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Vikipedio の Patro Nia

29papageno:2007/10/31(水) 23:14:39
非常に複雑な問題です。まずはこれがVikipedioだからという事があります。Vikipedioは公共のものです。また中立性はウィキペデイアの根本理念です。ここに各言語の比較の例文として、特定の宗教の文章を使うのは、中立性に反するのは言うまでもないと思います。だからそれがもし「クルアーン(コーラン)」や「リグ・ヴェーダ」や「般若心経」や「共産党宣言」でも当然反対するでしょう。

私が Patro Nia を各言語の比較に使うのを最初に見たのは、二木紘三著「国際語の歴史と思想」ででした。まあその次がVikipedioだった訳ですが、でも私は二木紘三さんに抗議しようなどとは思いません。個人の著作だからです。それにすでに20年以上も前の本だからです。でももしこれから新しく出る国際語に関する本にもしPatro Nia が比較として使われていたら、おい、いい加減にしろよ、と著者に言うかも知れません。

注意して欲しいのは、あくまで「各言語の比較のための例文として」特定の宗教や思想の文章を使う事に反対しているのであって、アラビア語の例文として「クルアーン」からの引用があっても、構わないと思います。

それと>>7にも書いた事ですが、Patro Nia は新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節からの引用であり、つまりギリシャ語が原文であり、その(オリジナルでない)翻訳文を各言語の例文として載せるというのもどうかしていると思います。たとえば夏目漱石の「吾輩は猫である」の英訳文をウィキペディアの英語の項目の例文として載せる事を考えてみて下さい。

だから私はフランス語版ウィキペディアやイタリア語版ウィキペディアが比較の例文として世界人権宣言を掲載している事にも違和感を覚えますが(たとえばここ)、
http://fr.wikipedia.org/wiki/Japonais
そこまでうるさいことを言う気はありません。私の関心はあくまでエスペラント、あるいはエスペラント版ウィキペディアであって、私は世界のエスペランティストの頭が19世紀のままだという事に驚きあきれ果てて、疑問を呈しているというのが基本です。

ところで実はちょうど先日VikipedioのEsperantoの項目からPatro Niaを削除したところです。今の所何の反応もないですが、、、
http://eo.wikipedia.org/wiki/Esperanto


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