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自己観察スレ4
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自己観察について語るスレです。
みなさんで語り合いましょう。
前スレ
ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1455679954/l50
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>>177
レスありがとうございます。
観察対象でではなく観察者を追いかければいいのですか?
観察者を観察・・・観察者が対象になってしまいませんか?
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>>178
追いかけるのではなく、
あなたが常に「意識」であることをわかってください。そのためには観察の対象を「私ではない」と退けるだけでいいんです。
あなたは「自分が意識=別の領域ではない」と思っているかもしれませんが、それが錯覚だからです。
もし観察者を観察することができたと思ったら即座に退けてください。
あなたは常に意識です。
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>>179
横ですみません
「私ではない」って思うと抵抗するのはエゴ?ですか?
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>>180
うーん、観察の対象をいくら詳しく分析しても仕方がないので。
抵抗は抵抗でいいでしょう。そのうえにレッテルを張る必要もないですし。
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>>181
なるほど
ただ気づくだけでいいんですね
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>>179
何度もありがとうございます。
対象と出来るものは「私」ではない。
やってみます。
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>>176
>思考は1種類しか顕在できないからなぁ
その通りなんです。
ですから、 「思考」と「思考を観察しているいつもの私」の両者はその場に共存することができないのです。
どちらかに注意すると片方が消えてしまう。
なぜなら、両者とも同じ思考ですから。
そのことから「いつもの私」は実体のない思考であり、それがいわゆる「エゴ」ということがわかります。
「いつもの私」は記憶から引っ張り出し思考しないと顕れない幻想のようなものということです。
しかしながら、そのエゴが顕れる「不動の場」らしきものがそこにいつも在ることがわかるでしょう。
「いつもの私」を思考しなくとも常にここに在ります。
それは自分がこの世に産まれ物心つく前からずっとここに在りました。そこに気づいてみましょうということですね。
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この不動の場には思考だけでなくこの世界のすべてがここに顕れています。
思考のように、例えば爪先に注意を向ければ爪先が顕れ感じられます。注意を向けるまで果たしてそこにあったでしょうか?
そうであるから、世界=私(本来の)であるということがわかります。そこに普段の私(エゴ)も顕れているのです。
不動の場は「これです」と直接指し示すことはできませんが、確かに在ることがわかりますよ。
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とりあえずなんかごちゃごちゃ考えてるなぁということに気づいて、その後思考の本質的な部分に気づけば自分がその瞬間何を求めているかが分かる。
ならばその求めるものにへ向けてその都度舵を切っていくそれが自己観察の流れなのかなと色々試しながら思った。
まあただ気づくいて少しだけリラックスするだけでも良いのだろうけど
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>>175
横ですが。
>自分で自分を観察って出来なくない?つかそこで行き止まりになるんだけど。
観察して、対象を退け続けていくと、どうもしようもない地点にいずれ着きます。
行き止まりに感じるということは目的地に着いたのかもしれませんよ?
その状態を味わってみたらいかがでしょう。
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私は「観察」というより、
「気づく」という言葉の方がピンときた。
何かに「!」と気づく時って、
その瞬間は空白というか何も考えてなくて、
それより一瞬あとから
「そうか!〜だったんだ!」って思考がついてくるというか。
自己観察は、そういうアハ体験みたいな気づきじゃなくて、もっと小さな「!」。
自分がいまこの瞬間考えてることに気がついてみる
→その小さな「!」にとどまって味わって、
→そのあとの「そうか…」に行かない
→また次の瞬間湧いてきた思いや五感で感じていること内側の体感覚などに気がつく
そういう一瞬一瞬の小さな「!」を積み重ねていったものが、結果的に
「観察」している状態というか…
だから
>>175 さんの
>自分で自分を観察って出来なくない?つかそこで行き止まりになるんだけど。
という場合、
まず、できないなと思った時
そう思ってることを自覚する(気づく)。
あ、そう思ってるな、
って。
それが始まりというか。
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最近考えていたことがあって
子供の頃、先入観がないだけに、思考というか前提や先入観が先立つものに対してある意味自己観察状態っぽかったのかなと。そういう所は大人になっても仕事面でも役立ったと思っています。
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アハ体験は今調べたんだけど、ただ閃くだけかと思ってたんですが(それこそ先入観!)意識が180度変わるほど閃く体験の事なんですね!
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>>179 観察者を観察出来なければいけないと思ってたけど違ったんだね。観察者を観察って、自分の目を自分の目で見るみたいな感じで「それできねーべ」と思ったもの。
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送信して自己観察できたらそこからどうなるんだろうとふと湧いたら>>186さんが素敵な答えを置いて下さっていました。ありがとうございます!
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>>188
同じようなこと考えてました。
観察するという言葉にはあるていど時間をかける行為という印象がありません?
「対象の様子を言語化して描写する」印象とか。
そうすると結局思考に囚われたり、ごちゃごちゃしてきて難しく感じるんですよね
気付きとか「!」だと一瞬だから本当に簡単でシンプルでいいんだなってなりますね
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>>191
その通りです、いいところに気づかれてますよ。
「観察者を観察する」とおっしゃった方が伝えたかったのは以下のようなことです。
例えば「自分は観察できている!」と思うことってありませんか?
