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wildスレ
500
:
幸せな名無しさん
:2016/09/14(水) 17:49:55 ID:T5Sj9LMs0
はじめまして
認識の変更が進んだ方がたくさんおられるようなのでこのスレが気になりましたw
最近瞑想や自己観察などをしていて無思考状態になれるようになって気づいたのですが体を動かそうという思考をしなくても勝手に体は動いているんですね
飯食ってる時に気づいたんですけど別に何を食おうとか選ぼうとかどう食おうとか考えなくても勝手に体は動いて食ってるなぁと気づいて逆に全く別のことを考えてても勝手に食ってるなぁと
思考は関係なく意図=実現だと言われていたことがわかったと感じています
エゴ認識でいると自由意志がないというのもこういうことなのかと感じました
願望=実現は決まっていて自動的に叶えられていると言われているのもこういうことかと
まだ後半の方は多分そうなんだろうなぁというところなのですがこのまま進んでいけば認識も変更されてきますかね?
501
:
498
:2016/09/14(水) 19:37:26 ID:8IIP2vZU0
>>499
ありがとうございます。
では、僕の考えも…
pcでなくて推敲しづらいので、乱文になりますがご容赦願います。
無はそもそも実体ではなく想念の中にしか存在しないはずです。
すなわち、「受・想・行・識亦復如是」といったときのどれかに含まれており、ことさら分ける必要があるのでしょうか?
んでもって、あるとかないとかに焦点を当てると、受・想・行・識はどうやって説明をつけるんだろうという疑問も出てきますね。
「最上位概念」というところも疑問符がつきます。
ブッダが排した永遠の実体(ブラフマン)に関する論争に戻っていないでしょうか?
私の考えですが、空とは不変のものは何もないというこの世の性質を後世の人々が理論化したものであり、あくまで全てに共通する性質であって概念などではないと考えます。
全てに共通する性質ですのでチワワやセントバーナード、あると無いを個別に分けて空即是色があてはまらないとするのも、なんか見当違いな感じを受けます。
>「はじめから形あるものがあるのではなく、私たちが形あるものと認識したから形あるものはそこに存在する。(かといってはじめから何も無いのではなく、有か無かは私たちの認識によって決まるという意味です)」
これは賛同します。名(ナーマ)と色(ルーパ)の関係ですね。
さらに言うならば、有る無しもそれに対する認識も、不変のものではないので、それにこだわる執着が苦しみの元ですよ、というのがブッダの説明ではないでしょうか。
502
:
M
:2016/09/14(水) 19:49:13 ID:T5Sj9LMs0
>>500
自己レスですみません
ただ疑問に思うのは自由意志がなくすべてが決まっているとしたら潜在意識や引き寄せで言われている意図、パラレルワールドの選択、アファ、感情ナビ、クレンジングなどによって願望を叶えるということもありえないということになりますよね
もう決まっているのだから選択ということはないということになりますよね
エゴが意図したとか選択したとか言ってても本当は決まったことが起きていてエゴは自分で選んだと思い込んでいるだけということになるわけで
ただエゴとは別のところ別の領域や真我というレベルでは選択ができるのかそれともそれすらも決まっているのかと気になり出しました
とここまで書いて
>>499
でちょうど自由意志について書く予定があるとのことなのでお待ちしてますw
>>498
僕は仏教のことは難しくてわかりませんし仏教論や縁起論とは関係ない話で申し訳ないですがACIMとその関連書籍の神の使者によるとビッグバンとは神の子が罪悪感を抱いたことによりその罪悪感、恐れを自分の中から排除するために自己の外に罪悪感を投影したことであると説明されていますね
503
:
498
:2016/09/14(水) 19:50:51 ID:8IIP2vZU0
苫米地説にツッコミまくって少しスレの主旨とはずれたかも〜ご容赦ください。
>>500
私もちょうどそんな風に思ってます!
詭弁さんというコテハンの方が
「自由意志はないけど自由選択の意志はある」と言ってたのに賛同します。
504
:
M
:2016/09/14(水) 20:38:39 ID:T5Sj9LMs0
>>503
レスありがとうございます!
やはりエゴ視点では自由意志はないがもっと上のレベルでの意思の選択はあるということなんですかね
願望はどこから湧いてくるのかというお話とも繋がりますが願望すらもただ湧いてきていてそしてそれも勝手に叶うとなるともう意思の選択すらないんじゃないかなぁとかも感じてきますがどうなんでしょうね
桑田さんは願望も勝手に湧いてきてるんだからそれを願望などと呼んで自分から切り離すな的なことを言ってたような記憶がありますしそうなるとやっぱり何もかも決まってるのかなぁとこんがらがってきましたw
まぁ今の僕レベルの認識では考えても答えは出ないんでしょうがw
505
:
M
:2016/09/14(水) 21:11:24 ID:T5Sj9LMs0
連続レスですみません
自由意志がなくすべては完璧に起きてるとしたらと考えてみた時に今展開しているものに対して不満を言っているのはエゴだという感覚もわかってきました
エゴは何もわからないくせに自分の基準(それも結局外から得た基準)で勝手にここがダメだとかああなったらとか言ってるけど
今展開しているものが本当に自分にとって不都合なのか論理的に証明することも出来ないんですよね
まだすべてが完璧だとわかったという認識にはなってないんですがなんかわかりそうな気はしてきました
>>501
またまたACIMの理論ですがそちらでは梵我一如思想をとってますね
現実=神と神の子の一体
この世界=神の子が見ている悪夢
であり悪夢を見ている私たち神の子は目覚めて神と一体になるという考えです
神の使者ではブッダは神の問題を取り扱わなかったことにより悟りはしたけどあと1度だけ輪廻転生したという話をしてましたがここに関してはまぁ僕にはよくわからないのが正直なとこですがw
506
:
498
:2016/09/14(水) 21:35:28 ID:ZKN0053w0
>>502
ACIMはビッグバンについてそんなことを言ってるんですか!
いやはや、私たち個体としては知りようもない世界ですね・・・
ここはブッダ流に無記として扱うのがよさそうですね。
>>504
自由選択の意志ってのは、選択肢は勝手に与えられるけれども
その中で選ぶことはできるという意味ですね。
詭弁さんってこんなかんじです。
ttp://anotherworld000.blog22.fc2.com/blog-entry-448.html
Mさんは詭弁さんから何か得られそうな気がします。
>桑田さんは願望も勝手に湧いてきてるんだからそれを願望などと呼んで自分から切り離すな的なことを言ってたような記憶が
そんなこと言ってたんですね。さすがだわ・・・w
>考えても答えは出ないんでしょうがw
考えて答えを出すものでもないでしょうw
>>505
>まだすべてが完璧だとわかったという認識にはなってないんですがなんかわかりそうな気はしてきました
いいですね!
ACIMの話は・・・ますます考えないほうがいいような気がしてきましたw
>>491
、
>>496
無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
行(ぎょう、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業
識(しき、巴: viññāṇa, 梵: vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
受(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。
愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛。
取(しゅ、upādāna) - 執着。
有(う、bhava) - 存在。生存。
生(しょう、jāti) - 生まれること。
老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。
十二因縁をWikiから引用してみました。
ふと気づいたんですが、
カップやキャンディーのたとえって、まさに識→名色の因縁を表してるのではないかと!
物事を分別区別することで(カップと感覚、飴と舌)、形と名前が生まれてくるという部分に相当するんじゃないでしょうか。
十二因縁の面白いところは、現実世界の感覚(触、受)に先立ってこういう分別があると説いているところですね。
507
:
M
:2016/09/14(水) 22:21:32 ID:T5Sj9LMs0
>>506
わざわざリンクまでありがとうございます!
詭弁さんは以前読んだのですがまた認識が変わってきたので見てみます
完全なる自由な意思はなくいくつかある選択肢の中から選ぶという自由はあるということですね
確かに例えばAとBどちらにしようかなという選択をするときCという選択肢だってあるはずなのに心に浮かばなかったら選択の自由はあるけど選択肢を作る自由はないってことですね
つまり願望=実現は決まってるけどどんな願望を持つかは自分では選べないということですかね
叶う願いは思いつくが叶わない願いはそもそも思いつくことが出来ないと言えるのかなぁ
桑田さんについてはこちらに書いてますよ!
ttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
ACIMのイエスもブッダと同じことを言ってると思うんですがブッダはこの世界の視点から真理を語っていてイエスはこの世界の外の視点から真理を語ってるのでブッダは思考をもって理解できるけどイエスは理解できないんじゃないかな〜と思ってますw
508
:
M
:2016/09/14(水) 23:05:05 ID:T5Sj9LMs0
またまた連続レスすみません
あまりこういうことについてアウトプットする機会がなかったので結構話したがりになってるかもしれませんw
先ほどは自由意志がないなら感情ナビとかアファとかリリースとかも意味がないということになると考えましたが詭弁さんのを見る感じ願望=実現の抵抗をなくすという選択肢として与えられているという感じでしょうかね
つまり願望=実現ということは決まっているがその間にこれらの選択肢を選ぶルートがあるという感じですかね
まぁそれすらも何もしないというのが一番の近道であると詭弁さんもおっしゃっていますがw
509
:
真昼
:2016/09/14(水) 23:52:31 ID:1n1I2Fpc0
>>501
レスありがとうございます。
なんかスゴい人がたくさんいらっしゃるw
そして、僕が501さんのレスを読んで一つ分かったのは、これは僕の敵う相手ではないなとwww
それでも、501さんのレスは今の僕にとってはとてもタイムリーなお話しです。僕の今のテーマは「存在」なんです。
その上で、
>無はそもそも実体ではなく想念の中にしか存在しないはずです。
これは仰る通りだと思いますが、同時に「形あるもの(有)」も実体などなく想念の中にしかないものだと思うんですね。そうすると、無と有は対立的な概念であると同時に、同じ概念なんだと思えます。つまりは無と有は同じことだという理解ですね。それを包含するものに敢えて名前をつけるなら「空」と呼びましょうと。
「受・想・行・識」というものも、あくまで「概念」であり、有るとも無いともいえるつまりは、それらも空です。
つまりは説明はできるけど、実体として有るわけでもありませんし、そういう「概念」としてそのように位置づけているに過ぎないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
また、
>「最上位概念」というところも疑問符がつきます。
ブッダが排した永遠の実体(ブラフマン)に関する論争に戻っていないでしょうか?
これは逆で、梵すらも空の中に包含されるということです。
全ては「有ると言えば有る、無いと言えば無い。有るとも言い切れないし、無いとも言い切れない」ものに包含されている。でも確かに最上位概念とはそれ以上がないので、概念という表現は違うかもしれませんね。
>あると無いを個別に分けて空即是色があてはまらないとするのも、なんか見当違いな感じを受けます。
表と裏とは対立的な概念ですが、同時に依存関係にもあります。そして、本質的には同じものです。表を向いていようと裏を向いていようと百円玉は百円玉です。
同様に、有ると無いは対立的な概念ですが、依存的でもあり、本質的には同じことです、たぶん。そこに「空」という本質を垣間見ることができると考えています。
つまりは私たちの現実とはあくまで「現実感」にすぎず、実体があるわけではない。
言い換えれば言葉と記憶と情動が織り成す幻想です。幻想ならば、執着しようとしまいと全て自由です。望むものを得るもよし、得るものを望むもよし。全てよし、です。
と、書いてみたものの、これ以上は僕の頭では無理です。ごめんなさい。
ともあれ、501さんのおかげで個人的に整理されたところもあり、501さんの深い見識に感謝です。
少し頭がぼや〜っとしてきたので、寝たいと思いますw
話がまとまってないかもしれませんが悪しからずご了承下さいませ。
510
:
真昼
:2016/09/15(木) 00:11:58 ID:CNAPQqVs0
>>506
追記ですが、十二縁起の解説とても参考になり助かりました。
ほとんどを忘れてしまっていたので、これを期にもう一度詳しく調べてみようと思います。
どうもありがとうございました。
511
:
M
:2016/09/15(木) 00:29:51 ID:ln9K.Q3M0
仏教に詳しい方が多そうなのでちょっと前からきになっていたことをお聞きしたいんですが
仏教ではあらゆる苦の原因は無明だと言いますよね
上での十二縁起も無明から導き出されるという話ですよね?
