねる。

 土坑は縦2〜3メートル、幅約1メートル、深さ40〜50センチ。東西7列の穴が南北約80メートルにわたって120基以上並ぶ。

 市教委は今年4月から縄文時代〜中世の集落跡などが見つかっている同遺跡の調査を始め、土坑群を発見。土の堆積状況から墓ではなく、ごみ穴や貯蔵庫の可能性が浮上したが、穴の内部からは遺物がほとんど見つからなかった。

 土器に使う粘土を採取する穴とも考えられたが、周辺には粘土層がないことなどから、担当者は「少なくとも近畿では前例がなく、さっぱり分からない」。

 弥生集落に詳しい同志社大歴史資料館の若林邦彦准教授は「配列に意味があったと考えられるが、現時点では謎だ」としている。

 現地説明会は15日午前10時半〜午後4時。問い合わせは現地事務所((電)072・622・5905)。

1084よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/13(木) 06:32:37 ID:L3U4soZE0
「梅亀天神餅」が誕生 大阪天満宮お墨付き 参拝みやげへの定着狙う
2012.12.13 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121213/osk12121302030000-n1.htm

 「天神さん」の愛称で親しまれる菅原道真ゆかりの大阪天満宮(大阪市北区)に12日、天満宮お墨付きの新たな名物「梅亀天神餅(うめかめてんじんもち)」が誕生した。もちにこしあんをのせた菓子で、天満宮近くにある茶店「梅亀庵(うめかめあん)」で販売中。この日、天満宮では奉納式が行われ、天神さんの土産として末永く愛されるよう関係者らが祈願した。

 天満宮周辺ではこれまで、名物といえる土産物がなかったといい、天満宮の寺井種伯宮司から「名物がほしい」という話を聞いた、飲食チェーンを全国展開するフジオフードシステム(本社・大阪市北区)が開発を手がけていた。

 約半年かけて今年秋に完成したという梅亀天神餅は、天満宮とかかわりの深いウメの赤ジソを国産のもちに練り込んでいるのが特徴。ほんのりとした塩味とさわやかな香りがアクセントとなっている。

 さらに、もちの上には、国産の小豆を使ったこしあんを楕円(だえん)形にあしらい、天満宮境内にある「星合の池」(通称『亀の池』)にすむ亀の甲羅に見立てたという。

 奉納式では、約10人の関係者らが参列。梅亀天神餅を奉納し、天満宮お墨付きの土産物として親しまれるよう全員で祈願した。

 フジオフードシステムの藤尾政弘社長は「伊勢の赤福などのような参拝みやげとして定着するよう、創意工夫を重ねながら、大事に育てていきたい」。天満宮の寺井種治権宮司も「待望の一品。参拝の楽しみの一つに加えていただければ」と話している。

 2個入り210円から。午前11時〜午後7時半、無休。問い合わせは梅亀庵((電)06・6882・0871)。

1085よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/14(金) 07:06:05 ID:qpLuHSss0
浪華紙魚百景 大商大商業史博だより

河内幕府領年貢米の江戸廻送記録
2012年12月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwashimi/121212/20121212038.html

御廻米着船要用留

 隅田川に架かる蔵前橋の西詰に「浅草御蔵跡」の石碑がある。その横には台東区教育委員会が立てた解説板があり、「浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納保管した倉庫である。(中略)ここの米は、主として旗本・御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。…」という説明書きがある。

 隅田川河岸の浅草御蔵は享保(1716〜36)ごろまで江戸各所に散在していた米蔵を1カ所に集めたもので、その規模は幕末には合計67棟356戸にも及んだ。江戸時代、この浅草御蔵の西側を「御蔵前」といい、蔵米を扱う米問屋や札差(ふださし)が立ち並んでいた。「蔵前」はそれにちなんで昭和9(1934)年に付けられた町名である。

 さて、河内国には江戸幕府の直轄地が多く、若江郡御厨村もその一つであった。畿内幕府領の年貢米が廻(かい)送された米蔵は江戸の他に京都や大阪にもあったが、幕末期の御厨村の年貢米の多くは江戸へ廻送された。後述する安政4(1857)年を例にとると、御厨村の米納総量253石余りのうち、145石ほどの米が江戸浅草御蔵に廻送された。

 廻船の準備は廻船御用達という専門の商人が担当し、郡中の実力者の中から納名主(おさめなぬし)や上乗(うわのり)といった代表者が選ばれ、江戸への年貢米上納の任務を勤める。

 安政4年、御厨村の庄屋加藤勘左衛門は、信楽代官所が管轄する河内国南方5郡(若江郡・渋川郡・志紀郡・丹南郡・丹北郡)村々の「納名主惣(そう)代」として江戸へ赴く。勘左衛門は12月3日に陸路で江戸へ向かい、東海道を経て12月中旬に江戸へ到着した。

 この時の年貢米の廻送記録が「御廻米着船要用留」にまとめられている。廻船は河内国全体で10艘(そう)あり、このうち南方5郡の年貢米を廻送したのは3・6・7・8・9・10番船の6艘である。