そう思った瞬間、その「できている自分」を思考で構築したことに他ならないので、それを退けましょう、ということだったんです。
あるいは、「観察は五感でするものだ」「五感が主体で五感で観察するのだ」と間違って思っている人にも有効です。その場合の観察者=五感も対象ですからね。
(参考:ttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-482.html)
自分の目は自分で見れない、まさにその通りですよ。
私は>>79,>>95で、「カメラで例えるか、自分の目で例えるか…」と思っていましたw
>>188
>何かに「!」と気づく時って、
その瞬間は空白というか何も考えてなくて、
それより一瞬あとから
「そうか!〜だったんだ!」って思考がついてくるというか。
>自己観察は、そういうアハ体験みたいな気づきじゃなくて、もっと小さな「!」。
いいですねぇ。
結局経験なんですよね。言葉じゃないんです。
言葉は、経験を言葉にし直したものなんですよね。
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確かに何かに気付く時(観察した時?)ってフッと軽くなる感覚のようなものに囲まれる瞬間があります。
その直後に「あっ〇〇って思ってた」と頭の中で言葉(思考)として出てくる事があります。
玉ねぎの皮をどんどん剥いていくように思考にどんどん気付いて外していったら
どこまで続くんだろう?とか、あれ?でも今気付いたのって誰なんだろう?
という疑問が出てくることがあります。
でも私の場合、その誰なんだろう?で終わってしまい答えが出ません…
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>>195
フッと軽くなる感覚にその都度戻るといいでしょう。
>どこまで続くんだろう?
行くところまで行ってくださいw
>でも私の場合、その誰なんだろう?で終わってしまい答えが出ません…
思考で答えを出すのが目的ではありませんよ。
まず「答えが出なくて困ってる私」になっているのを気づけますか?
「答えが出ないのが嫌だ」「答えを出すべきだ」「そうでないと別の領域にならない」とかいう思いが背後にあるのかな。あるとしたら気づけますか?
答えを出すことなんてどうでもいいんです。そんなもんあなた=意識には関係ないんで。
それよりも、フッと軽くなる感覚を味わうことです。
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不安とともに、期待も捨てたらいいですね。
「別の領域ってこんな感じだろう」「別の領域に立ったらきっとこうなるはずだ」という期待です。観察して、捨てましょう。
>>88さん「本や掲示板、出来る限りのわかる努力をしてきて、しるかーもうこんなことわからなくてもいいや、と心底諦めがついたら気づきが訪れた者より。」の言う通りです。
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>>196さん
いやはや…さすが、すごいです!本当仰る通りです笑
>「答えが出ないのが嫌だ」「答えを出すべきだ」「そうでないと別の領域にならない」とかいう思いが背後にあるのかな。
うまく自己観察できないと、別の領域に行かないと、答えを出さないと叶わない、そんなように思っているようです。
なんだか勝手に難しく頭で考えようとしていたみたいです。
196さんに的を突かれてなんだか気が抜けてしまいました笑
196さんが私の状態に気付いてくださったように私も自分で気付いていけるようになりたいです。
コツコツ玉ねぎの皮剥いていってみます!行くところまでwありがとうございます!
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自己観察とは直接関係ないかもだけど実践続けてたら段々自分の周りのみんなまとめて幸せになってしまえばいいんじゃん?って思えるようになってきた。
これまでは今いる世界の中で自分だけが幸せになると言うか、周りを出し抜いて優越感を得たいみたいな気持ちがベースにあったんだよね。
その気持ちが消えたわけじゃないけど、別に自分だけが幸せである必要もないよなって、なら目に映るもの全て幸せであればいいんじゃない?みたいな感じ
だからどうしたって話だけどね、実践してると少しずつでも変わってくね、内面が
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>>198
196さんが書いてたことに一言付け加えるなら、
あれ?誰なんだろう…
その問いかけ自体がひとつの大切な気づきです。
答えがわかる必要は特になくて、
その あれ? って気づいた時にできた
空白、そこに気づき続けるというか。
そして、
そう言われて、安心したり、
もっと明確に分かりたい、と思ったり、
そんな反応にもただ気づいてみる感じ。
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>>200
そっか、、誰なんだろう?と気になったことすら気付きなのですか。
こうやって今200さんの言葉が腑に落ちている…これも気付き。ということなんですね
なんとなくコツが掴めてきた気がします〜!ありがとうございます!
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肩(頭?)の力を抜くって大事だね
思考に囚われてる時ってなんだか体のどこかが重い、もしくは固い感じがする。
そこでふっと自分の思考に気づいた瞬間に
『あ、少し力抜こう』ってなれるとなんだか安心する
特に不安で頭の中いっぱいの時は安心して良いんだなあって思える事自体が救いになるというか
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色、音、味、触、匂い、思い。
これが各々瞬間瞬間に立ち上がって、それを「思い」が記憶でひとつにまとめて自分ができるんです。
色、音、味、触、匂い、思い。
これらは本来の私ではありません。
強いて言うなら、これらが立ち上がっているこの空間が本来の私です。
色、音、味、触、匂い、思い、をひとつひとつ注意深く観察していけばわかります。
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色、音、味、触、匂い、の五つ。
これを所有している者が私である、と主張する 思い。
「所有している私」という思いも、上記の五つと同じ「起こっては消える流動的なもの」カテゴリーの現象。
これら六つの現象は本来のわたしではないのです。
見たり触ったりはできませんが、それらが起こることのできる「ここ」。
常にいつも在るその意識とも言える「ここ」がそれです。
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この自己観察さんの言葉、よく思い出していたんだけど
「ありのままに」感じられるようになった今、ああこれを楽しんでおけばいいんだな。って
ここで迷ったりしないヒントを残してもらえたみたいでありがたいな
↓↓
どうせなら起こってくるものをありのままに楽しんでみるのはいかがですか?
