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聖書よまねえクリスチャンなんているの?Ⅱ
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どうも、聖書を読まないほうがよいと結論が出たようですね。
続けて、ご記入ください。
キリスト教の妨害に負けないでください。
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「キリスト教会も人間が作ったもの、間違いはある」と、悪びれず言う始末となっている。
それでも宗教者なのですか?・・と、怒りがわく。
あまりにも、多くの女性の方々の命が、亡くなっているのである。
この方たちへの思いやりの「ひとかけら」もない。
キリスト教は、この様な宗教なのだ。
きれい事は言っているが・・、
キリスト教が・・家族へ言う、「体の中の悪魔を火によって追い出すのだ」・・と、非科学的極まりない・・
この非科学的なやり方 極まりもないものを、キリスト教は、逆に、「慈悲深い科学的方法だ」と言う。
非科学的なところが、次々と出て来る宗教が、何をかいわんやである。本当に怒りが涌く。
今・現代でも、キリスト教は、悔い改めていない。
キリスト教は、処刑を「見せしめ」にもするという非人道的なやり方をした。
そして、薪の代金までの一切合財(いっさいがっさい)を被害者家族に請求した。
そして、キリスト教は、この非人道的行為を、日本の徳川幕府もしたと、自分の極悪行為を棚に上げて、徳川幕府になすりつける事をする。
日本は焚刑ではないのに、キリスト教は同じだと嘘を言う。
また、日本の場合、本人でなくても、本人以外の人、家族とか知り合いでも・・「止めた」と「ひとこと」言えば許された。(つづく)
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徳川幕府は、穏便に事をおさめたかった。
踏み絵にしても、キリスト教は、ひたすら・・仕切りに厳しくプロパガンダ(嘘宣伝)するが・・、事実は違った。
そして、刑場の柵も・・一部が開けてあり・・、逃げたい者は・・逃げられる様にしていた。
あまりにも・・キリスト教が、ヨーロッパでやった事が酷(ひど)いので、
また、キリスト教の嘘宣伝もあり、同じ様な事が、日本でもなされたのだと・・錯覚され・・誤解されているが、
日本人のやった事は・・穏やかだったのだ。
人数も、ヨーロッパに比較にならないくらいの少人数だ。
期間も、1650年までの・・ほんの徳川時代の初期だけの事だった。
これもキリスト教は嘘ばかり言う・・、
ヨーロッパ中の空が・・魔女を焼く煙で・・けむったと・・言われているぐらいであるのに・・、日本は、その様なひどい事はまったくと言っていいほど・・していない。
キリスト教は、ひたすら酷(ひど)く・・日本の事を言う・・、子供まで焼いたと言う。
これは嘘である・・逆である。
キリスト教は・・「殉教だ」、「殉教だ」と殉教を美化して・・キリスト教徒の方々を洗脳した。
その為、子供連れで出頭して来る人も現れるという状態だった。
キリスト教は、本当に嘘ばかり言う。(つづく)
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キリスト教の魔女裁判での殺戮は、約300年にも及ぶという長い期間・・執拗(しつよう)に、陰湿に行なったが、
そして、キリスト教は、日本でも、明治になって禁教令で解かれるまで、日本でも行われたというが・・、これも真っ赤なウソ、
ほんの徳川時代初期の・・一時期だけなのである。
キリスト教は、助産婦の方々もターゲットにした。
キリスト教の財源であった医療関係の競争相手であった助産婦の方々を・・この魔女で、殺戮した。
当時、医療技術が端緒に付いた頃で・・、キリスト教は財源と権威を求めて、この大学の医療と関係を持った。
その時、この助産婦の方々が邪魔となった・・、
当時、ヨーロッパの助産婦の方々は、家庭医の役もしており、薬草学にも秀でており、この助産婦の方々が、夜、薬草を煎じる姿が・・魔女とされた。
西洋には、東洋の漢方の様な薬草学のノウハウがあった。
しかし、キリスト教のこの弾圧で、西洋の薬草学は滅びた。大きな人類の損失である。
キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の代弁者の如く、殉教の酷い日本だの嘘放送を、繰り返しした。
このNHKの放送も、真の姿を捻じ曲げて、日本の方々に印象付け、NHKが、嘘の原因者となっている。
公正ではない、キリスト教に偏するNHKである。
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(参考)かい‐ちょく【回勅】 ローマ‐カトリック教会で、教皇が全教会の司教または信者にあてて、教会全体の重要問題について書き送るラテン語の手紙。回章。
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(詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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キリスト教徒がどうしたこうしたと言っているが
それはキリスト教徒の仮面をかぶったサタンの仕業だ
東大生が悪い事をしたからと言って東大当局は何の罪もないだろう?
いずれにしろキリスト教徒を名乗る
サタンが悪い事をしたからといってキリストに何の責任があるんだ?
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@仏教徒は戦国時代、なぜ殺し合いをしたのか?
A現代のイスラム国は、なぜ他の教派の国に戦いを挑んだのか?
B過去の共産党は、なぜ静粛をしたのか?
C赤いクメールルージュは、なぜ国内の知識層を多数殺害したのか?
Dロシアは、何故ウクライナに手を出すのか?
