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九想
1
:
時
:2013/06/17(月) 16:07:00 ID:GPKLhA3s
こんにちは。先日は、念処経の和訳を有難う御座いました。今回も少し疑問が有りますので、宜しくお願いします。
四念処の行を修して四禅定の第一禅定に至ると、次には第二禅定・・・と九次第定の説明を観た事がありますが、きっとこれは、止瞑想で心解脱に向かう行程ですね。
片や、同じ四念処の行を修して四禅定の第一禅定に至るまでは同じで、慧解脱に至る行程があると思うのですが、これは九想(不浄想・死想・食違逆想・一切世間不歓喜想・無常想・無常即苦想・苦即無我想・断想・離貪想)だと書かれていましたが、この九想と四禅定の第一禅〜第四禅との関係が理解できていません。
四禅定の第一禅定に至るまでの四念処の行の項目の中にある(不浄観察・死体の観察=無常観)と言う観瞑想を引き続き続けながら、九想の行を修して行くと言う理解で宜しいでしょうか?
もしもそうであるなら、九想の「不浄想」は「大念処経 不浄観察」他、「死想」は「大念処経 死体の観察」他、「無常想」は無常と言う事で「大念処経 死体の観察」他を観れば観瞑想は出来ると思うのですが、残りの「食違逆想」「一切世間不歓喜想」「無常即苦想」「苦即無我想」「断想」の理解を深める為にと言う意味での必要な経典等はあるのでしょうか。もしもあるようでしたらご紹介して頂ければ幸いです。
感覚的には「一切世間不歓喜想」は、一切皆苦。「無常即苦想」は、無常が苦を生み出すと言う理解で「生起したものは滅す」と言う事で縁起の法(四聖諦)。「苦即無我想」は、苦を感受しているのは我ではない=諸法非我。「離貪想」は、これも「貪りを離れる想」と言う文字から、四聖八正道の事でしょうか。。。後の「食違逆想」と「断想」は想像もつきません。
今回は、第一禅以降の九想の修習内容及び修習方法と四禅定の関係。九想の各想についての具体的な表現がされている経典及び和井さんのご意見を宜しくお願いします。
2
:
時
:2013/06/17(月) 17:24:30 ID:GPKLhA3s
「観の九法(九想)」の九想と言うのは、もしかすると、九つの段階で変化するさまを観察し続ける「死体の観察」の事でしょうか。四念処の中に含まれる身念処としての九段階の死体の観察を九想と表現し「不浄観」と「四大要素」を合わせて有尋有伺定ですので、観の瞑想になりますね。後の四念処の「受念処・心念処・法念処」は、無尋有伺定ですので同じく観の瞑想ですね。つまりは、四念処は、全て観の瞑想になりますね。
そしてこの四念処の行を修すると、四禅定の第一禅に至ります。この観の瞑想を日々続けながら、四禅定の第一禅〜第二禅以降へと無尋無伺定を進んで行くと、観の瞑想と止の瞑想ができる事になります。つまりは、どちらが早い遅いと言うのは無関係に、慧解脱と心解脱が可能になります。
それにしても「不浄想・死想・食違逆想・一切世間不歓喜想・無常想・無常即苦想・苦即無我想・断想・離貪想」が理解できなくても問題は無いように思いますが・・未だ理解できていません。きっと、これ以上行うと貪りですね。
3
:
和井 恵
:2013/06/18(火) 07:42:53 ID:GE8fIX9k
こんにちは。
> 九次第定の説明を観た事がありますが、きっとこれは、止瞑想で心解脱に向かう行程ですね。
「九次第定」は、慧解脱から倶分解脱(慧解脱+身証)に至るプロセスなのです。
※ 参照→
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/e6e51fb85a238afb3255630b7fcf2de5
つまり、八正道そのものは、「慧解脱」に至るプロセスで、正念 + 正定 = 七覚支 の修行が要となるのです。
> 九想(不浄想・死想・食違逆想・一切世間不歓喜想・無常想・無常即苦想・苦即無我想・断想・離貪想)だと書かれていましたが、
> この九想と四禅定の第一禅〜第四禅との関係が理解できていません。
九想は、主に「四念処」の段階で使われるメソッド(技法)です。
「四禅定」は、「三受(苦・楽・不苦不楽)=三毒(瞋・貪・痴)」を転変させて捨断してゆく瞑想なのです。
> 感覚的には「一切世間不歓喜想」は、一切皆苦。
そうですね。
世間において一切を歓喜しないのですから、「一切皆苦」と意味的には同じです。
> 「無常即苦想」は、無常が苦を生み出すと言う理解で「生起したものは滅す」と言う事で縁起の法(四聖諦)。
> 「苦即無我想」は、苦を感受しているのは我ではない=諸法非我。
これは、「五蘊無我」の瞑想で、主に使います。
よく、経典に、下記の問答が出てきますよね、
色は常か無常か?