では結局無明って何なんでしょうか?
いろいろ見たんですけどどうもよくわからなかったんですよね
八正道とかと合わせて考えてものごとを正しく見ないこと勝手に判断することを無明というのかとも思ったのですがどうも仏教というのは難しくてw
ACIMではあらゆる問題の原因は神から分離したという罪悪感である
という話なのでわかりやすくて僕でも理解できるのですがそれに対応する仏教におけるあらゆる問題の原因は無明であるというのがピンと来ないのがずっと引っかかっているんですよね
512
:
498
:2016/09/15(木) 00:50:47 ID:utk5pPY20
>>509
レスありがとうございます。
私はわかったふりして書いてたので、実のところよくわかってませんw
また、苫米地氏の主張を詳しく知らず勝手な解釈で批判してるので501はちょっと卑怯な言い分です。
私も真昼さんの書き込みで新たな発見があるので嬉しいです!
>「形あるもの(有)」も実体などなく想念の中にしかないものだと思うんですね。
今の僕のレベルでは、「有るもんは有るだろう」としか思えないのでまだまだ追いついてないですねw
ただ、有ると認識する対象が無と相補的関係というのはわかってきました。
あって当たり前のものは何かわからないですもんね。(魚にとっての水)
>つまりは説明はできるけど、実体として有るわけでもありませんし、そういう「概念」としてそのように位置づけているに過ぎないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
ここについて一つ思いつきました。
たしかに概念としてはおっしゃるとおりだと思います。
ですが受・想・行・識という言葉が指し示すものはやはり在るとしか言えないと思います。
もちろん概念としては有るとも無いとも言えます。
ですが今ここ、言葉すら追いつかない今ここでは、色・受・想・行・識とよばれる「それ」が「在る」だけではないでしょうか!
(現代アドヴァイタの受け売りですがw)
うん、やっぱり、
「有る」という言葉で指し示される「それ」がただ「在る」というほうが私はしっくりきますね。
で、認識などをする私を取っ払ってしまえば(無我)、「それ」が「在る」だけだと。
自説ばっかですいません!
>これは逆で、梵すらも空の中に包含されるということです。
これは、空を苫米地氏(あるいは真昼さん)がどういう意味で定義しているか知らないと何も言えないですね。
>つまりは私たちの現実とはあくまで「現実感」にすぎず、実体があるわけではない。
言い換えれば言葉と記憶と情動が織り成す幻想です。幻想ならば、執着しようとしまいと全て自由です。望むものを得るもよし、得るものを望むもよし。全てよし、です。
これは大いに賛同します。
ですからたぶん、私と真昼さんとの間で、「有る」という言葉の意味が少しずれていたのかなという感じがします。
「言葉と記憶と情動が織り成す幻想」という言い回しを読んでピンときました。
たぶん真昼さんはエゴの幻想的性質を強調してらっしゃったのかな、と。
私は自愛から入ってエゴ全許容マンなので、
エゴも今ここに現れるものとして(別の領域の一部として)捉えてるんです。
513
:
498
:2016/09/15(木) 01:05:25 ID:utk5pPY20
Mさん
>>507
はそんな感じだと思います。
508以下は私が喋りすぎるのもスレ的に違うのでwildさんを待ちます!(本音:疲れました、おやすみなさい(。-_-。)
514
:
M
:2016/09/15(木) 01:14:36 ID:ln9K.Q3M0
>>513
なるほど!かなり納得できました!夜遅くまでありがとうございました!
515
:
wild
:2016/09/15(木) 02:47:25 ID:lEeKjRPY0
>>496
516
:
wild
:2016/09/15(木) 02:48:22 ID:lEeKjRPY0
>>496
517
:
wild
:2016/09/15(木) 02:51:15 ID:lEeKjRPY0
あれ、うまく返信できない!w
スレ消費すみません汗
>>496
真昼さん。
レスありがとうございます。
遅くなりましてすみませんm(__)m
> ちなみに博士は般若心経を大胆にも添削して書き直しています。「色即是無 無即是色 空包摂色 空包摂無」が正しい空の理解だと説いています。
苫米地さんの動画は私もけっこう前に見ました。
その時はまったくピン!とこなかったので忘れてましたが、この改訂般若心経にはガツン!ときました。
そうです。私が今しっくりくるのはこれです!
「色即是無 無即是色」で空。
これが私そのもの。
と感じております。
なぜそうなのか?と言われるとハーディングの太極図通りのI am all、l am notの世界を改めて「知った」としか言いようがないのですけれども…
頑張って書いてみるとこのような感じになります。
まず、真昼さんもおっしゃる「鏡」。
この鏡は「有」「感」であり「色」に当たります。
この鏡に、私を含めた世界に起こるすべての現象が映し出されています。
私自身に当てはめてみると、認識するものはすべて五感+思考で捉えますが、
現象が起こることと、認識することはイコールであると感じます。
リンゴは見たから現れたのであり、現れたから見たのであると。
これは私個人という自我がリンゴを見たわけではなく、リンゴがリンゴ自身を見たという言い回しになります。
この現象=認識のシステム?が鏡であると考えます。
こう言った意味で、この現象世界には「実際にそのものがある」とは言えないのかなと思います。
それを感じるのがキャンディメソッドですよね?
いつも面白いメソッドを考えるなー真昼さんはと思いましたw
まずキャンディの形が鏡に現れ、自分の手という形が鏡の外からニュッと現れ、キャンディの形に接触した時、圧迫感というものが鏡に現れます。
そしてキャンディを鏡の下方辺りに持ってくると、鏡の下方辺りに何かが開く感覚が映ります。
その辺りになるとキャンディの形は消え去ります。
指先の固い圧迫感とちょっとした重さだけです。
これを鏡の奥に押し込むと、鏡の下方に甘い感覚が映り、「甘〜い!!」という思考が鏡に映ります。
キャンディを見ている者、キャンディの重さ固さ甘さを感じている者は私個人ではなく、鏡自身でした。
ということですよね?
長くなりましたw
そしてこの鏡も絶対的な存在ではなく、この鏡はどこに現れているのかと言うと、無に現れている。
私が無の側面を持っているからこそ、キャンディの甘さが現れることができる。
ですからキャンディを口に入れた時、舌にはキャンディの固さ温度、甘さだけがあり、舌そのものの味というものは無い。
この有と無の相互依存関係が、空であり私であると、私は考えました。
以外とこのスレを見ている方がいらっしゃるんだなと思いましてしつこい感じの説明になってますが、すみませんw
バンドに関しては何というか…黒歴史ですねw
楽しかったといえば楽しかったですけども。
演奏中は我も忘れて没頭し、ああ!生きてる!って思いましたけど、演奏終わるとメンバー同士のエゴのぶつかり合いですw
真昼さんはトランペットやられてたんですねー!
カッコいい!!
あ、だから坂田明という昭和の名前が出たわけですね?
ハナモゲラw
518
:
wild
:2016/09/15(木) 03:01:45 ID:lEeKjRPY0
>>498
498さん、初めまして!
遅くなりましてすみません!
wildスレを読んでらっしゃる方がいたとはうれしい限りです。
レスありがとうございます。
しかし498さん、圧倒的な知識と知性、洞察力をお持ちのようで私もまったく敵いそうにありません…。
まるでセントバーナードに吠えるチワワの気分です。
しかしチワワはチワワなりに私見の縁起を吠えてみますw
十二縁起ですが、これは自分に起こる現象のサイクルに名前をつけたものと思っています。
私も十二縁起の連鎖をすべて認識してやろうと頑張りましたが、無理でしたw
しかしながら非常にざっくりですがわかったことは、
自分とは、衝動(苦と私は呼んでいます)を原動力として一瞬一瞬の場面を創っている存在であり、
苦は衝動、エネルギーとも言え、ひとつの場面にとどまることはできずに湧いては消えることを繰り返しながら自分という存在が展開していると認識しました。
衝動のきっかけが場面に起こると、それを解放しようと行動(思考、感情も含む)という現れが場面に起こります。
場面展開としては、
きっかけ→衝動→行動①(思考)→行動②(肉体的行動、感情)→解放
となっています。
これを細かくしていくと十二縁起になるのではと考えています。
自分を含めた世界はひとつの意識みたいなものとして私は捉えてますが、自分を内側と外側に分けて考えてみますと、
例えば、
外が何かを出現させる。
内が気づく(出現と気づきは同時)
内に「ん?なんだろう?見よう!」という衝動が微かに起こる。
「見る」という行動が起こる。
外が鳥をはっきり現象化させる。
「あ、鳥か」と納得し衝動が解放される。
この一連の場面展開がひとつの意識、存在内で展開しますが、それが先に書いた「鏡」という比喩です。
細かく見れるようになると、鏡に十二縁起の場面場面がババババッ!と連鎖して現れていると考えます。
また、衝動が完全に解放されないといずれまたきっかけとして外に起こると考えてます。
このように自分で衝動を起こし、解放しようと鏡の場面を連鎖させ展開させることが有としての私の目的というか存在の働きなのかと思いますね。
衝動が消えてしまうと、あとは存在の消滅に向かうだけなんじゃないかなと思ってます。
連鎖をきっかけや衝動、行動などで表現していますが、これを一番シンプルに表現すると「感」になります。
実は有るのは「感」だけだった!というのが最近気づいたところです。
この呼び方さえも思考という感が他の感に名付けたものなので正確ではありません。
なんとも言えない「それ」ですよね。
長くなりましたが、これが有としての私の側面であり、感が起こるベース?と言いますか、そのようなものを現している場所と言いますか、それが無としての私の側面なんだなと感じています。
ハーディングの頭のない実験で言うと、
需要能力の外側の「何も無いところ」です。
「何も無いところに有る世界が浮かんでる…」
というのが私の正直な感覚ですね。
と、ここまで書いて私の知性のない文章にガックシですw
非常にわかりにくい文章で申し訳ないですのですが、今はこのような感じで自分というものを捉えております。
完全な自説披露ですみません。
498さんのレスで「仏典買わないとついてけないぞこれは…」と思った次第ですw
勉強になります!
ありがとうございますm(__)m
519
:
wild
:2016/09/15(木) 03:34:07 ID:lEeKjRPY0
Mさん、初めまして!
レスありがとうございます!
自由意思のあるなしについてはこのスレでも以前けっこう議論がありました。
以前は私も完全に自由意思はない派だったのですが、最近はよくわからなくなってきたというのが本音ですw
どちらかと言うと、ないのかなーと言った感覚でしょうか。
この辺りレスしてみようと思いますが、私の意思に反してまぶたが閉じる時間が長くなっておりますw
お時間いただけるとありがたいです!
すみません、よろしくお願いしますm(__)m
520
:
wild
:2016/09/15(木) 13:46:40 ID:lEeKjRPY0
Mさん。
遅くなりましてすみません。
自由意思についてですが、これは単純に私個人というエゴの立場でみると自由意思はあります。
私が見たいからリンゴを見たわけです。
では真我とか全体とか言われる大きな存在の立場で見るとどうなのか?
これも自由意思があります。
大きな存在(上で鏡と言ってるものです)がリンゴを創りたくなったからリンゴを発生させ、エゴを発生させ見たいという衝動を発生させ、リンゴをエゴに見せた。
となると自由意思あるじゃん!と言うことになります。
しかし、あえてエゴと大きな存在という二つの関係に分けて見た時、エゴとしては自由意思はなく、大きな存在の意思がやっていたとなります。
エゴは幻なので初めから自由意思などなく、全部大きな存在の意思だったというのが私の考えです。
なんだか自分で書いていて混乱しますが、今は自由意思についてはこのくらいの考えで留めてますねw
ただ私も経験がありますが、エゴの私のコントロール欲を捨てて、エゴのやることなすことすべて大きな存在に委ねると、エゴは状況ただ見るだけの存在となり非常に気持ちの良い開放感が訪れます。
これが願望達成に繋がるかどうかは断言できませんが、人生楽にはなりますね。
521
:
M
:2016/09/15(木) 17:28:46 ID:ln9K.Q3M0
>>520
wildさんありがとうございます!