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キリスト教だけはやっちゃだめだよ 人生ぐちゃぐちゃにされるよ 被害者がかなり多い
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キリスト教は詐欺宗教 人格までめちゃくちゃにしておかしくされる この宗教に騙されたら終わりだ
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題:今、キリスト教は、新たな宗教弾圧者に、なろうとしている。
(長崎のキリスト教関連の世界遺産登録は、嘘を作ろうとしている)
...(真を求めて 皆様ととともに幸せになりたい)
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日本人は、本当に、温厚な民族だ・・、
その1例・・、
キリスト教の日本の禁教の歴史の中で・・、
江戸幕府は、そう厳しい取り締まりをした訳では無かった。
それが、ヨーロッパ社会と同じ様な取り締まりが、日本で行なわれたと・・錯覚されている・・錯覚させられている。
この主な原因者は、キリスト教とNHKである。
この錯覚があるとキリスト教には都合がいいのである。
厳しい取り締まりのあった中を、信仰を守ったとしたいのである。
キリスト教は、その様な嘘宣伝・プロパガンダを盛んにしている。
また、キリスト教の偏するNHKも、ひたすら「キリスト教は、虐(しいた)げられた」という嘘番組を放送し続けている。
キリスト教禁教例以後、1600年代の半ば以降、徳川時代のごく初期から、事実上、徳川幕府は、キリスト教取り締まりからノータッチとなった。(つづく)
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そして、幕府の『信仰の黙認』もなされている。
研究論文に、「17世紀半ば以降は、信仰が事実上黙認されていた」とある。
この事実を知らないNHKは、キリスト教が弾圧を受け続いたと放送し、明治になってキリスト教が自由になったという歴史観で、間違った歴史観で、キリスト教に偏する放送をし続けている。
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録申請も、この歴史観から申請しようとしている。間違いである。
その申請主旨の、「弾圧の中、信仰を忘れず、カトリックに復帰した」というのは嘘である。はっきりした嘘であり、デッチアゲである。
2016年の世界遺産登録を目指すと言うが、嘘・デッチアゲで登録を目指すというのは恥ずかしくないのか?と言いたい。
長崎県平戸市生月島(いきつきしま)の方々が、明治に信仰が認められた時でも、カトリックにはならなかった。
それは、信徒の長老の言葉でその理由が分かる・・、
「(カトリックの人から)一緒にならんかと言われたが、元は同じでも拝み方が違う。先祖の教えは絶やせない」・・である。
もう、今の状態は、キリスト教から程遠い、仏教や神道などと習合して、キリスト教とは別の、キリスト教と異質な宗教に・・変容しているのである。
キリスト教だって、節操無く色々な宗教と習合し、また集合するという・・習合のごちゃまぜの宗教であるということを忘れないで戴きたい。天使だって、他の宗教からの拝借品、借り物・・、その他にも、たくさんあります。
この九州の長崎県平戸市生月島の方々の宗教は、キリスト教では、「最早(もはや)、ない」のである。
このキリスト教と別な宗教に変容した宗教も尊重して差し上げなければならない。
それを、キリスト教は必死に戻そうとしているが、新たな『宗教の改宗の弾圧になる』ということを、キリスト教は知らねばならない、悟(さと)らねばならない。
今、キリスト教は、新たな『宗教弾圧者』に、なろうとしている。世界遺産登録は無理である。
.. (詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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題:本当に聞けるなら・・キリスト教の神から聞いて、知ってて下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教の神の下に・・キリスト教聖職者が居る・・、
キリスト教の聖職者は、お手盛りで、その地位を、立場を・・作っている。
そして、キリスト教聖職者の下に置かれた「キリスト教の信徒」の方々・・、
その信徒の方々へ、キリスト教聖職者が、キリスト教の神の意思を伝えるという組織・序列・ヒエラルキーが、キリスト教の立場の・・関係図・・、
そして、キリスト教の神は、何でも知っていて、何でもできる・・としている。
だから逆に・・人間は、何にもできないし、そんな状態ではないのだと・・、キリスト教はしている。
因(ちな)みに、キリスト教聖職者は人間で、半分、神だとかではなく、やはり人間で、何にも知らないし、何もできないという人間で、その範囲では、信徒と同じ類いとしている・・
その様な立場の・・キリスト教聖職者が言う・・何でも知っている神の様に・・、
「人間は、キリスト教の神の様に無から有を生み出すことはできない」・・と・・、
そして、キリスト教聖職者は、色々と神の代弁者だとして、話す・・が・・、
神の代弁者として・・話すが(神の下に居る者だとして)・・、だが・・、
結局は、人間として知り得たこと・・のみ・・を・・、
人間として・・感覚で感じたことを・・その人間として得たことを材料にして話すという・・人間の類い・・となっている。
そして、この人間として感じたこと、このキリスト教聖職者は、自分の五感で感じられた事が『正しい」として、古代にキリスト教が出来た時には無かった、この今・現代のキリスト教聖職者の独自の、また、現代に生きている事によって知り得た知識も神のものとして、自分で作って出来た自分のキリスト教を宣(のたまう)。
「人間は無から有は創り出せない」・・と・・、
ならば・・、その「無」なのだが・・、(つづく)
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まず、「無」の世界は・・存在しないと現代科学は示唆する・・のです。
人間の・・キリスト教聖職者は、その様に感じて、神の代弁者だ・・神の意志だ・・として、そう言うが・・、
1例として、物質を例にすると・・、
今、最先端の現代科学は・・、人間に認識できる物質は、何と・・3割なのだと言う。
人間の・・キリスト教の聖職者の方々は、その様な事を、キリスト教の神から聞いていましたか? 聞いていなかったでしょう・・、驚かれたでしょうと、言いたい・・です
実に、7割という多くの物質が、このキリスト教聖職者も含めて・・認識できないのです。
キリスト教聖職者は感覚で思ったことを言いますが、人間は、物質に取り囲まれて、その物質のすべてが認識できて居ると思って居るのは・・錯覚なのです。
「ない」と思っているものが・・「ある」のです。
無だ、有だ・・というのは、言葉の遊びになっているのです・・、
『認識できない世界』の・・物質だけでもこの始末、
すべて分かった様な口を聞くキリスト教聖職者という図となっています。
この様な、狭い領域だけでも、分かった様な事を言って、キリスト教徒の方々を繰(く)る操(あやつ)るキリスト教聖職者・・
まったく無責任、極(きわ)まる結果になっていると思います。
こんなキリスト教聖職者に繰られていて、幸せになれるはずはありません。
物質だけの「有る」という話と、「ない」という話でもこの様なことなのです。
物質以外の話に至ると、神の代弁者のキリスト教聖職者の方々は何も知らないと言えてしまうことになります。
本当に聞けるなら・・キリスト教の神から何でも聞いて、知っていて戴きたいと・・思います。
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題:人間が・・神になってしまうのです・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教聖職者・・、神学部しか出てないから、何にも知らないのです。
そのキリスト教聖職者が・・言う・・、
「キリスト教聖書で言っている様に、キリスト教の神が、人間を創ったという創造主と・・被造物という人間との・・、神と人間との間に『上下関係』がある」・・と。
また、聖職者が・・言う、
「キリスト教の神は、人間に、『自然を従えよ』と言った。ここに、人間と自然の間に『上下関係』がある」と。
そしてまた、キリスト教の聖職者が・・言う、
「キリスト教は、神・人間・自然を・・、『上下関係』として捉(とら)えています」・・と。
そして、「『創られたもの』としての人間は、決して、『創ったもの』になることは出来ないのです」・・と。
ここで、はっきりしたいのが・・「自然」である。
このキリスト教の神の言う『自然』は・・、「地球の自然を言っているからである」。
当然、地球外のものも自然なのだが・・、
地球以外のものも・・自然だとして捉えると、キリスト教によくある「矛盾」が生じるのである。
つまり、『宇宙すべての自然を従える人間』となってしまう。
宇宙すべての自然を従える人間となると・・、
「人間が・・神になってしまう」。
キリスト教の神は、『人間は神になれない』と言っている。
ここに・・矛盾が「発生している」。(つづく)
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キリスト教は、「キリスト教の神が、宇宙を創造した」と言うが・・、しかし、しかし、なのである。
そのキリスト教の教義は、地球の中で成り立つ思考の教義となっている。
その自然が・・、人間が従えるその自然が・・、
宇宙のすべてを含んだ自然だと考えると・・、
その自然たる宇宙を従えた人間は、キリスト教の神と『同一の神』となってしまう。
この様な矛盾は、キリスト教には一杯あるが・・、これは、『基本中の基本』の大問題である。
キリスト教の神が言っている事は、この様な事になっているのである。
現代の科学は言う、「太陽は、膨張しています」・・と。
その時まで、人類は存続できないのだが・・、例え・・、キリスト教が言うように、人類が・・存続できたとしても・・、
人間は・・地球もろとも太陽に飲み込まれ・・吸い込まれ・・、
人間が、『宇宙全体の自然を、従えるような事など、到底(とうてい)、出来ない』のである。
明らかに、キリスト教の教義・考え方は、『間違っている』のである。間違った考え方で、正しい判断なんて、できないのである。そうだと不幸が訪れてしまいます。
そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
「人間は、徹底的に、人間でしかあり得ないのである」・・と。
「だから、そこに、キリスト教は、人間の平等を説いている」・・と。
この言い方は、拡大解釈、極まりない言い方である。
キリスト教は、序列、極まりない宗教である。
神の下に・・聖職者を置き、頂点にいる神の意志を、その下の聖職者が聞き、その聖職者の下にいるキリスト教の信徒へ、上意下達するのだというキリスト教の考え方・教義、キリスト教のヒエラルキーの序列の世界・・、
その聖職者だって・・身分、階級が・・細かく上下関係がなされていて・・、中には足の引っ張り合いをしていて、エルサレムでは聖職者が乱闘している。
また、天使だって「大天使だ」、何々天使だと序列だらけ。(つづく)
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キリスト教は、何処にも、平等や平等観なんて無い宗教。
序列の宗教、階級の宗教なのだ。有色人種は、劣等だと年がら年中、言っていた宗教。
話を捻じ曲げ、作り出して嘘を言う聖職者たち。
そんな姿の中で・・宗教が成り立っている。
そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
「神に支配されているという意識を持つと、人間が、人間を支配しようという考え・意識はなくなる」・・と。
これは自分に都合のよい話へ、合理性なく、論理性なく、引き込んでいる。
これはまた、キリスト教聖職者の序列の一つを見たって・・おかしいと思う。
キリスト教の神を説くキリスト教の聖職者の世界が、何故、あの様な序列・ヒエラルキーの世界になって居るのか?
