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外国書講読

7白書さん:2009/04/17(金) 04:15:56 HOST:wcache1.waseda.ac.jp[pc015154.cat.waseda.ac.jp]
多くの人同様に私も経済学にかような望みを描く。 経済が反転する前はインドの学生でありニカラグアの小学校教師であった私は自然と地球規模の不平等と貧困の映像的な問題述べることが期待される分野にきた。11歳にはデリーの公立学校で如何にまさに平均的な生徒であるか認識していた、スポーツでも、学校の作業でも、そしてほかの分野でも。以来疑問が私を捕まえていた。能力がわれわれと似ているアメリカの人が享受しているよりもインドがずっと貧しいのは何故だろうか。それゆえ、大学院に入学した、経済学が説明するだろうと期待して、例えば、インド人が1年で生産する量より多くアメリカの労働者が生産するのはなぜか、そしてインドの人が呼応して貧しいということを。われわれは知っている、従来の経済学が説明し損ねていることを、いかなる合理的な理由においてもアメリカとインドの労働者の教育の水準と資本・労働比率は生産性の違いの半分も説明していない。近年まで原因からの結果の差異が、図るのは難しく経済学において研究されてこなかった。それは歴史的な経験、制度、行動の違いである。ここの本書の主題がある。
 マーシャルは原理は最初のテキストであるとしている、新古典派経済学において。それを数行に渡り示す。

(略)
 
 マーシャルはこれを1890年に書いた。彼は当時において高い目的に向かっている経済の進展に失望していたのではないかと私は疑っている。
 
 新古典派の転換は、マーシャルが望んだ、彼が設定したタスクに対して不適切なものであった。その精錬された仮定は経済の成長、停滞、権力の働きかけ、人々の信念や選考に基づいた経済の状態、ひとつの均衡の動き、制度の威信や変化の動向の分析から引き出している。


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