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輪廻に関する疑問

2和井 恵:2013/03/26(火) 07:14:33 ID:4coNzkAo
「渇愛」は、輪廻の 主体 では無くて 原因 です。
渇愛(瞬間、瞬間の喜びへの渇望・希求)から取著(執着・固執)が生まれ、
この「執着」が、有(次の生存)を生じさせる … ということです。

釈尊自身は、輪廻に主体があるとか、ないとか、ありかつないとか、
あるでもないでもない … というような主張は、一切していません。

つまり、「無記(四句否定)」を説いているのです。

 ※ ですから、無我 や 縁起 などに 囚われ過ぎて、
   輪廻の主体などは【ない】と言い切るのも、間違いなのです。

そして、釈尊が、そのような「主体」なるものを考えてはいけない、と教えるのは、
その「主体について考えること」自体が、「我慢」という煩悩を増大させる行為になるからです。

 ※ 我慢 … 自己の中心に我(が)があると考え、その我をよりどころとして心が驕慢であること。

そしてまた、自分についてあれこれ考えることを「疑」と言います。

 ※ 一般的に「疑」とは、仏の教え(真理)を疑うこと … だと言われていますが、
   釈尊は、我についてあれこれ考えること ( 私は過去にどんなだったのだろうか?
   未来ではどうなっているのだろうか? 等々 ) を「疑」だと説いている経典があるのです。


── で、私の「輪廻の主体」に対する 考え(見解) というものは、ありません。

仏教徒で、そのような論議をあれこれする人たちは、
釈尊の教えそのものを、あまり理解していない人たちなのだろうと思います。

ただ、釈尊は、はっきりと、次のように述べています。


  比丘たちよ、このように語り説く私を、ある沙門やバラモンたちは、不正に、虚しく、不真実に、偽って誹謗する。
  『 沙門ゴータマ(釈尊の本名)は虚無論者である。生けとし生けるものの断滅、消滅、破滅を教える 』と。
  
  比丘たちよ、私はそうではなく、またそうは言わないのに、
  尊敬すべき沙門やバラモンたちは、不正に、虚しく、不真実に、偽って誹謗する。
  『 沙門ゴータマ(釈尊の本名)は虚無論者である。生けとし生けるものの断滅、消滅、破滅を教える 』と。

  比丘たちよ、私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである。

  ( 中部経典 22経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』 )


釈尊は、「断滅論」や「虚無論」を説いてはいませんでした。
── つまり、輪廻からの「離脱」は説いていても、輪廻からの「消滅」や「断滅」などは説いていないのです。

…… 言っている 意味 が 解るかしら?

この意味が解れば、私たちは、釈尊の説く「解脱」に対して、何の心配もせずに、実践を進めることが出来ると思います。


尚、唯識大乗などの、大乗仏教や密教などは、釈尊の教えとは「別物」だと私は考えています。
ただし、だからといって、その教えが「悪い」とも、特に思っているわけではありません。
釈尊の教えとの「混同・同一視」することが、問題であり、間違っているのだと考えているのです。

大乗には大乗なりの良さが、そして欠点があり、密教にも密教なりの良さが、そして欠点があると観ています。

そして、私自身の「輪廻」に対するスタンスは、どらかと言えば 大乗・密教的なんですね。
つまり、釈尊の教えの信奉者であり、実践者ではあるけれども、特に、「不還」や「阿羅漢」になりたいとは思っていないのです。
「一来果」止まりがちょうどいい … と、考えています(その状態をキープしつつ、転生を繰り返す)。
そして、今生でも、そこまでは来れたな、── と、一応の自己評価をしているのです。


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