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鬼和尚に聞いてみるスレ part10
206
:
541
:2017/12/10(日) 19:56:41 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。「現実」と言うのは、中長期的には、思った方向に向かうのですが、
短期的には、滅茶苦茶ですね。
5年前に、鬼和尚に宣言したとおり、あくせく働かなくても良いくらいの資産を作りました。
また、自分に好きなことを仕事にすることも、ほぼ、出来ました。
確かに、中長期的には「うまく行って」いる。しかし、短期的には、ゲロを吐きたくなるようなことばかりでしたよ。
207
:
541
:2017/12/10(日) 20:04:43 ID:o7TfOr0I0
今だって、ゲロを吐きたくなるようなことが起きて、ウンザリしているんです。
それは、大抵、「よし、新しいことをやってみよう」と言う革新的な行動を起こすと、
人間社会の「醜い裏側」などが見えてきて、嫌に成ったりしますね。
何なんでしょうね。だからと言って、禅堂で、じっと座っているだけの人生と言うのもなんだかなー
よく「人生は無意味なんだから、好きに生きればよい」(積極的ニヒリズム)と言うようなことを言う人が居ますが
そもそも「好き」に「生きる」と言うこと自体が「意味」ですからね。
好きに生きようとした時点で「意味」に絡み取られている。
そんな矛盾すら、ニーチェはわかっていなかったのかな。
意味が解体した世界では「好き」も「嫌い」も無いんだから。
208
:
541
:2017/12/10(日) 20:14:02 ID:o7TfOr0I0
ところでさぁ、鬼和尚よ。本心とかいったところで、ほとんどが「言葉=意味」じゃないですか
意味に腹を立てているだけでしょう?
本心では、親が憎かったとか言っても「親」って意味じゃないですか、それは実在ではなく、言葉であり
仮象に過ぎませんよね。
しかし、その仮象でこの世界が成り立っている限り、それを無視して生きるのは至難のわざだ。あぁ、めんどくさい。
209
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/10(日) 20:28:21 ID:1d4drIFg0
>>199
なくなるじゃろう。
もはや苦を感じる主体も無いのであるからのう。
苦がまだあれば無我ではないのじゃ。
>>200
どういたしまして、またおいでなさい。
>>201
主体に気付けば厭離が起きて、無我になるのじゃ。
同一ではないのじゃ。
何人もいるじゃろう。
>>202
>>203
>>204
それでよいのじゃ。
更にどんどん観察してみるのじゃ。
例えば右手だけ観察して、観察していない左手との違いが感じられるか観察してみるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
210
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/10(日) 20:31:35 ID:1d4drIFg0
>>205
悟っていないのじゃ。
借りた知識を語っているだけなのじゃ。
>>206
-
>>208
そうじゃろう。
意味に反吐が出るとか思っているのじゃ。
何も思わずに実践するとよいのじゃ。
211
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/10(日) 21:03:55 ID:czRftzgI0
>205
ではこの人は、サマーディや無我でもないのですか?
212
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/11(月) 05:55:30 ID:DAY232aw0
>>209
ご回答ありがとうございます。
観察した右手と、観察してない左手の違いは、右手は左手よりはっきりと見え、自分で動かしていると感じました。
どうすればいいのでしょうか?
213
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/11(月) 12:26:55 ID:Y5LPInQE0
>>209
ご回答ありがとうございます。
そういう事でしたら自分も無我になりたいと思い、早速観察を始めました。
しかし、主体の観察が上手く行きません(そりゃあ始めたばかりですから当然と思いますが)。
観察力が重要だと思ったのですが、どれくらいの観察力があれば、主体に気付けるのでしょうか?
214
:
541
:2017/12/11(月) 19:32:43 ID:o7TfOr0I0
>何も思わずに実践するとよいのじゃ。
止観ですか?
ところで、日常生活と瞑想を、分けずに観てよいですか?
すなわち、瞑想的に、日常的な存在者と関わるということですが、今、私は「鬼和尚」に向けてコメントを書いているのですが
この場合の「鬼和尚」は日常的他者です。日常的他者を瞑想的に観る、そして関わるという事はどういうことになるでしょうね?
鬼和尚を見ている人、(つまり鬼和尚と言う記号の内容を解釈している人、つまり自分自身)を意識しながら、会話するということでしょうか?
すると、「会話」が成立しないのですね。
自己に意識が向かうと、「他者」は影になりますからね。
キーボードがカタカタ鳴り響いているだけと成りますね。
鬼和尚と言う記号をある程度「実体化」させないとコミュニケーションが出来なくなる。
215
:
541
:2017/12/11(月) 19:53:47 ID:o7TfOr0I0
私は、”鬼和尚”と言う記号に「悟りの達人」とか「覚者」などの意味を貼り付けている。
なので、ちょっとした言動にも「す、凄い!」とか、感動してしまったりするが、これもまぁ、意味の相乗効果みたいなものでしょう。
「何も思わない」と言う事は、「鬼和尚」自体が現れないことになるし、話が出来ないのですから。
何も思わないのであれば、私は「鬼和尚」と言う記号を前に、一体何をしているのか、「モニターのまえでパチパチ指を動かしているだけではないか」ということすら「思わない」のであれば
私のあらゆる行動は停止してしまいます。
それだけです。
だからといって特に何と言うことも無い。
しばらくすると退屈を感じて、また「意味世界」に戻ってきます。
これが悟りでしょうか?