 帆船のため風雨に左右されたが、3週間ほどで品川へ入り、ここで川船に積み替えて、隅田川の浅草河岸まで年貢米を運ぶ。10艘が日程前後して大阪を出発するので、最後の10番船が品川へ入津したのは2月中旬のことである。

 勘左衛門が約5600石にも上る年貢米の上納を終えて江戸をたったのは、既に3月も半ばであった。復路は中山道をたどり、3月28日に帰国。実に足かけ4カ月にも及ぶ重責であった。

 (大阪商業大学商業史博物館学芸員・池田治司)

1086よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/14(金) 07:09:28 ID:qpLuHSss0
和を願う「巳」の絵馬 迎春へ道明寺天満宮
2012.12.13 16:43
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121213/wlf12121316440014-n1.htm

 学問の神様で知られる道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)のジャンボ絵馬が迎春準備事始めの13日、来年のえと「巳」に掛け替えられた。

 絵馬は上方浮世絵の伝統を受け継ぐ女性画家の五世長谷川貞信さんが、宮司の南坊城充興さんから「和を大切にする年になるよう願いを込めた巳を描いて」と頼まれ、向き合う巳を優しい線で描いた。高さは2メートル、幅2・4メートル。

 禰宜の南坊城光興さんは「政争も絶えないし、来年はほんとに和が大切な年になりそうです。人との縁、神様との縁を大切にする年になってほしい」と話した。

1087よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/14(金) 07:10:40 ID:qpLuHSss0
大阪文化賞に桐竹勘十郎さん 文楽人形遣い
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121214-OYT8T00095.htm
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 府と大阪市は13日、文化芸術振興に功績を果たした人に贈る今年度の「大阪文化賞」に人形浄瑠璃の文楽人形遣い、桐竹勘十郎さん(59)(大阪市)=写真=を選んだと発表した。

 府出身の桐竹さんは、1968年に文楽協会技芸員となり、2003年に3世・桐竹勘十郎を襲名。今夏、大阪・国立文楽劇場での夏休み特別公演で親子劇場「鈴の音」を上演し、8月の文楽初のアフリカ公演では団長を務めた。贈呈式は26日午後4時から、大阪市公館で行われる。

(2012年12月14日 読売新聞)

1088よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/16(日) 05:40:41 ID:q7bmrwAE0
大絵馬“巳”応えあり 道明寺天満宮
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121214-OYT8T00089.htm
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 学問の神様・菅原道真をまつる藤井寺市の道明寺天満宮に13日、来年の干支(えと)「巳(み)」にちなんだヘビのジャンボ絵馬(高さ2メートル、幅2・4メートル)がお目見えした。

 ジャンボ絵馬の飾り付けは、1970年から毎年行われている。上方浮世絵の伝統を受け継ぐ女性画家、長谷川貞信さん(66)(寝屋川市)が、白ヘビ2匹に天満宮のシンボル・紅梅をあしらった絵を描いた。

 禰宜(ねぎ)の南坊城光興(みなみぼうじょうみつおき)さん(38)は「東日本大震災の被災地復興も続く。来年は色々なことが前に進む年になってほしい」と話した。同天満宮は、正月三が日で延べ20万人の参拝客を見込んでおり、同じ絵柄の「開運干支絵馬」(初穂料1500円)を計5000枚準備する。

(2012年12月14日 読売新聞)

1089よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/16(日) 05:46:46 ID:q7bmrwAE0
国登録文化財に小谷家住宅 審議会答申
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121216-OYT8T00110.htm
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 国の文化審議会が文部科学相に答申した登録有形文化財(建造物)に、府内からは江戸時代の住宅「小谷家住宅」(堺市南区)など4か所11件が選ばれた。

 小谷家住宅は江戸時代中期の建築で、木造平屋、銅板ぶき。地元の有力武士だった小谷氏が、城跡に築いた。府教委によると、「中世の山城の雰囲気を残している。丘陵中腹の城跡に立つ旧家の屋敷群として貴重」と評価されたという。

 また、浄土真宗本願寺派の僧侶育成のために建てられた施設「行信教校(ぎょうしんきょうこう)」(高槻市)は「木造校舎として希少な存在」として選ばれた。ほかは、大正時代の近代和風住宅「小森家住宅」(大阪市中央区)と、明治時代の住宅で、市民の文化活動の場として一般公開されている「旧田中家住宅」(富田林市)。

 今回の答申で、府内の登録有形文化財(建造物)は206か所545件となる。

(2012年12月16日 読売新聞)

1090よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/16(日) 22:36:36 ID:NaTVgWwg0
大阪ロマン紀行

 大阪のDNAを感じさせる場所や企業、人を、独自の嗅覚を持つコラムニストの岡力氏が、関西に点在するオカルトスポットを、妖怪講座が人気の亀井澄夫・妖怪研究所所長が、代わる代わる紹介していきます。二人の案内人がお薦めする“ディープ大阪”を存分にお楽しみください。