私は不安とか不満とか苦しさとか、そういう感情や出来事を「ありのままに」
もっと楽しんでおけば良かったかな、なんて思ったりしますよ。
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>>205
ありがとう。ちょっと頭の片隅において過ごしてみます。
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そう、ありのまま。
大空に気づきたいと願い、大空の雲をどかそうとする。
しかし、その雲をどかそうとしている自分自身が雲。それに気づけるか。
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まずは思考は思考であり自分の本体ではないと観察できるか?
思考という雲を雲として見ることができるか?
そうでなければ、いつまでも自分は雲をどかそうとするする雲のまま。
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>>207
いい表現!
まさにこれですね
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要するに「現実などに対してジャッジして、それに対する喜怒哀楽を感じている思考」を
ニュートラルな意識で観るということかな。
その善悪や喜怒哀楽を採用しない自分が「主体」なんだろうか?
観察対象も観察者も思考だとしたら、観察者の在り方で主体にも思考にもなると言うことかな?
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>>210
主体は主体でしかあり得ないけど思考に没頭するとそれを忘れがちだということだと思う
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>>210
主体に気づくことはできないんだよね。
何かに気づいている、その気づきが主体なわけで。
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>>210
>ニュートラルな意識で観るということかな
そう。ニュートラルな意識をより具体的に言うと「今」に意識を置いた状態。そこから思考を観る。
>観察対象も観察者も思考だとしたら、観察者の在り方で主体にも思考にもなると言うことかな?
観察者の在り方で主体にも思考にもなるのではなく、観察者を置いている、感じている時点でそれは思考。
これら思考が雲のように湧き流れ、雲が起こることのできるこの「ここ」「今」が大空。
それは主体や客体など線引きができないものであるから、「これが主体です」とは指し示すことはできない。
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「今」に意識を置いた状態、と書いたが、本当は私たちは常に「今」に在る。
常に大空として存在している。
しかし湧いては消える雲(現象)に焦点を当て続けてしまっているためそのことを忘れてしまっている。
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レスくれた皆さん、ありがとう。
記憶(自己)、感情、善悪の判断、好き嫌いをすべて取り払って、確実なのは存在することだけの
「意識」という事ですかね。
思考ゼロの状態か。
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>>215
思考は確かに意識の本性ではないが、
意識は思考によって限定されるものではないから、
思考ゼロにならなければいけないわけではありません。
もちろん、あなたが思考ゼロの状態を経験したなら、それはいいものです。
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空と雲の例えとても分かりやすかったです
やり方が合っているかどうか正確には分かりませんが
最近ふと気が楽になるというかふわっと軽くなるような
感覚になれるようになりました。
今まで頭の中で思考がんじがらめになって苦しかったのが
すっと、そんなの(色々な思い込みたち)関係ないんだなと思えるようになった感じです。
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>>217
素晴らしい。
ふわっと軽くなるのは、悩み苦しみは思考内だけのストーリーであると知りつつあることと、それら悩み苦しみを持っている個としてのこの「私」も、他の現象と同じく湧いては消える雲と同じ実体のないものと気づき始めたからかもしれない。
「この私が湧いては消えるもの??」と疑問に思った人は、寝ている時は私があるか?
楽器や絵、映画やゲーム、漫画に没頭している時に私はあるか?
を考えてみるといい。
楽器やゲーム、漫画に没頭している時は「私」はなく、思考は演奏、ゲーム、漫画になっている。
ゲームや漫画を終わらせ現実の生活に戻ろうとした時、急に自分が戻り重苦しい気分になる。
それは思考が「私」を作り上げ、「私」にまつわる悩みを作っているから。
寝起きが苦しいのもそう。
このように、普段から「私」なんてものは起きたり消えたりしている。雲と同じ。
しかし、その雲が起きたり消えたりする大空が常にいつもありませんか?という話。
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横ですが
もう少しでわかりそうなのにわからない。
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>>219
218さんの文章が分かりやすいと思います。
分かりそうで分からない。という思考と同化しないのがいいかと思います。
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自己観察、言葉を重ねるより実践に限るね
なんとなく感覚が掴めてきたけど言語化できない部分だなってのが分かった
敢えて言葉にするなら『脳の力を抜いた』状態が思考に気づいている自分に気づいていると言えるのかなという感じ
どちらかといえば今今メソッドの方かもだけど
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>>221
私もそうかもです。
今今から思考を観察してる。
リラックスしてる。
外れてたと気づいたら自己観察状態にスッと戻る。
戻るという感じ。
違ってたらごめんなさい。
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>>220
218さんの書いていることはわかるんです。
何かに没頭している時に「私」がない感覚も、戻った時の重苦しい感覚も体感で納得はできてるんですが、
大空が常にある感覚がイマイチわからないというか。
恐らく大空の立ち位置にいるから、雲である思考や感情を客観的に見つけることができて、
大空にいること自体が当たり前だから、大空そのものが掴めないのかなと思うですが。
観察してる感覚はあっても、その観察してる私も実はエゴで、エゴと思ってる…と掘り下げていくと訳がわからなくなるというか。
うまく言葉にできずすみません。
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>>222
レスありがとう!