216
:
541
:2017/12/11(月) 20:12:27 ID:o7TfOr0I0
もっと「生活世界」における「他者」との付き合い方についても、鬼和尚、語ってください。
217
:
541
:2017/12/11(月) 20:28:10 ID:o7TfOr0I0
ワインの空瓶を観察しておりました。
するとボトルが膨張したり収縮したりし始めます。
そのうち、ボトルから関心が逸れて、友人のことが思い出されました。
友人のことを思い出している自分に気がつき、再び部屋に意識を戻しました。
「部屋」には「布団」とか「ベッド」のように「名付けられているもの」がありました。
「私の足」も見えました。
それだけです。
218
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/11(月) 21:47:50 ID:1d4drIFg0
>>211
そうじゃろう。
個が認識できるということはないのじゃ。
適当に語っているだけなのじゃ。
>>212
更に観察し続けるのじゃ。
そのように違いがわかるならば進んでいるのじゃ。
どんどん観察すれば更に違ってくるじゃろう。
それが観察による変容なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>213
二十分も集中し続けられるならば気付けるじゃろう。
強い意欲も必要であるがのう。
本当に主体が見えそうになると、誰でも恐れが生じるものじゃ。
本能的に自分が無くなるという予感があるからのう。
それを乗り越えるには強い意欲が必要なのじゃ。
>>214
よいのじゃ。
自由なのじゃ。
>>215
悟りではないのじゃ。
思考が停止しているのじゃ。
どんどん続けたらよいのじゃ。
>>216
慈悲を以って接するとよいのじゃ。
そうすれば福楽も付き従うのじゃ。
あとは自由なのじゃ。
ナンパでもするとよいのじゃ。
>>217
それでよいのじゃ。
どんどん続けると善いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
219
:
541
:2017/12/11(月) 22:12:00 ID:o7TfOr0I0
>>218
それがね、鬼和尚。ナンパしようとすると彼氏が居たりするんですよ。
「全ては幻想じゃー、意味などないのじゃー、突撃じゃー!」と言っても、「ナンパ」している時点で「意味」の中にいるわけですからねw
さて、とりあえず、色々と観察を続けて見るが、本当に悟れるのかね
220
:
541
:2017/12/11(月) 22:25:14 ID:o7TfOr0I0
ところで、思考を停止すると、感覚的現象が見えますよね。
しかし、感覚的現象を「見ているもの」が居ますよ。
それは、あえて言語化すれば「知性」ですよ。
思考と言うのは「これはワインボトルだな」と言う観念のことです。
さらに「先週、コンビニで買った安い奴だな」と言う観念も想起します。
これらは「思考」ですよ。つまり「過去」に属しますな。「記憶」に近い。自動反応的。
しかし、それに対して「知性」は「今、ここ」で働いているね。
つまり、今まさに、感覚的対象を「見ているもの」ですよ。
知性は対象を「ワインボトルだ」とは思わないです。「ワインボトルと呼ばれている何か」を、つまり、存在を了解している訳です。
人間に置き換えれば、思考は「これは鬼和尚だ」と連想的に思うのですが
知性はそれを「これは鬼和尚と呼ばれている何かである」と了解します。
そして知性が無ければ「観察」自体が成立しません。
もし、観察と言う修行が必要であれば、それは知性を抜きには出来ません。
知性は、感覚的対象を「見ているもの」なのですから。
221
:
541
:2017/12/11(月) 22:50:26 ID:o7TfOr0I0
感性は外的な印象を受け取れますが、例えば「概念」のようなもの、これは「感性」では受け取ることが出来ません。
しかし我々は「概念」の存在を了解している。
それがなぜかと言うと「知性」がそれを了解しているからです。
「心象風景」などは眼球では捉えられませんよ。
「これは心象風景だな」は思考です。
「心象風景と呼ばれている何かがある」と了解するのが知性です。
知性は、感覚的対象も自我も思考も越えています。
それらをひたすら観ているのが「知性」なのですから。
これが悟りですか? それとも単に私は「知性」に自我を投影している?
知性が崩壊しても、別になんとも思わんよ。
では「知性」が消滅したら、何か残るか?
ちなみに知性とは「名付ける者」でも無いのだよ。それはやはり「思考」でしょうな。
やはり、知性は「見ているもの」なんだよ。
思考が崩壊すると、世界が混沌としていくが、その崩壊する世界を「観ているもの」が居る。それが「知性」だ。
(あえて知性と言う表現を用いたが、「観ているもの」のことだ)
認知症患者は知性がなくなるわけではなく、記憶力が弱まって行くのである。
精神分裂症の場合は「思考」がおかしくなって、いるが、知性が崩壊している訳ではないのかもしれない。
222
:
541
:2017/12/11(月) 22:56:45 ID:o7TfOr0I0
「知性」と書くとかえって誤解を生むかもしれない。「観ているもの」は居ますよ。
思考や感覚的印象を超えて、それらを「観ているもの」はありますね。
ところで「目の錯覚」かもしれませんが、物をひたすら観ていると、「物が動き」ますよね。
生き物のようにね。でもそういうことを了解しているのは「知性」が了解しているわけですなぁ。
「観ているもの」がなければ、そういうことに気が付きませんからな。
それと悟りが結びつきますかね。何回も繰り返しているうちに何か分かってくるのかな?
223
:
蓮恵
:2017/12/12(火) 00:09:35 ID:6FEkAFLo0
鬼和尚さま
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚が無我にして、無我のまま働くように、
心もまた無我に形成され、無我のままに働くのですか。
我見すらも無我のうちに形成されて、実我に依存して存在するものは皆無ではありませんか。
224
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 05:42:05 ID:DAY232aw0
>>218
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、鬼和尚さんの仰る観察とは、観る事なのでしょうか?
もう一つ質問で申し訳ないのですが、
正見とは正しく観る事なのでしょうか?
225
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 17:42:58 ID:czRftzgI0
鐘の音を聞く感覚の観察で、「鐘の音を聞いている」と観察したとします。ここで観察している状態の者を観察します。すると、実際は音が聞こえるのは意志なく行われているから、「鐘の音を聞いている」は自分が聞いているのではなく、「自分が鐘の音を聞いている」という考えが起こっているだけであると気付く。
観察者を観察はこのようにやっていけばいいですか?
それと和尚さんは悟りは3年とおっしゃいましたが、これは苦滅1年、無我まで1年、大悟まで1年という計算ですか?もちろん個人差はありますが。
226
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 20:14:42 ID:o86Ajnps0
実際のところ、悟れば独我論の世界にしかならないのではありませんか?
