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金剛般若経を読んで実践する
104
:
避難民のマジレスさん
:2024/05/12(日) 11:57:47 ID:sE1GUpQU0
42 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 21:45:24.54 ID:eXza/b3P.net[4/4]
***
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、何かに執着しながら、施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。
それは何故かと言うと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これと同じように、南や、東や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」
***
以上の四つの自己認識に囚われないことを説いた後に、お釈迦様は布施について説いたというのじゃ。
菩薩はなにものにも囚われない布施をすべきだというのじゃ。
色声香味触法の全てに囚われずに布施をすべきだというのじゃ。
そうすれば功徳が計り知られないほどになるからというのじゃ。
前に説いた四つの自己認識とは関係ないように見えるが、実は同じ修業であるといえるのじゃ。
前には自己に囚われずに衆生を導き、ここではなにものにも囚われずに布施をするようにというのじゃ。
それら二つの行は成果に囚われず行うカルマヨーガの行なのじゃ。
衆生を導いても一人も涅槃に導いたことにならず、布施をしても何も布施をしたということにならないのであれば、何の得るところも無い行になるからなのじゃ。
行いの成果を求めず行うカルマヨーガの行をしろというのじゃ。
行いの成果に囚われるならば、それは未来を夢見ていることになるのじゃ。
それも過去の記憶からこのように成果があがるであろうという憶測によるのじゃ。
そのような行は過去の記憶と、未来への期待に囚われていることになるのじゃ。
その結果、今ここには心がないことになるのじゃ。
なにものにも囚われずに行を進めるならば、それが自然に今ここに心を取り戻すことになるのじゃ。
それこそが最も大きな功徳なのじゃ。
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