生者のための厄除け祈祷寺、あびこ観音

今回の案内人 亀井澄夫(日本妖怪研究所所長)
2012年12月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/121214/20121214034.html

観音宗総本山吾彦山大聖観音寺(大阪市住吉区)

 お寺には供養寺(くようでら)と祈祷寺(きとうでら)がある。供養寺は先祖や亡くなった方の供養をするお寺で、通常、寺にお墓があり檀家(だんか)制度もある。もうひとつの祈祷寺は、お墓や亡くなった人とは直接関係がない。今、生きている人を祈祷するためのお寺である。つまり、死者ではなく、生者のための寺なのだ。

 その中で厄除(やくよ)けの祈祷では大阪随一と言われる、吾彦山大聖観音寺(あびこさんたいしょうかんのんじ)、通称「あびこ観音」(大阪市住吉区)に取材した。ここは生者のための寺であるので、お墓はなく、死者を供養することもない。お寺は檀家ではなく、一般の信徒によって支えられている。

 ご本尊は一寸八分(約5・5センチ)の聖観音像(しょうかんのんぞう)で、546年に百済(くだら)(朝鮮半島)より、膳臣巴提便(かしわでのおみはてび)(今の外交官的存在)が持ち帰った胎内仏である。しかし当時、まだ仏教は一般に信仰されていたわけではなく、その頃の飛鳥の都は、聖観音像を受け入れようとしなかった。

 それで、難波依網郷(なにわよさみのさと)の阿比古浦(あびこうら)に草庵(そうあん)をしつらえて安置した。たしかに日本に仏教が伝来した歴史で見ると、諸説あるが、ちょうど、その前後ぐらいなのだ。せっかく百済の聖明王(せいみょうおう)が国の安泰を願って渡してくれた仏像が、情けない扱いになってしまった。

 しかし、近くの人々や豪族たちが噂(うわさ)を聞きつけてお参りに来るようになり、「たしかに御利益もあり霊験あらたか」という評判が立っていった。その後、聖徳太子が聖観音像のために12年がかりで安彦山観音寺を建て、以後1400年以上も続いて今に至っている。

 この寺には様々(さまざま)な逸話が伝わっていて、その中に徳川家康が大阪夏の陣で秀吉の軍から逃げて、この寺にかくまわれた話がある。そのときの和尚、快敬(かいきょう)が偶然、家康と旧知の仲で、家康を本堂の須弥壇(しゅみだん)にかくまい、真田の軍をやりすごし、無事に家康を逃がしたのだ。

 聖観音像は現在、秘仏として安置されているが、2月の節分にご開帳となる。しかし、小さすぎてよほど近くに来ないと見れないという。

 この節分が日本最古の伝統を誇る、節分厄除大法会(せつぶんやくよけだいほうえ)で、2月1日から7日まで行われ、大きなお堂の中で護摩をたく(見に来られる方は、護摩をたく日の確認を)。節分は何十万人というすごい人出になり、露店も300店以上出るので、交通規制がかかる。同じように正月も、寺の境内や周辺の町が人でいっぱいになる。非常に人気の高い寺であるが、それもそのはず、ここは死者ではなく生者が集まる生者のための寺なのだ。

1091よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/19(水) 22:49:11 ID:tk0qVwd60
少しずつ少しずつ着実に古代の大阪が明らかになっていく。
それは今までの想像以上に大きくて素晴らしい都市であったようだ。
大阪を知らずして日本を語るべからず。日本国の母なる大地は大阪なり。


大阪・難波京の南に大規模建物群 5棟整然、範囲拡大も
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/12/2012121901001478.htm

 大阪市天王寺区の北河堀町所在遺跡で、7〜8世紀ごろとみられる5棟の大規模な建物跡が見つかり、大阪市教育委員会と大阪市博物館協会大阪文化財研究所が19日発表した。これまで想定されていた難波京(東西約1・6キロ、南北約4・2キロ)のすぐ南側で、京の範囲がさらに南に広がる可能性もあるという。
 同市教委などによると、中心にある建物は東西6・3メートル、南北14・3メートル。柱の直径は30センチ。この建物を囲むようにほかの4棟が整然と配置されていた。担当者は「建物は難波宮内のものと比べても遜色のない大きさ」としており、有力者の邸宅か役所とみている。


難波宮と同時代の建物跡発見
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20121219/4269221.html?t=1355922279671

大阪に置かれた、古代の都「難波宮」と同じ時期に築かれたとみられる建物の跡が、大阪・天王寺区で、見つかりました。
「難波宮」の周囲にあったとされる都市については、その範囲など、不明な点も多く、今回の発見は、都市の実態に迫る貴重な資料として注目を集めそうです。
大阪の中心部にある「難波宮」は、7世紀と8世紀の2度にわたって宮殿が築かれた場所です。
この「難波宮」から、南に約3キロ離れた天王寺区で、大阪文化財研究所などがことし9月から発掘調査を進めたところ「難波宮」と同じ時代に築かれたとみられる建物の跡が、計5棟分みつかりました。
これらは「難波宮」の中にあった役所などの建物に匹敵する規模で、最も大きなものは幅が16メートル、奥行きが5メートルほどあるほか、方角をそろえて、規則正しく建てられていることなどから、大阪文化財研究所によりますと、貴族など有力者の邸宅か役所の可能性が高いとみられるということです。
「難波宮」の周囲にあったとされる都市については、その範囲など、不明な点も多く、今回の発見は、都市の実態に迫る貴重な資料として注目を集めそうです。
研究所の学芸員、市川創さんは「難波宮の周囲で整然と立てられた建物の跡が5棟も見つかるのは今回が初めてだ。今回の発見は、当時の都市の実態を把握するうえで大きな意味がある」と話しています。

