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聖書よまねえクリスチャンなんているの?Ⅱ
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しかし、この様な経緯(いきさつ)があるのに、キリスト教は、旧約聖書を、キリスト教の独自の聖典の様な発言をしている。
キリスト教聖職者は、旧約聖書について、「ユダヤ教でも正典としている」と言っているが、ユダヤ教のオカブを奪っていて、何をかいわんやである。ユダヤ教の正典を奪っている事実を曲げようとするキリスト教である。
この言い方は、完全にキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)である。キリスト教は、この様な、この類いのプロパガンダ(嘘宣伝)をあちこちでしている。
ユダヤ教は、「私たちの正典をキリスト教が盗んだ」と言っているが、これが正しいのである。
キリスト教は、ユダヤ教から勝手に持ってきた正典を「旧約聖書」と名付け、使用し、また、キリスト教が作った「新約聖書」とともに正典としている。
キリスト教の言い訳は、「ユダヤ教の正典を旧約聖書とし、新約聖書に記したイエスの寄って立つところが旧約聖書に表されているから」としている。
これは、キリスト教の勝手な論理で、ユダヤ教は、当然、その様なことは言ってない。
この様な言い方が成立するのであるならば何でも言えてしまう。例えば、アインシュタインの「一般相対性理論」と「特殊相対性理論」など何でもよい、言ってしまえば勝ち的なキリスト教となっている。
筋の通った論理性はまったくない。
「子供自慢する親馬鹿」も聞いていて嫌だが、キリスト教のこの言い方も嫌だ。盗み行為の正当化だ。そして、キリスト教は、「こちらが正統なのだ」と悦に入っている。
ユダヤ教に破門され、独り歩きを強制され、歩いて行くキリスト教に、さ迷い歩く時が流れていくが・・、
ユダヤ教に放り出されたが故に、やむを得ない放浪の状況だったが・・、
そのさ迷いの状況に、当然、進むべき道の「種々の路線」が浮かび上がった。そして、路線問題の確執に、もめにもめるキリスト教であった。
その解決には400年もの時が必要だった。
紀元後397年になって、やっと、『キリスト教の聖書が決まった』。イエスの死から4世紀近くが流れていた。
日本で言えば「関ヶ原の合戦」の頃との時代差となる。
聖書とならずに、この時点で、捨てられ、焼かれた、聖書になり損(そこ)ねは多く、
キリスト教は、後代の人たちがが、再び、見る事が出来ないという「焼却処分」を、浅はかな事に行った。(つづく)
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