自由意志についてはやはり難しいですねw
ここまで自分から言っておいてなんですが深入りしない方がいいなと感じましたw(議論として考えるには面白いですがそれで認識が変わるというものでもない気がしますし)
ハーディングの頭のない実験についてなんですが以前やったことがあるのですが特になんとも気づけなかったんですよね〜(今やってもピンと来なかったんですがw)
ただスレを最初の方から読んで気づきを得た人の感想でポンデリングの中から見ている感覚というのを見て僕も普通に飯食ってる時に自分が一歩引き下がったところから映像を見てる感覚になったことがあってあれのことなのかなぁと思いました
ハーディングの実験は自分の顔を指しながらじーっと感覚を感じるっていうふうにみなさんやってるんですかね?どうもピンと来なくて
こういう話を聞いて僕達はみんなVRゴーグルをかけているけどそれを忘れていてそれに気づこうとしてる感じなんだろうなぁと思いました(光景を想像するとなかなかシュールですがw)
そういう意味で見えている映像が本当は3次元ではなく2次元だという話も興味深いと思いました(僕はまだその感覚にはなれてはいないですが)
ちなみにホログラフィック宇宙論という物理学の分野ではこの世界は二次元平面上にある情報を三次元的に投影したホログラムであるという話があるのでおそらく同じことを言ってるんだろうなと感じました
522
:
477
:2016/09/15(木) 21:36:32 ID:UPabz4Eo0
wildさん、
レスありがとうございます。音楽は聴く方専門ですが、大好きッス。wildさんはwildだけにROCKしてたんッスね。カッコイイ!!!さすがROCKたるや俺様とバンド解散はあるあるです。それもROCKの一部ッスよ!ボーカルなら相当女子にモテモテッスねw
>>494
>その頃を思い返すと、演奏中は「没頭」してたなーと思いましたね。
ステージの空間、観客、声、スポットライト、楽器の音、自分の身体、動悸、歌声、リズム…etc
それらが瞬間瞬間に渾然一体となり、大きなうねりとなってひとつの世界ができあがっていたなーと思い出しました。
臨場感あふれる感じが伝わりました。ステージとの一体感はみんなで作りあげていく、爽快さとパワフルさはなんもいえねーって感じですよw(北島かよ) 俺の中でAfrojack vs. THIRTY SECONDS TO MARS /Do Or Die (Remix) PV動画がイメージ的に流れました。
>今考えると、その時エゴの私は無であり、世界という有がありましたねー。
俺は言葉でどう伝えていいかわからなくなるけど上手く言葉にできるwildさんはスゲーなっと思う。
wildさん、マジ感謝してます。たくさんの気づきをありがとうございました。
523
:
477
:2016/09/15(木) 21:39:02 ID:UPabz4Eo0
真昼さん
レスありがとうございます。気付きはある意味謎解きに似た感じに覚えます。だから謎解き推理小説は人気なんだろうな。
本当はもっと詳細も書きたいと思いましたが、俺は言葉でどう伝えていいかわからなくなるので真昼さんやwildさんがうまく言葉にし直してくれていたので。。。すみません。ここで書いたものに意味はないです。言葉にとらわれないで見てほしいッス。
顕在意識では、同じ言葉でも各個人が紐づけている感情が異なっているため、共通の認識の言葉を選ぶことができないと思われるので、ザックリ俺の認識の中の顕在意識で表現すると
認識の変更前←自販機の当たり
認識の変更前兆
認識の変更←ここに書き込みした時期(思考と思考の空間を発見)
認識の変更の奥
スタートライン
俺の潜在意識の活用の流れはどうやら元祖1式に近い形で進行したもようで、メソッドはほとんど活用していない。自分で勝手にやっていることは今の瞬間にいること思考の停止、ニュートラルな状態をキープにするのにシンプルな言葉が必要と感じている(アファと呼ばれるもの)。
認識の変更前から引き寄せの既にある。思った時に手に入れることを知っているという感覚を知っていた。
例えば、錦織選手テニスの試合を見に行ったとする。錦織選手が試合終了時サインボールを投げること知る。席につくと俺はその瞬間欲しいっと思うより先に手にしている自分を知るっという感覚。予知というものが妥当な言い方かもしれない。ただこういう感覚は稀でそんなになかった。逆にこの感覚に囚われすぎていたのがアダとなっていた。
自販機当たりを引き当てた時期、その頃激務だったので、なんとかその中で気を紛らわすために数字の連続生やゾロ目、ゴロ遊びをしていた。ゾロ目桁数があがるにつれてラッキーポイントが換算される設定。小さなラッキーを集めて少しでもいい気分を味わう為にやっていた。
1回目2のゾロ目で当GET 2のゾロ目が5桁にテンションがあがる当たりは偶然と思った。
2回目8のゾロ目で当GET 日常的にゾロ目はよくあることになる。8が来たらいいなと軽く思う。
3回目7のゾロ目で当GET この7は狙いにいって当たった。
計3回の当たりは約4か月間ほどの期間の出来事です。2回目と3回目は当たりがでたが飲み物は他の人の手元に行く。非常に思考を使いすぎた後のリラックス時に当てましたザックリこんな感じです。
引き寄せという言葉にこだわら無い方が悟りに近づけます。人人悉道器(にんにんことごとくどうきなり)です。最近は伝説の弓道家、阿波研造さんの逸話が参考になりました。禅や弓道、合気道、書道、剣道、柔道 道と呼ばれるものが身近にあることに感謝です。
誰かの言葉より、自らを信じ続けることが強さであり、愛であり、すべてにつながる。
力はみんな内側からやってくる。その力はみなさまひとり一人が持っているものです。
どうやらwildさん、真昼さんのおかげで卒業できそうです。ありがとうございました。
524
:
幸せな名無しさん
:2016/09/16(金) 03:37:19 ID:h3.t2fiA0
477さん、感動しました。
525
:
wild
:2016/09/16(金) 20:16:08 ID:SZRuaRZQ0
Mさん。
> ただスレを最初の方から読んで気づきを得た人の感想でポンデリングの中から見ている感覚というのを見て僕も普通に飯食ってる時に自分が一歩引き下がったところから映像を見てる感覚になったことがあってあれのことなのかなぁと思いました
そうです!
この感覚がわかるようでしたら本質の自分はただ映像を観てるだけであり、思考や身体を含めた世界が勝手に動いているのがわかると思います。
思考や身体に自由意思はなく、世界の一部として動いており、それを本質が観てるって感覚ですね。
この映像の流れが所謂つじつま合わせであり、これに委ねて行けば意図が結実すると達人さんはおっしゃっているのかなと思います。
この先に行くと「本質の自分という感覚」も映像の一部だったと気づいて行きます。
観るものはなく、ただ映像だけがある。
そうなると意思という言葉に違和感が出てきます。
この映像に人間的な意思なんてあるのかなーと。
意思というよりも、システマチックで自然的なもの?
そんな感覚からWildと私は言ってます。
この映像だけの感覚がホログラフィックに繋がるかもしれませんね。
私は次元の話は頭がついていかないので掘り下げていないのですが、おそらく次元同士の関係性があるのだと思います。
三次元の存在は二次元(平面)しか見ることができない等々。
この辺りは趣味の領域なので今回は深堀りしませんが、勉強するのも面白そうですね。
指差しですが、慣れると指を使わず自分に意識を向けることが出来るようになります。
目で目を見るつもりな感覚ですかねw
実際大きなひとつ目だけが目前にあるかと思います。
神は隻眼で描かれることが多いですが、このことを表しているのだと個人的に考えています。
日本では鏡ですけどね。
気になるようでしたらやってみて下さい(^^)
526
:
M
:2016/09/16(金) 20:28:41 ID:AFZbKqv20
>>525
wildさんレスありがとうございます!
やはりあの感覚ですね!
まだ実感があったのは1度だけなのでたまに視点?意識?に注目してみようと思います
527
:
wild
:2016/09/16(金) 20:44:05 ID:SZRuaRZQ0
477さん。
気づきも引き寄せも進んでるみたいですね!
しかし私は何もしていませんよ?
ただ私の妄想を投下してるだけですw
477さん自身が自分で作った謎解きを自分で解いたんですよ。
でもこのスレがヒントになるのは嬉しい限りですね。
今度は477さんのレスもどなたかのヒントになると思いますよ!
いつもレスありがとうございます(^^)
> カッコイイ!!!さすがROCKたるや俺様とバンド解散はあるあるです。それもROCKの一部ッスよ!ボーカルなら相当女子にモテモテッスねw
確かに俺様リーダーとメンバーとの亀裂はあるあるですねw
黒歴史と言いましたけど、あの時の俺様な私がいなければ今の私はないんですよね〜。
なんか考えさせられましたね、やはりすべて完璧なんだと!
あ、私は昔から女の子にはモテモテが基本設定です!
今は変態キモオヤジに設定が変わりつつあるので必死に抵抗していますがw
これも完璧だと信じたい!w
528
:
498
:2016/09/17(土) 17:08:04 ID:5u9c72ys0
>>518
wildさんありがとうございます。
このスレはwildさんはじめ世界にたいする洞察力が鋭い方が多いですね。
大いに参考にさせていただきます。
衝動と解放、また衝動を苦と見抜くことの慧眼にはっとさせられました。
十二縁起も裏側?別パターン?があって、正見から解脱に至るパターンを何かで読んだ覚えがあります。(四諦八正道の言い換えかも?)
まさにwildさんがおっしゃってることかな、と。
たぶんテーラワーダ僧侶のエッセイかなんかだったと思いますが…ま、これは話半分で(^_^;)
オススメの仏典は「沙門果経」です!
お釈迦様が神通力について語りだす面白い仏典ですよw
529
:
wild
:2016/09/18(日) 00:33:03 ID:X1kLrtvo0
>>528
498さん。
レスありがとうございます!
自分のレスを後から読んでみて、なんだか長ったらしく持論をズラズラ書いててわかりづらいなーと反省しました(^^;
空の考えについては真昼さんが完璧にご説明しており私も言うことございませんw
体感的な話で言いますと、鏡のような識の世界で十二支ひとつひとつの場面をスポットライトが照らすがごとく場面展開しており、またその鏡も自性があるわけではなく、無と縁起している。
それらで空である!みたいな?w
ということをお伝えしたかったのですw
ただ498さん、真昼さんの書き込みを読んで、私の感じたことはまだまだ思考内での出来事であるなと感じました。
私にとっては気づかされるレスでした。
ありがとうございますm(__)m
> オススメの仏典は「沙門果経」です!お釈迦様が神通力について語りだす面白い仏典ですよw
神通力!?
昔から興味あるんですよねw
調べてみます!
ありがとうございました!
530
:
wild
:2016/09/18(日) 00:55:52 ID:X1kLrtvo0
独り語りすみません。
神通力で思い出しました。
今日信号が赤になり立ち止まったのですが、風景の奥行が無くなりまるで一枚の写真のようになりました。
これはたまに起こるのですが、いつもと違うのは、目の前の風景が急に彩度が落ち、カラーともモノクロとも言えない色合いになり、かつ1~2秒程時間が止まったのです!
歩行者も自転車も止まってましたw
焦って「解除!解除!」と心で思うと同時に、普通の風景に戻りました…。
とうとう私はスタンド使いになったのでしょうか???笑
「時間よ〜とまれ〜♪」と矢沢の歌が頭をよぎる午後のワンシーンでした☆
おわりm(__)m
531
:
真昼
:2016/09/18(日) 13:01:00 ID:6o5K4Ou20
>>512
498さん、レスありがとうございます。
色々勉強になります。十二縁起について今色々と調べたりしていますが、奥深いですね。良いきっかけを与えてくださり、ありがとうございます。
確かに「空」などという抽象的な言葉の定義はとても曖昧で、個人差などがあったりしますよね。
おそらく、498さんと僕の「理解」は共通の部分が多いように感じます。
>「言葉と記憶と情動が織り成す幻想」という言い回しを読んでピンときました。
たぶん真昼さんはエゴの幻想的性質を強調してらっしゃったのかな、と。
そうです!幻想を見せているのもエゴですし、そのエゴ自体も幻想です。
ではなぜ、幻想が幻想に見えないのかと言うと、欲(苦、煩悩、執着)があるからではないでしょうか?