12月19日 19時42分

1092よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/20(木) 06:49:45 ID:OE5eL5eQ0
難波京:大規模な建物跡見つかる 7〜8世紀、貴族邸宅か
毎日新聞 2012年12月19日 21時21分(最終更新 12月19日 21時57分)
http://mainichi.jp/select/news/20121220k0000m040052000c.html

 大阪市天王寺区の難波京(なにわきょう)跡(北河堀町所在遺跡)で、7〜8世紀の大規模な建物跡5棟が見つかり、19日、大阪文化財研究所が発表した。格式の高い1棟(南北約18メートル、東西約10メートル)を囲むように他の4棟が規則的に配置され、2500平方メートル以上の広大な敷地を有していた。同研究所は位の高い貴族の邸宅か役所だったと見ており、「古代大阪の都市構造や京の実態解明につながる重要な手がかりだ」と指摘している。

 難波京は宮殿(難波宮10+件<なにわのみや>)の周囲に存在した都市域。民間の土地開発に伴い、同研究所が9月から調査していた。現場はJR天王寺駅の北約250メートル、四天王寺の南約500メートルで、想定される京(東西約1.6キロ、南北約4.2キロ)の南端にあたる。

 建物群は、ひさしがあって最も規模の大きい建物を中心に、東西南北に1棟ずつ見つかった。北側の建物は2番目に大きく、東西約16メートル、南北約5メートル。最も小さい南側の建物は、東西約8メートル、南北約5メートルで、倉庫か門だったとみられる。柱の直径は最大約30センチ、最も高い建物は推定3〜7メートルで、これまで難波宮跡で見つかった建物に匹敵する規模だった。

 調査した市川創・学芸員は、「調査地は宮や難波津(港)に近く、北に四天王寺、南に阿倍寺の塔を望む風光明媚(めいび)な場所だっただろう。従来より京域が南に広がる可能性も出てきた」と話す。続日本紀(しょくにほんぎ)は744年ごろ、元正上皇が難波京に左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の邸宅を訪ねたと伝えるが、この邸宅が京内のどこにあったかはわかっていない。

 現地説明会は22日午後1時〜同3時半。少雨決行。問い合わせは同研究所難波宮調査事務所(06・6943・6836)。【林由紀子】

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1093よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/20(木) 06:51:02 ID:OE5eL5eQ0
情報プラザ:シンポジウム『大阪上町台地から都市を考える』第5回「難波宮下層遺跡と都市−難波宮誕生前夜」 /大阪
毎日新聞 2012年12月15日 地方版
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20121215ddlk27040399000c.html

 23日(日・祝)10時〜16時20分、大阪市中央区大手前4の大阪歴史博物館4階講堂(地下鉄谷町四丁目駅4号・9号出口)。難波宮の港や交通路、外交、交易に関する資料と研究成果から、日本列島の都市の成立と成長過程を明らかにする。講師は大阪文化財研究所の南秀雄さんら。事前申し込み不要。当日9時半から先着250人。参加無料。同博物館(06・6946・5728)。

1094よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/20(木) 21:24:10 ID:z7eC5e020
観客下回れば人件費補助せず
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20121220/4187061.html?t=1356005834484

文楽の運営団体への補助金の支給額を来年度は、観客数に応じて決めるとしている大阪市は、人件費などにあてる2900万円は、大阪での公演の年間の観客数が、9万人以下の場合には支給しない方針を固めました。
大阪の伝統芸能、文楽を運営する「文楽協会」への補助金をめぐっては、来年度から、観客数に応じて支給額を決めるという大阪市の方針を協会が受け入れたことから、その具体的な対応を市が検討していました。
そして、きょう、市は、来年度の予算編成を前に、協会への補助金をめぐる考え方を橋下市長に説明しました。
それによりますと、来年度の協会への補助金はこれまでと同じ、3900万円としたうえで、このうち、1000万円は文楽の演じ手の技芸員が三味線や衣装などを買ったり、修理したりする際の補助にあてる方針です。
一方、残る2900万円は、人件費などの補助として支給するとしていますが、支給額は観客数と連動させるとしています。具体的には大阪での公演の年間の観客数が9万人以下の場合は、補助金は支給しない一方で、10万5000人以上の場合は、2900万円満額を支給する方針です。また、9万人を超え、10万5000人に満たない場合は、観客数の割合で、支給額を決定するとしています。市によりますと、平成15年度以降、観客数は、毎年、9万人を超えているということで、市では、「来年度以降、9万人以下になるようなら、協会の対応は評価できない」と話しています。