正直言葉で伝えることに限界を感じてるので
合ってるか間違ってるか分からないかなって気がするね
今自分が楽なのか、幸せなのか、みたいな所を指標にするのが良いのかなーって思ってる
だから違ってても良いと思うんだ
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>>223
>観察してる感覚はあっても、その観察してる私も実はエゴで、エゴと思ってる…と掘り下げていくと訳がわからなくなるというか。
掘り下げよう、探そうとする思考、これはエゴ視点なのでは?という疑問。
ここに気づけるかどうか。
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よく現実は幻想だとか皆さん言ってたりするけれど、その真意は目の前にある現実そのものではなくて、その現実に対して沸いてきた感情、思考が幻なのでは?っていう気がしてきた
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>>225
それがエゴというのはわかるんです。
というか、思考できることは全てエゴでもありますよね。
となると、いくら考えても別の領域とか本当の私というものには辿りつけないというか気づけないのではと思いまして。
説明する上の表現として使っているだけであって、
本当はそんな場所はないというか。
既に存在はしているのだろうけど探してる限りは見つからない。
でも、気づいてる人達も存在している。
そこの違いというか、どうすれば「これが別の領域か」と体感することができるのか。
あるものを見つける。それが難しいです。
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>>227
>となると、いくら考えても別の領域とか本当の私というものには辿りつけないというか気づけないのではと思いまして。
その「考える」の「考え」を観る。
言葉なしに、イメージなしに、ただ観ている気づいている「意識」に気づけるだろうか?
おそらく気づいてはいるが、その直後に起こる言葉「これが別の領域?」「どれだろう?」などの思考に捕らわれてしまっているのだろう。
そうであるから「自己観察中の観察にまつわる思考をも観察する」ことが大事となる。
直後に起こる言葉(思考)をも観ることができれば、それに気づくかもしれない。
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>>227
別の領域はあなたの外に見つけるものじゃないんですよ。
別の領域は観察しているときのあなたそのものです。あなたが別の領域です。
考えてわかることじゃないんですよ。
別の領域は経験そのものです。観察しているあなたという経験そのものです。
あなたが既に別の領域です。だからそれを否定しなければそれであなたの探求は終わりです。
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>>228
恐らく気づいた瞬間に思考に捕らわれて意識が掻き消されてるような気もします。
>>229
書いてあることはわかるのですけどね。
言葉で説明するとなるとそうなるのだと思うのですが、それが腑に落ちないというか体感できていないのでわかってないのです。
もう少し自己観察続けてみます。
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>>230
期待している自分に気づけますか?
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>>231
現実や現象にですか?
それなら気づいてます。
あとから気づくことの方が多いとは思います。
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>>232
違います。
「期待している自分」に気づいてくださいといいました。
あなたは>>230で
「腑に落ちること」「体感すること」を期待しています。
そういう心があることに気づいて離れることができますか?と問うています。
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わたしが福岡市で生活していて思うことがあります。
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>>233
横ですが、「これをやれば腑に落ちるかも」という心や思考。
自己観察のとっかかりとしては必要かもですね。
で、自己観察してみたらこれら心を横に置いた所というか、これらの心が起こる私を包括した「ここ」?が別の領域だったと。
そう気づいた時、とっかかりとして起こった心はすでに消滅しています。
木の棒を使って薪を燃やしていたら、最後にその木の棒も燃やしまったというラマナの例え話がしっくりきます。
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>>233
腑に落ちる事を期待しているというか
腑に落ちることを納得したくて読んだり聞いたり聞いたりしています。
それがなかったら質問する必要はないですよね?
それに気づいて離れられますか?
と言われても、それができていたら最初から質問はしていません。
体感するしかないのはわかっているので、そこに行きつくヒントが欲しかったのですが、
別の領域から言われても、まだそこに行き着いていないどころか模索してるんだから、
現段階では「気づいてはいるけれど離れる方法が体験できていません」としか言いようがありません
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たぶん気付いた時が離れられた時なんじゃないかな?
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>>236
>そこに行きつくヒントが欲しかったのですが、
ないんですよ。そんなもの。
なぜならすでに行き着いているからです。
>まだそこに行き着いていないどころか模索してるんだから、
これ自体が錯覚だからです。だってあなたは行き着いているから。
>「気づいてはいるけれど離れる方法が体験できていません」
気づいていたら離れているんですよ。
「納得する」ことができるから「別の領域」ではないでしょ?
7章には「自分がどうあろうが〜〜」って書いてあるじゃないですか。
納得していようがいまいがいいんですよ。
納得することと別の領域は別です。
「観察しているとき」のあなたはそれで別の領域なんですよ。どんな感覚であろうが。
「納得を求めている自分」を観察しているとき、あなたは別の領域です。あなたの感覚がどうであろうが。
自己観察というのは、特定の体感、納得感、感覚、を与えてくれるものではありません。
なぜなら別の領域は全であり、分離がないから。個別のものではないから。
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>>238
自己観察さんは別の領域を納得されたうえでたくさん説明してくれていたとおもうのですが、
納得できてなくても観察さえできれてばそれが別の領域の領域ですとかいわれてしまうとわけがわかりません。
あなたの書かれていることは至極もっともですが、別の領域がわかっている立ち位置からいくら言われても、
言われて、はいわかりましたと切り替えられるものでもないです。
少なくとも今の私は、その立ち位置にいないので。
いなくてもそうなんですとか言われそうなので、自己観察さんのまとめを読み直します。
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>>239
横ですが、「既にあなたはそれです」と言われても「はぁ?」となる気持ちはわかります。
自己観察もしばらく実践をやって気づいてくるもので、それまでは思考に飲まれがちで投げ出してしまうことが多いと思います。
なので過疎りやすいのかなと…。
もうひとつの突破口というか、きっかけとしてダグラスハーディングの「頭のないところを見る実験」などやってみるのはいかがでしょう?