ふと、思ったのですが「空」を定義している時点で、それは「空」という何かになってますね。それは空ではなく色ですね。まさしく空即是色。全然成り立ちますねw
ともあれ、498さんは、深い見識をお持ちですね。
僕はこのアドヴァイタというのが、未だによく理解できていません。周回遅れを痛感しますw
532
:
真昼
:2016/09/18(日) 13:06:52 ID:6o5K4Ou20
>>517
wildさん、レスありがとうございます。
こちらこそ、遅くなりました。やっと少し落ち着いて書き込みできます。
自分のヘンテコなメソッドを、詳細に解説していただいて、ありがとうございます。
wildさんの説明で、なるほど、このメソッドはそういう意味だったのか!って自分で作ったんちゃうんかい!w
ちなみになんですが、苫米地式中観論では、空観を理解したら次は仮観です。平たく言うならば、全てが幻想だと見抜いたら(空観)、自分が望む幻想を映し出しましょう(仮観)。この空観と仮観の両輪を回すのが、博士のいう中観です。完全に空観のみで生きるには山籠りでもするか、お釈迦様のように全てを捨てて社会という幻想から離れなくてはなりませんね。
ラジニーシも同様のことを言っています。
東洋は内面の豊かさを求めて来た。西洋は外面の豊かさを求めて来た。それでは不十分であると。そのどちらかではなく、内外両方が豊かであるようにありなさいと。
さて、wildさんが書いてくださったレスについてですが
>リンゴは見たから現れたのであり、現れたから見たのであると。
これは私個人という自我がリンゴを見たわけではなく、リンゴがリンゴ自身を見たという言い回しになります。
これはあらゆる覚者が言っていることですね。僕はここまでの認識には至ってないですね。目が目を見ていて、目しかない。という表現にとどまります。
>この現象=認識のシステム?が鏡であると考えます。
こう言った意味で、この現象世界には「実際にそのものがある」とは言えないのかなと思います。
なるほど。「そこにある」という認識のみ、ということですよね。「感」の移ろいですね。なかなか鏡としての自分で居続けるのは難しいです。
この辺は僕も感じるところがあります。また後程書き込みできればと考えています。
>あ、だから坂田明という昭和の名前が出たわけですね?
いや、坂田明を出したのは現象さんですよww
現象さん、元気してますでしょうか。
533
:
真昼
:2016/09/18(日) 13:08:26 ID:6o5K4Ou20
>>523
477さん、レスありがとうございます。
477さんも凄い方ですね!進化が速い。
認識の変更をすると、色々と数珠つなぎで一気に分かってくると言われますからね。
>俺の潜在意識の活用の流れはどうやら元祖1式に近い形で進行したもようで、メソッドはほとんど活用していない。
引き寄せの解説ありがとうございます。
おっしゃることはよく理解できました。元祖一式は僕も時々読み返したりします。いかに「自分」でやらないか、流れを信じて任せられるか。
やはりここですよね。
言葉から自由になることは僕もそう思います。
>引き寄せという言葉にこだわら無い方が悟りに近づけます。人人悉道器(にんにんことごとくどうきなり)です。最近は伝説の弓道家、阿波研造さんの逸話が参考になりました。
「弓と禅」ですね?僕の愛読書です。カッコいいです。少し引用したいと思います。
「あなたは、真に自分自身から離れていないからこそ、そう感じるのです。それは、単純なことです。何が問題であるのかは、ありふれた笹から学ぶことが出来ます。雪の重みによって、押えられ、より深くなると、常に笹は身動きしないでも、雪は重みで突然、滑り落ちます。これと同じように、一杯に引き絞って満を持して待っていなさい、射が生じるまで。そうすれば、本当にそうできます。引き絞りが充実して〔機が熟せば〕、射は生じざるを得ません。雪が重みで笹から離れるように、それを考える前に、発は射手から生じざるを得ないのです」
これぞ達人!!
>ー誰かの言葉より、自らを信じ続けることが強さであり、愛であり、すべてにつながる。
力はみんな内側からやってくる。その力はみなさまひとり一人が持っているものです。
力強いメッセージありがとうございます!
534
:
498
:2016/09/18(日) 15:35:48 ID:NFdaQ6j.0
>>531
真昼さん、ありがとうございます。
幻想はリアルですね。ですから、コントロールしないで放っておくことですよね。できないし。
私にはまだ幻想がありありと見えるのでw
長々としたのを書き込もうと思いましたが、やっぱやめました。意味なく思えてきたのでw
私は真昼さんほど幻想を幻想と見抜けていないのかもしれません。
本当のところはわかりませんが、そうだとしてもそれはそれでいいかという感じですね。
昔ならむきになって論破しようとしたでしょうwww
>僕はこのアドヴァイタというのが、未だによく理解できていません。周回遅れを痛感しますw
知識があっても荷物が増えるだけですしねえ・・・。
おしゃべり自体は楽しいですが言葉にすると途端に無意味に思えてくるんですよねw
アドヴァイタっていうのはインドのシャンカラ(たしか8世紀くらい)がヴェーダ哲学をまとめ上げたもので、
現代においては20世紀のラマナ・マハルシが再興したとされているようです。
日本語訳すると「不ニ一元論」です。これだけで真昼さんならおおよそがわかるでしょうw
現代のアドヴァイタ論者は、ガンガジさんですね。
ttp://gangaji.jugem.jp/
素晴らしいと思います。
>>530
不思議なこともあるんですねえ。
私なら確実にパニックになるので、私には起こらないんでしょうww
>>523
、
>>533
弓と禅いいですよね。内容もさることながら超かっこいいw
人人悉道器(にんにんことごとくどうきなり)
この言葉は弓と禅になかったような気がしますが(忘れてるだけの可能性大)素晴らしい言葉ですね。
535
:
M
:2016/09/18(日) 16:49:37 ID:FE8cJ/n20
体験なしの知識だけであれですがアドヴァイタは不二一元論であり非二元論とはまた違いがあるようですね
一般的な非二元論は主客のないすべては自分の意識であると捉え
不二一元論は純粋非二元論とも言うことが出来てその意識も一なる神ブラフマンとひとつであるということらしいですね
非二元論はすべては夢であるという考え
不二一元論はすべてが夢なら現実とは何かそれは神であるという考えと言えると(またしてもACIMの受け売りですが)
悟りにも小悟と大悟というのがあるとされていますがこの差なんだと思いますね
一般的なスピリチュアルの次元では前者止まり本格的な悟りでは後者までいくという感じでしょうね
536
:
真昼
:2016/09/18(日) 19:18:13 ID:lnT7DGWI0
>>534
498さん、レスありがとうございます。
僕が幻想と表現しているのは、リアルというものはなく、リアリティーしかありませんという意味で書いています。
客観的な事実ではなく、主観的な現実感の中に存在している。そして、その存在すら存在感しかない。「感」しかないと理解しています。
また、アドヴァイタのリンクありがとうございます。
ガンガジさんの、思考を止める方法は大いに役立ちますね。
議論は議論で楽しかったりするのですが(なかなかこういった話ってする相手が僕の周りにいないので)、やはり僕の場合は主体的な体感の話になってしまうんですよね。
人人悉道器は「弓と禅」にはなかったですね。
ああいう道の達人の話には禅が関わっていますから、絡めて読んでも面白いですし、新しい発見があったりします。
弓と禅のなかでも、「それ」という表現で語られていますが、「それとは何ですか?」と問われると、「そんなことを考えているなら、とにかく稽古をしなさい」とたしなめられるシーンがあります。
そこに禅の心髄が垣間見えます。
この凛としたカッコよさw
537
:
498
:2016/09/18(日) 19:55:52 ID:tuTlEbj20
>>536
なるほど、よくわかりました。
納得できました。
主客の別はありませんものね。
ガンガジ対話のブログに出てくる彼女の時折見せるユーモアが大好きなんです。
>>535
夢とか神とかいうとものすごい仰々しく聞こえますねwww
538
:
現象
:2016/09/23(金) 17:37:53 ID:hINeK0dc0
wildさん
真昼さん
477さん
お越しのみなさん
ご無沙汰しています。生きてますw
次に書き込む時は認識変更した時だ、と思っていましたが、
一向に変化なしなので特に内容もない書き込みをいたしますw
最近の変化とも言えない変化は、
5月頃に経験した愛に包まれた感覚に再びなりかけた、
全ては自分という感覚が分かりかけた。
というぐらいですね。
フロントマンwildさん
文字だけの遣り取りなのにシュッとしたイケメンの方だろうというイメージが最初からあり、
バンドのボーカルをされていたと聞いて納得しました。
真昼さん
私もいろいろ楽器を触りましたが全部三日坊主ですわ。
今年も安い電子ピアノを買って仕事場で練習していましたがもう1ヶ月弾いていませんw
477さん
とてもスピーディに認識が進んでおられるようでいいですねぇ。
私の場合は亀、いやカタツムリの歩みです。まあそのうちにと思っています。
以上、生存報告でしたw
539
:
wild
:2016/09/24(土) 18:07:02 ID:ffuGQVzk0
>>532
真昼さん。
> 全てが幻想だと見抜いたら(空観)、自分が望む幻想を映し出しましょう(仮観)。この空観と仮観の両輪を回すのが、博士のいう中観です。完全に空観のみで生きるには山籠りでもするか、お釈迦様のように全てを捨てて社会という幻想から離れなくてはなりませんね。
へえー!仮観ですか。
ことばは知ってましたがそういう意味なんですね。
ちょっと今の自分に当てはまる内容ですねー。
空観を完璧に理解した訳ではないですが、この世は夢と同じであることが完全に腑に落ちた今、このまま流れるまま流れて行くのも悪くないのですが、夢なら夢を楽しもうかなという心境になっています。
明晰夢ですからね、どうにでもなるなとw
仮に死んでもやりたいことがあるならまた意識は復活するのですよw
それはまるでドラクエみたいに教会で復活するようなもんだと思ってます。
しかし両輪を回す難しさというか、エゴの引力というものは強力で、バランスよく両輪を回すってなかなか難しいなと感じているところですね。
> いや、坂田明を出したのは現象さんですよww現象さん、元気してますでしょうか。
あ!そうでした!
失礼しましたwww
540
:
wild
:2016/09/24(土) 18:08:50 ID:ffuGQVzk0
>>534
498さん
時間が止まったのはあれきりですね。意識すればまたできるのかな?
不思議体験は魔境、結局は夢の中ですからね、あまり囚われないようにしようと思いますw
ところで非二元にお詳しいんですねー。
私も以前ラマナ・マハルシ、ガンガジ、アジャシャンティ、エックハルト・トールなどなど読みましたが、さっぱりでしたw
あ、トールはけっこうわかりやすかったですね。
そんな中で一番キタ!のがダグラスハーディングだったんです。
覚者の言っていたことはこれだったのか!と衝撃を受けたものです。
その後にグレッググッドのダイレクトパスを知り理解が深まりました。
ダイレクトパスはアドヴァイダ系のシュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンという覚者が提唱した、頓悟の方法と言えるかもしれませんね。
もしかしたらすでに知ってらっしゃるかもしれませんね。
興味ありましたらぜひ(^^)
541
:
wild
:2016/09/24(土) 18:10:42 ID:ffuGQVzk0
>>535
Mさん
> 一般的な非二元論は主客のないすべては自分の意識であると捉え不二一元論は純粋非二元論とも言うことが出来てその意識も一なる神ブラフマンとひとつであるということらしいですね
へー!これも知りませんでした。
どちらも意味だとおもてましたよw
皆さんほんと詳しいな!
> 非二元論はすべては夢であるという考え
不二一元論はすべてが夢なら現実とは何かそれは神であるという考えと言えると(またしてもACIMの受け売りですが)
私はどちらかというと前者の考えなんですけどね、その夢が起こっている場所が表裏一体としてあるなと感じているのです。
熟睡と起きてる時+夢見中。
意識ない時とある時。
これふたつ合わせて私の世界ですもんね。
これで後者なんでしょうか?
