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Vikipedio の Patro Nia

1papageno:2007/09/03(月) 03:47:10 ID:pk1/RCsI
ブログでも取り上げましたが、エスペラント版ウィキペディア Vikipedio
における様々な言語の項目には、その言語の例文として、Patro Nia が取り上げられています。
http://eo.wikipedia.org/wiki/Listo_de_lingvoj

Patro Nia は言うまでもなく、キリスト教の祈りの言葉で、そのような特定の宗教の文が中立を謳うエスペラントで平然と取り上げられている事に驚きます。調べたところ59の言語に掲載されていました。

これがキリスト教徒の国の言語ならまだわかりますが、サンスクリットとか、あげくの果てにイスラム教徒がほとんどのトルコ語までとなると、本当にエスペランティストの良識を疑わざるを得ません。

極めつけはエスペラント(の項目)自身にも掲載されている事ですが。なるほど、やはりエスペラントはヨーロッパ人・キリスト教徒のものだったんですね、と言わざるを得ません。
ヨーロッパのエスペランティストは未だ植民地主義的な世界観から抜け出していないのでしょうか?

ウィキペディアはもちろん誰でも編集できるので、いつでも削除できますが、もう少しいろんな人に見ていただきたいと思っています。
http://ameblo.jp/esperanto2/entry-10045390089.html#c10064993917

2胡人:2007/09/03(月) 06:28:00 ID:lEOVxd.s
ザメンホフは Eternulo:永遠者(神), =Javeo, =Jehovo をキリスト教系宗教の神として使用しています。
この感覚は、世界の各宗教者間における最大公約数的な神仏の呼び名に相応するものと思われます。

その上で、各宗教者にはその各文化上における祈りの言葉があって、それを使用することを禁止する事は、様々な固有の宗教の存在自体の否定につながるものではないでしょうか?トルコにもキリスト教者は僅かでも存在するでしょうし、そのような使用がなされても許されるものと私は思います。

3papageno:2007/09/03(月) 10:13:22 ID:0RKXCDBc
胡人様すみません、おっしゃることがよく分かりません。「主の祈り」はザメンホフが作った訳でもないのに、なぜここにザメンホフが出て来るのでしょうか?

もしエスペラント版ウィキペディアの「トルコ語」の項目
http://eo.wikipedia.org/wiki/Turka_lingvo
に Patro Nia が許されるというなら、トルコ語版ウィキペディアの「トルコ語」の項目
http://tr.wikipedia.org/wiki/T%C3%BCrk%C3%A7e
に Patro Nia があってもいいという事になりますが、そうお思いなのでしょうか?
また同様に日本語版の「トルコ語」の項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E8%AA%9E
に「主の祈り」があってもおかしくないという事なのでしょうか?

4papageno:2007/09/03(月) 11:11:31 ID:0RKXCDBc
ちなみに今、項目「トルコ語」があるウィキペディアの全言語版を調べてみましたが(調べるまでもない事ですが)、
Patro Nia をトルコ語の例文として載せているような阿呆な言語版は他にはありませんでした。
そんな能天気な、帝国主義、植民地主義丸出しなことをするのはエスペランティストの他にはいないでしょう。
まさか Vikipedio の「トルコ語」の項目を書いた人が、トルコ人のほとんどがイスラム教徒である事を知らなかった訳はないでしょうし、エスペランティストの感覚はあまりにも世の中とずれ過ぎていると思います。

ちなみに英語版の「トルコ語」の項目では、あるトルコ語の詩を掲載していました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Turkish_language#Sample
これが普通の感覚でしょう。

5Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/03(月) 12:19:17 ID:VBtkMNoI
papageno さんのおっしゃるとおりです。どんな反論が寄せられるのか
楽しみです。

6胡人:2007/09/03(月) 23:46:00 ID:QfYGBuvA
すみません、おっしゃっているよく意味がわかりません。
私はキリスト教者ではありませんが、キリスト教の聖書が世界で一番多く出版されている本という様に理解しています。
それをモトに、例文として利用しても別にかまわないのではないでしょうか?
それを活動としてすすめたい方がおられても別に良いとおもうのですが?

