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自己観察スレ4
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自己観察について語るスレです。
みなさんで語り合いましょう。
前スレ
ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1455679954/l50
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>>1
スレ立て乙です!
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なんか自己観察さんで一番最終着地したな。
だって何もしなくてもよかったんだもん。
呼吸法だのアファメーションだの瞑想?願い事手帳?ポノポノ?なる、ある、どうしたら叶うの?って奔走したり、こんな事考えたらダメとか、不安になったら現実化しちゃう〜、イメージしなきゃ、とか全部思考が騒いでるだけだから現実も無理やり無視しなくても、現実観察してたら叶わないなんて事ないんだねー。
何でも望まない事が現実化〜、こわいこわいって不安になっていたのが茶番だとわかった。
忙しかったよね。だってこわい事ばっかりなんだもん、結局色んなメソッドも知らぬ間に制限かける元になってしまう、そんな方法何もいらなかったし。
自己観察さん知れてよかったわー。
色々回って来れたんだけど、他知らないとまだ理解もできなかったな〜とも思う。
スタンプラリーみたい。
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自己観察一本ただやっていればそこに到達するんだけど、初めはいろいろやっちゃうんだよね。
遠回りしてやっとエゴが納得するんだから必要な経験なのかもしれない。
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新しいスレが建ってはみたものの、レス少ないw
暇なんで投下。
思考について。
執着している事柄や不足感を覚える事柄について、1つ思考が起こると次から次へと思考を展開させてしまう。
で、いつの間にかネガティブな思考に行き着いてしまう。
思考に熱中している状態。
思考と同一化してる状態。
この思考の展開をやめるには思考に気づくことでやめられるんだけど、もうちょっと考察。
1つの思考として、例えば執着している「復縁希望の彼」。
①彼の姿の思考が湧いた。
↓
②①の思考に気づくと共に「お、彼についての思考だな」という思考が湧く。
↓
③気づいたはいいけどモヤモヤ残る。
↓
④自己観察してるのにモヤモヤ収まらん。なんで??
この状態ってけっこうあるあるだと思う。
これは、②で「思考に気づいた!」となった後に、①の思考を消そうとか、無視しようとか、結局①についてしつこく思考してる状態だから。
ここでより深く観察。
「②の思考の主張である『お、彼についての思考だな』は、真実なのだろうか?本当に①の思考など湧いたのだろうか??」
①と②の思考を横に並べて「①の思考は本当に起こったものですよ。だから本当に湧きましたよ」と検証することはできないし、この主張さえも今湧いた思考であるという…。
表現がすごく難しいんだけど、思考すべてが過去についての主張であり、また過去があったことを主張するのはこの世界では思考だけ。
「思考に気づいた!」という思考さえも今この瞬間においては、本当に湧いたものなのかどうか検証することができない。
そのように思考を観ていくと、常に今に在るようになり、あらゆる思考を掴まなくなり楽になるというお話。
お粗末様でした。
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エゴは、私でなく独立した存在で、現実を見る度に反射的に、今までの過去の経験に基づく認識を起動して、
私を勝手に不安にさせているだけ、とは一応、理解してますが、
その不安が感情を揺さ振り、鼓動が激しくなる動揺、体が乗っ取られる事が多いです。
現実は私と無関係で完璧であり、問題は、その現実への認識(エゴ)である、との事で、その度にエゴに気付くをやってはいるのですが。
上記の 3さん、5さん、一体何がどう違うのか?もう少し深く御説明お願いしたいです。
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>>6
>>5です。
>>5でレスした内容は、実践においての気づきをレスしたものですので願望実現等の参考にならないかもしれません。
それをご了承の上で…。
ひどくわかりにくいレスで申し訳なかったのですが、私の言いたかったことをよりシンプルにすると、
「 私を勝手に不安にさせているだけ、とは一応、理解してますが、
その不安が感情を揺さ振り、鼓動が激しくなる動揺、体が乗っ取られる事が多いです。
現実は私と無関係で完璧であり、問題は、その現実への認識(エゴ)である、との事で、その度にエゴに気付くをやってはいるのですが」
今ここにおいて、↑このように思考した現実は本当に実在したのでしょうか?
ということです。
「いや、確かにそのような思考を私はした!」
と思われるかもしれませんが、それも結局は思考、エゴの主張ではありませんか?
いかがでしょ。
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願望を実現したい、楽になりたい。
そのために自己観察をしているのに、今度は自己観察について悩まされている。
そのようなことは往々にして起こりますが、その悩みさえもよく観察すると思考だった。
思考を無視すると言いながら、過去(思考)を真実としながら自己観察をしている。
それを見破ってみませんか?