また、神の使いの天使の世界も・・序列だらけだが、こんな事は言えたもんではない。
キリスト教の神は、隣国の富を奪いに攻め込ませて・・、
「奴隷にせよ」「奴隷にせよ」と叫ぶ、
キリスト教の神が率先して、人間を、人間以下にする「奴隷にしろ」と言っているではないか? 差別しているではないか?
キリスト教の神が、率先して、人間を人間以下にする卑劣な事をしているではないか? 差別観を植え付けているではないか?
キリスト教は言う、「神の人間支配は良いが、人間が人間を支配すると、危険をまき起こし不幸になる」・・と。(つづく)
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そして、キリスト教は、この事例として「ヒットラーやムッソリーニや日本の戦時体制」を言う。
これは、第二次大戦の不幸な時代をわざわざ持ち出して、キリスト教の神を美化しているに過ぎない。
この様な不幸な人間関係の時もあったろうが・・、キリスト教の例にした事例が悪いだけ、不幸な人間関係は一杯ある。ドイツのヒットラーは、キリスト教に被(かぶ)れて、ユダヤの方々に大変酷(むご)いことをした。
キリスト教の論理展開は、何か素直ではない。
ひねくれた論理展開だ。
ただ、キリスト教の神を、美化したい論理へ持ち込みたいだけだとしか見えない。
お母さんが、愛情溢れた目で見て、子供を導く姿は、微笑(ほほえ)ましい姿に見えます。
導く、そして、導かれるという関係です。
時には、厳しく言う時もあるでしょう。
キリスト教の仕方はこれでない、そして、見方は、短絡的で狭いです。
キリスト教は、どうしても、論理が正しく正常に組み立てられない宗教。どうしようもない宗教。
そして、直しようもない宗教です、関(かか)わってて、このどうしようもないところに陥(おちい)って、
解決しない・・どうしようもない・・この事に、あなたの大切なものが、失われていくことになります。
あなた方を救い出したいので、この様な事を書かせて戴きました。
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題:人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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大学の神学部という、だれでも入れる学部の話ではないですが・・・
キリスト教の生まれた地・砂漠は・・、
動物の死体は、骨だけになって残る・・、
そしてまた、
僅(わず)かにあっただろう草木は・・枯れ、
そして、風に吹かれ、
砂漠の砂と共に・・何処かに・・吹かれ、
砂漠の砂と共に・・何処かへ・・、
消えていく・・、
痕跡もない・・、跡かたもない。
そこへ行くと・・、
朽ちて倒れた草木が・・、また、草木に限らず動物も、
朽ちても土に還(かえ)り・・、
また、新しい芽吹きを得る。
新しい命の誕生が、そこここに・・見られる。
新しい命の芽吹き、新しい命の復活が・・、
そこここに・・見られる。(つづく)
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これが宗教観の違いに・・大きく関(かか)わる。
豊かな・・そこここの・・新しい命の芽吹きに・・、
新しい命の誕生に・・感謝する。
豊かな自然の営みに、命の誕生の神秘と・・力に、
そこここの神や仏のおわします姿に感謝し、礼拝する。
その様な地に・・生まれ・・そして、育まれたのが仏教・・、
そして・・、
佛教の本を読むと、
本当に・・実に数多くの人々が「釈尊の所へ、教えを乞おうと、はせ参じ、仏法の教えに接し、そして・・、
真理を会得して、そのまま釈尊に帰依した」という記述が・・、
実に多い・・。
キリスト教のイエスにおいて、その様な話は、一つもない。
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そして、次の話。
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キリスト教聖職者の司祭の森一弘氏は・・、
修道会に入って一生懸命努力して居ても、壁の存在を常に感じていたと言う。(つづく)
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無味乾燥な感じもし、悶々(もんもん)としていたと言う。
キリスト教徒で・・『頑張るな』と言っている鎌田實氏なら、
ここで「そんなに頑張るなよ」って言うだろうが・・、
(実は、鎌田實氏は、非常に頑張って『頑張るな』とあちこちで言っている、テレビやラジオの出演や、雑誌などマスコミに頑張って多く関わっている、また、この鎌田氏の出演活動などを支えているのは、鎌田氏のスタッフの方々が、鎌田氏が不在でも、頑張って支えて居られるからなのだ。何しろ、頑張って社会に貢献することが、大切なのだ)
また、『頑張るな』のキャンペーンをするキリスト教も「そんなに頑張るな」って、頑張る森氏へ言うだろうが・・、
そして、森氏は、イエスではなく「マリアの夢」を見て何かふっ切れたと言う。
イエスでなくて良いのかどうか? 分からないが、
また、三位一体の神でなくて、いいのかどうか? 分からないが・・、
森氏は、ここで、神に委(ゆだ)ねて、生きようと思ったと言う。
マザーテレサさんは、正直な人で、死ぬまで、とうとう『(キリスト教の)神は不存在だった』と悩んだ。
そして、とうとう、(キリスト教の)神は出て来なかったという人生を送った方。
キリスト教の神の不存在の悩みの中の人生だった。
森氏が言うような、神に委(ゆだ)ねて生きると言ったって無責任な生き方だ。誠実な生き方ではない。最後まで神が出ない場合もあるのだ。
マザーテレサさんの様に、神は居ないと正直に悩みながらも、インドの可哀想な方々を救う仕事を、一生懸命、正直に、そして、努力し、頑張って努めた方が、美しく見える。(つづく)
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悩まなければならない神なのである。
居るか? 居ないか? 分からない、そんな、あやふやな事に委(ゆだ)ねて・・、
自分は、何ら、アクションを、『しないという人生』『生き方』。
しかし、マザーテレサさんが居ないと悩んだ神が、夢の中か、『幻聴』か、『幻視』かは知らないが、出て来たと森氏は言い・・そして、決断したというが・・、
そうだとしても・・、何らかの方向へ行動を起こしたとしても・・、それを神の示唆だと思うのか?