あれ?ちょっと違うかな?w
542
:
wild
:2016/09/24(土) 18:12:54 ID:ffuGQVzk0
>>538
現象さん。
ご無沙汰しておりました!
生きててよかた!w
>すべては自分ということがわかりかけた
素晴らしいじゃないですか!
なかなか難しいなと思うことも完璧に起きている。
私の思考も感情も、責任感も、奥さんのイライラも?w、すべてパーフェクトに起きていることであり、私個人の自由意思は介在する余地なんてないんですね。
こんな感じで丸投げすれば、やるべきことはちゃんとやりつつ、よりわかってくるかと思いますね。
ところで現象さん、私のイメージ像ですが、その通りでビビりました!(なんて自分で言うなw)
千里眼ですか?w
素敵なイメージ像ありがとうございます。
543
:
wild
:2016/09/24(土) 22:24:17 ID:6it/pZTQ0
ちょとメソッド投下します。
名付けて、
「自作自演メソ」!
・まず自分の周りに起こること全部「私の意識の中で起きている」として見ます。
目の前のパソコン、表示されてる文字、周りの人、動物、部屋などなど…。
これも全部私の意識の中で起きているとして見るのです。
・次に音や、物を触ってる時などの感覚。
これも全部自分の意識の中で起きていると見ます。
BGMの音、周りの人の話声などの音。
キーボードの固さや椅子の固さ、柔らかさ。
これらも全部私の意識の中で起きました。
・最後にここが重要なのですが、
自分の身体の動きや思考(これ特に重要)も、私の意識中で起きているとして見ます。
起こしているではなく、起きている。
「自分がすべてを起こしている」でも別に良いのですが、私は「起きている」の方がわかりやすいです。
何がかと言いますと、エゴは幻想だと言うことでしょうかね。
全部私の意識の中で起きています。
私の中で物事が起き、私の中でそれを感じ、私の中でそれを判断している。
そして次の行動が起きる。
全部が全部自作自演。
私=世界
すべてがオートマチック&ノーコンロールだとわかると、エゴの介在する余地はありませんね。
暇な方はぜひ遊んでみて下さい☆
この板の住人の方はこんなの当たり前ですかね?(^^;
でわ。
544
:
498
:2016/09/25(日) 14:00:02 ID:4GXXi5Rk0
>>540
wildさん
できるんじゃないでしょうか?その辺の神通力だと思いますw私はできません
まあ、それが別の領域etcの本質ではないので魔境ということですね。
ここ数日とらわれまくりだったのでwildさんの書き込み見れてよかったですw
ダイレクトパスは知りませんでした。ご紹介ありがとうございます。ダグラスハーディングは桑田さんが紹介していたので名前を聞いたことはありましたが。
エックハルトトールでは私は理解ができませんでしたねえ・・・。まあ今となっては懐かしいというかw
結局言葉じゃなくて理解する必要があるんだけど、理解するために!ってなると理解できないという・・・
エゴ的むりげーにはまってしまいましたw
あれですね、神通力とか直観とか、五感を超えてwildに気づかせてくれるためのwildからのツール程度にとらえておいたほうがいいのかもしれませんね。
(まあこれももちろん勝手な意味づけなんですが)
エゴ的にそれを手に入れよう!となるとループ。
時間が止まったことはないですが、自己観察でものすごい爽快感が頭部に訪れたことがあって、
その後それを再現しようと躍起になって停滞したことをwildさんの書き込み読んで思い出しました。
545
:
498
:2016/09/27(火) 23:56:32 ID:8YMa9/m20
>>536
真昼さん
どーーーにもひっかかる部分があるのでもう一度レスします。
「幻想」がさす言葉の意味、及び言葉の選択です。
幻想と言われると、何か「幻想でないもの」がどこかに存在するような印象を受けました。
これは真昼さんの意図するところと違うと思いますがいかがでしょう。
むしろ、今までいろんな方がおっしゃっている「錯覚」という言葉のほうが私はよい気がするのです。
エゴの視点を通して、「それ」を限定的な見方で見させられている。
真実はそこにあるのですが、ないように見えてしまう。
「幻想」だと、なんだか全く別のところに真の実在なるものがあるような印象を受けてしまうのです。
>>477
、
>>480
の痛みの話を例にとると、痛みで指し示されるその感覚自体が幻想(痛みなんてない)というようなふうに私のエゴはとらえてしまうのですが。
そうでなくて、痛みで指示されるその「感覚」はあって、「痛み」という「言葉のレッテル」、そこから派生するもろもろの観念(例「痛みは好ましくない。消したい!」)が幻想、ということですよね?
>>509
の、
>表と裏とは対立的な概念ですが、同時に依存関係にもあります。そして、本質的には同じものです。表を向いていようと裏を向いていようと百円玉は百円玉です。
>同様に、有ると無いは対立的な概念ですが、依存的でもあり、本質的には同じことです、たぶん。そこに「空」という本質を垣間見ることができると考えています。
を例にとりますと、
錯覚ならば、「表も裏もエゴによる限定的な見方、錯覚です。百円玉があります。」
ということですが、
幻想だと、
「百円玉は幻です。それは実は五百円玉です。」
っていうふうにも取れてしまいます。
わかりにくいですねwすいません。
>>475
で
>私たちは本来、分離なんてしてないのではないはずです。
っておっしゃってますよね。ならばやはり、幻想という言葉のチョイスがふさわしくない感じがします。
幻想という言葉はもろに僕の分離感をあおりましたw
ですので、なお「幻想」という言葉を使われるのなら、
「幻想が一体何から何までを指すのか」ということをご説明いただきたいと思います。
ーーーーーーーーーー
今、
>>473-475
を再度読み直しています。
>まず五感についてですが、突き詰めれば、五感なんてないんですね。一感ですね。「感」だけです。
感・・・というと、「誰が感じるの?」という疑問が出てきますね。(「・・・ているのは誰か?」という質問は、問いかけて放っておくととても面白いですよ)
そうではなくて、
五感も何もかも、同じスクリーンの上の顕現、多種多様な顕現で本質的には同じもの、ということだと思いますがいかがですか?
>「私がこの世にいる」という存在感て何かな?と。一番掴みにくい「感」ではないですか?もしかしたら、それは「感」ではないのかもしれません。
「私がこの世にいる」と感じているのは誰か?ですね。
これはマハルシの問いかけの方法です。
仮に答えが私として、「ではその私を感じているのは誰か?」と再度問う。
カメラが自分を移せないように、感じられているのが私ならば、感じているのは私ではないのです。
では、私とはどこにあるのか?というのがこの質問の本質です。問いかけて放っておきます。
・・・と思ったら
>>480
でもう気づいてらっしゃいましたね。
一応書いたのでそのまま投下しますねw
ーーーーーーーーーー
いろいろ読み返して書いてるうちにひらめいてしまった・・・
>我々の背景が「無」
背景が無・・・はたしてこれはそうでしょうか!?
この時点で無のほうにFOCUSしてますよね。
ですから、私たちの背景は・・・
「無と有が”同時に”存在している」(無と有の相関ではなく、まさしく同時に)
のでは・・・?
すべての可能性が同時に存在しているのでは・・・
これ、「パラレル」では!?
なんかはっきりしない。何だろこれ。
これはぜひ皆さんの考えをお聞きしたいです。
私の直観では無視できる問いではないと思いますが、ふたを開けたら私が見当違いだったという結論でもいいので。
546
:
498
:2016/09/28(水) 00:11:22 ID:bqp9NcPU0
最後のは言い換えれば、
「無数の世界線、可能性、パラレルワールドが存在するのではないか」
「量子的飛躍があり得るのではないか」
ということになります。
547
:
wild
:2016/09/28(水) 20:55:02 ID:cPIVfhz60
>>544
498さん
> ここ数日とらわれまくりだったのでwildさんの書き込み見れてよかったですw
それは良かった!
しかし私も囚われまくりですよw
すぐストーリーの中に埋没しがちです。
でもこの顕現世界をやっている以上は仕方ないと思ってます。
顕現世界をやってるって意味不明な表現ですが、
感とか、有などの在る世界(肉体感覚を伴う私個人を含む)が、顕現世界であり自我の根本であると最近思うところです。
それがわかれば、まあこのままでいいやとなるんですけどね。
> 時間が止まったことはないですが、自己観察でものすごい爽快感が頭部に訪れたことがあって、その後それを再現しようと躍起になって停滞したことをwildさんの書き込み読んで思い出しました。
そうなんですよねー。
「あの感動をもう一度!」がハマりやすいですよねw
もうその快感は訪れないとしておいた方が良いかもしれませんね。既にそうしておられるのかもしれませんが…。
私も何度もハマってますが、以前と同じ爽快感はなくとも実は同じ状態になってたりしますよね。
ところで真昼さんへのご質問で
> 五感も何もかも、同じスクリーンの上の顕現、多種多様な顕現で本質的には同じもの、ということだと思いますがいかがですか?
とありますが、まさしくこんな感覚ですね。
さまざまな顕現が展開するスクリーンがこの現実世界であると感じます。
顕現の素はスクリーンなのでしょう。
ですから鳥が鳴いてると、鳥が鳴いてるようでもあり、スクリーン自体が鳴いてる感覚でもあります。
548
:
wild
:2016/09/28(水) 20:57:03 ID:cPIVfhz60
続き
>この時点で無のほうにFOCUSしてますよね。ですから、私たちの背景は・・・「無と有が”同時に”存在している」(無と有の相関ではなく、まさしく同時に)のでは・・・?すべての可能性が同時に存在しているのでは・・・これ、「パラレル」では!?
これは難しい…w
なんとなくな私の考えですけども、本当に無にFOCUSができるのかどうか。
例えばフィルムの1コマ1コマが瞬間瞬間のFOCUSだとすると、何も無い1コマにFOCUSした途端、気絶してしまうのではないかと考えます。
今、私の背後や視界の外は無と言えますけども、これは無という「考え」にFOCUSしてると感じます。
言えることは言えるんですけどね(^^;
もしフィルム的な考えを採用すると、何も無い1コマは熟睡中とも言えますね。
この間はFOCUSがない。
しかし私の中では、有の世界(顕現世界)で囚われが滅し転生も起きなくなると完全な無、熟睡(涅槃?)になると考えてます。
ですから有と無はON/OFFの表裏一体のスイッチ的なものであり、意識があるときは起動してるだけなんじゃないかなと考えてます。
熟睡中は無という1コマがあるのではなく、途切れてしまっている。
でもそうなると相関とは言えないのかな…こ、混乱ですw
パラレルはいろんな世界が並行してるのではなく、スクリーンにどんな顕現でも映せるという意味ではあると思いますねー。
あまりまとまりのない意見ですみません…この辺りはまだまだわからんことだらけです(--;)
549
:
498
:2016/09/28(水) 21:37:46 ID:bqp9NcPU0
>>548
書き込まれた瞬間見つけたみたいですw
>なんとなくな私の考えですけども、本当に無にFOCUSができるのかどうか。
例えばフィルムの1コマ1コマが瞬間瞬間のFOCUSだとすると、何も無い1コマにFOCUSした途端、気絶してしまうのではないかと考えます。
どうなんでしょうね?それは個が完全に消滅した世界でしょうから想像もつきませんねw気絶、かな?認識する主体がなくなって、完全にオートマチックに動いているかもしれませんねw(これは身体がある限り分離なので生きてるうちはわからないと思うので、あんまり興味がないですw)
ただ、純粋な無というのはありえないと感じます。「無というスクリーン」は、私なりに言えば「無属性のスクリーンが在る」となります。「有る」は「無い」との対比で分離、対して「在る」は分離の無い不動の一者を表すという意味で使いました。
「無い」が純粋に存在することはないと思いますね。「在る」の上に有る無いが現れるという感じですね。
>しかし私の中では、有の世界(顕現世界)で囚われが滅し転生も起きなくなると完全な無、熟睡(涅槃?)になると考えてます。
不動の一者に還るんだと思ってます。どういうことなのかは想像もつきませんがw熟睡と表現するなら永遠の熟睡、ですかね?
