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オショーのSadhana Pathを読んで実践する
1
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。
私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。
闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。
新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。
だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?
2
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2020/11/18(水) 22:10:39 ID:1d4drIFg0
それは悟りの喩えじゃな。
悟りは他に求めるものではなく、自分の心の奥にあることを喩えているのじゃ。
全て忘れてしまった者の記憶のように、悟りは何も感じない者の心の奥底にあるというのじゃ。
仏教では仏性と言ったりするものじゃ。
3
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/19(木) 07:54:21 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。
習慣により、文の意味を思考によって分析的に解釈しがちなことに気づきました。自分ごととして、自然に読めるように精進します。
古い思い出せない記憶を思い出そうとすると、注意が内側に向きました。身体では下腹の中心あたりに感覚が生じます。そういえば、自分の名前を呼ばれたときにも、その辺りに感覚が生じるのですが、そこには何かあるのでしょうか?
4
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/19(木) 20:50:13 ID:Dp/qMVVc0
しかし、これは自然なことだ。人の心の中に光がなければ、人生には何の意味もない。心の中に光がなければ、生に喜びを感じることはできない。
今日、自分自身が不必要で過剰な重荷を見つけるという事実は、生自体が無駄だからではない。生はひとつの無限の充足だ。しかし、私たちは、その充足に、その目的地につながる道を忘れてしまった。私たちは単に存在し、生とは何の関係もない。これは生きているのではなく、死を待っているだけだ。そして死を待つことが退屈以外の何物でもないとしたら、どうしたらいいのか? どうしたらそれは喜びになるのか?
私はあなたにこれを伝えるためにここに来た:あなたが生と勘違いしているこの悪夢から目を覚ます方法がある。道はいつもそこにあった。闇から光への道は永遠だ。それは確かにそこにあるが、私たちはそこから顔を背けてきた。その道に顔を向けて欲しい。この道がダルマ、法であり、宗教である。それは人間の中の光を再び点火させる手段であり、人間の漂流する船に方向性を与えている。マハヴィーラは言う。老いと死を伴う世界の急速な流れに流されている人々のために、宗教こそが唯一の安全の島であり、錨であり、目的地であり、避難所であると。
あなたは人生を喜びで満たす光を渇望しているか? 人間に不老不死を与える真理に到達したいか? もしそうなら、私はあなたを招待する。私の招待を受け入れなさい--喜びのために、光のために、不死のために。それは単にあなたの目を開くという問題だ。そうすれば、あなたは光の新しい世界に住むことになる。他に何もする必要は無い、ただ目を開けるだけでよい。ただ目を覚まして見ればよい。
人間には本当は何も消えていないし、本当は方向性も失っていないが、もし目を閉じていれば、闇はどこにでも広がり、方向性の感覚はすべて失われる。目を閉じれば人はすべてを失い、目を開ければ王となる。
私は、あなたを没落の夢から皇帝の威厳に目覚めさせようと呼びかけている。あなたの敗北を勝利に変えたい。あなたの闇を光に変えたい。あなたの死を不死に変えたい。あなたは、私と一緒にこの航海に乗り出す準備ができているだろうか?
――
オショーは折に触れて、あなたは仏性を忘れているとか、思い出すようにと説いていますが、それによって修行者の目を自分の心の奥深くに向けるように働きかけているということでしょうか。
それにしても、力があって魅力的な文で、勇気づけられます。
5
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2020/11/19(木) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
>>3
そこにおぬしの自己観念の投射があるのじゃろう。
その感覚に自分というものがあるという観念を記憶から思い出しているのじゃ。
それがなければ自分がどうなるのか見てみると善いのじゃ。
>>10
そうじゃ、心を見るように勧めているのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
6
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/20(金) 20:36:17 ID:Dp/qMVVc0
>>5
ありがとうございます。
下腹の中心あたりの感覚が無い時は、思考や鼻の先あたりに自分を感じました。
以前は自我を見ようとすると強い拒否感が起こったのですが、今は弱めの拒否感と共に好奇心が起こることが多いです。
起こる拒否感をさらに観察して、厭離しようと思います。
7
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/20(金) 20:46:29 ID:Dp/qMVVc0
ワークを始める前に、私の愛をどうか受け取って欲しい。 それは、この丘の孤独で人里離れた場所にあなたを歓迎することができる唯一のものだ。他にあげられるものは何も無い。 神の臨在が私の中に創り出した無限の愛をあなたと分かち合いたい。皆に配りたい。そして不思議なことに、分かち合えば分かち合うほど、それは大きくなっていく。本当の富は分配することで増えていくが、分配することで減っていく富は決して本当の富ではない。それでは、私の愛を受け入れてくれるだろうか? 私には見える。あなたの目には受け入れられていて、それに呼応して愛が溢れているのが。
愛は愛を生み、憎しみは憎しみを生む。私たちがあなたに与えるものは何でも、それは現物で返される。これは永遠の法則だ。だから、あなたが望むものは何でも、世に与えるべきものだ。茨と引き換えに花を受け取ることはできない。
私はあなたの目に愛と平和の花が咲いているのを見て、深く感謝している。今、ここにはそれほど多くの異なる人々はいない。愛は多くのものを一つにまとめ、一つに変えていく。それぞれの肉体は分離していて、これからもそうあり続けるだろうが、この肉体の背後には、人々を一つにし、愛で一つにする何かがある。この一体感が得られて初めて、何かを語ることができ、何かを理解することができる。コミュニケーションは愛の中で、愛の中でのみ可能なのだ。
私たちがこの孤独な場所に集まったのは、私があなたに何かを伝え、あなたが聴いてくれるようにするためだ。この伝えることと聴くことは、愛のレベルでしかできない。心の扉は愛だけにしか開かれない。そして、頭ではなく心で聴いてこそ、本当に何かを聴くことができるということを覚えておきなさい。あなたは「心も聴くのですか」と尋ねるかもしれないが、私は聴くことがあるときはいつでも、聴くのは心だけだと言う。これまでのところ、頭は何も聴いたことがない。頭は石のように耳が聞こえない。そして、これは話すことにも当てはまる。言葉は心から出たものだけが意味を持つ。心から発する言葉だけが新鮮な花の香りを持っている。
私はあなたに私の心を注ぐ。あなたの心に私が入ることを許すならば、そこには出会いとコミュニケーションがあるだろう。言葉では表現できないことが伝わるのは、この交わりの瞬間だ。こうして、多くの語られていないことも聴くことができ、言葉にできないこと、行間にあることも伝えることができる。言葉は非常に無力な記号だが、完全な安らぎと静寂の中で聴けば、力強くなる。これを私は「心で聴く」と言う。
―-
オショーも因果の法則を説いていますね。
心で聴く、心で読むというのは、鬼和尚が自分ごととして、意味を確かめながら読むというのと同じでしょうか?