それをもって中立でないとは別に言えないと思います。他の多くの宗教の経典もエスペラント訳されています。
私はキリスト教以外の経典を3冊もっています。ウィキペディア化されてるかは私は知りませんが…

7papageno:2007/09/04(火) 01:22:10 ID:34qQx2S6
おわかりにならないのなら、試しにトルコ語版の「トルコ語」の項目に例文として Patro Nia を掲載されてみればいいでしょう。ウィキペディアは誰でも編集可能ですから、今すぐどうですか? そしてトルコ語版ウィキペディアを編集しているトルコ人ウィキペディアンと議論されてみればいいでしょう。私と議論されるよりよっぽどよく分かると思いますよ。

それとそもそも Patro Nia はギリシャ語が原文でしょうし、ラテン語も正文として扱われていると思います(詳しい事は知りませんが)。その他の言語はすべて翻訳文である訳で、そんな翻訳文をその言語の例文(それも唯一の)として載せるというのも実に馬鹿げた事ではないですか?
各言語を代表するような優れた文学作品などから引用するのが一番ではないでしょうか?

8Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/04(火) 06:12:57 ID:VBtkMNoI
批判を受け付けないのがエスペラント運動家です。

9Kanva:2007/09/04(火) 09:00:58 ID:???
確かに「主の祈り」が使われていますね。

サンスクリット版新約聖書なら私も持っていますが、インド文化圏の
キリスト教は常にごく少数派でしたし、あらゆる言語の例文に「主の
祈り」を持ってくるのはいくら何でも。

10Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/04(火) 12:12:23 ID:VBtkMNoI
胡さん、papagenoさんに"エスペラントの思想"を講義してあげてください。
きっと納得されるでしょう(笑い

11胡人:2007/09/04(火) 17:39:10 ID:HEq7ExBA
掲示版上で読んだ限りでは、エスペラント版上での例文なら別に大した事がないように感じたのでそのまま書きましたが、すみません分からない事に、首を突っ込んだ私が馬鹿でした。

ウィキペディア自体を私は利用したことがないので、おっしゃる意味が分かりませんでした。

講義するほど良く知りませんが、エスペラントを使用しての交流は、なかなか楽しいものだということは私の感想です。またヨーロッパ人よりも、アジア人の方が感性が近いのか大変仲良くなりやすい感覚を持っています。その面でヨーロッパが本場的なエスペラントには反対です。
アジアにはアジア中心のエスペラントを根付かせねば国際補助語としての意味が無いと思っています。

Rakuさんのご意見が分からないのですが、Rakuさんは何かいや〜な実体験をされたのですか?私は貴方に笑われながら人に自分の意見を言いたくはありません。残念です。

12りょほう:2007/09/04(火) 22:08:05 ID:V9DqAYr2
「りょほう」と申します。
初心者ですが、エスペラント版ウィキペディアに参加しています。

この問題は私も聞いたことがあります。前に聞いたのは、昨年の4月頃だったかな・・・。

記事を書くほうの立場から考えると・・・
Patro Niaが例文として使われているのは、記事の執筆者が例文を訳すのめんどくさがって避けているからだと思います。つまり手抜きです。

言語の記事を創る場合、その言語を知っているならエスペラントのオリジナルで作れますが、そうでない場合がほとんどです。
ですからほとんどの人は他の言語(場合によっては自分の言語でない言語)からエスペラントに翻訳するわけで、オリジナルで作るよりすっごい手間がかかります。
だから、手を抜けるところは手を抜いちゃえ! → 例文を聖書からコピペしよう
って思うわけです。(私を含む)

英語版のように執筆者が沢山いれば、例文のクォリティにも注意がいくでしょう。
しかし、エスペラント版のように執筆者が限られる場合は、「記事があるだけマシ」と、あきらめてしまうことも多いのではないでしょうか。