自分の意思が、自分の背中を押したと思わないのか?
深層心理の自分の意思が・・ふわっと浮かび上がったと思わないのか?
深く思っていた、深い自分の決断が・・決定した瞬間だったのだ。
人間は、生活して行くにおいて、びっくりするほど、また、自分で認識できないほど数多くの決断を、自分でしているのだ。
そこに「神が介在していると思っている自分が居る」のだ。
その決断を、しっかりしたいと願い、思う、自分も居るのだ。
何もしないで「ぼけっと」した人間は、「ぼけっと」終わってしまうだろうが、それはそれなりに、自分がする決断の連続の中に存在しているのだ。大きな決断、小さな決断、決断に見えない決断、などなど・・。
キリスト教の、ただただ神を待て、神にゆだねろは、『悪の教え』だ、人間を破滅に導き・・破壊する。
この無気力さは・・心も破壊する、悪の教えなのだ。
人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。そして、頑張り社会を支えるが正しいのです。
.. (詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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題:目を覚(さ)まして下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教の教え:『キリスト教における死について』の文・・
((これは、死を讃美するという、害ある文です。
また、自死(じし)の勧(すす)め的な文でもあります。
注意してお読みください)):
「キリスト教聖書は、死を勝利ととらえ、楽観的にとら
える。決定的勝利だと、キリスト教では、死を勝利として
位置づける。すなわち、死は、人間から力を奪い取り、す
べての力を無にしてしまう神の勝利なのだ。そして、すべ
ての事柄は死から始まる。それが聖書の示す死である。キ
リスト教においては、死からすべてが始まる。「死から生
へ」という力が働くという死生観に立つ。クリスチャンは
決して死なない。聖書が告げる死、それは、完全なる死で
あり、全存在的な死である。キリスト教信仰がとらえる死
は、神によって与えられた統合された一人の人格が、肉体
も霊魂も含めて完全に死に絶える事、一切の被造性が破壊
されて、神によってすべてが救い上げられる事なのである。
すべてが神の支配の中に置かれる。我々に命を与える神は、(つづく)
-
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死をも、暗闇をも支配し、決定的な勝利を告げるのである、
死を支配し、死に勝利される神が、同時に死だけではなく
我々の生をも支配されるのである」・・と。
上記の文を理解できましたか? 分かりましたか?
ただ、ただ、キリスト教は、理由を説明せず、勝手な押し付けで、上記のような事々を、押し付けるという宗教。
そして、洗脳され、マインド・コントロールされる。
マインド・コントロールされたら、分からなくなる、判断できなくなる。恐ろしいことです。
江戸時代、徳川幕府は、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、大変、酷(ひど)い事をした様に、受け取られていますが、
本当は、温厚な日本人なのです。
捕えるにしても、穏便(おんびん)に、穏便(おんびん)に・・という幕府の思いがあったのです。
この様な所が伝えられずに、ヨーロッパの様な、酷(むご)いやり方の様に、印象付けられ、そして、ヨーロッパの様な事々が、日本でも、行なわれたのだろうと思い込まされ、そして、その先入観と、錯覚で・・、
そして、キリスト教によるデッチ上げで、作り上げられている。
悲惨であれば、あるほど、キリスト教にとって都合が良いのだ。
幕府は、本人で無くても、家族や知人でも、「止めるとの意思表示さえあれば、許した」のだ。
また、たとえ捕えられても、刑場の柵の一部は開けてあり、逃げたければ逃げられるという、『逃げる事は自由』となっていた。日本人は、優(やさ)しい民族なのです。
取り締まりが厳しかったのは、ほんの一時(いっとき)で、ヨーロッパの様に、何百年も、じわじわと陰湿に、民衆の方々をいじめ抜くという様な事は、日本はやっていません、やって無い。やっても、上記の様な、穏便なやり方なのです。
そして、すぐに幕府は、キリスト教の信仰は、『黙認の態度』になっています。キリスト教は、嘘ばかりプロパガンダします。キリスト教に偏するNHKも注意を要します。
江戸時代、その取り締まりをやっていた一時期(いちじき)、その様な取り締まりの状況の中で・・、
キリスト教宣教師たちは、『殉教』を美しいものと洗脳しました。卑劣な洗脳です。
日本には、まったく無かった『殉教は美しいのだ』の考え方を洗脳しました。卑劣なやり方です、宗教です、死を信徒の方々に強要したのです。(つづく)
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だから、キリスト教の信徒の方から、子供を連れて出頭して来る人も居たくらいでした。
そこに、死を美化するキリスト教の教義があった。
上記の文が、その一つです、一端です。
卑劣なキリスト教の教えです。
「キリスト教は死を勝利ととらえ、楽観的にとらえる」と言っていますが、これは実体とは、まったく違います。
ニュース番組で、アメリカの要人(ようじん、要職にある人)の葬儀の模様を見ましたが、報道していましたが、
墓に棺(かん)を納める時、家族は、皆、泣いていた。
日本と全く同じ、その要人の死を悼(いた)んで、悲しみにくれて、泣いていました。
楽観的などと・・よくも他人事のように言うものだと、キリスト教の教義を・・軽蔑します。
この様に、キリスト教国の人々が、悲しみ泣く状況は、よく目にします。
「キリスト教は、決定的勝利だと、死を勝利として位置付ける」は、呆(あき)れるほどの・・嘘(うそ)です、
よくもこんなウソを公言するものだと、改めてキリスト教を軽蔑します。
だから、上記の文は空理空論です。
読むに価(あたい)しない。信仰するに価しません。
こんな論理に洗脳されて、マインド・コントロールされて、不幸にならないこと、洗脳されない事、しない事。
愛するお母さんが・・、御両親が・・亡くなられたら・・、大いに涙を流して・・悲しんで下さい・・、悲しんで差し上げて・・下さい。
下手(へた)に・・我慢すると・・きっと、後(あと)で・・心が・・壊(こわ)れます。
後で、大きな負担が、心にやってきます。
キリスト教は、ひどいことを・・悪の教えを・・広めています。
『完全なる死だ』なんて、勝手に言いつのっているだけです・・。目を覚(さ)まして下さい。
.. (詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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題:今後、二度と不幸なことが起きないように・・、