自我の話ではなく、意識はこのひとつ、という意味で。何故多くの覚醒者は、現れのストーリーに過ぎないものから、他人の意識だとか、各人の世界があるだなんて言うんですか?
それは時間や実在の幻想となにが違うのですか?
227
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 20:17:54 ID:o86Ajnps0
正直に言えばいいと思うんですが。
(見掛けの上で存在する)この体、この自我は、唯一の意識と、特別な関係を(見掛けの上ですが)持っていると。自分は特別な存在だと。
228
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/12(火) 21:43:14 ID:1d4drIFg0
>>219
いない者にあうまでやり続けるのじゃ。
それがなんぱ道なのじゃ。
>>223
おぬしがそう思うならばそうじゃろう。
実践によって確めるのじゃ。
囚われずにすすむのじゃ。
>>224
聞くことも観察になるのじゃ。
注意深く集中して感じるのじゃ。
正しく見ることなのじゃ。
>>225
その全体を見ているものを観察するのじゃ。
今書いているものを観察するのじゃ。
特に区別は無いのじゃ。
方法は一年でも覚えられるものじゃ。
後は自分で進むしかないのじゃ。
>>226
>>227
本当に悟ったならばもはや我はないのじゃ。
自分もないのじゃ。
そのように考えるのも自我から離れていないからなのじゃ。
229
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 21:45:29 ID:e3FcqxaA0
我も自分も居なくても意識はあるでしょう?
230
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 21:50:05 ID:e3FcqxaA0
独我論の名前がお気に召さないなら、この意識が一つの独在論でも構いません。
結局のところ他の意識は無いのでしょう?
ならば見掛けの上で唯一の意識と密接に繋がるその体、その人格は、特別な幻と言うべきではありませんか?
231
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 22:12:10 ID:e3FcqxaA0
本当に分からないです。
我は無いんでしょう。キャラクター性は錯覚だし、本当に自分であるところの意識はキャラクターに押し込められる訳がありません。
そういう意味じゃないんです。
この意識が、唯一だという事です。
言葉のやりとりしか出来ないので、意識も無いとは言わないでください。対象化をせずに会話は出来ませんから。
他に、意識が、あるって事は、時間や実在と同じ幻想でしょう。
他人の精神と繋がれるとか、潜在意識に気付いてないって事は、見掛けの話がこの意識で起きるだけですから、独在の反論にはなりませんよね?
なのにどうして、独在をそのまま表現する人が居ないんですか?鬼和尚は他人の意識を信じていますか?
232
:
541
:2017/12/12(火) 22:21:08 ID:o7TfOr0I0
真ん中に巨大な壁がある監獄に閉じ込められているようなもので
確かに、向こうから「コンコンコン」と言う音(振動)がする。他の音や声は一切聞こえない。
その「コンコンコン」から、壁の向こうに人が居る気がするが、絶対に確かめようが無い。
人が居ると「思っているだけ」で、本当は居ないかもしれない。
しかし、「コンコンコン」の背後に「意識が存在する」と信じるしかない。
言語を解してコミュニケーションする我々は、ちょうど、この囚人のようだと思うことがある。
この文章の背後に、「何らかの知性を持った意識(人格)」があるような気がするが、その「言葉」と言う記号を読み取っているのは、結局は「私」なのだと。
しかし、意味のある言葉が羅列されているのだから、言葉の向こう側に、私以外の「意識」があるのではないかと、しかし、そう思っているのは、私の意識でしかない。
こういったジレンマを感じますね。
233
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/12(火) 22:50:22 ID:e3FcqxaA0
概念と意味はイメージ連鎖の上に成り立つ虚妄なので、実はそこでは意識としてコンコンという聴覚と壁の視覚が起きているだけです。
そこから音の原因や叩く人の実在といったものを錯覚と理解できるし、他に意識が存在する/しない、といった思考も無意味なものと分かります。もちろんこの意識に起きている事に関する思考も同じく無意味ですが、指し示すための焦点機能を使わないと会話も出来ません..
独在という言葉もこの意識を対象化した虚妄の一部ではありますが、しかしそう表現するべきではないでしょうか?
234
:
541
:2017/12/13(水) 00:54:28 ID:o7TfOr0I0
既存の哲学用語で言うと「現存在」かな。
あらゆる存在者は、現存在が生み出しているが、その事を自覚していないので、
日常世界に埋没している。
そして絶望を通して、本来性を取り戻し、実存する。
235
:
541
:2017/12/13(水) 00:56:30 ID:o7TfOr0I0
あぁ、馬鹿馬鹿しい。ゆえに自由だ。
236
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/13(水) 04:52:14 ID:czRftzgI0
>225
全体を見ているものを観察できるよう精進します。ありがとうございました
237
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/13(水) 08:02:20 ID:DAY232aw0
>>228
ご回答ありがとうございます。
観察している右手と観察してない左手の違いを感じていますが、正直いまいちわかりません。観察している時は観察している方の手を意識している気がします。
どうしたらいいのでしょうか?
238
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/13(水) 08:38:23 ID:DAY232aw0
>>237
追記です。
意識しているような感じもあるかどうかわかりません。どうしたらいいのでしょうか?
239
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/13(水) 10:47:51 ID:DAY232aw0
>237>238スルーして下さい。すいませんでした。観察を続けます。
240
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/13(水) 17:20:02 ID:uLl1v9460
あの皆様、掲示板はLINEやTwitterとは違って五月雨式な書き込みよりも
まとめての書き込みの方が読みやすいかと思います。
鬼和尚様に甘えたいお気持ちはよくわかるのですが、
他にも鬼和尚様にたくさん質問をしたい方がいらっしゃるかもしれません。
241
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/13(水) 21:03:45 ID:1d4drIFg0
>>229
-
>>233
みんな繋がっているのじゃ。
ただそうではないと思っているだけなのじゃ。
もはや他人も無いのじゃ。
物質も意識の現われなのじゃ。
それが独りということもないのじゃ。
それは他にかぞえられるものがある時にいわれるのであるからのう。
>>236
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>239
そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
242
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/13(水) 23:04:59 ID:2FIMjd/k0
なるほど、たしかに独りですらありませんね。
他人も無いという事は、私たちが他人として見ているのが、意識に映る一部である3d人形だという意味ですか、それとも他人に対応して別の意識世界が広がっているという事が妄想だという意味ですか?
