4991.as … as について 三[voltaire]2006/01/26 18:28 http://wiki.livedoor.jp/onishi_eah1/d/4989.as%a1%a1%a1%c4%a1%a1as%a1%a1%a4%cb%a4%c4%a4%a4%a4%c6%28EAH%29
>三、
>話し手は際立つものから主語に採用する。これを仮に「際立ちの原則」と名づけておきます。また、一つの文のカタチには、論理的(文法的あるいは辞書的)意味と心理的意味とがあり、両者はしばしば乖離します。resembleという動詞を使った下の2つの文は、論理的には等価ですが、心理的には異なると考えられます。
>
>Tom resembles Jack.
>Jack resembles Tom.
>
>前者では、話し手の中ではTomが際立っているのに対し、後者ではJackが際立っているのです。で、ここでようやくas…asのお出ましとなります。 resembleの例文を参考にすれば、以下の二つの文は、論理的には等価でも心理的には異なっていることになりそうです。
>
>Tom is as tall as Jack.
>Jack is as tall as Tom.
>
>両者は論理的には等しくても、心理的には異なっています。前者ではTomが、後者ではJackが、際立っているのです。では、どういった意味で両者は心理的に異なるのでしょうか。
>
>まず、as…as〜は辞書では「〜と同じくらい…」という意味になっています。「くらい」となっているのですから、厳密にイコールであるとは限りません。数学者の使う場合ならいざ知らず、実際には数学とは無縁な日常会話で頻繁に使用されているのですから、常に厳密にイコールということはありえないでしょう。つまり、A as … as B という表現は、《A=B》というよりは、むしろ《A≒B》であると言えます。(数式を使うのは一種の「便宜」とお考え下さい)
>
>次に、《A≒B》であれば、実際の場面では《A>B》や《A<B》になることもあるのでしょう。「際立ちの原則」からすれば、《A>B》にはなっても、《A<B》にはなりにくそうです。なぜなら、Aの方が際立ちが高いのですから、「大きい・多い・全体」などを表している可能性が高いはずです。これは心理的要因によるものであって論理的要因によるものではなく、換言すれば、asという内容語に付属する性質ではないと考えます。asに=の意味の他に>の意味があるのではありません。話し手の心理的要因のせいで、《A as … as B》という表現では、「A=B」の他に「A>B」という意味が生じる可能性もある、ということだと考えます。
A君はB君のように馬鹿だなぁ。
B君を引き合いに出してますけど、結局言いたいことはA君が馬鹿であることです。
He is as wise as any man.
"He is" "as wise" "as any man."
これも同じですよね。"He is wise"であると言うこと。それを言いたい。
だけど引き合いに"as any man"が追加されています。
"彼は賢いんだよ、他のどのような人と比べてもいいけど。"
つまり意訳すれば、"彼は誰よりも賢い。"となりますよね。
この型には、まず言いたいこと!その後比較するもの(引き合い)。
のリズムでA≧Bなんて数式は本質ではないと感じます。
I came as soon as I heard the news.
上とはちょっとリズムが違いますよねぇ。
"I came"ですよね。言いたいことは、主語は"I"ですし、"私は来たんだよ。"です。
"I came" "as soon" "as I heard the news."
"私は来たんだよ、すぐにね、そのニュースを聞いたら!"
まんまだと思いますけどねぇ・・。
Diderotさん>>13の疑問「A as 〜 as BはA≧Bであるのに、なぜA as soon as Bはそうはならないのか」に対する私の回答(仮説)は単純です。過去ログ>>11でのvoltaire(Diderot)さんの「表現」と「心理」に『現実』を加え三者を分けて考えるのです。 A as soon as B は、「表現」としては一般の A as 〜 as B と同様あくまで《A≒B》(110さん>>14のご説明の通り)、「表現」+「心理」としては《A≧B》(過去ログ>>11の通り)、しかし『現実』としてはほとんどの場合《A<B》、ということではないかと思います。要するに、ほとんどの場合、『現実』《A<B》とそれを誇張した「心理」的「表現」《A≧B》が矛盾しているように見えるだけで、「表現」+「心理」《A≧B》としては例外でない、というのが私の仮説です。
A as soon as B は、その強調 no sooner B than A と比較して考えると、いみじくもどちらも「Bするや否やA」と訳されるように、『現実』には「BしたあとすぐにAした」のに、原初的な「表現」+「心理」としては「Aしたのはすぐだった、Bするのが終わらないうちにAしたほどすぐだった」という誇張表現だったのではないかと思われます。はじめの例 I came as soon as I heard the news. なら「ニュースを聞き終わらないうちにこちらに向かったほど、すぐに来たんだ」というように、すぐというキモチ《A≧B》を『現実』《A<B》に反してでも誇張して伝えたい形なのではないか、ということです。
「表現」+「心理」《A≧B》に対する訳「するや否や」は古臭くても適切であると思うのですが、それを「するが早いか」とするならまだしも、「するとすぐに」と無意識に『現実』《A<B》に即して意訳してしまうことが多いからこそ、原初的な「表現」+「心理」《A≧B》という誇張のニュアンスが薄れ、 as 〜 as としては例外のように感じられてしまうのではないでしょうか。私には、英語の比較表現(同等)の問題というより、英語に限らない誇張表現(修辞)の問題のように思われてなりません。過去ログ、手もとの例文、辞書の説明から考えた仮説にすぎませんが、いかがでしょうか?
We couldn't have rescued the climber ― unless we had had a helicopter.
→登山者を救助できなかったよ
We couldn't have rescued the climber if he hadn't had a helicopter.
→登山者を救助できたよ