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鬼和尚に聞いてみるスレ part2

845避難民のマジレスさん:2014/02/11(火) 13:02:38 ID:jfWCoXjM0
2.〈われあり〉の目覚め

 〈われあり〉I Am とは、思考や感情以前の、自分自身の全面的な体験だ。この体験は、気づき (注意)、〈実在〉Being のエネルギー、ハートの総合だ。
 この三要素すべてが、自分自身の中にしっかり根づいて初めて、〈全一性〉が現れるに至る。

注意
 マインドを超越するためには、まず第一に、注意の要素を目覚めさせる必要がある。それによってマインドの中で意識的になることができる。この注意はマインドの中で生じ、そしてそれによって、マインド自身の無意識的で機械的な面が超越される。
 自己を認識する注意が、自分自身を、「知覚されたものごと」と分離して見るとき、そこに〈覚〉の状態 State of Presence が生まれる。
 注意を養成する目的は、この〈覚〉Presence を安定化させ、確立させることにある。そして最終的に〈覚〉は、しっかりした気づきの中心となり、心理学的な自己の背景に常住することになる。
 しかしながら〈われあり〉の他の局面が育たず、〈覚〉のみが養成されると、非常にバランスを欠くことにもなる。

〈実在〉Being
 〈実在〉の局面は、〈覚〉の局面に、必要な深さを与える。〈実在〉なしの〈覚〉は、緊迫しすぎており、安らぎと手放しの要素を欠いている。
 〈実在〉の局面を養成することによって、〈覚〉のエネルギーは、自然な重力によって引っ張られ、身体全体を通って下に落ちていく。
 まず第一に、注意を〈覚〉に向け変えることによって、マインドを手放す。
 次に、自己参照する〈覚〉をリラックスさせる。すると〈覚〉は徐々に、無為の状態、無努力の坐、純粋な瞑想へと、溶け去っていく。
 当然ながら、日常活動の中では、注意の局面の方が表面に出ている。一方、坐って瞑想しているときは、〈実在〉の局面の方が表に出る。
 この時点では、〈われあり〉の注意と〈実在〉の局面が存在する。

ハート
 たとえ〈実在〉と〈覚〉の状態にあっても、覚醒したハートの深い感受性がないと、完全なる〈われあり〉の体験からはほど遠い。
 私たちはハートを感性の中心として語るが、それはまた同時に、〈実在〉のひとつの次元でもある。ハートのエネルギー的な存在は、〈覚〉と〈実在〉の涼しさに、温もりをもたらす。ハートとは内側と外側とのバランスだ。それがないと、人はあまりに内側に引っ張られ過ぎ、外側との関係がうまく広がらない。本質的に私たちは感じる存在であり、〈私〉という私たちのアイデンティティーの中心はハートに位置している。ハートがないと、根本的な感受性と内側の美を体験することができない。
 注意を養成すると同時に、他の二つの局面に働きかけることによって、私たちは徐々に〈われあり〉の全体的な体験へと近づいていく。これら三つの局面が確立して初めて、充足と幸福が感じられる。


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