実験は自己観察よりもとっつきやすく、また別の領域に気づくことに特化しています。
サイトの日本語訳に少々難ありですが、この板ですとwildスレのwildさんが噛み砕いて説明してくれていました。
ttp://www.headless.org/japanese/pointing%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%92%E6%8C%87%E3%81%95%E3%81%99.htm
既に知っていたらすみません。
ご参考までに。
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>>240
ありがとうございます。
まだ読んだことがなかったので、読んでみたいと思います。
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>>235
すいません、今気づきました。
そうですね、とっかかりとしてはそうでしょうね、ありかもしれません。
けれどもいずれ捨てなければならないものですし、とっかかり時点以外ではもう必要のないものだと思います。
ラマナ・マハルシですか。面白いですよね。
昔、理解できなくてめっちゃ苦しんだ思い出があります。
>>239
ご期待に沿えず申し訳ありません。
ぜひ自己観察さんの言葉を読み直してください。
貴方の求める納得もいずれ訪れるでしょう。
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わかってもわからなくてもいいというのが真理であったとしてもわかってない人からすると苦悩に囚われ続けるから納得しないだろうな
わかってきたつもりだがまだ落ち着かないところがある
落ち着かなければいけないとか
現状落ち着いていないという判断をしてるとか
今より良い状態への期待があるとか
そういうものに気付けはするし、気付けた時には「そこ」に居る
そこに居られてる時にはこっちが主体だってよくわかる
思考が雲のようにちぎれて流れていく
でもまだ雲に飲まれて我を忘れてることがあるな
以前に比べてだいぶ減ったけど
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>>243
わかろうとしてわからなくて当たり前、ということに行き着くためだけにわかろうとする努力の意味があるんだと思う
頭の中で起こっていることは真実ではなく、ただ単に架空のストーリーだったって気づいたら、わかってもわからなくても、どうでもよくなった
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>>217を書いた者ですが、
一時気分も軽く過ごせていましたが先週なにをするのも億劫になってしまい
未来が不安になって投げやりになって、もろにエゴに飲み込まれて過ごしていました
現実に振り回されがちで、自分にとって嫌なことが続いたりすると
自己観察もどうでもよくなってしまい投げやりになってしまいがちで
その度に疲れて病んでしまいます。。
他の自己観察をされている皆様もこのような事はあるのでしょうか?
良くなったと思ったらまた戻っての繰り返しになってしまうのをどうにかしたくなってしまいます。
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>>245
そういうのはよくあることですよ。
自分が1人の人間ではなく、別の領域や意識だと気づいたとしても、人生は続きます。
夢の中で夢と気づいたとしても夢は続く。
夢の中でその都度、夢であることに気づいていくことが、人生という夢の世界、エゴと同一化しない手順となります。
それにはやはり気づこうとする意志が必要かもしれません。
気づいてすぐ戻れる「型」のようなものが自分に定着すれば、戻るのに苦労はいらなくなります。
「型」ですが、トリガーみたいなものですね。
私の場合、自分に注意の矢印を向けた時、「私がここにいる」という感覚があることに気づきました。
ではその感覚とは何かを細かく観察したところ、それは顔や目などの肉体感覚と思考であると気づきました。
肉体感覚と思考は私でしょうか?
寝ている時や意識しなければ肉体感覚も思考も無い時があります。
なのに自分に注意を向けると、この感覚を自分としてしまう。
その原因は記憶という思考(厳密に言うなら一瞬のイメージ)でした。
肉体感覚、思考、記憶(イメージ)。
これらが浮かんでは消え、浮かんでは消えとしているけども、では肝心の私はどこに??と観察したところ、どこにも確固たる私などいないと気づきました。
肉体感覚と思考を、記憶によって1つの個である私を作っていたと気づいたのです。
その気づきがあってからは、未来への不安に苛まれても、自分と思える方向に注意を向けそこを見ると「あれ?悩みの発信者の自分はないじゃん。あるのは肉体感覚と思考かー」と気づき人生への深刻さが無くなるのです。
つまりエゴから脱し、別の領域に入るというか、別の領域そのものになります。
この「自分と思える方向に注意を向ける」が私にとっての戻るためのトリガーとなります。
これはダグラスハーディングの実験とほぼ同じ方法になります。
長くなりましたが、そのような「型」、トリガーみたいなきっかけを見つけるまで探してみるのも良いと思います。
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>>246さん
ご返信頂きありがとうございます。
このような事はよくある事なのですね。少し安心しました!
気付こうとする意志ってやはり必要なんですね…
投げやりになっていた日々を経て実感しました。。
「億劫」に乗っ取られて気付こうとすることすら避けていたので…笑
気付いてすぐに戻れる「型」、トリガーを自分の中で確立させられるよう今日から意識してみたいと思います。
感覚を掴めば悩みが自分のものではないとすぐに気付けますもんね。
ふとした時につい将来への不安が押し寄せてきてしまって同一化してしまうので
不安が押し寄せてきても気付いて戻れるようにしたいです!
