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鬼和尚に聞いてみるスレ part6

886避難民のマジレスさん:2016/05/04(水) 14:45:24 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)ゞ鬼和尚、こんにちは。
昨夜「止観」に際して、無思考の状態を維持しようとしている。「そのように意識している自分という観念がある」。音が聞こえる。「そのように意識している自分という観念がある。」雑念がわいた。「そのように意識している自分という観念がある。」等と観察し、できるだけ、それを言葉ではなく、ただそのように意識するようにしてみました。

このような、「そのように意識している自分という観念がある。」というような観察の仕方で、自分と言うものが観念に過ぎないものだと自覚できるようになるかなと 思う一方、自己暗示的に強制的に信じさせることになるか、逆に自我を強めることにつながってしまうかなとも思ったりもしますが、如何ででしょう。
「観念」という観念を観るよりも、「そのように意識している自分がある。」という方が、ありのままの観察と言えるのでしょうか?

どうも、自分と言うものが、観念に過ぎない、ということはわかるのですが、また、それ(自分)が自分の記憶に照合されてはじめてあるように思われるもの、というか、ここで、「ある」ということは、あくまでも「観念」としてあるものであり、
それはあたかも空腹時にまんがの吹き出しのように、ありありと好物を想像できるような幻想であり、消し去ることも、メニューを変えることもできるように、
自我という観念も容易に消し去るこてができるはずだ、ということもわかるのですが、
その「観念」としての自分は、いつでもあるのであります。
で、ありますから、観察により実際にあるか無いかを確かめる対象は「自我」というよりも「観念」そのものということでしょうか。
「観念」は全て記憶にあり、観念は実体ではないということを深く何度でも確認できればそれでよいのでしょうか?

蛇ではなく縄だった自分という観念。
観念があるかぎり、蛇の自分は幻想だとわかっても、縄の自分という観念が、観念としてあることになってしまいす。


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