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■■終末黙示録・携挙−艱難期前空中再臨、千年期前地上再臨説

1名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:17:47 ID:s2dcyQG2
わたしたちクリスチャン−キリスト教会には、終末のとき、主のもとに引き上げられる約束があります。
このスレッドでは、この神の真理−「空中携挙」について、聖書の御言葉から解き明かすものです。

■艱難前携挙説をとる先生方

 ●改訂新版 「これからの世界情勢と聖書の預言」 いのちのことば社 高木慶太先生 芦田拓也先生
 ●近づいている世界の終焉  いのちのことば社 高木慶太 先生
 ●「いつキリストは再臨されるか」  エマオ出版 山岸 登 先生
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1224511226/53-57
 ●空中再臨は患難の前にあります。
  http://www.geocities.co.jp/Bookend/4738/when.htm
 ●黙示録の預言   患難時代になにが起きるか?黙示録6章〜19章
  http://www.geocities.co.jp/Bookend/4738/kannan.htm
           ↓
  カトリック教などには、この地上にキリスト教的な平和な時代が訪れたら(平和が完成されたら)
  キリストが再臨されるという教理があります。(無患難時代説支持教会、ミレミアムを祝う関係の教会)
  この反キリストは、患難時代前期に、世界中の多くの問題(多分、和平問題関係)を解決して平和を打ち上げるでしょう。
  そして、自分こそ(無患難時代説を支持している)教会の言っているメシア(神)だと名乗ると考えます。
  つまり、カトリック等の教理とこの反キリストの出現とはイメージが一致しているのです。
 
●再臨(携挙)って何ですか
  http://www.geocities.co.jp/Bookend/4738/QA.htm#1000
 ●教会の空中携挙とは何ですか?
  http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-rapture.html
 ●再臨とは
  http://www.kingdomfellowship.com/Keywords/2ndadvent.html
 ●終末の予言について
  http://www.kingdomfellowship.com/Topics/prophesy.html
 ☆★☆>>2-13 へつづく☆★☆

2名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:18:48 ID:s2dcyQG2
■Rapture(携挙) - End Times
 http://www.godtube.com/view_video.php?viewkey=7e18e50b58eb7e0c6ccb&page=1&viewtype=&category=mv
       
●作品説明
 この動画は聖書が説明しているところの「空中携挙」、つまり、全世界が終末を迎える直前、
 キリストが天から再臨するときに、地上のクリスチャンが一瞬のうちに、
 不死の体になり空中に持ち上げられてキリストに会うという出来事を指しています。
 この動画の最初のほうには、聖書が、現在進行形で説明している世界の終末について様々な状況を取り上げています。
 終盤になって、キリスト教の講演の最中、突如、多くの参会者が忽然と消える模様が表現されていますが。
 これが、近未来に起こる「携挙」状況です。
 無論、こうした講演会だけでなく、道路上でも飛行機でも、船上でも、全世界の至る所で、大失踪事件が起こるはずです。
 キリストの存在も、また復活の事実も信じられない方々にとって、終末に起こる事件はなおさら信じられないでしょう?
 でも、アメリカ人の多くがこの事件についての知識を持っています。あなたはどうお感じになりますか?

■艱難期後携挙説をとる先生方

 ●久保有政先生
  1.キリスト者の携挙−彼らは世の悪が最高潮に達したとき、天に携え挙げられる
   http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/shumatsu04.htm
  2.終末の前兆−「終末」とは、「この世」と「来たるべき世」の境界、世の終わりが間近になったしるしとは何か
   http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/shumatsu01.htm
  3.患難時代−世界が最も末期症状を呈する時代――それが患難時代だ
   http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/shumatsu02.htm
  4.キリストの再臨−それは出口を失なった世界にとって最大の希望である
   http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/shumatsu03.htm

 ●岡山英夫先生
  『子羊の王国』いのちのことば社刊
☆★☆>>1 よりつづく☆★☆

3名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:20:26 ID:s2dcyQG2
>>1-2よりつづく
■艱難期前、艱難期(中)後の両説をとる先生