12月20日 18時51分

1095よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/21(金) 06:43:17 ID:nCADNnHs0
神様に感謝の爆笑奉納 枚岡神社「お笑い神事」
2012年12月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121220/20121220020.html

 天照大神の「天岩戸開き」にたずさわった神の一人、天児屋根命(あめのやねのみこと)を主祭神とする枚岡神社(東大阪市)では毎年12月25日、同故事にならって「笑い」を再認識し、神様に感謝をささげる神事「注連縄掛神事(通称お笑い神事)」が行われている。今年は初めて、関西演芸協会が行う「笑納演芸会」とあわせたイベントを企画。一般市民の参加を呼び掛けている。

 初代天皇の神武天皇が即位する3年前に創祀(そうし)したとされる歴史の長い同神社。この故事にならった「お笑い神事」は、同市の無形民族文化財で、神様の前で20分間笑い続け、1年を感謝で締めくくる。これまで「神事は神聖なもの」として宣伝してこなかったが、「せっかくいい神事なので多くの市民に参加してもらいたい」(山根眞人禰宜(ねぎ))と企画した。

 趣旨に賛同した同協会は、1949年の設立。落語、漫才だけでなく奇術、講談、浪曲、歌謡曲など演芸全般にわたって事務所の垣根を越え、250人以上の芸人が所属する。一事務所ならかなわない層の厚さや歴史などが信頼につながり、神事への参加が決まった。

 同協会の桂福團治会長は「ただ笑ってスッと終わるだけでなく、そのシーンを思い出して心からよみがえる笑いを身につけられるよう、協会員一丸となって頑張りたい」と話している。

 20分笑い続ける「お笑い神事」は午前10時から、参加無料。演芸会は午前11時、午後1時、同3時、同6時半の4回、木戸銭千円〜。問い合わせは電話072(981)4177、同神社へ。

1096よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/21(金) 06:45:35 ID:nCADNnHs0
「薬の町」に歴史の証人 「杏雨書屋」が移転へ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121221-OYT8T00095.htm

 「薬の町」として知られる大阪市中央区道修町(どしょうまち)に、薬に関する資料館「杏雨書屋(きょううしょおく)」(大阪市淀川区)が来秋、移転することになった。これまでは研究者が中心に利用する施設だったが、移転後は一般向け展示も予定。製薬各社の転出が続いて様変わりする道修町の歴史に触れる場になりそうだ。(山村英隆)

 資料館は、1923年の関東大震災で貴重な文献が失われたと聞き、武田薬品工業の創業家・武田家が、医薬の資料を集め始めたのが始まり。武田家から文献3万点12万冊の寄贈を受けた「武田科学振興財団」が78年、淀川区の同社大阪工場の一角に杏雨書屋(3階建て、約1000平方メートル)を整備した。

 収蔵品には、平安時代に中国の医学の古典を再編集した「黄帝内経太素(こうていないけいたいそ)」(国の重要文化財)や、江戸期に刷られた日本初の本格的西洋医学の翻訳書「解体新書」など貴重なものが含まれる。近年、資料の寄贈が相次ぎ、計4万点15万冊を所蔵し、手狭になっていた。

 同財団が来秋、設立50周年を迎えることもあり、同社の前身・武田長兵衛商店があった地に立つ同社旧本社ビル(5階建て)に資料館を移転することに。新資料館は約1400平方メートルで、これまで一般公開は年2回だったが、常設展示も行う。淀川区の杏雨書屋は移転準備のため、来年1〜9月はいったん休館とする。

 道修町周辺に集まっていた製薬、医療関係の企業は90年代後半頃から、本社機能を東京に移転させる所が増加。東京と道修町の2本社体制を維持する武田薬品工業も2007年4月、広報・IR部門を東京に集約した。同財団の横山巖理事長は「育ててもらった創業の地に杏雨書屋が移るのは感慨深い。みなさんに広く知ってもらいたい」と話す。

 大阪の歴史や文化に親しむ「船場大阪を語る会」会長で、道修町で生まれ育った三島佑一・四天王寺大名誉教授(84)は「製薬各社が東京に移転するのをさみしい思いで見てきた。研究成果も新資料館で公開すれば、道修町の歴史を学ぶ人が増えるだろう」と期待している。

<道修町> 江戸時代に薬専門の株仲間が集まり、第1次世界大戦前後に西洋の薬を扱う店が増えた。武田薬品工業、塩野義製薬、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)が道修町御三家と呼ばれ、町内には薬の神様をまつる少彦名(すくなひこな)神社もある。同神社に併設されている「くすりの道修町資料館」によると、周辺の製薬、医療関係の企業は80年代には300社近くあったが、現在は200社を切るほどだという。

(2012年12月21日 読売新聞)

1097よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/21(金) 21:03:22 ID:ILSi5zz.0
大阪大に半世紀前の発掘映像 野中古墳、HPで公開
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201212210152.html