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
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キリスト教は、いつの時代も、「権威が欲しい」が第一の目標となっている宗教、そして、それが、性癖となっている。
キリスト教の行動を見ていると、民衆を救うということよりも、権威が欲しいと、そして、その権威を得るためにも、金が欲しいとなり、その金を目当てに色々な悪い事をしている。
その1例が、資産家の女性を魔女とし、自前のキリスト教裁判所で魔女裁判までして、魔女処刑をし、その魔女の資産を没収した。
そして、この『権威が欲しい』は、キリスト教が出来た頃からであった。
その初期の頃より以来、その権威が欲しいの気持ちを持ち続けているキリスト教なのだ。
キリスト教の歴史は、「権威だ」「権威だ」の権威の歴史だった。
それは一時期、『権威を得なければ』としなければ、立ち行かない立場にもあった、そして、その様な宗教だったと言える。「権威を得ねばならない様な宗教だった」と言える。
初期、キリスト教のできる頃の信徒は、ユダヤ人だけ、
そのユダヤ人から権威を得るためには・・と、考えれば、「
キリスト教と何ら関係ないダビデを引き出し、そして、利用することが一つの方法だった。
ダビデと言えば、「ユダヤ人の唯一の英雄」。
キリスト教聖書に記載されて、そのダビデが生きていれば言うだろう、「キリスト教?そんな宗教、全然、知らないよ」・・と。「キリスト教なんて何も関係ないよ」と。
キリスト教は、ただ関係のないダビデを利用した。
キリスト教以外のユダヤ人の方々は、さぞ怒ったでしょう。民族の英雄をよくも利用したな・・と。
「マタイによる福音書」は、ぬけぬけと書いた・・、
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムは・・」・・と。
一般のユダヤ人の方々が信じていた「ダビデはメシア・救世主だ」という信じる所に、丸々乗っかって、そして、その中にイエスが居るという構図にして、聖書に書いてしまったという所。(つづく)
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そして、ダビデで権威づけた文の中で、イエスを「イエス・キリスト」と言ってしまったという図。
ユダヤの方々は、「さぞ、カンカンになって怒った事でしょう」。
ユダヤ教が、主な宗教であったユダヤの地のユダヤの方々へ、ユダヤ教を破門された、ごく少数の信徒の集まりに過ぎない「原始のキリスト教」が、こんな事を言い出し、ユダヤの方々は、怒ると共に、「このカルト宗教め」と思った事でしょう。
信じられないDNAを最初から持つキリスト教は、最初から権威が欲しい、信じてくれの歴史の中で、イエスを、ユダヤ民族のスーパースター、ダビデの後裔(こうえい)としたくて仕方なかった。
しかし、そのダビデを、聖書に書き込んだという行為は・・、ユダヤ人が対象ならいざ知らず、この小さな少数の一民族だけの事ならいざ知らず・・、
TPOが「まったく、アウト」。
時代錯誤だし。ユダヤ民族だけの英雄だし。
キリスト教聖書は、時代の中で、完全に消耗しきっている。
何ら信じて幸せになれるというものではありません、また、宗教ではありません。
ダビデが、ユダヤに繁栄をもたらした王様だと言ったって、「風呂をのぞき見したダビデ、そこで見た女性を手に入れたいと、その女性の夫の自分の部下を、卑劣な行為で殺し、その部下の妻を奪い取るという最低の輩」。
何ら、信仰するに足る人物では、微塵もありません。
だから救世主という論理は、疾(と)うの昔に消え去っています。
そんな人物の権威に寄り掛かる宗教は、クエスチョンです。キリスト教にある、昔からある「その様な心根(こころね)」が、クエスチョンです。
皆様を幸せにしたいとか、幸せになって下さいが第一に来なければならない宗教の目標なのに、自分の事ばかり考えるキリスト教という宗教。
昔から、自分の利しか考えない宗教。
キリスト教は、何しろ、最初から、宗教理念が低い宗教です。
特に、「マタイによる福音書」は、「権威が欲しい」「権威が欲しい」の福音書です。
信じるのは自由ですが、その所を「どうなのかな」と、思いながらお読みください。
この様な聖書をいくら読んでも、天から声は、聞こえてきません。
だから、聖書作家としての「マタイの想い」が余計に見えて来て、逆に、マタイの幼稚さも見えて来ます。(つづく)
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古いユダヤの家系の権威にすがったマタイなのです。
今・現代、ダビデなど歴史上の人物、その権威などどうでもいい社会。
また、グローバルの時代の今・現代には、歯牙にも掛からない霞みの彼方(かなた)の事。
この様な聖書、何度も読む様なものではありません。
また、この様な書物で、決して人類は救済されません。
「マルコによる福音書」から10年から20年、時を失った頃に、「マタイが、こんな事を考えましたという代物」という図となっている。
イエスを「デッチ上げたいマタイ」の図。
虚構で、でっち上げの図。
しかし、なんと・・、今・現代でも、キリスト教は、この図を、延々とやっている。
権威を付けたいというマタイ、聖書作家として下手糞な事をしているのだ。
『イエスは、ダビデの家系の人だ』と単純に書いていればいいものを、
イエスの父・大工さんをしていたイエスの父ヨセフを持ち出す。ここで話がややこしくなる。
イエスの父ヨセフを、ダビデの家系の者だと入れてしまったのだ。
マタイは、筆を滑らせ、イエスと血が繋(つな)がっていないイエスの父ヨセフが、ダビデの末裔(まつえい)なのだと書いてしまった。書きたい事が書けるにしても、これは失敗だ。
当然、イエスが救世主になる前に、イエスの父ヨセフが、救世主になってしまった。(つづく)
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そうなる事を、マタイは、知ってか? 知らずか? マタイは書いてしまった。
だから、本当は、このヨセフが、「真の救世主だったのかもしれない」。
この様なキリスト教聖書の記述、こんな聖書の記述を信じて、人を殺しに行く事だけはしないで下さい。
虚構・デッチ上げと共に、矛盾を抱え込むキリスト教なのだ。
真実、イエスには、兄弟姉妹が、大勢、居た。
(「マルコによる福音書」6・3)に書かれている、
「この人(イエス)は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と。
そして当然、この大勢のこの兄弟姉妹は、「ダビデの家系のイエスの父ヨセフ」の血を引く「ダビデの家系の子供」である。
ここを、キリスト教は、訳では「兄弟姉妹」となるが、正確には「弟妹」だと、不正確なこと言い、言い訳に努める。本当に、聖書は「言い訳が、本当に、あちこち、多い言い訳だらけの本だ」。
ならば、キリスト教は、「弟妹」と早くすればいいのに、一向にしないのは、その基本の底本「マルコによる福音書」の記述が正しいからである。