と言うことですね。
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>> 7さん 6です。
早速のご返答大変感謝です。
さて、エゴ騒動は、過去の後悔、未来への不安であり、どちらも「過去の経験則を起点としている」、つまり「過去が原因」と云えるようです。
ここで振り返ってみると、やはり「過去たる経験則」に基づく思考での「生活」に慣れ親しんでいた、その「生活」しか知り得なかった為に、エゴ、経験則への依存ばかりしていた、とも思えます。
一方で、「経験則は”その時点”までの統計であり、法則ではない」とは気付いてましたが、「過去への依存」は相変わらず大きいです。
また「時間の流れ」を考えると、①過去を経て今に至り未来に繋がる、を信じて来ました。
最近になって、②”今ここ”で過去未来が決定される、を知りましたが、理解であり腑に落ちた訳でもありません。
確かに「↑このように思考した現実は本当に実在したのでしょうか?」の通り「実在も怪しい」、上述の②次第で収める事とも思われます。
ただ、極論で云えば「5分前に世界ができた事を否定できない」、これ同様に、ひどく曖昧なものと思われますね。
また、
8さんの「過去(思考)を真実としながら自己観察をしている」、これも「過去=真実」が前提となりますが、過去は「ひどく曖昧」なので、信じるものでは無い、と云えるようですね。
だいぶ、エゴが大人しくなった感があります。
もうちょっと「前提」を見直してみます。
7さん、8さん、有難う御座います。
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>>6 >>3です。何か目が覚めたらアンカついてたね。
えと、何かすごく難しく考えて恐れて混乱してる?
私はですが、言葉を難しい理屈で述べると面倒くさいしわかりにくいのが嫌なので、もっとシンプルに考えていて、
エゴ(思考)も自分なんですよ。
これを別物としてひとり歩きさせると、怖いとかエゴに支配される、とか思っちゃうんじゃない?エゴ(思考)って自分が嫌だって思う採用したくないものだけをエゴ(思考)が考えた事だ、って理解するだけ。
例えば「そんな事なるわけない」って不安になる事があった場合、エゴ(思考)が不安になってるだけだからこれは嘘だ、よかった。って思ったり、「こんな事になったらどうするんだ」って恐れでどうしようもない事がおきた場合も、エゴが恐れてるだけだからこれは嘘か、よかった。って思う。
このように、自分の中から湧き出てきてて普通の感情みたいですが、それは自分が何かしら不安に思っているなりたくない自分をあえて見せて、違うって気づくために自分が自分で自演して見せている様です。
なので、そこに気づけばこの自作したお話は解決したので後は本当のなりたかった自分が顔を出してくれるみたい。
わざわざ難しくしてるのも自分。エゴって自分のいらない思考だから。
そのストーリーを経て気づいてからハッピーエンドになりたかったりするんだね。
けど気づけたらこれからも色々なお芝居は、あ、芝居だ、ってわかるようになるから面白いよ。嘘つきーってね。
言葉とか違うって人もいるかもしれないけど、私は最初に書いた様に、難しい理屈で説明色々されてもチンプンカンプンで結局 は??ってなるので、こういう風な理解で理解できましたよー。
他の頭のいい人の意見もあるといいね。
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>>9
理解して頂けて良かったです。
また、もうやられてるかと思いますが実際に自己観察でその様子を観ることが大事かと思いますので少しの間だけでも観察してみて下さい。
『自己観察をしてるのにスッキリしない』
『現実を無視できなくて困っている』
『何をどうすればいいのか?』
↑これらも記憶という曖昧な思考であり、実在したかも証明できない。
『いや、確かにさっき思考した!』
↑これも結局は記憶であり思考。
ここを観察できると自然と過去に捕らわれず今に在ることができると実感しました。
これ以外にも今に在ることのできるやり方はいろいろありますが、今回は『世界5分前起源説』みたいな切り口でお話しです笑
実際に遊び感覚でやってみると面白いかもしれませんね。
ではでは。
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3さん、6です。
>>「自分が嫌だって思う採用したくないものだけをエゴ(思考)が考えた事だ、って理解するだけ」
また「自作自演によりイヤな事に気付かせる」結果、「本当のなりたかった自分」が出て来る、
「エゴって自分のいらない思考だから」、など、まるっきりシンプルですね。素晴らしく羨ましいです。
一方、他の方々から頂いたご返答もですが、
エゴ・思考は、何かを想う度に「でも、ナニナニだから」など付いて回るなど、確かに存在してはいますが、
「それを根拠にしなければならない」訳でもなく、ひどく曖昧なので依存しても意味が無いですね。
ここら辺が、うまく腑に落ちていないようです・・・
ですが、そのような曖昧なモノ(エゴ)を詳細設定して敷居を高くして崇め奉る、こんな事を最優先していた、
それがそのまま現実に投影、エゴに関心・興味を持たざる得ない生活がループしている、こちらは確実に理解できました。
まだ、アレですが・・・、6さん、詳細な御説明有難う御座います。
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観察してると、思考や感情は身体(臓器とか筋肉とか)に溜まってたりしてる
不安感を観察してるとみぞおち部分が苦しいとかこわばってるなんてのは感じやすい
人格=身体で、食べ物の消化や心臓の鼓動が意識でコントロールできないように
エゴのささやきも身体由来だからコントロールはできない
自分であって自分でない(コントロールできない)のが「自分と思ってるモノ(エゴ=身体)」
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>>11 さん 9です。度々ご返答有難う御座います。
思考の云う”過去”は、思考が主張するだけ、仰るとおりですが、やはり「思考・過去への依存」ですね。
尤も、「5分前説」クラスで云いますと、一瞬一瞬がパラパラ漫画のようで、始めのセル画と次のセル画とは全く関連性が無く、本人の意図に応じて、毎瞬ごとに別のパラレルワールドに移動、って事が最近証明できつつあるようですね。
この視点からでも、思考・過去は全く関係無いって事ですが・・・
あとは、「5さんのかきこみ」での対処法、これに慣れる具合と思われます。ほんと、単に「その人の習慣」かもですね。
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自分は傷付きやすくて他人に対してすごくガードが固くなるんだけど、他人は自分を傷付ける存在だと認識があるのかな?それとも自分が傷付きやすいという認識を改めるべきか?