 1964年に大量の鉄製甲冑かっちゅうが出土した野中のなか古墳(大阪府藤井寺市)の発掘の様子を撮影したカラー8ミリフィルムが見つかり、21日、大阪大が発表した。15分間の映像を考古学研究室のホームページで公開している。

 古墳は、世界遺産登録を目指す「百舌鳥もず・古市ふるいち古墳群」の一つで、国史跡。福永伸哉ふくなが・しんや教授は「当時の発掘映像は珍しいだけでなく、出土状況も詳しく分かり貴重だ」としている。

 2009年に文学研究科の収蔵室から2巻が見つかった。学生らが発掘する様子や、遺物を取り上げる場面など計21分の映像があった。

 野中古墳は5世紀半ばに造られた1辺37メートルの方墳。64年3〜7月、大阪大が発掘。鉄製の甲冑や武器、鉄の地金、陶質土器など朝鮮半島南部との交流を物語る多数の副葬品が出土した。

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1099よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/22(土) 21:25:43 ID:DoM.PU9I0
「400歳の街」なぜニュータウンの真ん中に 大阪・千里
2012/12/22
http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH1200K_T11C12A2AA2P00/
http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH1200K_T11C12A2AA2P00/?df=2

大阪府の吹田市と豊中市にまたがる日本初の大規模ニュータウン「千里ニュータウン」の街開きから今秋で50年。高層団地や道路が計画的に配置され、整然とした街並みのど真ん中に開発されずに残った豊中市上新田地区がある。いったい、どんな経緯があったのだろう。

 ニュータウンの中心、北大阪急行の千里中央駅から南へ約5分歩くと上新田天神社の鎮守の森だ。辺りには家紋入りの瓦ぶきの屋根と白壁の住宅。周囲を団地群に囲まれた上新田1〜4丁目の約100ヘクタールは開発の「除外地」と呼ばれる。

               ◇            ◇

 千里ニュータウンは広さ1160ヘクタール、住居数約4万戸、人口約9万人。1958年の計画決定で「1320ヘクタールの土地買収」とし、上新田も含まれていた。

 買収地の大半は森林や田畑だったが、府によると上新田地区には当時、約1000人が居住。7割が農家で、古文書「新田由来記」によると、17世紀前半に新田の開発が始まった。400年前のニュータウンなのだ。1873年開校の新田小学校の旧校舎(1900年建築)は当時では珍しい純和風の建築で府の指定文化財だ。

 ニュータウンの用地買収は難航した。「60年安保」の時代で、農業者は労働組合と手を結ぶ「労農提携」で対抗。府は「府民の住宅確保」の錦の御旗を掲げた。府職員として開発を担った片寄俊秀・大阪人間科学大学教授は「街開きの式典の周りで『土地取り上げ反対』のむしろ旗が翻っていた」と振り返る。

 上新田でも反対の声が上がり、府は1960年5月、専門家会合で、同地区のニュータウン開発を断念。7月には用地買収対象を「既存集落周辺を除いた1155ヘクタール」に縮小、同地区を「除外地」とした。府の試算では住宅は当時、18万戸不足し、待ったなし。片寄教授は「府にとってニュータウン開業は最優先課題。人が生活する上新田を無理に開発するのは時間がかかりすぎ、困難だった」と話す。

1100よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/22(土) 21:26:41 ID:DoM.PU9I0
>>1099

「取り残された街」とも言われた上新田。今どうなっているのか。11月の日曜日、上新田天神社は七五三を祝う親子でにぎわっていた。初詣にはニュータウンから約2万人の参拝客が訪れるという。千里中央駅からの参道は参拝客でごった返す。

 千里ニュータウンではコミュニティー形成が課題とされる。天神社の中村暢晃宮司は「人は人とのかかわり合いの中でしか生きられない。天神社がニュータウンの人にとって、コミュニティーの場所としての役割を果たしている」と強調する。上新田に古くから住む氏子総代会会長の山田昭治さんは「若い人は天神社を『パワースポット』と呼ぶ。非日常の空間がうらやましいのでは」と話す。

 天神社では毎年1月、無病息災を願う火たきの行事「とんど祭り」がある。8メートル超の松を100本の竹で支える準備作業は「旧村」と呼ばれる昔ながらの地区の自治会9班が順番に担当。来年は8班だ。自治会のほぼ全戸にあたる約160戸が氏子。地区内に相次ぎ建設されたマンションの住人との交流も進み、伝統の秋祭りでは、みこしに乗る小学校4年生8人の「乗り子」は近年、マンションの子らが占める。

 上新田はニュータウン開発による鉄道・道路網の整備で恩恵を受けた。地価は上昇、住人は1万8000人を超えた。一方、ニュータウンの住民は天神社や地区の自然に癒やしを求める。片寄教授は「千里ニュータウンは上新田に救われた面もある」と指摘する。400年前のニュータウンの上新田と、50歳を迎えた千里ニュータウンがお互いを補い合いながら未来へ向かっている。

(大阪地方部 泉延喜)

