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聖書よまねえクリスチャンなんているの?Ⅱ
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そして、また、「それなのに、弟は遊女どもと一緒になって、あなたの身代(しんだい)を食いつぶしたんですよ」・・と、
そして、「このあなたの子が帰ってくると、喜んだりして、歓待したり・・」・・と不満を言う。
父親は、「生きて帰って来たのだから」と父親は言う。
この聖書には・・イエスの見解は・・はっきりと書いてないが・・、
イエスは、父親の考え方の賛成派なのだろう。
話の流れから・・。
しかし、これは、判断の難(むずか)しい面はあるが、
例え、父親の方に肩を持つにしても、手放しで賛成してはいけない話である。
キリスト教は、この時、『ある一定の固定した見解』を良しとして・・『宗教的に是としてしまう』。
まったく、『多様な意見の出る様な場ではない』。
また、『聖職者のお好み』で、色づけされた意見を、それを『良しとしてしまう』。
信徒は、その固定されたキリスト教意見に、洗脳されて、極端な場合は、十字軍のファッショ的な洗脳が、毎回、なされている、教会は、マインド・コントロールの場と化している。
自由な発想の・・結論へ導くという所作の・・芽が摘まれる場となっている。怖いことだ・・。
そしてまた、このキリスト教聖書は、「舌足らず」になっていて・・、
そこを説いてこそ、「深さが出て来るのであろう」が、キリスト教聖書は、いつも、その様な面倒なところは、いつもの様に逃げている・・、だから、浅いのだ・・、
なんら深い話では無くなっている。当り前の話になっている。
つまり、この話はキリスト教聖職者に下駄が預けられている。美しく装飾する聖職者の出番の話なのである。
逆の言い方をすれば、聖職者がお好みでコントロールする話となっている。
この様な書き方をするキリスト教聖書には深い話はない、
この様な書き方もあって「良い話とはなってない」。
キリスト教聖職者が話を作らなければ、子供の昔話の、「こぶとり爺さん」の話のレベル。「道徳本レベル」なのだ。
..(詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
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