多分後者だよな…
もっとフラットに人間関係築きたいし積極的になりたい
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質問
自分が作った世界なんだったら、この3次元にある神社の神様だとか、何らかの拠り所として崇めてるものは単なる精神の拠り所、見たいと思うから出してる偶像で、本当は神社の神様はいないんじゃないか?って思ってるのだけど合ってる?
達人さんはそこんとこどういう考えなんだろ?
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>>16
それはまんま仏教の考えだよ。
神も自我が作った幻想。
だから仏の下に神が天部として位置してるんだ。
自分は人間であるという認識から、自分は創造主であると認識が変更する。
それは神の視点。
でもこの視点はエゴ。
執着がある。
未だ神はエゴの世界の住人なんだ。
でもあらゆる願いを叶えるけどね。
つまり願いを叶える本当の主体は、
「エゴ」なんだよ。
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>>17 ごめんなさい、意味がわかりづらいです。自分が創造主なんじゃないの?
神=エゴ? だったらエゴ=自分だから自分が叶えてるし、主体が自分ですよね?
叶える主体は自分だけど、奇跡を起こすのは宇宙の力も介在してる?と捉えてるのですが違う?仏教の考えではないと思うのですが。
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ここに居てほしい人がここに居ない
ここにあってほしい物がここにない
居てほしい、あってほしい……という渇望感の虜になっている事をようやく明確に自覚し始めてる
気付きが明確なほどその外に出やすいのも実感としてわかってきた
物理現実はかなり上手く行っているのに、意識を分離や不足に向ける癖がついているw
でもその外に居る時の実感が濃くなってきたし多分もう大丈夫
このまま進む
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おとといの夜、いきなり視点が変わったんだけど
これか!こっちの視点か!って感じで。
あーこれはコントロールなんかできないわ、だた起こっているだけなんだ…って感じた。
エゴもやたら遠くに居るだけで、ああ、居るな、って思うだけだった。安心とか愛とか全て在るとかは感じなかったけど。
昨日の朝には今まで通りに戻ってしまって、あの感覚になれないんだけど、最初ってこれ普通にある?
これが「最初は行ったり来たり」ってやつなのかな?
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>>20
行ったり来たりは普通ですよ。
また社会生活をしていればその時はエゴの自分に戻ります。
時間がある時に、スッとその視点に戻れるポイントを探し見つけてみて下さい。
カギは、自己イメージという自分に対しての記憶(映像として起こる思考)が起こっているのを観察で捕らえることです。
言葉で起こる思考を観察する
↓
その思考を観察している者は誰か?を問いつつ、そこで起こる映像の思考を捕らえる。
※おそらく普段の自分の顔が姿がイメージされると思います。
↓
そのイメージも思考であることに気づいてみる。
↓
では、思考でも記憶でもない本当の私とは?を問い、観察で探してみる。
観察の一例としてはこんな感じですが、継続して見ることが大事かと思いますね。
またダグラスハーディングの「顔のないところを見る実験」も併用すると一発でわかったり、色々と繋がる気づきが起こるかもしれません。
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>>20
一度実感を伴った理解が来ても元に戻ってしまう現象、なんなんだろうね
ルビンの壺の、あっ壺見えたーと思ったら、あれっまた顔しか見えなくなった……ってのと同じなのかな
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>>21
回答ありがとうございます!
普通にあるんですね。続けてやってみます。
ハーディングの動画…!あんな感じだった!