1101よっさん ◆AXS9VRCTCU:2012/12/26(水) 20:13:16 ID:yLsBMtPQ0
なんで「住吉大社」と書かないのですかね、疑問です。


住よし大社で縁起物の準備進む
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20121226/4397401.html?t=1356520191468

毎年200万を超える人が初詣に訪れる大阪・住吉区の住よし大社では、みこたちが参拝者に手渡す縁起物の準備を進めています。
「すみよっさん」の愛称で親しまれている住よし大社では子供たちが神事で奉納する踊り「住よし踊」の縁起物を作る作業が、きょうから本格的に始まりました。
この縁起物は軒先に飾ると五穀豊穣や無病息災などの御利益があるとされていて、きょうは6人のみこたちが踊りをかたどったミニチュアを、1つずつ笹に取り付けて完成させていきました。
みこの野内優里さんは「境内の迎春の準備も整ったので、すがすがしい気持ちでお参りいただけるようにお待ちしています」と話していました。
住よし大社によりますと、来年の正月3が日は、あわせて250万人の参拝者を見込んでいるということです。

12月26日 19時33分

1102よっさん ◆AXS9VRCTCU:2012/12/26(水) 20:19:12 ID:yLsBMtPQ0
松井知事に「涙」の訴え? 文楽人形遣いの桐竹さんに大阪文化賞
2012.12.26 19:54
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121226/waf12122619580033-n1.htm

 今年度の大阪文化賞に選ばれた人形浄瑠璃文楽の人形遣い、桐竹勘十郎さん(59)への贈呈式が26日、大阪市公館で行われた。今年は大阪市が文楽協会への補助金を一時凍結する問題があっただけに、松井一郎知事は「心配をおかけしました」と陳謝。桐竹さんは「おかげさまで(入場者数が)昨年の1・6倍になりました」と笑顔を見せつつ、人形で泣くしぐさを披露する一幕もあった。

 松井知事は府と大阪市が協調して文楽の継承に取り組む姿勢を示す一方、大阪市が来年度、年間有料入場者数が9万人以下なら協会への補助金をゼロにする方針を打ち出したことに触れ、「橋下徹市長がハードルを設けるのは、切磋琢磨しながら文楽を守り、発展させるため」と述べた。

 桐竹さんは「大きな宿題をいただいた」と表情を引き締め、実際に人形で泣いたり、歩いたりするしぐさも披露した。

 一方、松井知事には文楽観賞経験がなく、「子供たちに見せるバージョンは短いですか」などと公演時間の長さなどを質問。桐竹さんは「子供たちに人形を見せると、目をキラキラさせる。浄瑠璃の文句が分からなくても、そういうところで伝わる」と文楽の魅力をアピールしていた。

1103よっさん ◆AXS9VRCTCU:2012/12/26(水) 21:18:19 ID:yLsBMtPQ0
ヘビ年 迎春準備本格化…大阪市・住吉大社
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121226-OYO1T00747.htm?from=newslist

 大阪市住吉区の住吉大社で26日、赤いはかま姿の神楽女(かぐらめ)6人が縁起物の飾り付けなどを行い、迎春準備が本格化した。

 この日は、古くから同大社に伝わる踊りでかぶるかさのわら細工やお札をササにくくりつけた縁起物「住吉おどり」2000点を用意。ほかに、ご神矢やお守りなどの準備が31日まで続く。

 同大社では、正月三が日の人出を今年と同じ250万人と見込んでおり、出村大光・権禰宜(ごんねぎ)は「干支(えと)のヘビのように、多くの人に末永く幸せが続くよう願って作業を続けます」と話していた。

(2012年12月26日 読売新聞)

1104よっさん ◆AXS9VRCTCU:2012/12/26(水) 21:19:18 ID:yLsBMtPQ0
迎春準備 華やぐ 国立文楽劇場に「にらみ鯛」
2012年12月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121226/20121226011.html

 大阪市中央区の国立文楽劇場で25日、伝統の正月飾り「にらみ鯛(だい)」の取り付けが行われた。3日からの新春公演の準備が進む中、真っ赤な張り子(全長約3メートル、重さ約15キロ)の2尾が向かい合わせに舞台上部に吊り上げられると、劇場内は一足早く華やいだ迎春ムードに包まれた。

 「にらみ鯛」は新春を祝う縁起物として、戦前は上方各地の劇場で飾られていた。時代の流れとともに戦後は途絶えていたが、同劇場が開業して最初の正月を迎えた1985年に復活させた。

 向かい合う「にらみ鯛」の間には、大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)の鈴木寛治宮司の揮毫(きごう)による来年のえと「巳」文字の「大凧(たこ)」も掲げられた。

 3日の新春公演初日には、黒門市場から本物のタイが届けられるほか、文楽人形による鏡開きで来場者へたる酒が振る舞われるなど初芝居を盛り上げる。

1105よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/27(木) 19:15:37 ID:CZYL1RUQ0
瓦や坪を市文化財指定 大阪・四條畷、千光寺跡で出土
http://www.asahi.com/area/osaka/articles/OSK201212260195.html