例文に"Patro Nia"が使われていることに不満があるなら、ぜひエスペラント版ウィキペディアに参加してください。
そして、手間をかけて、「Patro Niaコピペ」をハイクォリティな例文に変えてください。

もちろん、参加してすぐ「"Patro Nia"を別の例文に変えよう!」なんてDisktejoに書くのはなしですよ。(なぜかは説明しなくてもわかると思いますが)

13papageno:2007/09/05(水) 01:43:55 ID:tj8RR/Wg
りょほうさん、こんにちは。私です、何年か前に Vikipedio でこの問題を取り上げたのは。こんな問題取り上げる人が2人もいる訳ありません(笑)。

適切な例文が無ければ無いでかまわないんじゃないでしょうか? 中立性に(エスペラント的にも、ウィキペディア的にも)問題のある文章を無理やり載せるよりは。
今ちょっと気まぐれにイタリア語版ウィキペディアを調べてみたら、「世界人権宣言」を共通の例文として掲載していました。まあこれも本当に必要かどうか疑問ですが、Patro Nia よりは中立性において問題がないでしょう。

私が問題にしているのは、言うまでもない事だと思うのですが、エスペランティストのあまりの意識の低さ、常識の無さなんですね。よりによって国民の99%がイスラム教徒であるトルコの言葉の例文にキリスト教の祈りの言葉を掲載するというような。
Vikipedio の「トルコ語」の項目の履歴を見てみましたが、2002年の4月20日に最初の書き込みがありますが、この時すでにPatro Niaが掲載されています。その後10人ぐらいの人が編集に関わっておりながら、誰も気付かないんですね。10人のエスペランティストが誰一人これが変だと思わないんですね。

それと同様に深刻なのが、「エスペラント」そのものの項目にPatro Niaが掲載されている事で、非クリスチャンの私からすれば「あ、そう、キリスト教徒だけで勝手にやってれば?」という気になってしまいます。「エスペラント」の方は当然「トルコ語」よりもはるかに多くのエスペランティストが関わっているでしょうに。
これが中立を標榜するエスペラントの実態で、これじゃあ普通の人は逃げますよ。逃げないのは語学マニアの人だけ?

14りょほう:2007/09/05(水) 21:54:40 ID:V9DqAYr2
> 私です、何年か前に Vikipedio でこの問題を取り上げたのは。こんな問題取り上げる人が2人もいる訳ありません(笑)。

もしかして、Cappuccinoさんですか? まちがってたらごめんなさい。

> 適切な例文が無ければ無いでかまわないんじゃないでしょうか? 中立性に(エスペラント的にも、ウィキペディア的にも)問題のある文章を無理やり載せるよりは。

私は多少問題があっても、無いよりはマシだと思う派です。「例文を別の中立なものに置き換えたい」っていうなら、できる限りpapagenoさんに協力しますが、「中立じゃないから削除」だったら、信条的に協力できません。


ところで、Cappuccinoさんの投稿記録を調べて見たんですけど、( http://eo.wikipedia.org/wiki/Speciala:Contributions/Cappuccino )
たしかに2006年4月に一度だけ掲示板(Disktejo)に"Patro Nia"の問題を取り上げておられますが、それっきりレスも返されていませんよね。11件もレスが付いています。中には世界人権宣言の例文を使うことに賛同してくれた人もいるのに・・・。
http://eo.wikipedia.org/w/index.php?title=Vikipedio:Diskutejo/Arkivo_2006_9&oldid=520521#.22Patro_Nia.22.3Bkiel_ekzemplo_de_lingvo

単に、エスペラントは中立でないってことを訴えることが目的なら、言い出しただけであとはレスを付けなくてもいいと思いますが、本気で変えたいならそれでは変えられないと思います。
次回もしDisktejoで取り上げるなら、賛成意見にしろ、反対意見にしろ、レスをつけるとうまくいくと思います。

