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:2013/06/24(月) 00:17:10 ID:g6yFnmp.
>釈尊は、世界の仕組みなどを詳しく説明したりはしません。
>何故ならば、そのような説明は、解脱・悟りの役に立つわけではないからです。
なるほど、そうでした。涅槃に導く事柄以外は、説かれていないのでしたね。
>「空」は空間的なフレーム、「識」はそれを包摂〈内包〉するさらに大きな「時間」や「次元」のフレーム、
>最後の「無所有」は、「無」ではなくて、全ての存在の「ベース」となる根本的なフレーム。
>喩えて言うならば、そこに何でも描くことの出来る「黒板」あるいは「ホワイトボード」のようなものなのです。
二元の世界を包み込む「その世界(無所有処)」の中に「空間」と言う識が生み出す想の世界が有り、その「空間」を包括している「時空間」と言う識が生み出す想の世界が有ります。その「空間と時空間」を包括しているのが「無所有処」になるのですね。つまりは「無所有処」が時空間世界である「識無辺処」を内在し、その識無辺処は「空無辺処」を内在していると言う事で、この有想処のトップ3では「無所有処」が「何もないと言う処」と言う事で、一番安定していると言う理解です。そしてこの無所有処を超えると「非想非非想処」であり、より安定感が増す有の世界だと言う理解です。
ですので、上記のご説明では「無所有処」を黒板やホワイトボードのような・・全ての存在のベースであると言う事なのですね。
不思議なのが、四聖八聖道の行で慧の行を修したとして・・なぜに次からの段階で心の解脱を目指すような行が組まれているのかです。つまりは、四禅定の修業の第四禅で不苦不楽の境地で正定の確定と言う事で、その境地を捨する事で慧の解脱を果たせたのであれば、この時点で無明は滅尽しています。
一方、九次第定での四禅定の第四禅までの段階では、二禅で「語」が、四禅で「身」が消滅しているはずで、そこから引き続き止瞑想で無色界定を超えて想受滅を目指すのかが理解出来ていません。止瞑想は行に対応しますので「身・語・心」に対応するはずですね。
観瞑想で「無明」を滅尽したのであれば、止瞑想で「水の濁り」を沈める意味はあるのでしょうか。学びが不必要なものは「慧解脱した者」と「慧・心解脱=倶分解脱者」のはずですね。
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