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戻りの型、ありますね
私の場合は
・>>205の自己観察さんの言葉を思い出し、感情や感覚を「ありのまま」味わうことにする
・対象化できるものは全て自分ではないことを思い出す
・認識しているものは全て過去であり、まだ何も創造されていない「今」に在ることを意識する
最近このへんが定着してきていい感じです
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>>247
少し安心したようで良かったです。
あと自己観察が捗る?観察の仕方や見方があるとすれば…もし思考を客体として見ることができるのでしたら、思考をひとつの現象として捉えてみるのがおすすめです。
普段生活をしていると、周りから様々な音が耳に入ってきます。
鳥の鳴く音や、誰かの話す音、車の音…等々たくさん音がありますけども、なぜか頭の中の音(思考)は自分のものとしていますよね?
思考も周りの音と同じ、起こっては消える現象のひとつのではないでしょうか?
厳密には音と思考は違いますが、勝手に起こって消えていくという点では同じ現象です。
そのように思考を見ていきますと、例えば目の前に車が横切って消えていくのと同じように、思考が湧いて消えてゆくただの現象であると捉えられてきます。
同じように、肉体感覚や感情、私という存在そのもの(個としての私です)も全部そのように見ていきますと、この世界全部が勝手に目の前で勝手に上映されている映画のような感覚となっていきます。
このように見るにはまずは思考を客体として見れるようになること、またその思考が湧くことのできる背景、まっさらなキャンバス、大空、が在ることに気づいていることが前提ですが、もし見れるのなら、これがトリガーとなり戻るのが楽になるかと思います。
参考までに。
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わたしの場合
眼の前に自分を出します。
以前は、頭から文字がどかどか流れ出てるイメージでした
今はハッキリわたしがいるんです。
で、あーでもないこーでもない、なんじゃかんじゃ暴れてたり
泣いてたり、怒ってたり、喜んでたりいろいろですが
スーッと眺めているうちに消えていきます
目の前に自分(と思っているもの)の映像を出して眺めてる
そんな感じ
感想とかも沸き起こったら、またその感想を述べる自分が出てきて
それを言いも悪いもなく、無のまま眺めてる
ぼーっとテレビ見てるみたい
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>>249さん
とても分かりやすく、腑に落ちました!
ブックマークしたいぐらいです笑
悩んだ時や戻り方が分からなくなった時に繰り返し読みたいです笑
>勝手に上映されている映画のような感覚
というのが>>250さんがおっしゃっている事とも重なりますね。
>>248さんがおっしゃっている「対象化できるものは全て自分ではない」ともリンク!
みなさんのお言葉、私にとってすごくヒントになりました!
ありがとうございます。
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スレちょっと前の話だと
本当の自分ってのは認識できないものなんだよね?
思考とかに気づいたときのハッとした感じとかぼんやり感じる安心感は本当の自分ではないってことなのかな
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>>251
良かったです!
皆さん表現は違えどやっぱり共通する所があるんですよね。
大体自己観察で気づくことは「主体的な行為者(自分、エゴ)がいると感じているのは錯覚」ということです。
「主体的にやらないとダメだ!」
「なんとかしないと!」
本当は世界は既に完璧で、今のままで調和が取れているのですが、個(自分)がいると錯覚し調和から分離しているという勘違いの心から苦しみが起きてきます。
そこに気づくと楽になります。
しかしこの苦しみが起こる分離さえも、実は調和のひとつだった。
苦しみがあったからこそここに至ることができた。
そもそも初めから何も間違いはなかった。
そんな気づきがあった時、深い感謝と何事も受け入れられる世界に生きるようになります。
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>>252
本当の自分を離れた位置で見ることはできないですね。
でも本当の自分の特徴?特性?を知ることはできます。
私は本当の自分とは「気づき」そのものだと思っています。
背景や大空と言われるものの別の表現は「気づき」。
この世界は「気づくこと」が無ければ何も存在できないと思います。
肉体感覚、思考、自分と思えるもの全部。
また自分と思えるものを取り囲むこの世界全部。
全部が全部「気づき」がないと存在できません。
言い方を変えれば、自分を含めた世界全部が「気づき」でもあります。
私=気づき=世界だと感じています。
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本当の自分=気付き ですか
2つ疑問が湧きますね
気付きも認識することが出来ます
気付きもやはり背景に浮かぶ現象のひとつであって、根源的な「本当の自分」ではないんじゃないでしょうか。
夢を見ない眠りの間は「気付き」すら起こりませんが、その間「本当の自分」は存在しないんでしょうか。
表現は人それぞれなのだとは思いますが
同様の疑問から迷いが生じる方もいるかもしれませんのであえて書いておきます。
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>>254
返信ありがとうございます。気付き自体は本当の自分(気付いた時の感覚はそのものではなく付属品?)てことでいいんですね。
訊いといてなんなんですが、ここらへんは言語で説明するのは限界がある部分なんですかね。理屈だと255さんのご指摘ももっとものように感じられます。
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>>255
寝ている間も、瞑想で認識すらも消えてしまった状態でも、そこに常にある意識ってありませんかね?