15papageno:2007/09/05(水) 23:37:04 ID:GWR9Ucm.
りょほうさん、
そうです、Vikipedio では Cappuccino でしたし、他のところでは別のHNで書き込んだ事もあります。

ウィキペディアは誰でも書き替えられるのですから、私の意見が正しいと思った人がいたのなら、その人が書き替えればいいだけの事です。私と議論する必要はありません。
それと、ウィキペディアの根本的な方針として「中立的な観点」
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9
というものがあるのですから、「中立じゃないから削除」はウィキペディアにおいては当然ではないですか? 無いよりはマシというのはウィキペディア的にはおかしいのでは?

それにしてもイタリア語版ウィキペデアが「世界人権宣言」を例文として採用している事は、すでに Diskutejo に自分で書いていたんですね。今読み返してみて気付きました(笑)。

16Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/06(木) 06:35:22 ID:VBtkMNoI
Patro Niaを例文として載せてるのはエスペラント版だけですよ。
だからエスペランティスト界が批判されるのは当然なのです。
削除にはわたしも反対です。晒し続けるほうがいいのでしょう。

17papageno:2007/09/06(木) 17:19:23 ID:.vLUlMtk
Patro Nia に問題があるという事にエスペランティストが気付きにくいのは、Patro Nia がエスペランティストにとってあまりになじみ深いものだからでしょう。何しろエスペラントの最初の本 (Unua Libro) から掲載されていた訳ですから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Unua_Libro

それにしても、エスペラント版ウィキペディアを執筆している人の中には、他の言語版を執筆している人も多いでしょうに、他の言語版との整合性に誰も思い至らないのでしょうか? りょほうさんだって、まさか日本語版ウィキペディアの「日本語」の項目に「主の祈り」を掲載しようなんて思わないでしょう? だったらエスペラント版でも同じじゃないですか?
つまりこれはエスペラント界が閉ざされた社会で、外の世界との接触を持っていない事の現れではないかと私は思うのです。

18りょほう:2007/09/06(木) 22:57:34 ID:V9DqAYr2
>>15
>ウィキペディアは誰でも書き替えられるのですから、私の意見が正しいと思った人がいたのなら、その人が書き替えればいいだけの事です。私と議論する必要はありません。

そのとおりです。ウィキペディアは誰でも書き替えられます。
でも、エスペラント版ウィキペディアでは、「誰かがやってくれるだろう」なんて考えてほっといても、誰かがやってくれろとは限りません。
人手が足りないので・・・。(笑)
誰も書き換えてくれないかもしれません。

「中立的な観点」を後ろ盾にして、"Patro Nia"を置き換えようとするのはお勧めしません。
この文章は大雑把にいえば、「事実の記述」を対象としています。
今回の場合、他の言語を「説明」するために、「例」として"patro nia"を使っているだけです。
説明する記述が偏っているわけではありません。

それより、もっといいものがあります。それは「ヨーロッパ中心にならないように」です。
http://eo.wikipedia.org/wiki/Vikipedio:Evitendaj_e%C5%ADropcentrismoj
ヨーロッパ人が読むことを前提とした説明の仕方を避けるための方針です。

>>17
>りょほうさんだって、まさか日本語版ウィキペディアの「日本語」の項目に「主の祈り」を掲載しようなんて思わないでしょう? だったらエスペラント版でも同じじゃないですか?