>しかし私の中では、有の世界(顕現世界)で囚われが滅し転生も起きなくなると完全な無、熟睡(涅槃?)になると考えてます。
正直、パラレルの話は分離の話なのか在るの話なのかすら見当がついていないです。
ですが、上の理論でいくと、「既にある」という言い回しに疑問を感じませんか?
おそらくみなさん、不足が無いというのはわかってらっしゃると思います。ですが、そのことをもって「既にある」というのは論理の飛躍がありますよね?ずっと疑問だったんですよ。既にあるってどこにあんねんて。目の前にあるってどこやねんて。
スクリーンにどんな顕現でも写せるというのなら、写る前はやっぱり無いじゃないですか。
それがパラレルなら説明がつくんですよ。今があらゆる世界線を含んでいるなら、目の前にあるんですよ。スクリーンは今ここで、あらゆる可能性を含んでいるんだと思います。
550
:
498
:2016/09/28(水) 21:43:01 ID:bqp9NcPU0
>>549
スクリーンは不動として在りますが、やはり顕現は有る無いがありますよね。写る前は、無い。写ってから、有る。
でも、「既に有る」んですよ、きっと。目の前に「有る」世界線が在る(?)。
知覚、認識は、一つの世界線を選び出しているんだと思います。108さんの言うパラレルシフトって在るんじゃないかな…
確信したわけでは無いですが。
551
:
498
:2016/09/28(水) 22:59:28 ID:bqp9NcPU0
>>549
同じ箇所をコピペしていますが、
二度目のコピペは誤りで、
>パラレルはいろんな世界が並行してるのではなく、スクリーンにどんな顕現でも映せるという意味ではあると思いますねー。
こっちをコピペしたつもりでした。
これから2ヶ月ほどpcのないところに行くので、当分ROMになります。今もスマホで書き込んでるのでやりにくいですwまた逢いましょう( ^_^)/~~~
552
:
498
:2016/09/29(木) 00:09:44 ID:zkxq/FqQ0
何度もすいません!
>>547
飛ばしてました。
顕現世界をやってるってなんかいいですねw
オカルト気味になりますが分離を体験したくて生まれてきたのかもしれませんね。だからこの世界には自我がつきものだと。
あの感動をもう一度!はやりますよねw
変化に伴う刺激が大好きなんですよね、エゴは。
なんでも初体験は気持ちがいいものですw
でもそれは変化に伴う落差にたいする反応だから、無常なんですよねえ…。
状態としては同じ、わかります。というか、不動の一者はいつでもここにありますからね。エゴるとわからないだけでw
スクリーンのお話。
同じような理解ということで嬉しいです。
スクリーンが鳴いているはまさに。スクリーンに映る、と以前は理解していましたが、スクリーン自体がその形をとって現れている、と言うことができる気もしています。
553
:
M
:2016/09/29(木) 13:20:17 ID:HqoAoz0A0
最近自分はいつもここから世界を見ていたという感覚というか自分が世界の中を動いているのではなく自分が固定されて世界が動いているような感覚になってきたと思ってここに来たらちょうどスクリーンの話題が出てましたw
意識してハーディングのをやったりはしてなかったんですがこれが受容能力ってことなんですかね〜
確かにスクリーンとか映写機っていう例えがわかってきた気がします
554
:
wild
:2016/09/29(木) 23:19:04 ID:EXCO6GYY0
>>550
498さん、こんばんは!
>ただ、純粋な無というのはありえないと感じます。「無というスクリーン」は、私なりに言えば「無属性のスクリーンが在る」となります。「有る」は「無い」との対比で分離、対して「在る」は分離の無い不動の一者を表すという意味で使いました。「無い」が純粋に存在することはないと思いますね。「在る」の上に有る無いが現れるという感じですね。
おっしゃりたいことはよ〜くわかりますよ!!
寝てる時も膜が覆うように「気づき」があると言う覚者も多いですしね。
ON/OFFが起こる大元、土台の「気づき」が在るということですね。
私も以前はその考えでしたが、縁起と自分の直接の体験(意識ある時ない時)を観察し、照らし合わせているうちに先の考えになりました。
確かにON/OFFが起こる無属性の土台がないと理屈として通らないですよね。
有が起こる何かしらの要素が無にないと有になりませんし、またそうなると無とは言えませんしね。
しかしここはもうどうにもわからない。
ただ単純に私というひとつの意識は、ON時には様々な場面を連鎖的に映し出し、OFF時にはまったく何も無い。
と言うことしか今の私の「直接の体験」(思考の介入のないあるがままの体験)からは知ることができません。
より知ろうとすると考えが顕現してしまう…。
なので私とはそのような存在なんだろうなということで私の中である程度落ち着かせてますw
とは言うものの、正直まだその答えに迷いが多く残るのは確かです。
釈迦の「己」とは一体どのことなんだろう?
もしかしたら不動の一者のことかもしれませんね。
では絶対の存在を否定したのはなぜなのか?
もしかしたら口伝、訳自体が間違いかもしれません。
否定していないとも言われてますからね。
ここは自分でもっと深く体感し納得するしかなさそうです。
私が生きているうちにはっきりさせたいものですが…
次のターンに先送りになっちゃうかなw
>ずっと疑問だったんですよ。既にあるってどこにあんねんて。目の前にあるってどこやねんて。スクリーンにどんな顕現でも写せるというのなら、写る前はやっぱり無いじゃないですか。それがパラレルなら説明がつくんですよ。今があらゆる世界線を含んでいるなら、目の前にあるんですよ。スクリーンは今ここで、あらゆる可能性を含んでいるんだと思います。
なるほど、不動の一者は虚空像にあたるわけですね?
やはりこれも意識ON時の創りだした夢、考えの具現化のようなものであり、夢は様々な夢を見れることが可能なように、いろんな可能性を備えているスクリーンと捉えてます。
ですから真我、感覚、引き寄せ、普通の現実、寝てる時の夢、エゴ、今この瞬間、すべてこのスクリーンなんだなと。
あれですね、
498さんと私との考えの違いは、スクリーンが絶対の大元なのかどうかですねw
ここはお釈迦さまの口伝通り絶対なものはない!と言い切りたいところですが、ご存知の通り私は時間を止める魔境の男ですからねw
まだまだ検証中の探求者なのでそんな考えもあるんだ程度で収めといてくださいw
(しかし不動の一者とはカッコいい名前。
不動明王はこれを表しているのか!?ドーン!!と以前テンション上がったことがありますw)
555
:
wild
:2016/09/29(木) 23:20:52 ID:EXCO6GYY0
続き
>顕現世界をやってるってなんかいいですねwオカルト気味になりますが分離を体験したくて生まれてきたのかもしれませんね。だからこの世界には自我がつきものだと。
そうですよね。
分離をしたくてしたという意思や愛も感じますし、ただそうだからこうなってるという無意思な機械的な感じもありますね。
> 変化に伴う刺激が大好きなんですよね、エゴは。なんでも初体験は気持ちがいいものですwでもそれは変化に伴う落差にたいする反応だから、無常なんですよねえ…。
498さんはやはり実践者さんなんですね!
是非とも迷いのない境地まで達して頂き、私に教えていただけるとありがたいですw
あ、私もがんばりますw
しばらくROMになるんですね。
また気づきがありましたら書き込みよろしくお願いします!
498さんもかなり深い方ですから勉強になります。
ありがとうございます(^^)
556
:
wild
:2016/09/29(木) 23:28:01 ID:EXCO6GYY0
>>553
Mさん。
そうです!
スクリーンは常に固定されており、そこに自分がFOCUSした場面が顕現されてます。
正しくはFOCUSするものはなく、場面しかない。
というのが私の体感するところです。
ハーディングの実験はそれをより深く体感する方法、定着する方法など詰まってますのでぜひお時間ありましたらチャレンジしてみて下さい☆
557
:
M
:2016/10/01(土) 20:40:15 ID:7drnGMvY0
>>556
wildさんレスありがとうございます
少しハーディングのをやっているとこの意識がすべてを見ているという感覚
この意識が自分だと思っている体を他人だと思っている体をそして世界を見ている
という感覚になって分離感が減り一体感を感じることが出てきました
そしてすべてはただ起きている自由意志はないとしたら仏教のカルマ論よりバガヴァッドギーターの非カルマ論の方がしっくりくる気がしてきました(ちなみに両方とも詳しくないのであくまで素人考えですが)
仏教は行為がカルマを紡ぐだから善行せよ
ギーターはすべてはただ起きている行為はその人の責任ではないからカルマはないただ起きることに結果を求めず専心せよ
こう比較すると僕の今の印象ではギーターの方がしっくりくるなぁと感じています
でも仏陀はこういうバラモン教をあえて否定したわけですからやはりなにかあるのかなぁなどと素人なりに考えてますw
558
:
幸せな名無しさん
:2016/10/02(日) 13:18:32 ID:YMm6wbc60
>>557
Mさん
> 少しハーディングのをやっているとこの意識がすべてを見ているという感覚この意識が自分だと思っている体を他人だと思っている体をそして世界を見ているという感覚になって分離感が減り一体感を感じることが出てきました
素晴らしいですね!