見てみます。ほんとにありがとう。
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>>22
無自覚な思考に同化し、それに気づいていないからですよ。
「あの感覚をもう一度得るには?」
「この達人のレスを読んだらまたあこ感覚になるかも…」
「どうやったらいいんだろう?」
「どうしてだろう?」
など、探しものを探せばこのような思考が起こるのは当たり前ですが、この思考が探しているものを見えなくしてるんです。
これらの思考を捕らえ自覚し、また「自己観察を頑張ってる自分」も思考であることに気づけば、またエゴから離れた視点に戻ることがいつでも出来ます。
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自己観察をしていても感情が苦しい人は、特にこの「自己観察頑張ってるのになぜ?」という思考に同化してないか観察するのをおすすめします。
自己観察中も様々な「自己観察に纏わる思考」に同化してるのです。
そこに気づけば離れられます。
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あげ
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ageついでに投下。
既にあるについて。
自己観察では「別の領域の立場」という表現があり、またその別の領域ではすべてが叶っていると言うけどそれはどういうことか。
私の自己観察経験での解釈。
私は「左があるなら右もある」と良く言うけれど「前にあなたがいるなら私はあなたの後ろにいる」も同じことかと思う。
同じように「ないがあるなら、あるもある」。
そらそうだ、という話なんだけども、自己観察をしていてこれらを観察しているとわかることは、
思考は「ないよ!叶っていないよ!」と言う。
それを観察している立ち位置は「あるよ!叶っているよ!」ということ。
「うわ〜ほんと叶ってる!」という思考や感情はない。静寂。
起こる時もあるけれど、ほとんど起こらない。
それはなぜかと言うと、実際に叶って欲しいものを手に入れた後のことを考えるとわかる。
本当に欲しいものを手に入れた瞬間は、無かった時とのギャップで喜びが起こるけど、しばらくすると持っていることが当たり前すぎて持っていることをわざわざ意識しない。静寂。
不足の思考を捕らえている時の自分の立ち位置は、「前にあなたがいるなら私は後ろにいる」と同じで「私がないという思考を観ているなら、私はある立ち位置にいる」となる。
まあそんな認識もあるよという話で、かつ既出なような気もするけど。
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人との距離感の測り方が分からなくてつらかった。幼少期自分の話聞いてもらえなかったからか、表に出さないようにしてるけど心の底で繋ぎ止めたくて必死になってしまう
これって自分が自分を見てない、味方してないからだよね
自分は自分で満たさないといけないって気付いたよ
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自己観察で病気とかまで治った人いるかな。
あり得るとは思うけど、実体験あったら聞きたいです。
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叶った後は願望についてどう思うか想像するに、叶ったんだから満足だろう。いや、満足感なんてすぐに消えて普通の状態なんだろうね。
もちろん叶ってるんだからその願望についての不足の思考は起きない。
これは自己観察中の別の領域とまったく同じだなと思う。叶ってない、ない!というのは知覚から起こる思考で、この思考に気付いて離れれば、願望は既に叶ってるんだなと。
なるほどね。
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私は白昼夢をよく見るんだけど
起きて普通に何かを想像していたはずが、いつのまにか勝手に展開して、夢と想像と現実の境がわからなくなる
あの感じと、普段いつのまにか思考が始まって勝手に展開していく様子が似ていると最近思う
瞑想状態とは眠っている状態ではなくむしろ覚醒状態だというような話の意味がわかってきたかも
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ここの皆様にご教示頂けたら幸いです。
最近、期限が迫ってきている叶えたい願望があります。
「なかなか叶わない…」「どうしたら叶えられるだろうか」「このまま叶わなかったらどうしよう」というエゴ?思考の扱いに悩まされています。
↑と思っているな、不安になっているな、焦っているな、でもそれはエゴの思考で私ではない。
と距離を取ろうとしていると「ちゃんと引き離せただろうか」「まだ同化している気がする」「ていうかこれもエゴか」というように、本当の自分というかいわゆる別の領域をちゃんと感じることができません。
また、その度に「ちゃんと感じないと叶わない」「これじゃダメだ、引き離さないと」と焦りの思考が増えたりイタチごっこで苦戦中です。
今までずっと自愛を参考にしていたのですがどうもしっくり来なくて、自己観察を知ってこっちのほうが合ってるような気がして始めました。
頭で考えているような感覚で、なかなか感じることができません。
叶っている側から見ればいいと頭にはあるのですが、それを心で感じることができなくて焦りが増えてしまいます。。
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観察は、叶ってる側から見るのでなく、叶っても叶わなくてもどうでもいい場所から見るほうがいいね。
自己観察という言葉の意味から誤解されがちだが、思考を観察するのは解釈をこね回すためでなく、単に思考からはなれるため。
熱射病対策に「暑い」と気付いたら室内に入るように、思考で苦しくなってると気付いたら静寂に浸る。
思考によって苦しんでいる実感があるなら、思考に気付くたび「別にそれでもいいじゃん」と受け入れて終りにする。
そして静寂。
