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鬼和尚に聞いてみるスレ part4
459
:
避難民のマジレスさん
:2014/10/11(土) 16:28:09 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経は左側のページは全部読んだので、1日2〜3行づつ暗記してゆきます。
今朝読んでから座り感じたことであります。
まずは集中力を高める。記憶を呼び起こし、感情が生じ、苦が起きる。意思により集中対象に戻る。苦が消える。
ここにおいて、記憶も、感情も、意思も自我である。集中対象も自分の呼吸や気である。全部自我である。
自我で自我を観察だとこんがらがるので整理するため視点を変える。
自我でないのは外界である。外界の音や、においや、気温を五感で感知して、うるさいなとか、腹ペコだとか、寒いとかの感情や思考が生じる。
感知し、感情や思考が生じる瞬間が自我が生じる瞬間であったとしても、その外界の新情報を感知する以前から自我がある点はとりあえず保留するとしても、自我とは、連続性のあるものベースにあるもののように感じているが、実はそうではないらしい。次から次へ断続的に記憶に基づき引き起こされるものらしい。
だとしとも、感受した情報から思考や感情が起こる一瞬前の知覚そのものをとらえなければ、自我はとらえられないのだろうか?
感情にとらわれ一体化し苦しむことがあるのだから、感覚に集中し一体化し思考や感情が生じる一瞬前の感覚そのものになるようなことも可能なのだろうか?
もしそれらが可能なら、当然それは外界のことに限らず、自我の観察集中にも適用できる。
無我夢中に集中を高め、その集中力で感情が生じる瞬間をとらえることが必要なのだろうか?
あるいは、無我夢中に集中した状態から、我にかえる瞬間をとらえる必要があるのだろうか?
そのどちらもすごく難しそうだけど、可能なのだろうか?
今一つ、外界と認識の関係についても何かチョピっと違う関係性があるような気がした。
てなことを感じました。
ん…ん、いつも以上にまとまりが悪い文になってしまったであります。
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