[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚に聞いてみるスレ part2
263
:
太陽くん
:2013/11/24(日) 00:22:06 ID:9tag3QBU0
鬼和尚様
お返事をくださりありがとうございます。
たしかに、判別しようとしても、あれも行けない、これも行けないという堂々巡りにしかなりません。
僕も、自身の「汚い」とかの判断は根拠のないもので、条件付けの結果であると思っています。
しかし、「真相に気づいた」と思っても、絶対に正しいかどうか確信が持てないために、
その「真相」が正しいかどうか、、と再び観念による捜索を開始してしまいそうです。
僕が、物理学という論理的に組み立てられた学問を学んで来たことにも原因があるかとは思うのですが、
心の声に関する問題でも「本当に、絶対に正しいか?」という言葉による疑問を常に繰り返してしまいます。
(もちろん、物理学も自然を「絶対に正しく」記述するものではなく、
今ある実験事実を説明する(心が創り出した)論理的に一貫した枠組みであるというだけですが。)
心で納得する、ということに対して、(自我による?)疑いのスタンスを取ってしまいます。
自責的な思考習慣も、このような「疑念」の一つの現れなようにも感じています。
このような反芻は「雑念」そのもののようにも思うのですが、納得ということが難しいです。
心からの納得は、(観察しようとする姿勢によるとはいえ)偶然性の産物というか、自然に起こるものだから、
自我の操作を放り出す必要があるとは(頭で)思っているのですが、
それも、本当にそうかと、考えてしまいます。
これ以上頭で考えても仕方がないとは思うのですが、瞑想しても結果を焦ってしまいます。
本来、「正しい」ということ自体、心の声を聞く際には考えても仕方がないことのような気もしています。
「心から納得する」ことと「正しい」ことは全く別のことなのに、
「納得する」ということについて理解(?)がないために、混同してるのかもしれない、などとまた、頭で考えました。
心を論理に当てはめようと思考することは、経験と歩調が合えば有効だけれども、
僕の場合、経験に思考が先行してしまい、仮定に仮定を重ねることで、
心が置いてけぼりになってるのかも知れないと思いました。
的外れなことを考えているでしょうか?
瞑想の実践に当たっても、思考と観察の関係性をつかむことが必要と思い考えていました。
長文失礼しました。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板