頭のなかで議論をするからいつまでも思考が止まらない。議論しない。「うん、その通りだね」で討論終了。
そして静寂。
静寂になるべく多く触れることが出来れば、それだけで十分。
どんな現実的(と思考が考える)努力よりもそれが大事。
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>>32
>と距離を取ろうとしていると「ちゃんと引き離せただろうか」「まだ同化している気がする」「ていうかこれもエゴか」というように、本当の自分というかいわゆる別の領域をちゃんと感じることができません。
横ですが>>33さんの言うとおりで、↑のような「自己観察実践中の思考」も思考であるなと気づくことが大事です。
自愛もそうですが、実践中に考えている思考にいつの間にか巻き込まれ、結果実践について「どうすれば良いですか?」と疑問にモヤモヤしてしまいます。
が、それも思考なんです。
願望についての考えから離れたと思ったら、今度は実践についての考えに絡み取られる自分。
そこに気づくと立ちはだかる壁を崩すことができます。
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>>33さん>>34さん
ご返信ありがとうございます。
叶っても叶わなくてもどうでもいい側から見る、思考に気付いて苦しくなったら静寂に浸ることを意識する、次から次へと絡みとられがちな自分に気付くこと。などハッと気付かされるお言葉ばかりです。
「観察している自分でいられるように出来ないと叶わない」とか、どうしてもエゴや思考が悪いもののように感じてしまっていました。
でも、エゴや思考に気付いて切り捨てるというよりは、気付いてあ、こっちだったこっちだった(静寂)ってなれればオッケー!って感じなのですかね。
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>>35
>こっちだったこっちだった(静寂)ってなれればオッケー!って感じなのですかね。
「こっちだった」も「オッケー」もただ眺めます。
静寂は、探したり見つけたりするのではなく、その思考と距離を取った時に現れます。
距離を取るとは、「思考から離れよう」とするのではなく、その離れようとする思考に気づくことです。それで既に離れています。
ここで「その感覚がわからない」という思考が出てくる人も多いと思いますが、
これは実践を重ねて覚える、ある種自己観察の「型」のようなものが定着してくるとはっきりとわかってきます。
はっきりとわかってくると、「その感覚がわからない」という実践中の思考にも気づくようになり、常に余計な思考から離れた静寂に在ることができるようになります。
ここで、「私は常に静寂にいない!どうしよう!」「どうしたら?」と思ったならば、まとめを探すのはやめて、「どうしよう!」「どうしたら?」という思考に気づくよう、自己観察を実践です。
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>>36
なるほど。頭に浮かんでくることはほとんどが思考なのですね。
そして思考に気付いて眺めることで静寂でいられる。。
一瞬そのようなふわっとした安心するような感覚になれる時があったと思ったら数日なれなかったりと、波がありますが実践を積み重ねてその型をつかみたいと思います。
ご丁寧に助言して下さりありがとうございます。
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>>10さんのでいい感じになれたよ。ありがとう。
不安とか将来の嫌な予測の思考って、嘘と最初は思えなかったけど、嘘→架空って置き換えたらすっきりした。
架空のストーリーに悲しんだり怒ったりしてた自分て、何なんだ?って腑に落ちたかんじだよ。
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勝手に続けますが、>>33もよかった。
思考によって苦しんでいる実感、ってなかなかわからなかったんだよね。
苦しいのは状況がそうだからって、ずっと思ってた。
叶う叶わないとかは置いといて、静寂に浸るだけでよかったんだね。
だって、苦しいのも腹立つのも、架空だったんだから。
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もう一つだけすみません。
で昨日スピーチ失敗して、恥ずかしいのを引きずってた。たまたまここを見てたら10さんのところではっ、てなって。
そうか、これからしばらく恥ずかしいかもっていうのは架空ってわかった。
すごい年下の子にひどいこと言っちゃって、関係修復無理ってのも、なぜか架空だ、気にすんなって思えた。
自己観察さんのまとめの冒頭の、堂々としてようと思ったのが、これ蓋じゃね?ってなったって感じがやっとわかったよ。
ほんと、このタイミングで良スレに出会えたことに感謝。
自分語り長々と、失礼しました。
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>>40
実際に腑に落ちることができてスッキリできた人の話を聞けると勇気もらえるな。
なんか、ありがとう。
私は、思考によって苦しめられてるという自覚をちゃんと持ててなかったのかも。
まぁいいやで片付けたら蓋になると思い込んでたのかも。それで頭の中で思考が止まらなくて苦しくなってた。
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>>41
40です。こちらこそありがとう。
自己観察状態にずっと興味持ってて繰り返しまとめとかスレ読んでて、10のところで嘘を架空に置き換えたらストンと落ちた。
何かを得ようとか理解ようとかじゃなく、たまたま、えどういうこと?って精神状態だったからはっ、てなったのかな?不思議。
状態がこうだから辛い、苦しい、ってずっと思ってたけど、それが続くとか酷くなるとかっていう思考で、自分で苦しめてたんだなあと。
ひどい状況って確かにあったかもだけど(ほんとにひどかったかも怪しいが)、思考が絡まないとそれが続けているとは認識しないわけで。
なんて書いてみたがまとまりません。
事実と架空の思考、なぜ混同してしまってたのだろう?