私=世界ってよく言われますけど、頭での理解ではなく本当にそうであることがわかりますよね。
エゴに呑まれることは私もよくありますが、実験をするとそれでさえただ起こっていたことだとわかります。
> こう比較すると僕の今の印象ではギーターの方がしっくりくるなぁと感じていますでも仏陀はこういうバラモン教をあえて否定したわけですからやはりなにかあるのかなぁなどと素人なりに考えてますw
ああMさん、仏教を理解しようとするとまたエゴが騒ぎだしますよw
そうなんです。アドヴァイダ系の理解が起こった後に仏教を知ると「え!?違うの!?」という混乱に陥ります。私もそうですw
私もそんなに詳しくないので完全な私見ですが、
釈迦はそのような非二元やただ起こる流れなどなどの考えも執着、囚われの元であり、それについて考えることがまた違う苦しみの元になる。
またそれをさらに追い求めることがカルマ(苦の種)になる。
なのでそのような自分の何かを求める姿を常に正しく見ていなさい、それが苦から脱する方法ですよ、と言ってるのかなと思います。
非二元や絶対の存在を釈迦は否定したわけではなく、直接確認できないものに囚われるなと言うことかと考えます。
ただ単純にそう言うことなのかなと。
そうなるとハーディングの実験は一体何なんだ?ということになりますよねw
私がしばらくやっていて気づいたことは、何の思考を交えずただ今の直接の経験だけを見た時に在るもの、それが私のすべてだと感じました。
意識のようなものが常に場面を展開し移り変わってるだけ。
これに様々な考え、概念で意味付けするとややこしくなりますし、苦しくなってきますw
その考えさえもひとつの場面変化なんですけどね。
そうは言っても探求してまうのは私も同じですw
レスありがとうございます。
559
:
wild
:2016/10/02(日) 13:20:54 ID:YMm6wbc60
>>558
はwildです。
すみません(^^;
560
:
M
:2016/10/02(日) 15:31:48 ID:ZgacnrbA0
>>558
wildさんレスありがとうございます
ハーディング実験に関しては徐々に気づきが深まってきている気がしてますので地道に続けてみます
やっぱり仏教に関してはそういう感じに思いますよねw
ブッダは悟りのためにわかりやすい説明として方便を使ったとも言われていますよね
カルマ論はそう考えた方が悟りの道として理解しやすいという方便なのかなと感じます(そう考えれば自分も仏教に深入りしなくても済みますしw)
ブッダは死後のことや神のことはわからないのだから語るのはやめるという不可知論のような立場みたいですからね
ブッダ自身はわかっていたけどそれを語ることで弟子たちが知的好奇心の道にそれて悟りから遠ざかるのを防ぐという意味合いだったんじゃないかなぁと思います
561
:
真昼
:2016/10/03(月) 22:42:17 ID:KlyJ9Y.o0
おひさしぶりです。真昼です。
wildさんのレスや皆さんのやり取りはとても面白いですし、色々な気付きが促されます。ありがとうございます。wildさんの進化には学びがあります。ありがとうございます。さすが師匠w
現象さん、おひさしぶりです。お元気そうでよかったです。新たな気づきなどありましたら、ぜひ書き込みしてください。
498さんや、Mさんも東洋思想に詳しくて、スゴく勉強になります。
498さん、質問いただいていたのに、こんなに遅くなってしまいましてすみません。ちょっと集中的な仕事があったもので…と言い訳しておきますwそれに、何を書いても論破されそうで怖かったんですよねw
とりあえず、僕なりに回答してみます。
>むしろ、今までいろんな方がおっしゃっている「錯覚」という言葉のほうが私はよい気がするのです。
僕が「幻想」と表現したのは、全て「言葉」ということです。言葉が無くなれば、そこには、なんにもありません(ここは反論あるかもしれませんが、それも言葉の中です)。
やはり、「ある」といえばそこにそれは「ある」でしょうし、「無い」といえば「無い」世界、すなわち「空」なんだと思うんですね。
「ある」も「無い」も「空」も、言葉です。その言葉を話しているのは「私」だけです。自分で話して、自分でそれを聞いている。自作自演とはその事を言っているんだと思いますね。
なので、錯覚と言えばそうとも言えると思いますが、僕の感覚では、錯覚という表現だと「別の正しい見方」がある、という印象があるので幻想のほうがしっくりくるんですよね。「別の正しい見方」というのは「別の言葉」で表現されたもの、という印象があります。
ただ、498さんのおっしゃることは理解できますし、そんなに認識が違うとも思わないです。ただの言葉の違いでしょうか。
>「私がこの世にいる」と感じているのは誰か?ですね。
これは僕も問うて放っておいてますが、実感としてはよく分かりませんwすいません。
>この時点で無のほうにFOCUSしてますよね。
それは言わんでくださいwwおっしゃる通りです。
ですが、この矛盾はつきものだと思っています。チケットなどでも「何もしない」と言われます。無為とは「何もしない」ということですが、「無為をする」というのは「何もしないことをする」ということになります。そこに根本的な違いが生まれます。
では、どうすればいいんですか?という問いがずっと付きまといます。その問い(言葉)から離れることが直接的なアプローチだと思います。そこがNO FOCUSの意味するところです。
分かったような分からないような内容ですが、これが僕の精一杯ですw
498さん、何か気付きがありましたら、ぜひまた書き込みしてください。よろしくお願いします。
寒くなって来ましたので皆さんご自愛ください。
562
:
498
:2016/10/03(月) 23:05:02 ID:ULgOB1320
>>561
山奥から3gでレスします。またもや書き込まれた瞬間に見つけたようですw
私の質問にお付き合いいただきありがとうございます。
>僕が「幻想」と表現したのは、全て「言葉」ということです。
この一文で納得がいきました。やはり、僕も真昼さんも同じように理解をしていると感じます。言葉っかいの違いに私の自我が反応してしまったのですね。僕は錯覚という言葉っかいに矛盾は感じませんでしたが真昼さんはそうではなく、幻想という言葉づかいでは逆だったんですね。
>これは僕も問うて放っておいてますが、実感としてはよく分かりませんwすいません。
流石です。わからない、と言える時点でわかってるようなものなのです。分かるには、分かる主体と分かられる客体が必要ですから。
僕がこうして偉そうに語っているのはアドヴァイタの言葉を知っているというだけなのですw
無にFOCUS以下。
チケットの何もしないは、既にあるからエゴは何もしなくていい、ですね。チケット的には、何かする主体と何かされる客体の分離はなく、全て別の領域なのです。ですからNO FOCUSは全くその通り、100パー賛同ですね。
僕が問題にしたいと思うのは、(チケットが手元に無くうろ覚えですが)「既に目の前にあって、幸せの絶頂にいる」という部分なんです。分離がないからといって目の前にあるんでしょうか?ということですね。
改めて真昼さんありがとうございます。真昼さんだけでなくwildスレの皆さん、ひいては潜在意識ちゃんねるは分かっちゃった人たちが多いので、書き込みを楽しみにしています。
563
:
498
:2016/10/03(月) 23:16:34 ID:ULgOB1320
>>562
目の前に、パラレル云々は自分で言いだして何ですがわかりそうもないので当分放っておくつもりです。相当、わからないを引き寄せてしまっていたことに気付いたのでw
564
:
M
:2016/10/04(火) 16:56:47 ID:udcaYQu60
以前話題にした自由意志についての記事があったのでシェアさせてもらいますね(ハーディングのことについても書いてあるのでなおさらここで紹介すべきかと思いましたw)
ttp://simple-dou.asablo.jp/blog/2014/09/27/7444121
ttp://simple-dou.asablo.jp/blog/2014/10/23/7471214
565
:
M
:2016/10/04(火) 17:22:24 ID:udcaYQu60
>>564
最近完璧認定をしてるんですけど自由意志がなくすべては神の意思だとしたらので完璧認定はすべては完璧な神の意志であることを承認する感じなのかな〜とも感じています
神の意志とそれを否定するエゴの意志どちらを選択するかという感じなのかなと思いますがまぁその選択すらも自由意志ではなく神の意志によって起きていると言えるわけでややこしいですねw
566
:
498
:2016/10/07(金) 17:28:13 ID:pwYzDi3s0
>>562
最後の部分ですが、私はやはり無自覚なところで分離があるようです。
というのも、
ttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-11.html
を読んで改めて気づいたのですが、
僕は「充足を見よう」という姿勢がとても弱い。
当分これを意識したいと思います。
さてこれからどうなるやら???
Mさん
このURL先はマハラジですか。アドヴァイタはやはりいいですね。別の領域視点になるのにとても役立ちますね。
しかし、チケット…
アドヴァイタは一元を理解するところまでですが、チケットはさらに充足を積極的に?受け取ろうとするところまで踏み込んでいるのですね。
アドヴァイタだけでチケットを理解しようとすると、どうして一元が願望実現の話につながるのかという疑問点がつきまといます。アドヴァイタでは願望=実現はかろうじて説明できるとしても現象化までは説明出来ないと思います。出来るのかな。わかんねえ。
567
:
498
:2016/10/07(金) 17:33:34 ID:pwYzDi3s0
>>566
マハラジちゃうかった。ラメッシでしたね。読んだの数日前で勘違いしてましたすいませんw
そして、最後…
スクリーンに働きかける映写機なる立場はアドヴァイタで説明できるんでしょうか?
568
:
M
:2016/10/07(金) 19:48:41 ID:yM9TnsAo0
>>566
498さん
僕もアドヴァイタとチケットの整合性はしっくりこないところは感じますね
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/10211/1450683678/
こちらのスレの紙さんという方の書き込みはご覧になったことはあるでしょうかね?
まさにちょうどこの話題に参考になるかと思います
認識変更した人の中で現象面への執着がなくなった人を日向ぼっこ状態と表現していて108さんの意図していることはここで止まることではなく現象面でも完璧な神の充足である歓喜こそが真の意図であるという話ですね
正直アドヴァイタはこの日向ぼっこ状態のような気がしてしまうんですよね
梵我一如として考えるとすべては自分の意識であるという真我に目覚めた状態が日向ぼっこ状態で
その真我が完璧なる神と一体であるという認識まで進むことが108さんの言う神の完璧を見るという感じなのかなぁと個人的には思ってます
569
:
498
:2016/10/07(金) 21:23:12 ID:pwYzDi3s0
>>568
最初の30くらい読みましたが、いきなり「おっ」と思わされました。
ご紹介ありがとうございます。
3Gスマホなのでぼちぼち読み進めます。
うーん、これが引き寄せかw
570
:
498
:2016/10/07(金) 21:43:27 ID:pwYzDi3s0
>>569
wildさんスレで話すのが適切かわかりませんが、
この紙って人、108さんのブログの4年前のパラレル4告知の記事などにもコメント残してますね。
俄然パラレル読みたくなってきました。
早くても2ヶ月先の予定ですがwww
571
:
M
:2016/10/07(金) 22:02:21 ID:yM9TnsAo0
>>570
紙さんはデバッグ2で認識の変更がされてその過程がブログのコメント欄で書かれてますよ(僕はチケットしか持ってないですがw)
この認識の変更から数年経ってから先ほどのスレで書いている108さんと会話の流れになったということみたいですね
572
:
498
:2016/10/07(金) 22:21:00 ID:pwYzDi3s0
>>571
これは…この人、この経過、面白いですね。そしてさすが108さん。
いやはや、こんなにドキドキするとは。再びご紹介ありがとうございます。
573
:
M
:2016/10/07(金) 23:14:32 ID:yM9TnsAo0
>>572
いえいえ
紙さんの経過は知覚障害が修正されていっているという感じですよね
そして108さんの視点は一貫して神の最良を見てくださいってことなんですよね
紙さんはある程度のところまで修正された段階でもう十分だと思っていたけど108さんからしたらそれはまだ神の最良ではないからそこで止まるなと
充足を見る、神の最良を見る、神の完璧を見る
言葉は違えどやはりこういう意志が重要なんでしょうね
574
:
498
:2016/10/09(日) 11:49:55 ID:j5sLlFtE0
>>573
>充足を見る、神の最良を見る、神の完璧を見る
言葉は違えどやはりこういう意志が重要なんでしょうね
これはガチですね。昨日から意図した結果、今朝の気分がとても軽かったです。これはとても素晴らしいことですね。
あとまあ、日向ぼっこと言われる状態も、まだ先があるにしてもそんなに悪くないと感じますね。エゴを迂回する方法はある程度理解したということですからね。
まったく理解なしにいきなり充足を見ようとしても、エゴが躍起になって充足を探し出そうとしてしまいやすいですからね。日向ぼっこ状態の人は、そこはうまく別の領域に任せられるはずですから。
昨日は、「充足を見よう」と心で唱えたら、同時に不足感を感じることに気づきました。神の完璧にとても抵抗感を感じていたことに気づきました。自愛や完璧認定と同じ要領で受け取りました。アドヴァイタ的には「気づき」ました。
不思議ですね。充足を見ようと思ったら、それまで意識に上らなかった不足感が輪郭を露わにしてきました。こんなメガネを通して、私は世界を見ていたんですね。
575
:
498
:2016/10/10(月) 11:54:10 ID:HRSNoTVI0
>>574
「充足を見よう」と思ってエゴが思い浮かべるのは、
「"私が"何々できるようになる」といったことが多いですね。
ですがそれはあまりにも幅が狭い。
気持ちいい温泉に入ること、
レストランで美味しい食事を食べること、
コンサートで好きな音楽を聴くこと、
全て"私が"何かできるようになる必要がないにも関わらず、明らかに満たされます。
私がお風呂炊いたり、美味しい料理作ったり、音楽を弾けるようにならなくても、充足はそこら中にありますね。
そして…私ができるようにならなくても、そういう色んな充足が入り込んでくるとしたら。
とてもワクワクしますね。
576
:
wild
:2016/10/10(月) 16:10:57 ID:iPPyKvnc0
皆さん!ご無沙汰しております!
少し板から離れてちょっと実践生活に入っておりました(^^;
しかし特に変わらずですw
知らぬ間にスレが伸びており嬉しい限りです。
ありがとうございます。
どんどん皆さんの気づきを投下してください!
ところで紙さんという方のレスを私を読みましたが、これは素晴らしいレスですね!