 ●奥山 実先生
  世の終わりが来る! 『ヨハネの黙示録』の私訳と講解 マルコーシュ・パブリケーション刊
 
●聖母マリアは悪魔である
  http://www.geocities.jp/cavazion/es167.html
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1224511226/50
◆マリヤ崇敬が間違いである証拠◆ no.1
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1224511226/72-76

●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教がおこり、
不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」(テサロニケ2章3節)
この背教について考えてみましょう。
(この項は、ダラス神学院発行の論文誌ビブリオセカ・サクラ1957年発行
 114巻・第453番・ケネス・S・ウエスト師の論文を参考にいたします。)

「この「背教」のギリシャ語はアポスタシアです。そしてそれには冠詞が付いています。
さてアポスタシアの原形の単数能動態はアフィステミです。これはアポとイステミの合成語です。
イステミの本来の意味は、立たせる、建てる、置く、据える、(役に)任じる、動かなくする、などです。
それにはアポという接頭語が付いて意味が、離して置く、取り除く、遠ざける、移す、となったのです。
この語自体には背教という意味がないのです。」
☆★☆>>1-2よりつづく☆★☆

4名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:23:09 ID:tiOWe5Z.
☆★☆>>1-3よりつづく☆★☆
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

ですからⅠテモテ4章1節「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、
ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
では、この語は「離れる」と訳されており、「信仰から」ということばを必要としているのです。
この聖句以外でも、このアフィステミという語は新約聖書の次の箇所ですべて「離れる」と訳されています。
ルカ2:32、4:13、13:27。使徒2:10、15:38、19:9、22:29。
Ⅱコリント12:8。Ⅰテモテ4:1、4:2。Ⅱテモテ2:19。ヘブル3:12。
アポスタシアには背教という意味もありますが、
それは本来の「離れる」という意味から派生した二次的なものです。

>>2の動画(携挙)の説明↓
■根拠となっている聖書の箇所
1テサ 4:14〜5:3
 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
 それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、
 死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
 それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
 このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。
 ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

5名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:24:17 ID:tiOWe5Z.
>>1-4よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

さて次に、そのⅡテサロニケ二章三節のアポスタシアに冠詞が付いていることについて考えてみましょう。
冠詞があるということは、その「アポスタシア」が何か特別なものであることを示しています。
さらにそれはその「アポスタシア」には先行詞があることを、
あるいはその意味を限定する句が先行していることを示します。
その「アポスタシア」に先行している句は
「私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」です。
すなわちこの「(その)アポスタシア(離れる)」とは教会の携挙のことです。
ですからⅡテサロニケ二章三節は「(教会の)携挙があり、不法の人、
すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない」であるべきなのです。

●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

英語のアポスタシィ(背教)はこのギリシャ「アポスタシア」から出て来た語です。
それで英語を使っている人々は、ギリシャ語のアポスタシアに英語の意味を読み込んでしまう傾向があります。
不幸にも英語欽定訳ができたとき、翻訳者はこの語を本来の意味から外れて、背教と訳してしまったのです。
しかし1500年代の他の英語訳聖書にはこの語は「背教」と訳されていません。
さらにこの聖句は、教会の携挙の後に、にせキリストが現われ、その後に艱難時代が始まると教えています。

このように新約聖書の全書簡はキリストの再臨がいつでも、予告なしにありえることを、
しかも艱難時代が始まる前にあることを明瞭に教えています。
使徒たちのすべて、新約聖書の書簡の著者たちすべてはキリストがいつでも再臨しえることを信じ、
キリストの再臨を待望していたのです。

6名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:25:32 ID:tiOWe5Z.
>>1-5よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

ではなぜキリストは今まで再臨されなかったのでしょうか。その理由はわかりません。
しかしキリストは再臨することがおできにならなかったのではありません。
今から百年前でも再臨しえたのです。
だが私たちに明らかにされていない何かの理由で再臨されなかったのです。
「主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。
 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、
 すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
キリストがいつでも再臨することがおできになるということは、再臨の前に特別な事件が起きる必要もなく、
またそれを予告する前兆も必要ではないということです。
すなわち終末にあるすべての事件に先立って空中再臨(教会の携挙)があることを意味します。
もし教会が艱難時代の一部、あるいは全部を経験するというならば、
キリストの再臨を待望するということは艱難時代を待つことと同じ意味になります。