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「叶える」という観点で言うと、潜在意識云々のことはすっかり忘れてしまった方が良いなと思った。
「潜在意識を活用して〜」が叶えるための条件となってしまうからなんだけど、潜在意識の活用って条件としてはかなりハードル上げ目になると思う。だから停滞したままの人が多いんだろう。
とは言っても、一度足を踏み入れてしまうと忘れるのは難しい。
そのような状態の時、自己観察で「潜在意識活用」や「自己観察で叶えよう」の思考自体を観察し同一化しないことが有効だなと思った。
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>>43
潜在意識を活用しよう、ということ自体が顕在意識、思考?の働きだから、ということかな
自己観察さんの泥団子のたとえを実感したい!
なかなか時間の外に出られないよ
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>>44
「自分」ってなんだと思います?
自分はこれこれこういうもので、それらはこの身体に属していて…つまり私が身体で、って普通思いますよね。
それを見ている「自分」ってなんでしょうというのが自己観察の要点だと思うんだけど。
まあ「本当の自分は何者か知りなさい」っていうことですけど。
自己観察は「気づかれる対象」じゃなくて「気づいてる主体」が何者か探求しましょうってことなんです。
思考や時間といった気づきの対象を探っちゃダメですよ。対象をとっかかりに私の源を探求する(とどまって味わう)んです。
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>>44
顕在意識という概念も思考かな。
思考という概念も思考だけどね。
つまり思考をどうにかしてとか、潜在意識をどうにかしてとか、全部ひっくるめて思考w
何かをどうにかして叶えようとしていることが思考、エゴ。
そう考えてそのような現実を見てるんだなーと気づくこと。
それがその現実から抜けることになるんだなと。
泥団子はどんな話だっけ?
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>>45
そうね。
その要点に気づかないと、いつまで経ってもエゴ視点のままだよね。
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さっき、ふと
私は一日の大半を思考に飲まれて過ごしてることに気づいた
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架空のことを思って自分で自分を不安にさせてるだけなんだな…
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どんな思考も、そしてどんなこの世の現象も不確かで架空なんですよ。
確かな「意識」を知らず、不確かなものしかない世界にいれば、
どうしたって不安が支配します。束の間平和や喜びが訪れてもそれは不安と表裏一体です。
両端を揺れ動くようにできているから。
観察されるものはどうしたって不確かなので、意識のほうを味わいましょう。
それが唯一確かですから。その意識から見れば不安や喜びに振り回されることもありえません。
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>>50
38です。全部、架空なんですね。
架空に囚われてしまっていることが多いけど、意識のほうを味わうっていい表現ですね。
ありがとう。
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架空という表現、しっくりきます
なんか言葉で表現すると伝えたい思いと表現に微妙なズレが生じるんですが
感情のメガネをかけていたんだなーって感覚、わかってくださる方いますか?
自己観察するとき、不安を感じているんだなーという感覚ではなく、不安という感情のメガネをかけて外側(いわゆる現実)を見るから、不安だらけの現象が映し出されているように見えるんだなーみたいな
その不安メガネ(感情)を外せば、不安なんて起こっていなくて、というか何も起こっていないことに気づいてフラットに戻れて、そこから見たい感情のメガネにかけ直せば良い的な
これは自己観察とまた違うのかな?
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>>52
うわー嬉しいです。架空、ですよね!
同じような出来事に同種の感情で反応していたみたいで、架空にもかかわらず、嫌な出来事があると自分なんてダメなんだ、何もいいことない、みたいな。
感情のメガネを外すと、全部架空ってわかって、このあとのストーリー展開が全くわからなくても大丈夫、不安にならない感じです。
自分の場合、感情のメガネをかけ直すというより、裸眼のままでしばらくいるのがフラットで心地よい感じがしています。
別に先のことが見えなくても、まあいいや、そんな悪いことにはならないし、って感じです。
なんか生きてるだけでふわふわして心地よくなってきました。
レスありがとう。
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>>53
まったく同感です。
「このあとのストーリー展開が全くわからなくても大丈夫、不安にならない」
というのは、別の領域が悪いものをもたらすはずがないという安心感です。
「自分の場合、感情のメガネをかけ直すというより、裸眼のままでしばらくいるのがフラットで心地よい感じがしています。」
7章の何もしなくていい、があなたはもうわかっているのでは?
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「さあどうしよう」
という思考を客観的に観察する視点に立ったとしたら、そこは「さあどうしよう」以外のすべてを含む場所、もしくは何も含まない場所、なのだろう。
その視点は「さあどうしよう」から離れているのだから、「どうにかなった」視点でもあるし、「何も問題なし」視点でもあるし、「叶った」視点でもあるのだろうね。
大体ここで「それでもやっぱり心配だ!」という視点に立ってしまうけど、ここでも「それでもやっぱり心配だ!」から離れて観察している視点は「何も問題なし」なんだね。
つまり、離れた視点に立ったとしてもどんどんと覆そうとする思考が湧いて同一化しそうになるけど、あらゆる思考から離れ観察していれば、そこは「無問題」「叶っている」視点なんだよね。
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大体ここで「叶ってる感じがしません」と思考が湧く。ここで同一化していたら元の木阿弥。
そこに気づいて「叶ってる感じがしません」を観察する立ち位置に立ったのならば、そこは「叶ってる」。
ここで「全然わからないんだけど?」と思考が湧く。それに同一化していたらまた元の木阿弥。
「全然わからないんだけど?」から離れればそこは「全部わかった」でもある。
だから常に思考に気づくのが大事だよね。
-
不安になってるのに気づく
↓
気づいてるけど…(不安が何度も押し寄せて消えない)
↓
のループだった
本当に常に思考してくたくたになってることに気がつく
その不安もただの思考で本当のことじゃない
本当なんだって言ってるのは誰か?