 【荻原千明】四條畷市教委は、田原城主一族の墓と菩提(ぼだい)寺である千光寺跡から出土した甕(かめ)など計9点を一括して市指定有形文化財とした、と発表した。

 田原城は、大和と河内の国境に位置し、戦国時代末期に三好長慶が飯盛山城に入った頃、田原氏も三好氏に属したとみられる。

1106よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/27(木) 19:21:23 ID:CZYL1RUQ0
迎春 清らかに 住吉大社で煤払式
2012年12月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121227/20121227017.html

 年の瀬を控え住吉大社(大阪市住吉区、真弓常忠宮司)で26日、1年間にたまったほこりを払い新年を迎える行事、「煤払(すすはらい)式」が行われた。神職らが長さ約5メートルの竹ぼうきを手に、境内にある国宝の四棟の本殿の屋根を払う所作をして、“1年の汚れ”を落とした。

 午後から行われた式では第一本宮から順に神事を行い、訪れた参拝者らが見守る中、2人の神職らが竹ぼうきでゆっくりと屋根の上のほこりを払っていった。

 同大社は例年、正月三が日は約250万人の参拝者が訪れる。境内では参拝者に授与する縁起物の準備が進むほか、この日、午前中には自衛消防隊による歳末恒例の消防訓練も実施された。

1107よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/27(木) 23:33:09 ID:CZYL1RUQ0
大阪市天王寺区・難波京南端に大型建物跡
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121220-OYO1T00627.htm?from=main3

 古代の都・難波京(なにわきょう)の南端と推定される大阪市天王寺区悲田院町で、7〜8世紀の5棟の大型建物跡が見つかり、市教委と市博物館協会大阪文化財研究所が19日発表した。都の中心・難波宮の役所跡にも匹敵する規模の建物群で、同研究所は「重要な建物だった可能性が高い」と説明、京の南端も推定より延びる可能性があるとしている。

 出土したのはJR天王寺駅北側の「北河堀町所在遺跡」と呼ばれる区域。住宅建設に伴い約2100平方メートルを発掘し、十字形に整然と並ぶ5棟の建物跡を確認した。真ん中の建物跡(南北14・3メートル、東西6・3メートル)が最大で、柱の直径は約30センチだったとみられる。

 同研究所によると、都の重要施設は北側の一等地に集まるが、南端でこれほど大規模な建物群が見つかるのは異例。この周辺で力を持っていた有力貴族の邸宅か、都を南へ拡張するために置かれた役所などが考えられるという。現在推定される京域は南北約4・2キロ、東西約1・6キロで、今後広がる可能性がある。

 難波京は7、8世紀の2度にわたって置かれた宮殿(前期、後期難波宮)の周囲にあったとされる都市域。現在は市街地のため発掘が進まず、広範囲の調査は珍しい。

 現地説明会は22日午後1時〜3時半。問い合わせは同研究所(06・6943・6836)。

 中尾芳治・元帝塚山学院大教授(歴史考古学)の話「高位の人の住居と思われるが、都の端にこれほどの規模の建物があるとは驚いた。難波京は未解明な部分が多く、今後、発掘が進めば、我々が想像する以上に壮大な都だったことがわかるかもしれない」

(2012年12月20日 読売新聞)

1108よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/28(金) 07:02:20 ID:Ewisjoe20
「巳」の巨大絵馬登場 堺・開口神社
2012.12.28 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121228/osk12122802010004-n1.htm

 堺市堺区甲斐町東の開口(あぐち)神社の本殿脇に、来年のえとの「巳」を描いたジャンボ絵馬が登場。かわいらしい表情のヘビが迎春ムードを盛り上げている。

 堺市西区の画家、岩本かずえさん(64)が描いた。絵馬は縦1・8メートル、横2・3メートルで、とぐろを巻いた白いヘビが描かれている。

 「動きを抑えて、じっくりと世の中を見る様子を描きました」という岩本さんは、「かわいらしい表情にした」とも。「来年は争いごとの少ないおだやかな年になってほしい」と話していた。

1109よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/12/28(金) 14:37:56 ID:7qS510ug0
文枝さん“つき”呼びまっせ…繁昌亭もちつき
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121228-OYO1T00720.htm?from=newslist

 上方落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)で28日、歳末恒例のもちつきがあり、今夏、大名跡を襲名した上方落語協会の桂文枝会長(69)らが景気よくもちを振る舞った。

 落語家や寄席囃子(ばやし)の三味線方ら総勢約50人が参加。太鼓や三味線のお囃子がにぎやかに響く中、「よいしょ」の掛け声にあわせて勢いよくきねを振るった。約40キロのもち米をつきあげると、ぜんざいなどにして集まった人々に配っていた。

 「不景気を“つき”飛ばそう」と始まって今年で4回目。「来年も引き続き、ごひいき賜りたい」とあいさつした文枝会長は、「襲名で大変だったけれど、60代最後の年が思い出深いものになった」と、この一年を振り返っていた。

(2012年12月28日 読売新聞)


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