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金剛般若経を読んで実践する
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:
避難民のマジレスさん
:2024/05/08(水) 13:56:27 ID:O/mtC.Dk0
0808鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/28(火) 23:45:49.49 ID:EeuO4Ri7
金剛般若経は大乗経典に属するものとして分類されているのじゃ。
他の大乗経典と同じく、お釈迦様の説いたものではないのじゃ。
後の修行者が創作したものなのじゃ。
それも修業の役に立つようにと作られたものであるから、仏教の法を説いたものとして受け容れられてきたのじゃ。
金剛般若経はまだ大乗という観念が成立していなかったと見えて、大乗とか小乗とは書いていないのじゃ。
しかし、後の大乗経典に共通である、一切衆生を済度せしめるという布教方針は同じなのじゃ。
この経典の創作後に大乗とか小乗という観念も作られたと観るべきなのじゃ。
それを知っておくとよいのじゃ。
経典に入るのじゃ。
***
(一)
わたしはこのように聞きました。
あるとき師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。
(二)
ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。
「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
師は答えました。
「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」
スブーティは答えました。
「そうしてくださいますように、師よ。」
(三)
師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、実は誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかと言えば、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」
***
経典の最初にはお釈迦様が祇樹給孤独園に1250人の比丘とともにいたというのじゃ。
お釈迦様が托鉢から帰って飯を食べて座っていたら、須菩提長老が問いかけてきたというのじゃ。
その問いは悟りを求める修行者はどのような心がけで生活し、自らの心を制すればよいのかというものじゃった。
お釈迦様はこのように答えたのじゃ。
悟りを得ようとする者は一切衆生を涅槃にみちびくために修行しようと願うのじゃ。
しかし、そのようにして一切衆生を涅槃に導いたとしても、実際には一人の衆生も涅槃には入らなかったと想うべきのじゃ。
なぜならば
生き物、衆生(サットヴァ)があるという観念や、
主体(アートマン)があるという観念や、
個体(ジーナ)があるという観念や
個我(プトガラ)があるという観念が
あれば菩薩とはいえないからであるというのじゃ。
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