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金剛般若経を読んで実践する

131避難民のマジレスさん:2024/06/07(金) 10:39:01 ID:VG/pkc6M0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0

***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」

  スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」

「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」

***

 お釈迦様は更に須菩提長老に、
 もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
 と、聞いたのじゃ。
 
 長老は、
 それは正しくない 
 なぜならば、それらの見解は見解ではない。
 それを見解とよぶのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は、
 その通りじゃ。
 無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
 法という観念を持つべきではない、
 と、答えたのじゃ。

 なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
 そうであるから法という観念なのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
 それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
 そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。

132避難民のマジレスさん:2024/06/08(土) 11:16:16 ID:ABGgMtuA0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU

***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
 それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。

 世界の一切のものごとは
 夢や幻、泡や影、
 露や稲妻のよう、
 そのように観るがよい。」

 師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。

***

>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
 最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
 もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
 人のために説いた方がより大きな福を得る
 といったのじゃ。

 どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
 それが人のために説くということなのじゃ。
 というのじゃ。

 つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
 自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
 
 そして詩句を示すのじゃ。

 一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
 と、説いたのじゃ。
 つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
 
 今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
 直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
 それもまた金剛般若経の法なのじゃ。

 この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
 次は総評なのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2024/06/09(日) 11:03:48 ID:2FR8Sx8o0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU

 金剛般若経も終わったのじゃ。
 全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
 仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
 それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。

 もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
 そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
 阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。

 全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
 そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
 その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。

 それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。

 観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
 しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
 それが向いている者には効果がある法なのじゃ。

 自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2024/09/27(金) 11:26:14 ID:3mnA./cI0
※抜けがありました。追加いたします。
___

0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(二十九)

「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様は、
 もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
 と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。

 なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
 如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
 来ることも去ることもないものなのじゃ。

 既に死を超越したからなのじゃ。
 死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
 一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。

 死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
 生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
 生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
 そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。


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