また、頭ではなく、心で読めている場合、それを確かめることはできますか? 例えば私の場合、悟りを得た人の文を読んでいると、心が静かになったり、何か新しいことに気づくことがありますが、他にも目安となり得ることがありましたら、お教えください。
8
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2020/11/20(金) 22:53:03 ID:1d4drIFg0
>>6
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>7
そう言えるじゃろう。
ちゃんと心で読めているならば直ぐにでも実践したくなるじゃろう。
読み終えて直ぐ瞑想したりするのじゃ。
それが全てのブッダ達の真の願いであるからのう。
その願いが届いた証なのじゃ。
9
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/21(土) 21:00:57 ID:Dp/qMVVc0
しかし、人の話を聞いていても、私たちは自分の考えで頭がいっぱいだ。そして、それは偽りの聴き方だ。それでは、あなたは真の聴き手ではない。聴いているような錯覚に陥っているのだが、実際には聴いていない。正しい聴き方をするためには、心が完全な、すなわち静かな見守りの状態にあることが必要だ。あなたはただ耳を傾けるだけで、他のことは何もしてはならない。そうして初めて、聴き、理解することができる。そして、その理解は光となり、あなたの中に変容をもたらす。この心の状態がなければ、あなたは誰の話にも耳を傾けず、ただ自分の話を聞いているだけだ。あなたの中で激しさを増している騒動が、あなたを吸収してしまう。そして、あなたが夢中になっているとき、何も伝えることはできない。見ているように見えても見てはいないし、聞いているように見えても聞いてはいない。
キリストはまた、「見る目を持つ者は見なさい。聞く耳を持つ者は聞きなさい。」と言った。キリストが話した人たちは目と耳を持っていなかったのだろうか?もちろん彼らには目と耳があったが、目と耳があるだけでは、見ることも聞くこともできない。何か他のものが必要であり、それがなければ、目と耳の有無は関係ない。その何かとは、内なる沈黙と注意深い意識だ。これらの資質があってこそ、心の扉が開き、何かを言ったり聴いたりすることができる。
私はこのサーダナキャンプの期間中、あなたのこのような聴き方を期待する。一度この技をマスターしたら、それはあなたの生涯の伴侶となる。それだけで、つまらない先入観を取り除くことができる。それはあなたを外の偉大で神秘的な世界に目覚めさせ、意識の永遠の光を体験し始めることができる。それが、心の騒動の背後にあるものなのだ。
正しく見ることと正しく聞くことは、このサーダナ・キャンプに必要なだけでなく、すべての正しい生き方の基礎となる。すべてのものが波紋のない完全に穏やかな湖にはっきりと映し出されるように、真実であるもの、神であるものは、あなたが湖のように静かで静止した状態になれば、あなたの中に反映されるだろう。
私はそのような静けさと穏やかさがあなたのもとにやってくるのを見て、あなたの目が私が言いたいことを言うように招いているのを見る。私が見た真実、私の魂を動かしたことを分かち合うように促している。あなたの心はそれらについて聴きたいと切望している。私の話を聴こうと前向きで準備ができているのを見て、私の心はあなたに自分自身を注ぎ出したいという衝動に駆られている。このような平和な環境の中で、あなたの心が完全に静まっているときに、私は必ずあなたに言いたいことを言うことができるだろう。目の前に耳の聞こえない心を見ると、私は口を慎まなければならないことがよくある。あなたの家のドアが閉まっていても、光は外に残っているのではないだろうか? 同じように、私はしばしば多くの家の外に立っている。しかし、あなたのドアが開いているのは良いサインだ。それは良い始まりだ。
――
自分の心を観る実践が全てのブッダ 達の真の願いなのですね。私も実践を続けます。
今日の文では特に分からないことはありませんでした。これまでの文で、これを読む現代の日本人のために修正したり、あるいは補足したりすることがありましたら、お願いします。
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