日本語版ウィキペディアの「日本語」の項目に「主の祈り」を掲載しようとは思いませんが、papagenoさんとは違う理由です。

そもそも、「主の祈り」は外国語を説明するときに、「比較文」として使われています。
日本語版ウィキペディアは、日本語を理解することができるウィキペディアンを対象としていますから、「主の祈り」のような例文は必要ありません。
日本語の例として中立的な「世界人権宣言」が「日本語」の項目にあっても、やっぱりおかしいわけです。
文法を説明するための例文は別に必要ですが。

その意味では、エスペラント版ウィキペディアの「エスペラント」の項目に「主の祈り」があるのはおかしいかもれません。(書きながら思ってしまった)
エスペラントの「比較文」が必要なら、自国語のウィキペディアの「エスペラント」の項目で読めばいいわけですから。

19Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/06(木) 23:30:38 ID:VBtkMNoI
エスペラント関係の項目以外にはエスペラント版ウィキペディアの
価値は皆無です。つまりオナニーなんです。オナニーは無害ですが、
公衆の面前ではやってはいけません。

20Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/07(金) 12:09:11 ID:VBtkMNoI
訂正します。エスペラント関係の項目も無価値です。他の言語で書くべきです。

21胡人:2007/09/08(土) 03:50:57 ID:sOJfWv/o
りょほうさんのご意見に賛成です。
視野を広くもって活用したいものです。

Rakuさんは結局エスペラントが嫌いなだけのようですね(笑)

22Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/08(土) 15:39:02 ID:VBtkMNoI
わたしは胡人さんのようには英語が堪能じゃないので
エスペラントはかけがえのないものです。"好き"でエス運動をやってる人とは
つきあいきれません。

23松戸彩苑:2007/09/13(木) 00:07:57 ID:wB9UW7EA
久しぶりに、りょほうさんと Kanva さんが来てくださってますね。

24papageno:2007/09/17(月) 20:09:58 ID:Gtmd1eS2
いまVikipedioを見てみたら、どなたかいくつかの言語の項目からPatro Niaを削除していましたね。呼びかけた甲斐があります。
ただ私には削除の理由はヨーロッパ中心主義(eŭropcentrismo)よりも,キリスト教中心主義(kristanism-centrismo?, krist-centrismo?)のほうが正確だとは思いますが。ヨーロッパ=キリスト教、キリスト教=ヨーロッパではないですからね。
これはやはり「中立的な観点」の問題だと思います。残念ながらエスペラント版にはありませんが、英語版「中立的な観点」には、「宗教的なバイアスがかからないように」と明示されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:Neutral_point_of_view#Bias

25りょほう:2007/09/18(火) 22:08:49 ID:V9DqAYr2
>どなたかいくつかの言語の項目からPatro Niaを削除していましたね。

削除したのは、IP投稿者220.208.78.237さんです。
投稿記録はこちら
http://eo.wikipedia.org/wiki/Speciala:Contributions/220.208.78.237

26Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/09/18(火) 22:49:03 ID:VBtkMNoI
>>25
元に戻されますか?

27りょほう:2007/09/19(水) 21:41:50 ID:V9DqAYr2
>>26
Patro Niaの削除に関して、今のところ特に問題になっている様ではないので何もしません。

28littorio:2007/10/31(水) 20:34:44
確認して置きたいんですが。
これが「クルアーン」や「リグ・ヴェーダ」や
「般若心経」や「共産党宣言」でもpapagenoさんは抗議されましたか?

29papageno:2007/10/31(水) 23:14:39
非常に複雑な問題です。まずはこれがVikipedioだからという事があります。Vikipedioは公共のものです。また中立性はウィキペデイアの根本理念です。ここに各言語の比較の例文として、特定の宗教の文章を使うのは、中立性に反するのは言うまでもないと思います。だからそれがもし「クルアーン(コーラン)」や「リグ・ヴェーダ」や「般若心経」や「共産党宣言」でも当然反対するでしょう。

私が Patro Nia を各言語の比較に使うのを最初に見たのは、二木紘三著「国際語の歴史と思想」ででした。まあその次がVikipedioだった訳ですが、でも私は二木紘三さんに抗議しようなどとは思いません。個人の著作だからです。それにすでに20年以上も前の本だからです。でももしこれから新しく出る国際語に関する本にもしPatro Nia が比較として使われていたら、おい、いい加減にしろよ、と著者に言うかも知れません。

注意して欲しいのは、あくまで「各言語の比較のための例文として」特定の宗教や思想の文章を使う事に反対しているのであって、アラビア語の例文として「クルアーン」からの引用があっても、構わないと思います。