繋がっているという事はある意味そうだと思いますが、エンパスもシンクロニシティも、繋がる意識の存在を意味できないでしょう?現に起きているのは、その意識だけでしょう?その中の見掛けのストーリーではありませんか?
鬼和尚は、繋がったり繋がらなかったりするような、他の意識が存在する事を、信じていますか?
同じような事を何度も書き込むのは見た感じ良くないと思うので最後にします。
ラジニーシは「私は他人というものを信じていない。夢の人形かもしれないじゃないか」と言いました。グレッググッドは「気づきは一つしかない。意識は一つしかない」と言いました。
彼らは一番いうべき事をはぐらかしているように見えます。
243
:
541
:2017/12/14(木) 06:44:55 ID:o7TfOr0I0
横レスだが
意識があるとか無いとか言うのは、それこそ「意識」の判断ではあるね。
244
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/14(木) 08:17:59 ID:czRftzgI0
和尚さん、もしかして気付きも思考と同じく自分がやっているようで自分でないのですか?
245
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/14(木) 11:53:46 ID:Y5LPInQE0
>>218
ご回答ありがとうございます。
>二十分も集中し続けられるならば気付けるじゃろう。
そもそも集中とはどういう状態の事を言うのでしょうか?
雑念が浮かんでしまったら集中している事になりませんか?
雑念が浮かんでもすぐに集中対象に意識を戻し観察を続けられれば集中出来ていると考えて良いのでしょうか?
>本当に主体が見えそうになると、誰でも恐れが生じるものじゃ。
>本能的に自分が無くなるという予感があるからのう。
気をつけてみます。
246
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/14(木) 20:51:43 ID:DDcG/Dzo0
鬼和尚
毎日、瞑想と観察を続けてお陰様でだいぶ精神が安定してきました。
ただ、今日はなんだか気持ちが落ち込みます。
ぜひ、元気が出る説法をして頂けないでしょうか。
よろしくお願いします。
247
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/14(木) 21:41:43 ID:1d4drIFg0
>>242
他人がいなければ繋がる意識という観念も無いのじゃ。
どこまでも他人という観念に囚われているのじゃ。
他人が無い状況がわかっていないのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>244
そうじゃ、それは自動的に起こるものじゃ。
自分がするとか、できたといのは誤りなのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>245
雑念が浮かんでも集中はしているのじゃ。
数息観などの瞑想をして雑念を流していくのじゃ。
一つのことを続けてやれれば集中しているといえるのじゃ。
実践有るのみなのじゃ。
248
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/14(木) 21:46:49 ID:czRftzgI0
>244
やはりそうでしたか。そういうことが言えるようになったとは自分は進歩したと思えて元気が出ます。ご指導感謝します。
249
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/14(木) 21:57:17 ID:1d4drIFg0
>>246
そのような時は瞑想を楽しむが善いのじゃ。
姿勢を正しくして瞑想をすれば自然に快が生じるものじゃ。
お釈迦様もむしろ瞑想の楽しみを味わうようにと言うのじゃ。
瞑想をすると人を超えた快が生じるのじゃ。
それは人が通常に感じられる喜びの五百倍にもなるというのじゃ。
人として最高の真の楽しみを味わうことができるのじゃ。
今の科学でも瞑想をすると脳の細胞がふえるというのじゃ。
肉体的なことでも精神的なことでも傷付いた脳が癒されていくのじゃ。
瞑想によって心も体も癒されていくのじゃ。
瞑想によっていずれは全ての苦を滅し、悟りにも到達するので有るからどんどん実践していくと善いのじゃ。
250
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/15(金) 00:38:43 ID:pN2bNS2k0
最後といったけど、捨て台詞でも吐かせてくれ。
じゃあやっぱり、鬼和尚はその意識がただ存在するだけだと、そう言っているんだな。
他人も無ければ我も無い。その意識だけ。
それは独我論って言うんだよ。
貴方もはぐらかしているだけだ。
まるで個々の意識世界が存在するかのように説くな。
本当は分かっている癖に。
なんでそこだけ欺瞞を避けない?
人に独我を説くと矛盾だと思われるからか?
その世界が無の全てだと認めるのが怖いか?己を無数の意識の一つだと思いたいか?
失望したよ。じゃあね。
251
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/15(金) 07:59:38 ID:LC3de7YgO
>>174
>全てで無いものは正に自分と気付く
←全てを観察し、その全てを観察した自分てなんだろう?と問い、「全てで無いもの」という答えに行き着けば、
「全て」と言うこととの矛盾に陥ってることに気付く=自分は全てと一つであると気づく。
そんな理解でよいのでありましょうか。
252
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/15(金) 08:28:24 ID:8AZPHVro0
>>249
ありがとうございます。瞑想を楽しんでみます!
253
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/15(金) 13:36:15 ID:Nw8VwStU0
>>250
わかっていないのは君の方なのですよ。
鬼和尚は苦を滅した自らの体験を鬼和尚の言葉で表わしているだけなのです。
本来、言葉を超えた世界の話なので、完全な表現などは不可能なのです。
膨大な大乗経典が存在するのも、真理の世界を表現するにはさまざま説明が可能
だからです。
大切なのは鬼和尚の体験(世界)であり、鬼和尚がしていることは人々を鬼和尚と
同じ世界に導くことであって、鬼和尚の言葉をそのまま理解することではないのです。
このスレでも、鬼和尚の言葉の一字一句にこだわっている人が非常に多いようですが、
そのような求道の仕方では鬼和尚と同じ世界に入ることは難しいでしょう。
254
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/15(金) 19:38:36 ID:LC3de7YgO
>>177
ふむふむ。
> 認識できる全てでは無いものを気付くことができる者はそれにも気付ける
認識の主体と、凡は思っているので、認識できるけど、それは対象ではない=全てではないと、思っちゃってるのでありますね。 自分も数に入れなきゃダメだろって話でありますね。
自分も全ての中に含まれると言うことを越えて、
全てと一体であるという所まで跳躍しなくちゃいけない・・・・てか、跳躍できるのでありましょうか?
