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鬼和尚に聞いてみるスレ part2

936鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/02/28(金) 22:03:10 ID:kaXJvxhM0
>>931  今、止観と言う言葉は残っているが、その真の意味を知り、正しく修行しているのは、わしがここで教えている者たちだけじゃろう。
 お釈迦様が教えて以来、その言葉の意味すらも失われて久しいものじゃ。

 集中によって心を止め、心を観察する。
 ただそれだけの事が難しいのは、人々は自分の心を観ないからなのじゃ。
 なぜ観ないのかと言えば、観たくないからなのじゃ。

 誰でも自分について、多少の飾りがついたイメージがあり、それを壊されるのは恐いのじゃ。
 自分の心を本当に観ようとすれば、自分の心の醜さや、愚かさや、情けなさもちゃんと観なければならないのじゃ。
 自分について飾られたイメージがあれば、それには耐えられない。

 それ故に人々は観察を拒否し、忘れる事を無意識に選んだりしているのじゃ。
 その結果、本当の観は忘れ去られてしまったのじゃ。

 しかしどのように醜く、愚かで、情けない心であっても本当に自分の心が観られたならば、そこから本当に変わる事が出来るのじゃ。
 真の変容は観察によってのみ起こるのじゃ。

 心が観られなければ本当の変化も変容もあり得ないのじゃ。
 自らの心を観る事を避け続けて悟りに至った者など居ないのじゃ。

 どれほど困難であっても自らの心を観察し続ける者には、変化が訪れ、やがて変容もやってくる事じゃろう。
 長年続いた苦は観察されれば一瞬にして消え去るじゃろう。

 自我を観察できたならば、個我の観念を離れて無我に至るじゃろう。
 認識が観察できれば、真の悟りが訪れ、目覚めた者となるじゃろう。
 
 全ての変化と変容は観察によって訪れるのじゃ。
 その観察を強く完全なものとするには、集中力が必要なのじゃ。
 集中力と観察力を養う真の止観を修行する者は、真の変化と変容を味わう者となるのじゃ。

 盲亀の浮木と言うように人として生まれたものが目覚めた者に合うのは稀な事じゃ。
 既に忘れさられた止観の法を正しく知るのは更に稀な事じゃ。
 止観を正しく修行して変容を味わう事が出来るのは、真に稀な幸運な修行者と呼ぶべきじゃろう。
 修行者は自らの幸運を無駄にせず、永遠の境地に至るまで油断せず修行に励むのじゃ。


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