無常です。
では、無常なるものは、楽なのか苦なのか?
苦です。
では、苦なるものは、我なのか無我なのか?
無我です。
これは、単なる教えではなく、このように繰り返し瞑想( 憶念 = 想を育成 )しなさい、ということなのです。
ですから、「無常なるが故に苦なり」を瞑想として修行するならば「無常即苦想」となり、
「苦なるが故に無我なり」を瞑想として修行すると「苦即無我想」ということになるのです。
> 「離貪想」は、これも「貪りを離れる想」と言う文字から、四聖八正道の事でしょうか。。。
> 後の「食違逆想」と「断想」は想像もつきません。
「離貪想」や「断想」は、中級あるいは上級クラスの瞑想法で、二つの条件をクリアーしていないと使えません。
── つまり、
1.自己の心の働き(生滅の流れ)を観察できること。
心に「貪り」や「怒り」などが生起した時に、すぐにそれを覚知する。
2.覚知した「貪り」や「怒り」に対して、意識をコントロールできること。
「これは貪りである」と、その心の働きから「離れる」時に使う想念が「離貪想」、
そして「怒り」の心の働きを「捨断・遮断」する時に使う想念が「断想」なのです。
「食違逆想」は、これは「食に対する貪り(食べ過ぎなど)」を抑制する時に使います。
「知足(足るを知る)・少欲」を目的とした瞑想で、「食べ物」への厭逆想です。
具体的には、主に二通りのやり方があります。
一つ目は、「私は、食事を楽しむためにでは無く、喜ぶためにでも無く、
ただ、この身を、修行を続けるために必要なだけ存続させるために、食を取るのだ。」
── と、目的意識を明確にさせて、食への貪りを制御する力を強くする方法(意思の強化)。
二つ目は、食事をする時に、その食べ物に「マイナスのイメージ(厭逆想)」を付加して食べる。
副作用としては、食事が美味しくなくなりますけどね…
…というか、食べ物の、美味しい・不味いに、こだわらなくなります。
身体や体力を維持していくための、単なる材料や燃料を取っているんだ…という感覚になってゆきますね。
4
:
和井 恵
:2013/06/18(火) 07:43:46 ID:GE8fIX9k
> 「観の九法(九想)」の九想と言うのは、もしかすると、
> 九つの段階で変化するさまを観察し続ける「死体の観察」の事でしょうか。
「死体の観察」と「九想」とは関係ありません。
「死体の観察」は、その一つ一つは、個々には「不浄観」であり、
それらを「九つの段階」として連続させて修すると「無常観」になるのです。
> つまりは、四念処は、全て観の瞑想になりますね。
その通りです。
ただ、「念処経」では説明されていませんが、「心念処」や「法念処」にも、「有尋有伺定」はあるのです。
「四梵住(四無量心)の瞑想」→「心念処」や「五蘊無我の瞑想」→「法念処」など。
── 「心解脱(身証)」と「慧解脱」の違いについて。
喩えて言うならば、
パソコンには、画面にデータを表わすときに使う「メモリ」と、
データそのものをストック(保存)しておく時に使う「メモリ」の、二種類のメモリがありますが、
画面を表わすメモリの働き(データ)を静めて、画面をクリーン(無表示状態)にしてゆく作業が「心解脱」で、
それらの源(ソース)となる「ストックデータ」そのものを「デリート(消去)」してしまう作業が「慧解脱」なのです。
……という喩えは、解りやすいかしら?