睡眠や瞑想で認識が消えてるのにそれを認識する意識がある?という疑問が起こりますけども、そうとしか言い様のない常に在る意識をある時知りました。
ハッと気づかなくとも満遍なく常にここにある気づいている意識。
それがあえていうなら形を変えて現象として顕れている。
ですから肉体、思考、周りの世界は私ではないですが、私でもある。
と、私は捉えてます。
しかしちょっと話が飛躍したかもしれませんね…。混乱してしまった方がおられるようでしたらすみません。忘れて下さい。
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宇宙全体が「私」で、宇宙が身体を使って現れてるんだなって感じ
だから余計な事を考えなくても良く、宇宙の流れに任せていいんだなと
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>>257
> 寝ている間も、瞑想で認識すらも消えてしまった状態でも、そこに常にある意識ってありませんかね?
> ハッと気づかなくとも満遍なく常にここにある気づいている意識。
瞑想を追求していくとそのように感じられるようにもなるという話を聞いたことはありますが、今の私にはまだわからないですね。
説明して頂いた範囲ではやはりまだ「気付き」は主体ではなく客体なのでは? 「気付いている何者か」や「気付きが生じている背景」が主体なのでは? と思えます
ただ私も認識が更に変わればあなたの言うことに疑問を抱かなくなるのかも知れませんね。
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>>259
以前、188で
!となったときが気づきで、その後にああそうか、と思考がやってくる、と書いたものです。
気づいている、そのこと自体、その瞬間には
何もない空白で、
その後理屈をつける思考が、気づきを認識させるのだと思います。
気づきはそれ自体は認知されるものではなく、認知している側というか…
蛇足ですが、
だから、
気づいているときに、「これも認識されているではないか」
という思考に気づいていることが、その先へと深めるヒントになるのでは、と思います。
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>>260
あ、なるほど、それだとわかりやすいですね
いいきっかけになりそうな気がします。ありがとうございます。
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改めて「!」の瞬間を感じてみました。
その瞬間には主体も客体もありませんでした
これが自己観察さんか詭弁さんか、誰かの言ってた「二元論を超える」ってことだったのかな
完全なひとつのもの、しかないように感じました。
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>>262
つまり、思考が主客に分離させていたということですね。
主体である存在と、客体である現象。
しかし実はどちらも同じ。
般若心経でも空即是色、色即是空と「イコール」を強調しています。
その手がかりとして現象全てを否定するアプローチがありますが、否定しきった先にあるのは、翻ってすべて自分だったという気づきですね。
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自己観察をしていると肉体も本当の自分ではないと気付くと思うのですが、
その時に「あ、これ自分じゃないから別に大事にしなくてもいいんだ」と思ってしまいます。
これもエゴが思っていることなのでしょうか?
自愛は「自分を大切に扱う」というスタンスですよね…
長年そのスタンスでいたのですが心から大切に思うことができずに
自己観察に移行しました。頭で色々考えすぎなのでしょうか…
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>>264
それもエゴです。
あなたが思うことは全部エゴですよ。
今のその悩みもエゴです。
そのようにああでもないこうでもないと思考するあなたがエゴです。
ですからその悩みの思考を観察して、さらに思考していると思っている自分自身を観察する。
といういつもの話になりますね。
自分や私は思考によって起こってます。
それを観察できますでしょうか?
そんな難しくはありません。
自分に意識を向けた時、自分のイメージが湧きませんか?
それって思考ではありませんか?
自分や私が思考なら、本当の私と言える存在はどれでしょうか?
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>>265
全部エゴだと思うと虚しくなってきてしまいました…
それもエゴなんですよねきっと。
観察していってもキリがなくなってしまって余計に頭が混乱してしまう事があります
じゃあどれが私?となってしまって、迷宮入りしてしまうといいますか…
>自分や私が思考なら、本当の私と言える存在はどれでしょうか?
どれでもないという事なのでしょうか?
本当の私なんていない?それとも気付けていないだけなのか。。
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>>266
本当のわたし…は
そういうエゴの、あれやこれや
喜んだりがっかりしたり、わかった!と思ったりわからなくなってみたり…
そんなあれこれを全部載っけたお盆みたいなものです。
いまがっかりしている、なんだかわからなくなっている…
そんな「自分」の背景、
そこには何があるでしょうか。
考えるのではなく、感じてみてください。
「そんなこと言っても何も感じられない」
そう思ったとしたら、またその背景も感じてみます。
その思いが生まれる直前を観る、というか。
考えるんじゃなくて(頭のト書きを追うのではなくて)
その思いが生まれる、その直前の隙間みたいなところ。
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>>266
>本当の私なんていない?それとも気付けていないだけなのか。。
言い得て妙ですね。
今どこかの部屋にいますでしょうか?いるとしたら、部屋って何でしょう?
テーブル、椅子、棚、パソコン、壁、天井、床…。
それらひとつひとつは「部屋」でしょうか?
当然ですが、部屋はそれらが集まったものを指しています。
次に、それら家財道具や壁、天井、床をひとつひとつ捨てていくと想像してみて下さい。
どこまで捨てたら部屋ではなくなるでしょう?
捨てないとしても、もし四方上下の壁と天井と床がそれぞれ10m離れており、大きな隙間があったら、それは屋内(部屋)でしょうか?
屋外でしょうか?
屋内屋外の区別は、実はとても曖昧であり、密閉されていても、隙間だらけでも、実際に本当にあるのは部屋ではなく壁や天井等が存在できるただの「空間」なはずです。
それを部屋と外と区別しているのは自分の思考となります。
「私」も部屋と同じではありませんか?
視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚という壁と床があり、思考という天井で囲ったものが「私(エゴ)」ではないでしょうか?
ひとつひとつの感覚が消えてしまったとしたら、そこに残るものは何でしょう?
