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聖書よまねえクリスチャンなんているの?Ⅱ
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キリスト教の精神に外れるので捨て去りたいのであったのであろう。そして、このキリスト教の書は、
キリスト教の神は、人の心にその永遠性を思う心を否定せずに授けたと言っている。
キリスト教の神が、時の永遠性を思い、また、空間の永遠性を思い、それら、永遠性の存在を思う故、人の心に永遠を思う想いを授けたと言う。仏教的な領域の考え方である。
今、キリスト教は、『時』に関し、「有始」を主張している。
神の行為が『有始』であったというのだ、『有史』であったというのだ。
ある時から、『キリスト教の神は、行為を始め出した』というのだ。
その時を、『ビックバン』と称している。
この世の中の時の始まりは、有限なのだという主張なのである。
永遠性を説くこの「伝道の書」の考え方と、これは、この主張は、明らかにこのキリスト教聖書の言葉として矛盾している。
矛盾点の多いキリスト教の聖書であるので、別段びっくりはしないが、『時』の捉え方の大基本においても、この様なあいまいな矛盾教義のキリスト教なのである。
キリスト教聖書が、何故、この主張をするかと言うと、キリスト教の主張は、「神が天地を創造したから」という。
その天地創造を神がした時を『始まりだ』とした。
そして、キリスト教の概念であった古典科学も、この概念から「有始説」を取り入れている。
「ビックバン」から始まったと称した。
しかし、今、この「ビックバン説」は否定されつつある。
「ビックバンも急には発生し得ない」のだという。
「ビックバンの準備段階が存在しない訳はない」という。
キリスト教の「有始説」が否定されつつある。(つづく)
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