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聖書よまねえクリスチャンなんているの?Ⅱ
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題:明るい未来の開始点こそが・・大切で重要・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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キリスト教を創始したというパウロという男は・・、
本当に、イエスを小馬鹿にしている、そして、無視している。
パウロが書いたという(「コリントの信徒への手紙1」15・3〜)に、
(因みに、パウロが書いた書簡というのは、そのほとんどが、少なくとも半分以上が、パウロが書いたものではない。キリスト教にはこんな話がいっぱい)
「キリストが我々の罪のために死に、甦(よみがえ)り、ペトロ等に顕現した」・・と。
ここには、イエスの名など、微塵(みじん)もないし、使うそぶりもないし、使いたくないと無視している。
そして、パウロは言う、キリストは私の所にもあらわれましたよ・・と(「ガラテヤの信徒への手紙」1・16)。
そして、パウロは、はっきりイエスを捨てろと言う・・、
「もし私たちがかつて肉のキリスト(イエスの事)を知っていたとしても、今はその様な知り方は(してはいけないし)しない」(「コリントの信徒への手紙2」5・16〜
17)・・と。
生きていたイエスは、知る必要はないのだ・・と。(イエスは磔の血と復活だけでいいのだ・・と)
何故、パウロは、生きていた頃の、イエスの言葉や行動を捨てたのか?
勿論、パウロは、生きていた頃のイエスの言葉や行動を知る必要も無ければ、採用する必要も無い・・と言い、
イエスの言葉や行動を無価値として捨てている訳だが、
少なくとも、知る必要も無いと言うより、積極的に捨てる必要性を感じて、『捨てた』という積極性が、パウロにはあるのだが・・。
『捨てるのが良いのだ』・・と。イエスをその様に見ていた。
その『捨てる必要性』・・、
『有っては、害となる』という・・、(つづく)
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