したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

聖書よまねえクリスチャンなんているの?Ⅱ

771名無しのひつじさん:2014/07/19(土) 00:25:19 ID:uZ6cxRU20
.
 そして、また、「それなのに、弟は遊女どもと一緒になって、あなたの身代(しんだい)を食いつぶしたんですよ」・・と、
 そして、「このあなたの子が帰ってくると、喜んだりして、歓待したり・・」・・と不満を言う。
 父親は、「生きて帰って来たのだから」と父親は言う。
 この聖書には・・イエスの見解は・・はっきりと書いてないが・・、
 イエスは、父親の考え方の賛成派なのだろう。
 話の流れから・・。

 しかし、これは、判断の難(むずか)しい面はあるが、
 例え、父親の方に肩を持つにしても、手放しで賛成してはいけない話である。
 キリスト教は、この時、『ある一定の固定した見解』を良しとして・・『宗教的に是としてしまう』。
 まったく、『多様な意見の出る様な場ではない』。
 また、『聖職者のお好み』で、色づけされた意見を、それを『良しとしてしまう』。

 信徒は、その固定されたキリスト教意見に、洗脳されて、極端な場合は、十字軍のファッショ的な洗脳が、毎回、なされている、教会は、マインド・コントロールの場と化している。
 自由な発想の・・結論へ導くという所作の・・芽が摘まれる場となっている。怖いことだ・・。
 そしてまた、このキリスト教聖書は、「舌足らず」になっていて・・、
 そこを説いてこそ、「深さが出て来るのであろう」が、キリスト教聖書は、いつも、その様な面倒なところは、いつもの様に逃げている・・、だから、浅いのだ・・、
 なんら深い話では無くなっている。当り前の話になっている。

 つまり、この話はキリスト教聖職者に下駄が預けられている。美しく装飾する聖職者の出番の話なのである。
 逆の言い方をすれば、聖職者がお好みでコントロールする話となっている。
 この様な書き方をするキリスト教聖書には深い話はない、
 この様な書き方もあって「良い話とはなってない」。
 キリスト教聖職者が話を作らなければ、子供の昔話の、「こぶとり爺さん」の話のレベル。「道徳本レベル」なのだ。
..(詳しくは、以下のブログへ)ttp://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板