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輪廻に関する疑問
1
:
やまかわ
:2013/03/25(月) 21:00:16 ID:HiOxBd1Q
今までの書籍とは異なる視点に立った和井恵様の仏典解説には新鮮な驚きを覚えております。
何分、素人でまだまだ分からないことばかりですが、今回は輪廻に関して教えて頂きたい。
釈尊が輪廻の作り手を「渇愛」だと見破り、その 「 発見 」 のために 必要 とされる 能力
こそが、「 三明知 」 として経典で説かれていた 宿命智 と 死生智 だったとの解説を読み
驚きと同時に「なるほど」という思いにもなりました。
一般に「渇愛」とは「喉の渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望、盲目的な衝動、満足する
までやまない激しい欲望、妄執をいう」とあります。
ただ、我々凡人はこの様な精神作用にどうして輪廻を起こすような力が有るのかピンときません。
でも釈尊はこれこそが犯人だと見破ったわけですよね。
で、私などはすぐに輪廻の主体なるものを考えてしまう。主体なるものは考えてはいけないと
注意されても考えてしまう。
禁止されも「渇愛」は輪廻の主体なのか?と、どうしてそんな精神作用が輪廻を起こすのかと。
唯識大乗では阿頼耶識に内存する種子が現行と熏習をくり返しながら刹那に生滅しつつ持続(相続)
していくと説いており輪廻を考える場合はとても分かりやすい。
これが釈尊の悟りである「渇愛が輪廻の作り手」とどう整合性が取れるのかも興味があるが
和井恵様はこの輪廻の主体と言うことに対してどう考えておられるのかを伺ってみたい。
2
:
和井 恵
:2013/03/26(火) 07:14:33 ID:4coNzkAo
「渇愛」は、輪廻の 主体 では無くて 原因 です。
渇愛(瞬間、瞬間の喜びへの渇望・希求)から取著(執着・固執)が生まれ、
この「執着」が、有(次の生存)を生じさせる … ということです。
釈尊自身は、輪廻に主体があるとか、ないとか、ありかつないとか、
あるでもないでもない … というような主張は、一切していません。
つまり、「無記(四句否定)」を説いているのです。
※ ですから、無我 や 縁起 などに 囚われ過ぎて、
輪廻の主体などは【ない】と言い切るのも、間違いなのです。
そして、釈尊が、そのような「主体」なるものを考えてはいけない、と教えるのは、
その「主体について考えること」自体が、「我慢」という煩悩を増大させる行為になるからです。
※ 我慢 … 自己の中心に我(が)があると考え、その我をよりどころとして心が驕慢であること。
そしてまた、自分についてあれこれ考えることを「疑」と言います。
※ 一般的に「疑」とは、仏の教え(真理)を疑うこと … だと言われていますが、
釈尊は、我についてあれこれ考えること ( 私は過去にどんなだったのだろうか?
未来ではどうなっているのだろうか? 等々 ) を「疑」だと説いている経典があるのです。
── で、私の「輪廻の主体」に対する 考え(見解) というものは、ありません。
仏教徒で、そのような論議をあれこれする人たちは、
釈尊の教えそのものを、あまり理解していない人たちなのだろうと思います。
ただ、釈尊は、はっきりと、次のように述べています。
比丘たちよ、このように語り説く私を、ある沙門やバラモンたちは、不正に、虚しく、不真実に、偽って誹謗する。
『 沙門ゴータマ(釈尊の本名)は虚無論者である。生けとし生けるものの断滅、消滅、破滅を教える 』と。
比丘たちよ、私はそうではなく、またそうは言わないのに、
尊敬すべき沙門やバラモンたちは、不正に、虚しく、不真実に、偽って誹謗する。
『 沙門ゴータマ(釈尊の本名)は虚無論者である。生けとし生けるものの断滅、消滅、破滅を教える 』と。
比丘たちよ、私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである。
( 中部経典 22経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』 )
釈尊は、「断滅論」や「虚無論」を説いてはいませんでした。
── つまり、輪廻からの「離脱」は説いていても、輪廻からの「消滅」や「断滅」などは説いていないのです。
…… 言っている 意味 が 解るかしら?
この意味が解れば、私たちは、釈尊の説く「解脱」に対して、何の心配もせずに、実践を進めることが出来ると思います。
尚、唯識大乗などの、大乗仏教や密教などは、釈尊の教えとは「別物」だと私は考えています。
ただし、だからといって、その教えが「悪い」とも、特に思っているわけではありません。
釈尊の教えとの「混同・同一視」することが、問題であり、間違っているのだと考えているのです。
大乗には大乗なりの良さが、そして欠点があり、密教にも密教なりの良さが、そして欠点があると観ています。
そして、私自身の「輪廻」に対するスタンスは、どらかと言えば 大乗・密教的なんですね。
つまり、釈尊の教えの信奉者であり、実践者ではあるけれども、特に、「不還」や「阿羅漢」になりたいとは思っていないのです。
「一来果」止まりがちょうどいい … と、考えています(その状態をキープしつつ、転生を繰り返す)。
そして、今生でも、そこまでは来れたな、── と、一応の自己評価をしているのです。
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