部屋と同じように何も残らないけれども、五感と思考が起こることの可能な、外でも内でもない空間とも「場」とも言えるものが常にここにあります。
空間は何も無いところを空間と言いますが、便宜上「空間がある」と表現します。
本当の私とは、それに近いものです。
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空間が家具に成りきって家具目線であれこれと思考しているのが普段の私達です。
「ああーもうずっとこの場所に置かれっぱなしだよー。部屋の模様替えで移動させてくれないかなー」
自分は本来、家具をも生み出す空間であるのに、家具目線になってしまっているため自分で制限しているのです。
これを分離とよく言います。
「部屋の模様替えしてくれないかなー」=自分では模様替えは無理!
という制限、分離。
自分は家具であるという認識。
その認識から家具目線での思考しかできないため、制限通りの現実を創ってしまいます。
もし制限された現実を創ってしまったとしても、それは自身で創った創造物として受け入れることです。
自己観察で言えば、それに対して起こった思考を観察し、流れて行くのを観察する。
自愛で言えば、その思考を認める、完璧とする。
意としない創造物をなぜか創ってしまうこともありますが、それに対して起こる考えも受け入れます。
嫌だと思ったならば、その思考を観察する、認める、完璧とする。
ここで否定し続けてしまうと、さらに否定の現実を創造してしまいがちです。
家具が空間自身の創造物であると気づくには、家具目線から離れることにより気づくようになっていきます。
それには家具目線の思考をしていることに沢山気づくこと、また自分は空間の方であることに気づくことが大事となります。
「空間などわからない!」
これも家具として言っている言葉です。
自分をよく観察してみて下さい。
あなたは肉体や思考という家具を包みこんでいる「意識(空間)」ではありませんか?
家具目線をやめて、「意識(空間)」としてただそこに在れば、自然と欲しいものを創ることができるのです。
あなたは既に宇宙の全てを所有している無限の存在なのです。
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>>269
横から失礼します
今の私にとても必要な言葉でした
意図していない(と錯覚していた)創造物を受け入れられず、それ(意図していない創造物)は私ではない(←これは分離ですよね?)と創造物に対して湧き上がる思考や感情を消そう消そうとしていました
思考を受け入れ観察します
横から失礼しました
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>>270
「それは私ではない」は本当の私を探求する際の否定の言葉です。
全ての家具や壁、天井を否定し、消し去った先には空間が残ることを知る方法です。
ですから、本当に嫌だなと思う事柄に使うものではありません。
なぜ嫌なのか?
それは家具としてみると嫌なんですよね。
本当のあなたは全てを包み込む空間であるのに、それを忘れひとつの家具に成りきってしまい、家具目線で良い悪いの判断をしてしまっています。
全てから分離して、分離した者として物事を考えています。
真のあなたは空間なのですから、すべて受け入れることが大事です。
上にも書いたように家具目線で嫌だ嫌だと否定することは、結局嫌だと思う現実を創り続けることに繋がります。
すぐにではないですけど、「またこれかー」という現実を創りがちになります。
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>>271
レスありがとうございます
はい。完全に家具目線になっていました
家具の視野で「私は空間である」と唱えているような状態になっていました(時々この状態から抜け出せなくなって、混乱することがあります)
家具目線から解放されたとき、あれほど煩わしく思えた創造物は完璧でした
意図していないと思っていた創造物は、完全に私が創造したものでした
あなたの言葉のお陰で気付けました
ありがとうございました
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>>272
長文でしたが、気づきに繋がったようで良かったです。
こちらこそ読んで下さりありがとうございました。
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>>266です
>>267さん、>>268さん、ご返答いただきありがとうございます。
お盆と部屋(空間)のお話、大変参考になりました!
思考・エゴを、置いてあるものに置き換えるだけでだいぶ想像しやすくなりました
この表現が合っているのか自信はありませんが、自分的に解釈したところ、本当の自分というのは
土台というか、海や空のような大きな位置にあるというような認識におさまっています。
またよく分からなくなってしまったらお2人が教えてくださった
例え方を思い出して一つずつやってみたいと思います。
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>>274
そうですね、海や空のようなもの、だと思います。
先日はお盆と例えましたが
よく言われるのは、
自分という個人は波だと思っているけれど、
本当は海そのものなのだ、と。
なのに海ではなく波という小さな存在、
なんなら、その波から飛ばされた小さな一滴だと思ってしまうが故に、自分は力のない何も選択できない存在だと勘違いしてしまうのだ、と。
これはとっても分かりやすい例えだなと思います。
波は波でありながら同時に海そのものでもあります。
ひとつひとつ観察しながら、時に海の立場として観察してみるのもありかなと思います。
一個人として自分を観察した時に、あれ、この観察しているのは誰?→自分だと思っている以外の自分があった
というのが自己観察さんの始まりだと思いますが、
それでうまくいかない人は、結論(本当は海)の立場に敢えて立って実践してみるのもありかなと。
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>>275
海と波の例え、とても分かりやすいですね!
また一つコツを教えて頂き、ありがとうございます。
先に結論に立って実践するのも新たな感覚がひらめきそうな気がします!
色々な角度から自己観察を実践してみます。
色々とご親切に教えて頂き、本当にありがとうございます。
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色んなメソッドとかアファとか試したけど、やっぱり自己観察だなと思う。
自己観察は欲望を叶える為のメソッドなんかじゃなく、制限のある、だからこそ美しい物質世界を楽む事ができる「全て」だったのね。
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