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金剛般若経を読んで実践する

73避難民のマジレスさん:2024/01/14(日) 21:29:12 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。金剛般若経の(6)から(8)までを、まとめてみました。
> 菩薩はさまざまな観念にとらわれず、布施の完成を目指すべきだというのじゃ。
布施の完成→智慧の完成 でしょうか?

(6) スブーティは尋ねました。「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」
 師は答えました。「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。」
 「これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
 それはなぜかというと、その者たちは自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。
 また、(悟りを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。なぜならば、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、自我という観念としての、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。
 もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
 それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」

(いかだの喩え:仏教の教え(法)を川を渡るための筏のように利用するが、川を渡った後はいかだ(法)を捨てるべきだという意味です。これは、仏教の教えが最終的な目的地ではなく、悟りに至るための手段として実践し、達すれば捨て去られる方法として説かれることを示しています。)

(7) 師は、スブーティに問われました。「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
 スブーティは答えました。「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。
なぜならば、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」

(8) 師は問われました。「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い世界に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その者が得る福徳は多いだろうか?」
 スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」
 師は言われました。「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、繰り返し唱え念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その者の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の如来の得る、この上なく正しい悟りの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法ではないからだ。それゆえに覚者の方法と言われるのだ。」


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