255
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/15(金) 21:46:40 ID:1d4drIFg0
>>250
最後の最後まで我から離れていないのじゃ。
我があるという自分の観念から全てを思考しているのじゃ。
水の一滴が自分を我と思わないように、物理的にくっついているものに我はないのじゃ。
自分の幻想から他人に語りかけ、自分の幻想を見て失望しているのじゃ。
カウンセリングを受けるとよいのじゃ。
おぬしに必要なのはよいカウンセラーなのじゃ。
>>251
そのようなものじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>252
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>254
それもできるじゃろう。
分別しているのは観念でしかないのであるからのう。
修業すれば観念を超えて観察する事も出来るのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
256
:
541
:2017/12/16(土) 06:35:03 ID:o7TfOr0I0
これ以上ないくらい至福の境地を楽しんでいるが、これは仏教で言うところの
「天」の境地なのかな?
要するに、人間的な「意味」の世界と意味を超えた「無」の世界を自在に行き来している境地。
鬼和尚。さらにこれ以上の境地ってあるのでしょうか?
257
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/16(土) 16:36:33 ID:DAY232aw0
>>241
ご回答ありがとうございます。
手を観察していたら、手がただの物のように感じました。これで良いのでしょうか?
258
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/16(土) 22:09:55 ID:1d4drIFg0
>>256
それで善いのじゃ。
更に優れた境地も有るのじゃ。
もはや言語をも絶する悟りの境地に進むとよいのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>257
それでよいのじゃ。
厭離が出来たのじゃ。
次は腕とか肩とか足とかをどんどん観察していくのじゃ。
全身が観察できればもはや自分の体という観念は無くなるじゃろう。
肉体のもたらす苦から離れられるのじゃ。
肉体が終われば感覚を観察していくのじゃ。
感覚の次は思考とか感情を観察するのじゃ。
最後には分別とか認識を観察するのじゃ。
わからなくなったらまた手を観察する事に戻ればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
259
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/17(日) 03:01:23 ID:DAY232aw0
>>258
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察をする時は、観察が出来ていれば、どうやって観察をしても良いののでしょうか?
260
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/17(日) 09:34:23 ID:czRftzgI0
私は禅寺に入って本格的な修行をしたことがないのでわからないのですが、禅宗の一般的な修行はここにある全身と感覚・思考の観察を行うのでしょうか?それともそれは和尚さんの教えであり、今の禅ではあまりやらない修行なのでしょうか。
もし、全身と感覚の観察が修行の内容に含まれていればいれば今の時代もっと禅宗に覚者が多くいるはずです。現代の禅宗の中でも真冬に冷水を浴びるとか集中瞑想の修行をするのが禅と考えているところが多いから、そうなってないのかと。あるいは、雲水が数年修行して寺を持てるとか管理職になると一人前はい終わりみたいなシステムになっているのか。まあだからと言って批判する気はありません。
261
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/17(日) 10:08:51 ID:czRftzgI0
「感覚の次は思考とか感情を観察するのじゃ。 最後には分別とか認識を観察するのじゃ。」
感覚の次は反応の順序から分別とか認識になるはずなのに感覚の次は思考とか感情になるのはなぜですか?
262
:
123師
:2017/12/17(日) 10:18:00 ID:PxOglP4s0
260.
坐禅は坐っているだけのことである。
それは修行とはならないよ。
263
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/17(日) 17:56:30 ID:1m8D70Nk0
鬼和尚さま
最近、水源徳性禅師という方の法話を読んでいたのですが、この方は鬼和尚さまから見たらどういう方ですか?
大乗仏教と小乗仏教の両方の修行をされた方ということで、法話でもヴィパッサナー等の修行に関して細かく語っておられます。
知識ではなくちゃんと自分で経験してるから答えられるという語り口で具体的で読み応えある内容です。
南方仏教のそれぞれの派の修行内容やそこで得られる境地などこれくらい詳しく語ってる方は知らなかったのでおもしろく読んでいます。
鬼和尚さまは気にしない方がよいとおっしゃっていたニミッタを重視して修行を進めて起こる状態など詳しく解説されてますが、
ニミッタも見えなくてもいいとおしゃったり個々に合わせてかなり柔軟な対応はされてるようです。
神秘的な話もよくされていて、そのあたり鬼和尚さまとは違う感じもしますが、鬼和尚さまもミラレパなど評価されてるようですし、
それはそれでアリなのかなあと読んでいます。
それで聞きたいことですが、この方は悟っている方なのか、あるいはどの程度まで進んでおられる方なのか、
またこの方の境地や体験、法話で話されてることなどを参考にしてよいのか、
この方が悟ってないとしたら何が足りてないのかなど、鬼和尚さまのご意見をお聞きしたいです。
以下、一例としてこの方のサイトにある法話の一つです
http://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2013/09/suigen9.pdf
サイトとWikipediaです
http://www.ekayana-vihara.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%BA%90_(%E5%83%A7)
264
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/17(日) 21:48:28 ID:1d4drIFg0
>>259
そうじゃ、自分のやり易いように観察すると善いのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>260
そうじゃ、禅ではやっていないのじゃ。
集中ばかりしているのじゃ。
それだけではよほど才能の有るものしかサマーディに辿りつけないのじゃ。
>>261
五蘊を観察するのは、色受想行識の順なのじゃ。
色とは肉体なのじゃ。
受が感覚であり、想が思考とか感情なのじゃ。
行が分別であり、最後が認識になるのじゃ。
だんだん深くなっていくのじゃ。
>>263
行者病なのじゃ。
経に書いてある通りのことが少し瞑想しただけで出来たような気がするというのが幻覚なのじゃ。
言葉の意味も知らずに語っているのじゃ。
麻原彰晃と同じ者じゃな。
265
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/17(日) 22:53:39 ID:czRftzgI0
>260
そうですか、禅宗では修行が形式化して忘我に至るのも大変なんですね。
>261
わかりました。そのように修行します。ありがとうございました
266
:
263
:2017/12/17(日) 22:55:37 ID:1m8D70Nk0
>>264
お答えありがとうございます。
こういうのは幻覚ですか、なかなかむずかしいですね。
やはり見えたもの、自分が通達したと思えた境地を簡単に信じてはいけないということですかね。
ありがとうございました。
267
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/17(日) 23:32:21 ID:Y5LPInQE0
>>247
ご回答ありがとうございます。
数息観は苦手なので、鬼和尚さんのブログに書いてあった眉間や胸に集中する方法をやってみようと思います。
それと、数息観や眉間や胸に集中する方法は、瞑想と考えて良いのでしょうか?瞑想の定義が良く分からなくて。
268
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/18(月) 08:59:02 ID:DAY232aw0
>>264
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、基本的に、どうやって観察しても良いと言うことなのでしょうか?