最初の福音書のマルコが記述する頃は、まだ、イエスは、普通の人間だったのだ。
イエスの父が「神だ」とは考えられていなかった。
次の世代のマタイが、イエスの父ヨセフを、救世主の家系に入れてしまうが・・。
まだ、マルコの時代には、イエスは、普通に兄弟姉妹が居る人間だった。
皆、キリスト教徒でさえ、その様に思っていたのだ。(つづく)
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イエスは、洗礼者ヨハネに洗礼される必要のある人間だった。
「処女懐妊だ」「ダビデを持ち出し、救世主の後裔(こうえい)だ」・・なんて言う作り話なんて・・まだマルコには・・、
まだ、その様な、『夢の様な・・作り話』が、なされるなんて思ってもいなかったのだ。
正直者のマルコが、正直に、事実を、書いたのだ。
最初の福音書だし・・、
だから、イエスには「兄」や「姉」が居たのが事実。
だから、イエスに権威が欲しいという欲求が・・、その後の福音書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」に求められ・・、
夢の様な嘘話し、作り話が、記述されて行く。
嘘記述が、ますますエスカレートし、後になればなるほど、酷(ひど)くなる。
そして、その信頼性は喪失して行く、
その様になって行く事を知らない、浅はかな記述だった。
この様な聖書に、キリスト教に、洗脳されて、戦争などを起こすようなことがないように・・、今後、二度と不幸なことは起きないように・・。
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(参考)疾(と)うの昔 とっくに過ぎ去った昔。ずっと以前。「問題は―に解決した」「―から決まっている」
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題:根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、
新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教の論理は、何とも自分勝手で、『浅はかな論理』に思える。
キリスト教聖職者が・・言う・・、
「キリスト教は、罪からの許しを、もっとも大きなテーマとしている。そして、その『罪の許し』の最大の特徴は、そうした罪が、もう既に、許されているという事にある」・・と、
そしてまた・・言う・・、
「人間が、罪に対してあれこれ努力をしても、そして、功績を積んでも駄目なのだ、そして、それ故に『罪の許し』があるのではなく、もう既に、我々の罪は、許されているというのである」・・と言う。
そして更に言う・・、
「キリストが、十字架上で犠牲になる事によって、我々の罪は許されたのである」・・と、
そして、「その事が、喜びに繋(つな)がるものでなければならない」・・と、
そして、「人は、責められるよりも、許されて成長する」・・と、
そして、「既に許されているという事は、我々を安心させ、生きる勇気を与える」・・と、
「否定される自己が回復する事ほど大きな希望はない」・・と、
「この様に神がして、神による肯定が存在しているのである」・・と、
そして、「罪だらけで、否定せざるを得ない自分の現実を、神が『そのままでいいんだ』と受け入れてくれるのである」・・と、
「自分の居場所のない人も、神は受け入れるのだ」・・と、
以上が、キリスト教の教義の論理展開である。
キリスト教の考え方である。
キリスト教は、勝手に、人には罪があると有罪にし、(つづく)
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そして、その罪は、既に、許されているとする。
人間が努力しても無駄で駄目なのだと、『人間の努力を駄目』と洗脳する。
キリスト教は人間の努力を駄目と洗脳する、やる気を削(そ)ぐ宗教。
そして、その許される状態にしたのは、イエスが十字架上で死んだからだとし、ありがたく思いなさいと・・、
そして、人は責められるよりも許されて成長すると、我田引水的に言う。
そもそも、『罪がある』と責めているのはキリスト教の、あなたです・・・??
そもそも、あなたが勝手に、人を有罪にしているのです、『罪つくりのあなた』になっているのです、
そこに罪があるのです・・本当の重い罪が・・あなたにあるのです・・、その事に洗脳されて悩む方々が居るのです・・
無益な罪つくりなら止めなさい・・、
『無実の人間』を勝手な論理で、あり得ない話で、勝手に有罪にして、既に許されているからと言ったかと思えば、
人を罪に落とすような責められるという話よりも、
許されるという話の方が成長すると、
イエスが既に十字架の犠牲で、あなたは許されていますとは??
こんな回りくどい話はしないで欲しい、戴きたい。悩む方々のことも思いなさい・・
今までの話は何だったのだ??・・と言いたい・・
結局、恩を売りたかっただけではないか??
自分で、勝手な話をデッチ上げて、人を罪に落しておいて・・、
こう言うやり口は、「語りの詐欺まがい」になっている。
最初の、事の始めだって、アダムが食べそうな所に木を置いて・・、
アダムがうまそうだと食べたら、アダムに罪が発生したと・・、(つづく)
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アダムだって、代々の、後々の子供たちまで続くという罪に落ちると思えば・・食べないです・・
それをあなた(神)は、ただ、食べるなよと言っただけ・・、それなら、少しだけならと、アダムだって食べます・・あなたの言い方が悪かったのです・・
しっかり食べるな・・と、理由をかみしめて言わなければ駄目です、そんなに重大な事ならなおさら・・
だから、その罪が・・、アダムだけに、その罪があるのかと思ったら、その子供たちへも、代々、その罪があるのだなんて、古い話だ・・、
島崎藤村の「破戒」ではないが・・、代々、生まれついただけで・・、
代々、その重荷を背負って行くというのは、おかしな考えだ・・論理展開だ・・おかしな風習ではないか??
自分には、何ら落ち度のない罪を背負っていると設定するとは・・卑劣な「なすり付け」です・・
倫理観は極度に低い宗教です・・
親の罪を被(かぶ)らせるという、キリスト教のこの設定は・・、古い風習の中で、考え方で、出来た話だ、
聖書記述者の・・まったく古い考え方からできた筋書きだ。
古い、どうしようもない封建的な考えの中にあるキリスト教だ。旧習の宗教です・・、
この逆が・・、逆の考え方が、正しいのだ・・、
新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
仏にまでなり得るという「佛性」があるのだ。
そこへ行くと、このキリスト教の、この「古い風習」そのままの話の展開は、最低な話の展開です・・、
話の初めの禁断の木の実のなる木を、元々、置いた神の思い遣(や)りの無さが仇(あだ)となった愚(おろ)かしい話の展開にしても、
そして、この話を信じる者だけを、この他のこの類いの話で、じくじくと虐(いじ)めて、程度の悪い話で困らせるとは??