それと>>7にも書いた事ですが、Patro Nia は新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節からの引用であり、つまりギリシャ語が原文であり、その(オリジナルでない)翻訳文を各言語の例文として載せるというのもどうかしていると思います。たとえば夏目漱石の「吾輩は猫である」の英訳文をウィキペディアの英語の項目の例文として載せる事を考えてみて下さい。

だから私はフランス語版ウィキペディアやイタリア語版ウィキペディアが比較の例文として世界人権宣言を掲載している事にも違和感を覚えますが(たとえばここ)、
http://fr.wikipedia.org/wiki/Japonais
そこまでうるさいことを言う気はありません。私の関心はあくまでエスペラント、あるいはエスペラント版ウィキペディアであって、私は世界のエスペランティストの頭が19世紀のままだという事に驚きあきれ果てて、疑問を呈しているというのが基本です。

ところで実はちょうど先日VikipedioのEsperantoの項目からPatro Niaを削除したところです。今の所何の反応もないですが、、、
http://eo.wikipedia.org/wiki/Esperanto

30littorio:2007/11/01(木) 20:20:16
Dankon!
お返事ありがとうございました。
宗教・文化的に中立で、ある程度の読み応えのある例文というのは
なかなか難しいですね。

31papageno:2007/11/02(金) 12:49:09
Patro Nia に戻されていました。議論するのもしんどいので、とりあえず「星の王子さま」の冒頭部分に置き換えておきましたけど。
http://eo.wikipedia.org/wiki/Esperanto
まあ何かエスペラントのオリジナル作品でいいのがあればそれが一番だと思いますけど。

そもそもなんで各言語の項目に「共通の例文」が必要なんですかね? その発想自体が帝国主義的、植民地主義的だと私は思うのです。

32papageno:2007/11/03(土) 16:02:07
また戻されていました。仕方ないので一応diskutoにコメントした上で、ザメンホフの詩"Mia Penso"に置き換えておきました。

それにしても21世紀になった今もキリスト教の植民地主義、帝国主義と戦わなくちゃならんとは。しかもその相手はほかならぬエスペランティストですよ。いやになっちゃう。

33松戸彩苑:2007/11/03(土) 17:57:56
>>32
エスペラント運動というのは、しょせんは素人が仕事のあいまにやってるようなものですの
で、あまり多くを期待されてもね、というのが正直なところです。

しかし、エスペランティストのほうにしても、自分が素人であることを忘れて「自分は、理念
を追求する運動の最先端にいるんだ」みたいなカン違いをしている人が多いんですよね。
まったく見苦しいとしか言いようがありません。

そもそも、そんなにいろんなことに長じることは不可能なんですから、「エスペラントが使え
る人を増やす」ということに集中すれば良いのにと思うんですがね。

34littorio:2007/11/04(日) 14:31:12
>papagenoさん
多分向こうの人は「また反キリスト教の連中が因縁つけてきた」と思って
かたくなになってしまったのではないでしょうか?
問題は「思想的中立性」であって、
これが「共産党宣言」でも「クルアーン」でも同じように反対するということを
はっきりと言明しておいた方がいいと思います。

35papageno:2007/11/04(日) 22:31:44
「また反キリスト教の連中が因縁つけてきた」って、これまでにもそのような連中が因縁をつけて来た事があったのでしょうか?