269
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/18(月) 10:40:08 ID:DAY232aw0
>>268
スルーして下さい。すいません。自己解決できました。実践して行きます。
270
:
541
:2017/12/18(月) 14:06:46 ID:OPpDYWtI0
鬼和尚
身体とは何ですか?
271
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/18(月) 18:48:24 ID:czRftzgI0
観察の行で疑問が湧いたのでお願いします。
鐘の音による反応を観察中、ただ音がしたと感ずるのは感覚、鐘の音だな思うのは認識で疑問はありません。では、「カーン」という鐘の音を「高い音で響いている」と感じるのは、感覚と認識のどちらですか?
272
:
541
:2017/12/18(月) 19:44:03 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
身体とは何ですか?
ちなみに道具的な意味ではなく、存在論的な意味を問わせて頂いています。
273
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/18(月) 22:40:28 ID:1d4drIFg0
>>265
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>266
どういたしまして、またおいでなさい。
>>267
それも瞑想なのじゃ。
眼を閉じて想を働かせるならば瞑想なのじゃ。
深く考えないでよいのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>268
そうじゃ、厭離が出来ればよいのじゃ。
観察はその為に有るものであるからのう。
厭離が出来なければ観察ではなく、実践すべきものでもないのじゃ。
>>270
それも観念なのじゃ。
あるものであるが言葉にすれば観念なのじゃ。
観念の指す所は実際とは別のものになるのじゃ。
>>271
それは認識であり、分別の働きなのじゃ。
認識も分別という記憶による照合の過程が有るのじゃ。
それから記憶に有るものと同じと認定する働きが起こるのじゃ。
そのような過程も観察すると善いのじゃ。
274
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/19(火) 07:13:43 ID:czRftzgI0
>271
勘違いしていました。実際やってみて認識の観察が一番難しいように思います。
275
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/19(火) 21:27:38 ID:KPTPnXc20
「眼を閉じて想を働かせるならば瞑想なのじゃ。」
想を働かせるというのはどういう意味ですか?
276
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/19(火) 22:30:49 ID:1d4drIFg0
>>274
そうじゃろう。
認識は思考よりも早く一瞬にして起こるものじゃ。
無意識に働くものであるからのう。
よほど強い集中力と観察力が必要なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>275
心の力を働かすのじゃ。
集中することでも観察する事でも心の力を使用して行うのじゃ。
それが瞑想なのじゃ。
277
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/20(水) 00:11:53 ID:X1FtisAo0
鬼和尚さま
ブログに書かれてあった心の模式図について教えてください。
阿頼耶識により、自我(言葉やイメージで作られた観念)が生まれる。もともと体に備わっている感覚感情思考分別などからの刺激を、阿頼耶識が認識することにより、自我が起こされる。その自我が感覚感情思考分別を自分だと思い込むということですか?
278
:
541
:2017/12/20(水) 01:06:42 ID:o7TfOr0I0
『仏教といふのは妙なもんだ』と岡野は考へてゐた。『慈眼で見張れば、湖上の船も難から
救はれるといふ考へなんだ。こんな死んだ金いろの目で』
見るといふことは岡野にとつて、本来、残酷さの一部だつたが、
「遠くひろがる湖面には、
帆影に起る喜悦の波。
払暁の町はかなたに
今花ひらき明るみかける」
などといふ彼の好きなヘルダアリンの詩句も、この千体仏の暗い金の重圧、慈悲による、
見ることによる湖の支配の前に置かれては、たちまち力を喪ふやうに思はれた。
上記は三島由紀夫の『絹と明察』の一文ですが、岡野が述懐しているように仏教真理の本質とはそういうものと言えますか?
279
:
541
:2017/12/20(水) 01:09:51 ID:o7TfOr0I0
もし、上の仏説が真理ならば、文字通り世界は私の意識に浮かんでいる夢でしょうね。
280
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/20(水) 21:27:52 ID:1d4drIFg0
>>277
そのような理解でよいのじゃ。
観察して確めるのじゃ。
実践がすべてなのじゃ。
>>278
>>279
それは自ら観察して確めることじゃ。
推測も思想も必要ではないのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
281
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/20(水) 22:27:26 ID:X1FtisAo0
>>280
ありがとうございます。
では、記憶は感覚感情思考分別認識のどこに該当するのでしょうか。つまり、心の模式図のどこに、記憶は描かれるものなのでしょうか。
また、悟りの状態とは、心の模式図ではどのような状態になることなのでしょうか。
282
:
123師
:2017/12/20(水) 23:10:35 ID:Bspbwlog0
実践するバカになるのじゃ。ラジオ体操と同じである。
283
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/21(木) 06:51:12 ID:DAY232aw0
>>273
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察は感じることが大事なのでしょうか?
284
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/21(木) 13:53:50 ID:DAY232aw0
>>283
追記で申し訳ないです。
質問ですが、観察して感じたら良いのでしょうか?
