It is no surprise that the most complex features of the Universe, which proved most reluctant to yield to the traditional methods of scientific investigation, should exist on our scale.
最終部に出てくる should についてです。
駿台予備学校が出している「青本」の解説に、
この should は一般に「感情の should」と呼ばれるもので、ここでは主節に surpurise があるために使われている。これは「驚き;遺憾などの主観的判断」を表す主節の後で用いられるもので、「…すべきだ」という義務の意味はない。
とありました。
どうして should に感情の意味があるのかはわかりません(shall=強い意志 の名残?)が今は保留して受け入れることにして、ここに should を置く必然性についてお聞きしたいのです。
「主節に surprise があるために使われている」と解説にありましたが、本文では「no surprise」となっていて、「驚き」が否定されています。
「主節に surprise があるために使われている」が正しいとすれば、本文では surprise ではなく、正反対の no surprise が使われているのだから、should を使う必然性は無いと思います。
この本文と同じように、主節で「no surprise」を使っていても that 節内で should を使っていない例なんて、検索をすればいくらでも出てきます。
あるいは、この解説は、仮定法現在の文(要求・主張の文)に should を入れた文のことを想定しているのかなとも思いましたが、exist は事実を述べているはずなので、また、仮定法現在の文(要求・主張の文)に should を入れた文の should には多少なりとも「〜べき(義務)」の意味が含まれているので、この仮定は完全に否定されます。
そして自分なりに考えてみました。
「宇宙で一番複雑なのは我々人間を含む生物なんだよ。どう?意外だったでしょ?おっどろいたでしょ?こんなに身近なところにあるなんて。」
本文にこういうニュアンスを含めたいから、should を置いて「驚き」や「意外性」を示したかったのでは?と思ったのです。
つまり、主節に surprise があるから、that 節に機械的に should を置くんだよということではなくて、that 節の中身に意外性や驚きのニュアンスを込めたいから should を置いたのではないかということです。