どうしてそれを本当だと思ってしまうんだろう?
そういうのを超えた意識であることが自己観察なのか…
それに気がついたら不安じゃなくなってるときに落ち着かないと思う自分がいる
これまで不安の中で生きてきすぎてそっちが普通だったからなんだなと思う
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>>57
自分が身体であり自我だと思っているからです。
自分=見ている意識であることを知れば、それらを自分を結びつけることはなくなります。
身体も自我も観察される対象であり観察する主体ではありませんから。
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>>54
ありがとう、7章ってこんな感じなのかな。
何もしなくていい、というか、出来ることは何もないんじゃね、という感じになっています。
それと、自分がしてしまったことをずっと悔いることが多かったのですが、その時の自分にはしょうがなかったと納得できたのが嬉しいです。
悪いことが起きた(という判断)→さらに悪化するだろうという不安、から抜け出すことができたのは、自己観察のおかげです。
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>>59
>何もしなくていい、というか、出来ることは何もないんじゃね、という感じになっています。
そのとおりだと私も思います。
「できることは何もない」という意味で、「何をしても構わない」「関係ない」となりますから。
大きい視点から見るとそう感じますよね。おめでとうございます。
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>>58
肉体は借り物ってそういうことなのかな?
>>59
うらやましい
後悔してばっかりで…なかなか納得できないんだよな
なんでだろう?
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60さん、ありがとうございます。
61さん、別に何かを得るようなことじゃないみたいです。幼児のころ出来てたことに戻る感じ。
38に書いたように、10を見てたら嘘っていうより架空だな、とピンときた感じ。
いろんなアドバイスとか本とかあるけど、知識を入れ過ぎでした、俺。
出来ることは何もなかった。
自己観察もだけど、もしよかったらすべてのことに注意深くなって生きてみるのもおすすめです。
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>>61
>肉体は借り物ってそういうことなのかな?
そういうことです。
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>>63
横から失礼します
自己観察していると、自分の身体(←言葉にすると語釈がありますが便宜上こう表現します)であっても観測しなければ動いていないという感覚になったことがあります
その時に、「ああそうか。この身体は自分が動かしているのではなく、これは自分の身体だと認識し、観測することで動きを確認できるから自分が動かしていると錯覚できていたんだな」と思いました
身体は借り物とはこういう解釈で合ってますか?
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>>64
そうですそうです、
身体は意識(別の領域。一般的な脳に根差す意識ではなく)に照らされて存在できるのです。観測する意識が先です。
錯覚は「私(=意識)」と一番結びつけてしまいやすいのが身体だという理由からです。
ちょっと話変わりますが、
「私は身体である」というとき、エゴ視点では身体が所与のもので身体→私(身体があるから私がある)と考えますが、
108さんのブログのタイヤのたとえのように、順番が逆で、
まず「私」という意識があって、次に「私は身体である」となります。
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>>65
レスありがとうございます
すごく納得しました
そうですよね、そもそも何故これが自分の身体だと認識できるのか、そもそもそれを認識しているのは誰なのか
自分という人間はこうである、と意識が認識しているから
「自分という人間」を観測することができているんですね
ありがとうございます
文字にするとうまく伝えられないのですが、すごくスッキリしました
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>>66
いえいえどういたしまして。
私の感覚で言えば、ほんと細かいことですが、
>自分という人間はこうである、と意識が認識しているから
これだと意識が認識という行動をするとも読めますから、
→「自分という人間はこうである、という認識が意識にのぼるから」ですねw
意識って本当にただ見てるだけ。
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肉体は借り物、か。なるほどなぁ
自己観察を知ると、普段どれだけ自我に焦点を当ててで過ごしているかが分かるよね
自我が悪いわけではないんだけどもね。
ネガティブな感情や怒りなどの離れたい苦しい感情になった時にふと思い出すと一体化してる事に気付けるよね
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>>68
一体化自体が錯覚だ、ということに気づかれるかもしれません。
その意識は何者とも結びつかず存在することができるので。
一体化する私がいないことに気づかれるかもしれません。
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マトリックスという映画では、この事に触れてます。
真実とは何だ?
見たもの、感触、匂いとかか?
それは、脳に対するただの電気信号だ。
ってね
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自己観察と願望実現はどう関係があるのだろう
自分というものがなにを望んでいるかを気づいて
選択していくためのもの?