そもそも、こんな窮地(きゅうち)に貶(おとし)めないで下さい。可哀想なキリスト教徒の方達。卑劣な宗教よ。
また、アダムとイブ夫婦に・・幸せな安心の生活を造ってやってほしかった。
こんな落とし穴を作って、罠(わな)にはめる神の根性悪(こんじょうわる)が気に入らない。
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題:いたいけな子供たちが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教徒の女子学生の様な、感受性の鋭い心に、配慮の欠いたキリスト教の話が・・突き刺さる。
1224年9月14日に、ラ・ヴェルナ山において、フランシスコの手足と脇腹に、イエスが受けた傷と同じ傷が現われた・・と、キリスト教は言う。何故か? 年月日がはっきり言えるという。
それまでの、フランシスコの祈りが通じたのだ・・と、キリスト教は言う。
この傷を、聖痕(せいこん、スティーグマーク)という・・と、キリスト教は言う。
一生懸命に祈っていたから、この傷が現われた・・と、キリスト教は言う。
イエスが受けたという同じ苦痛があった・・と、キリスト教は言う。誰が調べたかは知らないが、イエスと同じ苦痛があったとキリスト教は言う。
フランシスコは耐え、彼の傍(かたわ)らには、天使が降りて来て、フランシスコを励(はげ)ました・・と、キリスト教は言う。
そして、イエスが出現した・・と、キリスト教は言う。
そのイエスが、どうのこうのしたとも、キリスト教は言わない。
また、そのイエスが、何か話したとも、キリスト教は言わない。
ただ、イエスが現われた、とだけキリスト教は言う。
また、イエスが出現している間、ラ・ヴェルナ山は、燃え上がる焔(ほのお)に包まれている様に見えた・・と、キリスト教は言う。
その焔は、大地を燃えつくす様に、周りの山々、谷という谷に、焔の光が照らされた・・と、キリスト教は言う。
フランシスコは、傷の痛みに耐え、その痛みのため包帯を巻いた・・と、キリスト教は言う。
傷だらけの体となっているフランシスコだった・・と、キリスト教は言う。
その後のフランシスコは、数知れない奇蹟を起こした・・と、キリスト教は言う。
この話に、さすがに、信心深いキリスト教徒も、「その奇蹟のすべてが事実であるとは思えない」・・と、言ったが・・。(つづく)
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キリスト教には、この様な、嘘話が実に多い。
キリスト教は、「奇蹟が起こせないなら聖人ではない」「聖人にしない」・・と、言っている。
規則がある。
最近も、ニュースに取り上げられ、報じられた、キリスト教の聖人の騒ぎがあった。
「聖人と言われていた聖職者」が、「わたしは、死んだ後、腐らない」と言っていたのだが、公(おおやけ)に言っていたのだが・・、
実際、死後、腐っていないかの検証をするという騒ぎがニュースとなったのだった。
ニュースのアナウンサーは、コメントで、怪訝(けげん)な顔で「体、全体に、ワセリンが塗ってありました」と伝えた。水分蒸発を防ぐためだろう。
また、このニュースの見るべきところは、特ダネ的なところは、別なところにもあった。
この聖職者の遺体を、保管場所からの取り出すところを「隠し撮り」的な映像シーンを報じたのである。
そのシーンは、その遺体を取り出すために、保管場所の鉄扉を開けた時、白煙がもうもうとたち上がったのである。
これは、明らかに、極低温の冷蔵庫から取り出しましたという映像だった。
冷蔵というより、より極低温の『冷凍レベルに保管していました』という事を、このシーンは語っていた。
この様な、極低温に保管しておけば、キリスト教聖職者の聖人の遺体は腐る訳がない。
冷凍マグロが腐らないのと同じ冷凍状態においてあったのだ。
これを、キリスト教は、腐らないと言っていたのである。
この様な、キリスト教の嘘に、従順な感受性の鋭い女子学生が繰(く)られている、洗脳されている。
何故、キリスト教は、この様な嘘を、付き続けているのだろうか?
いたいけな子供や幼児たちを、騙(だま)し続けるのだろうか?
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キリスト教なんてやったらほんと人生おしまいだよ 信者に騙されて利用されて人生めちゃちゃになるだけ ここまで酷い詐欺宗教はない
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題:結果・・未来がないことを説いている・・、
(ひどい宗教である)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教のイエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ民族の中で生き、そして、生活をした。
そして、イエスは、ユダヤ民族が持つ『終末思想』を、また、持っていた、一般のユダヤ民族と何ら変わりなく、当然のごとく、持っていた。
イエスの生きた・・ユダヤ民族のその地の時代は・・、
その終末思想が、はなはだしく強く、叫ばれていた時代だった。
社会は、戦争が多く・・、
戦争に・・明け暮れていた・・、
社会は、乱れ、倫理も、乱れ・・、
社会だけでなく・・人心(じんしん)も、荒廃していた。
宗教の中心の神殿には、神殿娼婦が居た。
また、こともあろうに、一般社会の女性にまで・・その神殿娼婦をする義務が・・課されていた。
また、民は、可哀想な事に、重い税金にあえいでいた。
当然、仲間であるべき一般人のユダヤ人の・・税金取立人の「取税人」を、ユダヤの方々は恨んでいた。当然の心である、
また、この狭い地には・・多くの民族が、錯綜(さくそう)していた。
その多くの民族が・・生きるための、生きる糧の奪い合いの世の中、世情(せじょう)の中にいた。狭い「るつぼの中」でうごめいていた。
その様な中でできたキリスト教は・・、その陰惨(いんさん)な世情を、当然のごとくに・・写していた。
キリスト教は、終末思想を持った宗教となった。(つづく)
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これは、キリスト教聖職者も認めるところであり、否定は・・できない。
そして、キリスト教聖職者は説く・・言う・・、
「人間の生命に・・終わりがある様に・・、歴史にも、必ず終わりの瞬間がやって来る・・その様に、キリスト教は考えている」・・と、
その終末の時、キリスト教の神が、天国に入れるか?否か?・・を、裁くと、説いている。
しかし、キリスト教は、この様なキリスト教の教義を、最近、訂正し始めている。
前言取り消しの態度となって来ている。
そういえば、キリスト教は、最近、『隣人愛』という言葉を言わなくなった・・が・・、
標記の件も・・、近代社会には受け入れられないと、キリスト教の教義の維持が難しくなったという。
似たような話が・・話が、また、それるが、キリスト教が、「婚前の男女の同居を認めていない」が、これを認めるようにしよう、変えようと、これも、今までの教義を捨てようという動きをしている。
そして、同性の愛についても認めようと、同じく教義変更しようとの話がある。
キリスト教は悩み、大きく悩みうねっている、のたうっている。
キリスト教は、それらの「教義の維持」が難しいと悟っている。
あなたの、今、信じているキリスト教の教義も、何時、変わるかもしれません?・・
その様な、中にある信仰となっていることを、見つめ直してください。
何ら、キリスト教には「絶対なる信仰」の絶対なんてありません・・、
その様な確固たる教義のない宗教です。
そして、その事が露呈している宗教の、昨今なのです。
変わる宗教教義、信じるに価しない教義であり、その様な宗教であるという実態が、如実に表れております。
キリスト教聖職者でも、従来からのキリスト教の教義を認めがたいという態度の聖職者も少なくありません。
キリスト教の論理破綻・教理破綻の「波」が、「うねり」が、あちこちで起きております。(つづく)
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何しろ、古代の論理では・・無理なのです。
キリスト教は、現代社会では、現代社会において、その宗教維持は出来ないのです。その様なレベルなのです。
古代人のレベルと、はるかに違う現代社会では、その宗教教義は・・維持できないのです。
キリスト教聖職者は、苦し紛れに、次の様に言う・・、
「歴史の終末の有限は、無限なる歴史の中に取り込まれるのです」・・と・・、
お分かりになりますか???
何を言っているのでしょう・・もう、ここまで来ると笑い話です。
この様に言うしかないという言い方です・・、
キリスト教聖職者は、言い逃れの職業と思えて来ます。
キリスト教聖職者は、この様な言い逃れ論理を、考え出さねばならない職業、苦し紛れにこの様に言っているのです。絞り出しているのです。
こんなレベルの話を、感受性の鋭い子供たちが、聞いて、育って、正しい論理思考ができるように育つのでしょうか?育ちますか???
ますます、子供たちを惑(まど)わす事態に追い込む結果になって行きます。
こんなキリスト教聖職者が、社会に存在する意義はあるのでしょうか?
この様な破綻論理を吐く職業の聖職者は、完全に、その存在意義は無くなっています。むしろ社会悪とさえなって居ります。
この様な破綻論理を吐かねばならないキリスト教聖職者の方々は、反社会的存在であり、反社会的行為を行なって居ります。
キリスト教聖職者は、「終末は希望である」と言い出している。
しかし、何故? 死後の世界の、終末思想を、希望にするどんなキリスト教論理が? どんなキリスト教の論理で希望が生まれて来るのかは不明です。神と共に居られるから?