私も日向ぼっこ状態だった頃に引き寄せがよく起こりましたが、なるほどと言った感じです。
やはりそうだったんだ。
今既にあるものが伏線となり整う。
それはエゴの想像を凌駕する形で結実する。
最近探求ばかりで大事なことを忘れていました。
願望を叶えたければ神の完璧にお願いすれば良いだけ。
この意図さえも、今この瞬間も、
神の完璧。
皆さんありがとうございます(^^)
577
:
幸せな名無しさん
:2016/10/11(火) 13:14:03 ID:0nSY3BgI0
>>575
「充足を見よう」のバリエーションを思いつきました。
「私は今ここで充足を見ても構わない」
今ここで、を入れると、未来に期待感を投影することができなくなります。今不足を感じている、というのが無くなります。
>>576
wildさん、お久しぶりです。
共に実践して参りましょう(o´∀`o)ノ
578
:
498
:2016/10/14(金) 21:57:36 ID:Nmd2LLH60
僕は日向ぼっこだったから、そのメカニズムがなんとなくわかる。
ネガを感じる自分を許す、不足を見てしまっても構わないと心で繰り返していると、
「ネガを感じる自分を許す」状況(つまり一旦ネガがやってくる)、「不足を感じてしまう自分を許す」状況(つまり一旦不足がやってくる)が繰り返し起こる。
心は以前より多少軽くなったとしても現実はそう変わらない。むしろ悪化したりする。
ttp://geminikanon.blog.fc2.com/blog-entry-302.html
の3163で書かれている通り。
いったん許せるようになったら積極的に望む方向を見るべき。望む方向すらわからないなら、望む方向を見ることを少しずつ許していく。
579
:
幸せな名無しさん
:2016/10/15(土) 17:44:16 ID:CvR6FCAg0
wildさん
こんにちは。
wildさんのコメントちょくちょく読ませていただいております。
その中で、世界が平面になるというのを前おっしゃっていたと思いますが、
今日ふと思い出しました。
確か、日本でも遠近法perspectiveな視点が流入される前までは、
人々はperspectiveな視点で世界を捉えてなかったはずです。
やっぱり世界の見え方も、観念によって制御されていると言えるのかもしれません。
そんなことを今日風景を見ていてふと思い出し書いてみました。
私は、芸術系の学部でもなかったので素人ですが、
知識として思い出しました。
580
:
wild
:2016/10/16(日) 01:46:25 ID:4MsdmYOM0
>>578
日向ぼっこの期間はですね、あるがまま起こるがままに抵抗しないでただ観ているだけという心持ちですよね。
だから良いこと悪いこともあるがまま観るという姿勢。
これは楽ではあります。
しかし、どこか心の奥底に充足を見よう、何かを獲ようととするエゴを認めることに怖さがある。
また昔に戻ってしまうんじゃないか、巻き込まれたら苦しむんじゃないかみたいな。
だからエゴから距離を置こうとするエゴがあります。
しかしよく考えてみたら、何かを獲ようとするエゴをあるがまま認めてなかった。
エゴが欲しいと思うなら、全力で掴みに行けば良いのかなと。
それも起こるがままですよね。
このような考えに変わるのも、Wildの流れとも言えるのかなと思います。
581
:
wild
:2016/10/16(日) 01:59:34 ID:4MsdmYOM0
>>579
こんにちは。
レスありがとうございます。
私もこの間偶然、歌舞伎の舞台の浮世絵ですかね、なんか変な構図のものを見ました。
遠近法の観念が無く実際みんなこんな風に見えてたのか、絵にしようとするとそうなってしまうのか…不思議ですよねw
平面、2Dに見えるというのは、現代人の私たちでもよーく見るとそう見えるはずだと思うんですけどね。
観念だったり、こちら側あちら側という考えをすっ飛ばすと見えてくるのかなと思います。
江戸時代の人達もあちら側こちら側というのはもちろんあったと思うんですけどねー。変なのw
582
:
幸せな名無しさん
:2016/10/16(日) 12:50:14 ID:qVyLWHjE0
>>581
こんにちはwildさん
ご返事ありがとうございます。
浮世絵は、遠近法を使ったものもあるようですが、ないものもあり、
昔の人々の視界を理解する貴重な資料だと私も感じています。
もしかしたら画家だったらいまだに遠近法じゃない世界を見れる人が
普通にいるのかもしれません。
昨日私もコメントした後、wildさんと同じことを思ってました。
遠近法で世界を見ていないにせよ、あちら側とこちら側の判別がつかないようじゃ
さすがに日常生活に支障が出るから、それはないよなと。
江戸時代と言えば、歩き方もますらおぶり??でしたでしょうか?
歩くとき、歩く足と振る手が右左一緒になる走り方、歩き方?をしていたようですし、
現代人の感覚ではちょっとわからない世界をいきていたのかもしれませんねw
その点、昆虫はよく2Dの世界を生きているので、昆虫には壁という概念がないらしいです。なので壁もすいすい登れるとかどこかで読んだ記憶があります。
なので、そういう視点を人間が持っていたころがあっても不思議ではないのかもしれま
せんね。
583
:
幸せな名無しさん
:2016/10/16(日) 21:54:45 ID:qVyLWHjE0
wildさん
582です。
ますらおぶりを今調べたら、江戸時代の人の歩き方と全然関係ありませんでした。完全に誤解というか記憶の混同が起きてました。
恥ずかしい限りです。
すみません。。
584
:
wild
:2016/10/16(日) 22:15:49 ID:IBap2zCc0
>>583
おそらく「なんば歩き」のことを仰りたいのかと思います。
本当にみんなあの歩き方をしてたんでしょうかね?
飛脚だけという説もありますが。
間違ってもいいんです!w
あれはなんば歩きというよりも、イメージ的には確かに「ますらおぶり」という響きが合ってます!w
585
:
幸せな名無しさん
:2016/10/16(日) 22:23:27 ID:qVyLWHjE0
>>584
wildさん
フォローありがとうございます。
最近本を全然読まなくなったので、過去のうる覚えで書かせていただいてます。
もう少し調べてから書いた方がいいんでしょうねw
失礼しました。
586
:
M
:2016/10/17(月) 21:49:38 ID:0UYvuMbw0
映像が二次元に見えるとまではまだ認識できないですけどなんか映像が作り物くさいというかリアリティがなんかないなという感覚にはなってきました
今はやりのVRゲームで立体映像を見ている感覚と言えばいいですかね
確かに三次元には見えるけれどそれは私の主観としてそう見えてるだけでなんか本当は違うんじゃないか
というような気がしてきたのでなんかまた気づけそうかな〜と思ってますw
587
:
wild
:2016/10/17(月) 23:36:07 ID:J5V7nNgM0
>>586
Mさん。
立体感というのは距離があるという観念が起こすのかもしれませんね。
また距離があるということは時間という観念も起きているということになりますね。
この辺りはハーディングの実験にプラスして、ダイレクトパスをやられると気づきがあるかもしれません。
これらもある意味、今流行りの瞑想ですw
五感と思考はこの意識内で起こっており、
私が意識を向けた(=向けさせられた)所に現象が起きているんだなと理解だけでなく体感として腑に落ちます。
やはり実際にご自分で体感することが非常に大事だなと私も改めて感じた次第ですねー。
588
:
M
:2016/10/18(火) 00:34:29 ID:6hOdA0ic0
>>587
wildさんレスどうもです
時間も幻想で空間も幻想と言いますもんね〜
なんかこの壮大な錯覚のほころびが見つかりそうな見つからなさそうなそんな気がしてますw
ダイレクトパスは本の中にいろいろな実験があるという感じなんでしょうかね?
手軽にやれるのがあったら知りたいなとは思いますけど本でしっかりやらないとって感じなんですかね
589
:
wild
:2016/10/18(火) 00:49:14 ID:eeYtrsw20
>>588
グレッググッドのダイレクトパスは赤本と青本の二冊ありまして、赤本は実践とダイレクトパスの概要。
青本の方は実践の塊ですw
ハーディングの実験よりかなりガッツリですけど、ハーディングでぼんやりしてた所がかなりはっきりするかもしれませんね。
それかハーディングの実験を一通り実践してある程度腑に落とし、それでも疑問があるようなら手を出すでもよろしいかもしれませんね。
590
:
M
:2016/10/18(火) 01:09:35 ID:6hOdA0ic0
>>589
なるほど!ありがとうございます
個人的にはハーディングのでもっと掴めてきたら同じ系統として深めていくというのがいいかなという感じがします
591
:
M
:2016/10/19(水) 12:01:31 ID:q.HnoYVw0
今まで立体映像とかVRとかホログラムとか小難しく考えすぎてたのに気づきました
写真は2次元なのに勝手に3次元だと解釈してる
その写真の連続である映像も同様である
それなら今目で見ていると思っているものもそれと同じなんではないかってことなんですね
仮に視覚以外がなかったとしたらそれはただの二次元の映像と判別は付かない
2次元なのに勝手に3次元だと解釈してる思考と五感によって錯覚してるのかとなんとなくわかってきた気がします
592
:
wild
:2016/10/19(水) 13:01:21 ID:FAksBeXo0
>>591
Mさん。
その通りなんです。
何か特別なものが見える訳ではなく、今まで見ていたものはそのままで自分の捉え方が変わると言いましょうか。
「視覚しかなかったら」は素晴らしいですね。
実は私もその気づきが以前ありました。
触覚しかなかったら、聴覚しかなかったら…と言った感じで六根(五感と思考)ひとつひとつを観察するのも面白いかもしれません。
強固にくっついていた六根の連結が離れてしまい、空っぽさを垣間見るかもしれません。
六根が自我という思い込みを作っていたとわかるかもしれませんね。
593
:
498
:2016/10/21(金) 16:41:17 ID:E5aF2.VA0
>>580
エゴをあるがままに認めるというのは。
エゴがどういう振る舞いをしようが放っておいて構わない、コントロールしなくて構わないということ。
意図の重要性をひしひしと感じています。
充足を見ようという意図がないと、
これまでの習慣でエゴにひきずられやすい。
今この地点から充足を見始めればいい。
既に作られてある不快が来ても華麗にスルー、受け取ればストックはなくなる。ミスオーダーで作った自分で作ってしまったものを否定しても仕方がない、というか再配達。
充足を見る、ただこれだけで良かったんですね。
594
:
498
:2016/10/21(金) 16:44:12 ID:E5aF2.VA0
>>593
エゴとは言っても自分の心の声なんだから聞いてあげないとですよね(o´∀`o)
そして望む方を見始めても全く構わないわけです。
しかも自分で何もコントロールする必要がない。笑えてきますねww
595
:
wild
:2016/10/21(金) 22:48:42 ID:O6sxpcKE0
>>593
498さん。
ぜひ充足の見方についてここを見てるであろう他の皆さんにも具体的な方法のシェアしていただけるとありがたいです!(^^)
私の解釈では、
・今あるものに充足を見る。
・右があれば左があるように、「ない」と思うことはその裏に「ある」がある。
だから「ある」側に意識を向ける。
・不足の思考自体が幻想であり、それをスルーする。
その下地には充足(フラットな平穏感ですが)がある。
雲の上には大空がある。
(私は自己観察やっていたのでこれがわかりやすいです。)
以上の3つですかね。
充足だったらどれでも良い!という答えが返ってきそうですがw
何を思ってても意図をしっかり持てば望むことが叶うと言いますが、やっぱり充足に包まれながら叶いたいですもんねー☆
596
:
498
:2016/10/21(金) 23:15:47 ID:E5aF2.VA0
>>595
充足を見ようと意図するだけです!
決意と言ってもいいかもしれない。
あとはだんだんと、でも確実に見えてきますよ。
充足を見るのに私が何かすることはありません、とりあえずオーダー出すだけですね。
強いて言えば、3つ目が前提になっていると言えますが、そのことを理解する必要もありませんし。
最後については今はノーコメでw
597
:
498
:2016/10/21(金) 23:19:40 ID:E5aF2.VA0
>>596
あーあと気をつけてるのは、
エゴと充足は互いに独立ということです。
エゴを消したら充足が見えるというわけではない。
充足のほうを見るだけです。
過去の習慣でエゴの方を見てしまいますが、
それに気づいたら再度意図してエゴは放っておきます、同一化していなければ(気付いていれば)エゴにエネルギーはありませんから。
598
:
幸せな名無しさん
:2016/10/21(金) 23:34:40 ID:FjqonIIQ0
>>597
レスありがとうございます(^^)
さすが自己観察経験者ですね!
不足思考に気づくことは何てことないですね?w
しかしそれがわからなくても、充足に目を向ける、必ず見るという強固な意思さえあれれば良いのですね。
ありがとうございます☆
599
:
498
:2016/10/21(金) 23:39:14 ID:E5aF2.VA0
>>598
充足を見ようとすると、不足が浮き彫りになると実は上の方で書いたような気がします。
互いに独立とはいっても、性質的には正反対ですから、充足を見ようとすればエゴのほうも逆にくっきり見えてくるのです。
wildさん、
フラットな平穏感の奥に、神の最良があると私は信じていますよ。
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