5
:
時
:2013/06/18(火) 16:44:27 ID:GPKLhA3s
> 「九次第定」は、慧解脱から倶分解脱(慧解脱+身証)に至るプロセスなのです。
正定から止瞑想への移行で、倶分解脱(慧解脱+身証)に至ると言う事ですね。理解できました。
> つまり、八正道そのものは、「慧解脱」に至るプロセスで、正念 + 正定 = 七覚支 の修行が要となるのです。
はい。八正道自体は「慧解脱」に至る為のプロセスですね。理解できました。
七覚支はそれぞれ、正念と正定の各完成段階で得られる果報だと感じていましたが、違うのですね。
> 九想(不浄想・死想・食違逆想・一切世間不歓喜想・無常想・無常即苦想・苦即無我想・断想・離貪想)だと書かれていましたが、
> この九想と四禅定の第一禅〜第四禅との関係が理解できていません。
>九想は、主に「四念処」の段階で使われるメソッド(技法)です。
はい。九想も一応、理解できました。
>「四禅定」は、「三受(苦・楽・不苦不楽)=三毒(瞋・貪・痴)」を転変させて捨断してゆく瞑想なのです。
貪・瞋・痴に対する無貪・無瞋・無痴・・・つまりは、四禅定と言う観の瞑想にて無明の滅を目的とするのですね。
そして不苦不楽の段階で、正定の完成(定覚支)で、それを捨てて(捨覚支)・・・慧解脱と言う理解です。
>これは、単なる教えではなく、このように繰り返し瞑想( 憶念 = 想を育成 )しなさい、ということなのです。
このような解釈をするのですね。。。
> 「離貪想」は、これも「貪りを離れる想」と言う文字から、四聖八正道の事でしょうか。。。
> 後の「食違逆想」と「断想」は想像もつきません。
>「離貪想」や「断想」は、中級あるいは上級クラスの瞑想法で、二つの条件をクリアーしていないと使えません。
有難う御座います。これも理解できました。
>ただ、「念処経」では説明されていませんが、「心念処」や「法念処」にも、「有尋有伺定」はあるのです。
>「四梵住(四無量心)の瞑想」→「心念処」や「五蘊無我の瞑想」→「法念処」など。
かなり細かい分類になってきているようですので「心念処」や「法念処」にも「有尋有伺定」はあるのだとだけ記憶します。
>── 「心解脱(身証)」と「慧解脱」の違いについて。
>喩えて言うならば、
>パソコンには、画面にデータを表わすときに使う「メモリ」と、
>データそのものをストック(保存)しておく時に使う「メモリ」の、二種類のメモリがありますが、
>画面を表わすメモリの働き(データ)を静めて、画面をクリーン(無表示状態)にしてゆく作業が「心解脱」で、
>それらの源(ソース)となる「ストックデータ」そのものを「デリート(消去)」してしまう作業が「慧解脱」なのです。
>……という喩えは、解りやすいかしら?
はい。イメージは出来ています。
濁った水の濁りを一時鎮めるのが「止瞑想」で、濁りの元を根こそぎ取り除くのが「観瞑想」と言う事ですね。
止瞑想では、瞑想中には渇愛は治まりますが、日常生活に戻った途端に渇愛が再度沸き起こります。一方、観瞑想では、その根本にアプローチしますので、根こそぎ根絶やしに出来、日常に戻っても根絶やしに出来た分だけ、怒り等は起らなくなる。と言う事ですね。
ですので、止瞑想は渇愛を抑え、観瞑想は無明に対応します。上手く説明できませんが、現在の理解です。
今回のレスを頂いて、現在の位置がある程度つかめたように思います。有難う御座いました。
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