ともかく、私としては中立とか平等とか目指しているはずのエスペランティストが、無意識であろうと平気でPatro Niaだとかいう文化的に中立でないものを載せておいてその事に気付いてない事に愕然としている訳です。何度も言いますが、ウィキペディアでこんなもの載せているのはわずかな例外を除いて、エスペラント版だけですからね。

まあ結局、エスペラントは所詮ヨーロッパ語であり、ヨーロッパ文化の一つであり、本当に言語的な中立とか対等とか平等とかを目指すならば、翻訳機しか無いという考えに行き着く訳ですけどね。

36Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/05(月) 07:12:19
日本語の項目では文語のpatro niaが載ってますね。日本語版ウィキペディアはも
ちろん口語で書かれています。日本語を知らないエスペランティスト(つまりエス
ペランティストの圧倒的大多数)は、patro niaが標準日本語で且つウィキペディア
日本語版の言語だと思い込むでしょう。このように言語に無知鈍感な人が国際語運
動やら百科辞典編集やらをやっているのです。
やってるのです。

37papageno:2007/11/05(月) 18:45:49
>>36なるほど、言われてみれば確かに文語ですよね。あ、でもすでに削除されてますよ。削除前の版はこちら。
http://eo.wikipedia.org/w/index.php?title=Japana_lingvo&oldid=1308283

>>7>>29>>31にも書きましたが、そもそも共通の例文なんて必要ないと思います。どの言語にもその言語を代表するようないい文章があると思います。それを載せればいいんであって、その言語らしからぬ翻訳文を載せる必要はないんです。
そう言う共通する「唯一の」例文という発想は、「唯一の」共通語という発想と同じで、その発想自体が帝国主義的だと私は思います。

38papageno:2007/11/14(水) 01:36:56
幸い、ザメンホフの詩 Mia Penso にして以来、Patro Nia に戻されてはいません。
http://eo.wikipedia.org/wiki/Esperanto

Patro Niaであれ世界人権宣言であれ、「唯一の共通例文」なんて、「唯一の世界共通語」と同じ発想で、時代錯誤なんでしょうね。Patro Niaであれ世界人権宣言であれ、近い言語(エスペラントとイドとか、フランス語とイタリア語など)を比較する場合には役に立ちますが、遠い言語(エスペラントと日本語など)の場合には何の役にも立ちません。

Ptro Nia

(エスペラント訳)
Patro nia, kiu estas en la ĉielo,
sanktigata estu via nomo.
Venu via regno,
fariĝu via volo,
kiel en la ĉielo, tiel ankaŭ sur la tero.
Nian panon ĉiutagan donu al ni hodiaŭ.
Kaj pardonu al ni niajn ŝuldojn,
kiel ankaŭ ni pardonas al niaj ŝuldantoj.
Kaj ne konduku nin en tenton,
sed liberigu nin de la malbono.
(Ĉar via estas la regno kaj la potenco
kaj la gloro eterne.)
Amen.

(イド訳)
Patro nia, qua esas en la cielo,
tua nomo santigesez;
tua regno advenez;
tua volo facesez
quale en la cielo tale anke sur la tero.
Donez a ni cadie l'omnidiala pano,
e pardonez a ni nia ofensi,
quale anke ni pardonas a nia ofensanti,
e ne duktez ni aden la tento,
ma liberigez ni del malajo.
Amen.

(日本語訳)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン

一体このエスペラント訳と日本語訳とを並べて何になるというのでしょう? 一体何を「比較する」というのでしょうか? わかるのは全く違う言語だという事だけです。エスペラント訳とイド訳なら、なるほどĉieloがcieloで、sanktigataがsantigesezになる訳ね、まったく同じなのもあるなあ、などと大いに役立つ訳ですが。

39Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/18(日) 19:30:59
papagenoさんのエス版ブログに外国人のコメントがたくさん付いてますよ。
ここからリンクすることを許していただけないのが残念ですが、皆さん
どうか探し当てて読んでください。面白いですよ。

40papageno:2007/11/18(日) 20:37:16
>>39
日本語版のブログに対して、こちらはあまり大々的に宣伝したくないんです。でも「エスペラント語への疑問」のブックマーク一覧の最後に一応載せてあります。正直なところ、エスペラント文を書くのには相当の時間がかかってしまうので、ほとんどコメントに対する返事を書けないでいますが。

41なつ:2007/12/16(日) 05:56:17
UKでは教会で礼拝するのが恒例だそうですね。


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