現代に生きる希望は、古代と同じく捨てるのですか?
イエスの時代も、この世のうちで希望を叶えよう、実現させよう、出来るのだとして来た・・、
しかし、その終末の論理は、とうとう乱れた社会で、現実社会で、叶(かな)えられなくて、死後の世界で、神が叶えると、変遷したという経緯のある終末思想、(つづく)
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今・現代の聖職者が、希望が、どんな論理で生まれて来るかは不明なのだが・・、
キリスト教聖職者は、キリスト教の終末思想は、希望を砕く悪の倫理と知って居て、あの世の天国でしか叶えられない論理だと知っていて、それでは駄目だと知っていて、希望を砕く悪の論理だと知っていて・・言う。
「ハルマゲドン」という、キリスト教の訳の分からぬ言葉を使って、輝く未来が開かれていると・・言葉だけは明るく言う、
言葉は明るく使ったが、論理はまったく無く・・、
未来ある若者の希望を砕く・・、
この様な、キリスト教の悪思想は、それこそ、今のこの社会で・・終わりにしたい。
キリスト教聖書は、特に、若者には読ませてはいけない。
また、「フランダースの犬」という幼児向けの本も、キリスト教は、「第二のバイブル」として宣伝しているが・・、
この本の最後は・・、
イエスの十字架の磔の絵の前で、主人公の子供と愛犬が、冬の寒さの中で凍死するという場面で、天に昇るのだ・・という事で、めでたしめでたしとしている。
幼児にまで、死する事によって希望が叶えられるという洗脳をする、マインド・コントロールするキリスト教なのである。悪の宗教である。
これから、この世で勉強し、世の中の方々のために、その様な人になって行こうという未来ある子供たちに・・、
この様な思想を・・美しいと美化して・・刷り込もうというキリスト教。
反社会的な教義、
反建設的な教義、
健全な建設的なベクトルと真反対の死の中にあるキリスト教・・、
社会の、建設的な心を砕く・・宗教である。
この宗教では・・キリスト教では・・、
人類は救済されません。
あなた方も、幸せには、絶対、なれません。
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(参考)いん‐さん【陰惨】 [名・形動]暗くむごたらしい感じ。また、そのさま。「―を極める」、
.. (詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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題:大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教の、イエスの家庭は、子沢山な家庭だった。
イエスの家族は、9人か、または、それ以上と考えられる。
当時、半分の子供が、15歳までに死ぬ・・という、社会だった。悲惨な社会だった。
日本でも・・昔はそうだったが・・、その様な社会は、悲しい事だが・・その対策として、多くの子供を持つものだ。
古代の時代に生きたイエスの家庭も・・その様に・・子沢山の家庭だった。
イエスには、7人の兄弟姉妹、または、それ以上の兄弟姉妹たちがいた。
イエスが長男ではないという事は、既に、書かせて戴きましたが、
故に、処女マリアは『嘘だ』と、既に、書かせて戴きましたが・・、(単なる翻訳ミスで処女となっただけで、イエスの生誕は処女マリアからではない・・と)、
イエスは『次男』か、『三男』だと見られている。
また、子供の死亡率が高い事も、既に、述べたが、平均寿命は、『30歳未満だった』と言われている。
イエスの経歴は、あまり詳しく分かっていないが、
34歳か、36歳の頃の歳に、刑になったと見られている。
イエスが、実際に居た、存在したという『存在証明』は出来ない状態となっている。
イエスは『居なかったかもしれない人』となっている。
この原因を作ったのは、『キリスト教会』だ。
イエスに都合の悪い事を書いた書類(当時のキリスト教会が都合が悪いと、当時のキリスト教会の判断で、焼いてしまったのだ。焼却処分。馬鹿な事をしたものだ)。
イエスの存在証明が出来なくなってしまったのだ。(つづく)
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イエスの生きた時代は、平均寿命が30歳以下だったという。その様な、平均寿命が短い当時なので、イエスは長生きの部類に入る。
そのイエスが、活動を始めたのも30歳を過ぎており、
イエスは、晩年になって・・その活動を始めたと言える。
活動期間も『1年』か、長くても『2年』と見られている。
そして、それまで、イエスが活動していたという記録は、一切ない、書かれていない。
父・ヨセフの職業の大工を継いでいる事が分かっているので、多分、大工仕事だけをしていたのだと考えられる。
多分、推測だが、父・ヨセフの死が切っ掛けなのだろう、その大工仕事を止めて、突然、イエスは、洗礼者ヨハネの所に現れた。
この洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟であり、つまり、親戚筋の人なのである。
洗礼者ヨハネは、当時、有名な活動家だった。
イエスの親戚筋でも、評判になっていたと考えられる。
イエスは、この有名な従兄弟の洗礼者ヨハネに、是非、洗礼して貰いたいと、洗礼者ヨハネの所に現れたのであった。
そして、イエスは、この従兄弟の所に入門した。
しかし、謙遜深い洗礼者ヨハネは、イエスを立てた。
人物的にも、出来た人だったと思われる。
イエスは、この洗礼者ヨハネに付いて、修業を教えてもらい、一緒に修行した。
当時、イスラエルには、多くの預言者が居り・・、
公的機関は、この預言者たちを処刑していた。
このことが、洗礼者ヨハネにも訪れた。
洗礼者ヨハネは、処刑された。
この時に、イエスではなく、洗礼者ヨハネが処刑されたという事は、まだまだ、イエスの『表立った存在』は無かったと言える。(つづく)
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また、洗礼者ヨハネの活動が、公権力の目ざわりとなり、処刑の対象にしたと言える。
イエスは、陰に隠れる存在だった。
洗礼者ヨハネの居なくなったイエスは、自主的に活動を始めた。
その活動は、洗礼者ヨハネとまったく同じだった。
それ故に、それまでのイエスは、「神の子」という状態とは、まったく無縁だった。
また、超能力や奇蹟をおこすという人とは、まったく、違った、無縁だった。
当然、イエスが、評判になったなどという話もない。文献などにも、まったくと言ってない。
イエスの生まれ育った地元・故郷の人も・・、
「この人は、この様な事を何処で知ったのだろう」と、驚いているくらいなのだ。
「この人は大工では無いか」と(「マタイによる福音書」6・1〜3)参照。
でも、イエスも、故郷では奇蹟などがやりにくいと、本音を吐露(とろ)している。
また、『活動を開始したイエス』と言ったって、大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。
狭い、ある一時代に、また、ある一地方に、生きた人が、活動を開始したという活動だった。
当然、現在では過去のものとされるもの。
また、イエスに、ある理念に基づいて『立宗をしよう』などという理念なども、まったくといってなかった。
当然、また、イエスには、キリスト教の「キの字」も無かった。
キリスト教の立宗など、私には『関係ない』という御仁だった。
イエスは、ユダヤ教で満足していた。
ただ、ある『狭いユダヤ教の理念だけ』を主張するという御仁だった。
イエスは、ユダヤ教の枠内だけで、思考を展開するという御仁だった。(つづく)
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