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スレ違いかもですが、マトリックスで思い出したので
私は昔から、空間に非常に細かい無数の粒子が見えます
光視症とか、飛蚊症とかそういう系ではなく
テレビとか液晶の画素のように、規則正しくぎっしり無数の粒子が空間に立体的に並んでいるんです
色は赤と緑(緑は年を重ねるにつれて見えなくなりつつあります)があります
これらは見ようと意識しなければ見ることはないのですが、見ようと思えば目を閉じても見えます
それで、これはずっとなんなのだろうと思って、人に聞いても同じものが見える人はいないし、ネットで検索しても該当するものが見つからずにいたのですが
自分は現実と名付けられた映像の中にいるんだと思ったらしっくり来ました
そりゃあ、意図(電子信号)で現実(映像)は変わるよなーと思いました
ちょっと頭のおかしいやつだと思われるのが怖いので、これを書き込むのに悩んだんですが、似たような方いらっしゃらないかな
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>>71
(私が)願望実現するという考えは別の領域では成り立たなくなります。
実現していないという前提、対象と主体の分離、時間の想定(叶ってない今と叶った未来)などが分離の世界の属性として、「願望実現」という言葉の中に含まれています。
この世界は"二元性"(≒分離)に基づいて成り立っているので、別の領域(一元)を知らなければ、願望実現という考えは妥当性があるのですが、別の領域を知れば「おかしなことだ」と思うのです。
ですが、別の領域の上にこの世界が存在しているということは、二元の世界が消え去るわけではないので、仮構としてこの世界は存在しています。
つまり分離(しているようにみえる私=願望実現しようとする私)は存在し続けます。
重要なのはさんざん言われていることですが別の領域を知ることです。認識の変化をおこすことです。
意識(としてのあなた)は分離がないので待ち望むこともないですし、時間がないので既にかなっているというほかはありません。
全て持っているのは意識(としてのあなた)なのです。身体・自我がすべて持っているわけではありません。
そういうわけで意識(としてのあなた)からすれば、身体・自我レベルでは何をしたって無駄なので何をしてもいいししなくてもいいし、無条件にうけとっていい存在だということがわかるのです。
なぜなら意識(としてのあなた)に差別は一切存在しないからです。
じゃあすぐくれや、と言われてもそうはいかないのがエゴにとってはもどかしいところではありますけどね。
時間は二元の想定であり、別の領域にはないので、確かisaだったかな、「叶うのにタイミングは選べない」(※)と言ってたと思います。ただ、すべてが最善に起こります。
完璧、全という属性たる意識=別の領域の上に分離たるエゴがあって、しかも私たちが自分=エゴ、身体、自我(全部分離)と思い込んでしまっているので分離が有効になってしまっているのです。
だから別の領域を知って分離に妥当性、有効性を与えるのをやめれば分離は妥当性、有効性を持たなくなります。
その状態ではまさに分離しているかのように見える身体、自我も別の領域の現れとして存在しているので分離の属性がありません、あなたが分離を有効だと思わない限りは。
そのとき何が起こるのかというと、
主体は別の領域でありこっちの世界にはないので主体(意識=別の領域)の属性たる完璧、最善しかのこりません、だからもう何もする必要がありません。「叶ってない」が虚偽なのだから、しかも身体・自我は力を持ちませんから「何もできない」と悟って別の領域を信頼して「何もしない」でいることができるようになります。「主よ、あなた(=わたし)の最善をお与えください」(from DEBUG)と心から言うことができるようになります。
そのとき、身体・自我は別の領域の属性と一致しているので(分離を働かせていないので)、最善が与えられます。ただこの世界の時間や「ある・ない」などの"二元性"という属性上、客観的(一般的な意味で)には「実現を待つ」という状態が発生します。
(※)「isa式41 最悪の出来事も最高の出来事も、全て経験済みだし創造済み」の
「967 :isa:2010/10/16(土) 07:20:58 ID:7u3VsJ6M0」
ttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-315.html
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>>73
詳しくありがとうございます
なかなか難しいけど…
別の領域からみるとすべてある
つまり願望として叶えようとか欲するということを選んでいる限り
分離を採用し続けてるってことになるのかな
いまの状況は過去に自分が望んで(意図?)して起こってるってことは受け入れられそうで
それをいま受け取ってるんだと思うのだけどほんとしんどい
そのひとつひとつに感謝して「どうありたいのか」を考えて
神に「こうしたい」って祈る日々だけどちっとも安らかにならないんだ
いま「こうしたい」って決めたことはいつやってくるのかなって焦ってしまうのがエゴなんだろうか
見当違いのレスになっていたらごめんなさい
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>>74
横からすみません。
ここは自己観察スレですよ。
今そのように悩んだり考えたりしている者、その者や、その者を起点として起こる思考を観察するんです。
それは実際に自分の気づきで観察しないと納得できないことですので疑問や悩みが湧いたら観察する、です。
観察できたとき、全てが分離による幻想のようなものだったと気づくことができますよ。
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>>69
一体化自体が錯覚…となると少し難しく感じてきました汗
一体化というよりも自我やエゴに意識を向けてしまっていただけというような感じでしょうか??
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