285
:
159
:2017/12/21(木) 17:25:26 ID:XKr4szDc0
鬼和尚さま
自分は
>>159
なのですが、親は亡くなりました。
その節はありがとうございました。
集まるものも自分しかいないので葬儀もせず、通夜では遺体の親を前に般若心経とクリシュナムルティを朗読し、
少しでも捉われがなくなること、悟りに導かれることを祈りました。
ところで遺体の親に関しては感じなかったのですが、
その後火葬し遺骨になった親を骨壺に入れそれを持ったときから遺骨の親がまるで生きている親のようにリアリティを感じ、
いろいろ話をしたりしています。
鬼和尚さまが故人と夢で会えるとおっしゃっていたのはこういうようなことなのかなと思いましたが、
単なる自分の願望からの想像や錯覚なのでしょうか。
霊魂や輪廻するものはその者の個人性だと思うのですが、
そういうものを遺骨や何かに感じたり生者を相手にするように交流できることはあるのでしょうか。
286
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/21(木) 18:19:15 ID:GCN/ExKI0
鬼和尚さま、こんにちは。
自分はまだ本当に悟りたいとは考えていません。やはりまだこの世界で遊んでいたいようです。
しかし、悟らない範囲でできる限り苦を落とすため、観察力と集中力を高めたいと考えています。
以前、鬼和尚さまのお話でアーナンダがお釈迦様に付いていたいためにわざと悟らずにいたという話を目にしました。
観察力と集中力を高めつつわざと悟らないためにはどうしたら良いのでしょうか。
厭離したくない認識を厭離しなければ良いのかもしれませんが、観察中に自分の意思で後戻りできなくなるようなことはありませんか。
287
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/21(木) 20:52:32 ID:KPTPnXc20
>>276
ご説明ありがとうございます
「想を働かせる」とは心の力を働かすことなのですね。
感覚や思考、感情や記憶などが現れて消えていくのに気づいている、
これは心の力を働かしているということですか?
また、瞬間瞬間の「ある」という主体の感覚があります。
瞬間ごとに気づきつづけるだけの主体という感じです。
「私」というイメージが記憶その他で作られる前の主体の感覚です。
でも主体の感覚なので、これも錯覚なのだと頭では理解しています。
この感覚と理解は正しい修行の道にいますでしょうか?
288
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/21(木) 21:09:19 ID:1d4drIFg0
>>281
記憶は分別と認識に関わっているのじゃ。
認識するということは記憶したものごとを観念として認めることであるからのう。
それらの記憶による分別と認識がなくなった状態なのじゃ。
そうすれば大悟徹底なのじゃ。
>>283
>>284
大事ではないのじゃ。
何も感じなければ感じないと観察すればよいのじゃ。
感じようとすれば偽の感覚をつかむじゃろう。
実践することが大事なのじゃ。
>>285
骨には無いのじゃ。
もはや生きていないからのう。
それは観念なのじゃ。
意識は自由に有るものじゃ。
それは夢の中で生きているものにも感じられるのじゃ。
物ではなく意識を感じるのじゃ。
>>286
自分を見なければよいのじゃ。
そうすれば悟らないでいられるじゃろう。
好きなときに自分を見て悟ればよいのじゃ。
>>287
そう言えるじゃろう。
更に深く観察するのじゃ。
どこまでも主体を追求して進んでいく時に、修業の道を進んでいると言えるのじゃ。
知識や記憶に囚われてはいかんのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
289
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/21(木) 22:17:58 ID:czRftzgI0
自分を見るないし観察というのは要するに認識行為のことですよね。その認識行為を行為としないために観察者を観察することが必要という理解でいいですか?
290
:
287
:2017/12/21(木) 22:50:56 ID:KPTPnXc20
>>288
ありがとうございます
お答えで知識や記憶に囚われている部分があることに気づきました
この感じている主体を追求いたします
精進いたします
291
:
159 285
:2017/12/22(金) 07:04:07 ID:XKr4szDc0
>>288
ありがとうございます。
ちなみに死後個人性というものはどこかにずっと残るのですか?
本人が悟るか転生したら元の個人性は消えるか転生しそうですが、
夢で死者に会えるとすると、個人性は個人性でいつまでも残ってたりするのかなと。
それとも死者に会えるのは、その死者が悟るか転生するまでの間なのですかね。
ところで死者が自身の捉われを少なくしていくことはできるのでしょうか。悟りの修練をすることはできるのでしょうか。
それは肉体を持たないとムリなのでしょうか。
せっかく生まれてきたのに死んでしまい、もう悟りの学びができないとしたらかわいそうだなと思います。
死者に向けて覚者の本を読み聞かせていますが、死者も理解できるでしょうか。
死者に対してできることがあればおしえていただきたいです。
自分の捉われがなくなることが死者への供養にもなると思い以前より真剣に実践するようにはなりました。
292
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/22(金) 09:29:18 ID:DAY232aw0
>>288
ご回答ありがとうございます。
観察による厭離なのですが、厭離がよくわかりません。どうやって観察すれば厭離ができるのでしょうか?
293
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/22(金) 23:34:16 ID:1d4drIFg0
>>289
それは思いすぎなのじゃ。
行為があれば行為として観察してよいのじゃ。
行為を行為としないことは出来ることではなく、するべきでもないのじゃ。
ただありのままに自分が観られれば、行為の主体がなくなるのじゃ。
その時にも未だ行為は主体なくしてあるものじゃ。
観念が無くなれば行為すらも無になるのじゃ。
それは無にするのではないのじゃ。
無にしようとすればそれが行為になるのじゃ。
観念が無い時に行為も自ずから無になるだけなのじゃ。
ただひたすらに自分を見極めることだけが目指すべき指標なのじゃ。
>>290
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>291
記憶や習性は残ったりするのじゃ。
それが報いの元になるのじゃ。
転生しても会うことも有るのじゃ。
以前の習性が残っていてわかったりするのじゃ。
死んでしまえば修行は無理なのじゃ。
夢の中にいるのと同じ意識であるからのう。
自分の存在すら定かではないのじゃ。
肉体があれば修業もできるのじゃ。
自らの苦が無くなれば周りの者にも影響が及ぶじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
>>292
おぬしは既に体験しているじゃろう。
手を観察していたら物のようにみえたというのが厭離なのじゃ。
観察する事により、自分や自分の身が自己同一化観念から離れるのじゃ。
自己同一化から離れるから厭離というのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
294
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/23(土) 01:34:35 ID:bP6oxyAs0
死んだらどうなるんですか?
