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エスペラントの学習法

57松戸彩苑:2008/02/09(土) 17:29:18
>>56 の続き)

  万博が終わり、その年の秋にアメリカというのは一体どんな国なのか見に行ってやれと
  いうことで渡米しました。飛行機を降りたその直後から全然英語が通じなくてひと苦労。
  空港のインフォメーションへ行って「日本に電報を打ちたいのだが」と言ってもうまくいか
  ないのです。結局、電報は打てませんでした。とにかく相手のしゃべるスピードがものす
  ごく速くて分からなかったのです。

  私の万博でのボスの英語がなぜ分かったかというと、それはボスが日本人の英語力と
  はこんなものだとちゃんと知っていて、ゆっくり、やさしい単語で言ってくれたからです。
  ところがアメリカに行けば、地元の人々はお構いなしに普通のスピードでしゃべるもので
  すから、私はついてゆけなかったのです。「日本から来たばかりだからゆっくりしゃべって
  くれ」と言っても、ものの1分もたたないうちに元のスピードでペラペラしゃべっているので
  す。私はただ Thank you … といってニコッと笑い退散するほかはありませんでした。

  こうして第1回の渡米は大変な苦労を味わって終わったのでした。

  松本亨という先生の本に触発されたのはそれより少し前の万博期間中でした。先生の
  著書『英語と私』が私の人生を大きく変えることになりました。松本先生のお名前は耳に
  していましたが、まさか自分の人生を変える人になろうとは夢にも思っていなかったので
  す。この一冊の本を読み、先生に実際にお会いし、「自分は英語の教師になろう」と思い
  立ったのです。そして、東京へ行くことにしたのでした。

  東京へは1972年に出て、松本先生を中心とした英語学校のスタッフとして加わったの
  ですが、先生方のいざこざがあったりして、結局そこをやめてしまいました。何だかんだ
  しているうちに、水産庁の巡視船で通訳として働くことになり、アメリカやカナダの沿岸
  へ3ヵ月ほど出かけることになりました。当時は200カイリの問題などがあって水産庁で
  も通訳を必要としていたようです。

  船を下りて、神田外語学院の教師として働き始め、以後20年近く講師を続けています。

  英語は英語でという研究も続け、特に発音などの克服法も試行錯誤をくり返しながらマ
  スターしたのでした。

  (同書174〜181ページ)

(終わり)


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