295
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/23(土) 06:15:05 ID:czRftzgI0
>289
>行為を行為としないことは出来ることではなく、するべきでもないのじゃ。
厳に戒めたいと思います。今まで苦滅をしてきてほぼ苦を苦でない程度に縮小できたように思います。来年は自我乖離に専念するつもりです。ありがとうございました
296
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/23(土) 07:15:25 ID:DAY232aw0
>>293
ご回答ありがとうございます。
厭離なのですが、自己同一化から離れれば厭離出来た事になるのでしょうか?
297
:
159 285 291
:2017/12/23(土) 15:38:33 ID:XKr4szDc0
>>293
ありがとうございます。
死後、修行は無理だとなると本当に生きてるうちに修行しないとって気になりますね。
精進したいと思います。
ところで、死者自身の修行は無理だとして、我々から死者に対して意味のある行為は何かあるのですか?
一般風習として死者に線香や水をあげたりお経を唱えますがあれらも意味のないことなのでしょうか。
生きている我々は死者に対しては死者と死後の世界にまかせてすっぱり関わらないほうがお互いにとっていいのですかね。
自分自身の精進以外にもし死者に何かできることがあればおしえてください。
298
:
進路探訪者
:2017/12/23(土) 18:48:38 ID:d8KzdBl.0
ご無沙汰しております。
鬼和尚さんの12月のブログを拝読したところ、まさに自分が今
日常で思い悩んでいる恐れについての記述でした。
この記述では、恐れも観察によってなくすことができるとあります。
しかし、今まさに恐れから逃れられない自分には、それが納得できません。
私は、自分では恐れから逃れているつもりはなく、むしろ恐れと対決しようと
していますが、どうにもうまくいきません。
恐れによりお腹がキリキリして心と体は全く動きません。
恐れはむしろ自分に宿る感覚であって、これから逃れるとか無くすという
のはナンセンスに感じました。
むしろ、感覚を変えるとか改善する方が理にかなっており、最終的には
それにより恐怖をなくすことができる気がしますが、何か感覚を変える方法
はないでしょうか。
299
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/12/23(土) 21:04:52 ID:1d4drIFg0
>>294
自分がしてきたことの報いによって良いところや悪い所に生まれかわるじゃろう。
その間は意識だけがあるじゃろう。
寝ている意識と同じなのじゃ。
>>295
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>296
そうじゃ、なるのじゃ。
おぬしは既に出来たのじゃ。
更に身体の全てを観察すると善いのじゃ。
>>297
線香や水も心がこもっていれば意味が有るのじゃ。
イメージによって供養するとよいのじゃ。
好きだったものをイメージでつくり、与えるところをイメージするのじゃ。
心は伝わるじゃろう。
現世も夢幻には変わりないのじゃ。
自らの思うとおりに関わって善いのじゃ。
>>298
それをそのままに観察すればよいのじゃ。
おなかがきりきりするとか、心身が動かないとかのう。
観察すればそれが自分の反応ですらないと気付くのじゃ。
そして厭離されるのじゃ。
今ここで起きたことをただありのままに見ていけばよいのじゃ。
そうすれば少しずつでも進んでいくのじゃ。
でかい山に裾野から少しずつ進んでいくようなものじゃ。
諦めれば絶対に上れることは無いのじゃ。
諦めずに続ければどんなに高い山でも登ることが出来るのじゃ。
300
:
159 285 291 297
:2017/12/24(日) 00:10:50 ID:XKr4szDc0
>>299
ありがとうございます。
そうですか、生前あまりよくできなかったので、死後になってしまいましたがせめて供養に意味があるということならうれしいです。
自分にできる範囲で善くしてあげたいと思います。
現世も夢と言われるとそうですね。
生者も死者もあまり分けなくてもいいのかもなと思いました。
いずれにしても自分以外の者に善くできることはして、かつ自分の外側のことがこだわりにならないようにしながら、
自分自身の精進に励みたいと思います。
前々から死者に対していろいろ疑問だったので機会に乗じていろいろ聞いてしまいました。
お手数なところご親切に詳しくお答えくださりありがたい思いです。
ありがとうございました。
301
:
進路探訪者
:2017/12/24(日) 00:33:14 ID:d8KzdBl.0
>>299
ご返信ありがとうございます。
恐れという感覚が自分の感覚ですらない単なる自分の身体が認識する
事実であると思う時もあります。
しかし、その時は、単に具体的な現実の場面から逃げ、感覚抜きの理屈
だけで恐れと対峙しているときだけです。
たとえ現実の場面で恐怖を隔離しようとしても、できません。
その恐怖があるせいで喉元が抑えられて自由な言動ができません。
恐怖という感覚が強まれば強まるほど自分がそれに支配されるのに、
恐怖の高まりによりそれが自分に関係ないと分かるというのは矛盾し
ていませんか。
302
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/24(日) 11:22:54 ID:czRftzgI0
お願いします。
1.驚くことは感情ですか?
2.眠気を感じるのは認識ですか感情ですか?
303
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/24(日) 11:27:02 ID:czRftzgI0
>301
眠気は感覚なので2.を取り消します。
304
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/24(日) 13:10:10 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、ご回答ありがとうございました。
瞑想の定義納得できました。私も想いを働かせるというのが分からなかったので
その点を質問してくれた方にも感謝致します。
あと、横ですが
>自分がしてきたことの報いによって良いところや悪い所に生まれかわるじゃろう。
この事を我々はどうすれば確かめられるのでしょうか?
我々はどうして前世の記憶を無くしているのでしょうか?
305
:
避難民のマジレスさん
:2017/12/24(日) 22:19:09 ID:wVAiAl6o0
この世に全勢力を注ぐのに前世は要らん野鴨
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