●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

ということは、今艱難時代が迫っているからキリストの再臨が近い、という論法が成り立つことになります。
しかしもしその論法が正しいと言うならば、艱難時代が未だ迫っていなかった第一世紀のクリスチャンたちが
キリストの再臨を日々待望していたことは間違いであったということになります。
そしてそれは現在でもキリストの再臨を日々待つことの否定になります。
しかも、さらに重大なことは、そのような間違いを教えた使徒たちの書簡は信用ならないということになります。
それは聖書の神のみことばとしての権威の問題となり、私たちは信仰の土台を失うことになります。
使徒たちも、また使徒たちの教えを受けた第一世紀の信者たちも、
この世に神の怒りが注がれる艱難時代の到来を待っていたのではなく、
その前に御自分の民をこの世から救い出してくださる主イエス・キリストが来てくださるのを待っていたことは、
すでに参照した聖句で明らかです。
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、
 主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(1テサロニケ5:9)
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、
 この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、
 すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの
 栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:11〜13)

7名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:26:51 ID:tiOWe5Z.
>>1-6よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜より抜粋

★★★結論★★★
空中再臨(教会の携挙)は、予告、前兆なしに、いつ如何なる時にもありえることであり、
終末の全ての事件に先立って起こることです。
新約聖書はこのことをだれの目にも見間違うことがありえぬほど明瞭に、明白に教えています。
このことを否定することは神への冒涜であり、不敬虔であるのです。

「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、
 あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
 もし死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。・・・
 そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
 あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
 私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
 しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、
 キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。
 まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、
 権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」(1コリント15:12〜24)

8名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:27:54 ID:tiOWe5Z.
>>1-7よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋

キリストの復活と再臨は絶対に切り離せない真理です。
それはキリスト信者の信仰の土台であるからです。
もし復活がないならば再臨もなく、再臨がないならば復活も意味がなくなります。
キリストの復活の事実は、私たちキリストを信じる者の肉体が、
キリストと同じ栄光の姿によみがえらされることを保証しています。
聖書は、キリスト者のからだがキリストと同じ栄光の姿に変えられることをからだの贖いと呼んでいます。
主は私たちのたましいの贖いのためだけでなく、からだの贖いのためにも十字架の上で死んでくださったのです。
そしてキリストの再臨の日こそ、私たちのからだの贖いの日であり、勝利の日です。
すべてのキリスト者はこの勝利の日を熱心に待ちわびています。

「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。
 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
(1コリント15:54〜57)

さらに、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられた」ように私たちのからだの贖いも神の栄光の表われです。
神を愛するキリスト信者がこの神の栄光の表われを待ち望むことは当然であり、また健全なことです。
どの花婿が愛する花嫁を迎える婚姻の日を待ちわびないでおれるでしょうか。
キリストは御自分の花嫁である教会を御自分の住まいに迎える日を切に待っておられるのです。
ですからキリストを愛するキリスト者もすべて、キリストの再臨を切に待望しているのです。
そしてキリストの再臨を待ち望むキリスト者の心は、ますますキリストへと捧げられ、清められるのです。

9名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:28:56 ID:tiOWe5Z.
>>1-8よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋

「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(第一ヨハネ3章3節)
 このようにキリストの再臨への待望はキリスト信者の世からの分離、聖別の強力な動機であり、献身への根拠であるのです。
ですからキリストの再臨への待望が薄れた時、キリスト教界は俗化し、キリスト教界が世俗化した時、
キリストの再臨への待望が薄れたことはキリスト教界の歴史が証明しています。
第十八世紀のキリスト教会が、キリストの再臨がいつでもありえること、そしてそれが切迫していることを
聖書によって再発見した時、一大覚醒を経験しました。
そして多くのキリスト者が福音伝道のために故郷を離れて世界の果てを目指して出て行きました。
それによって世界伝道が大いに発展しました。
 さて現在はどのような時代でしょうか。まさに今はラオデキヤの教会が象徴する生ぬるい時代であり、
世俗化の大波が教会の中にまで押し寄せ、多くの教会はすでに飲み込まれてしまっています。
そして再臨の教理が非常に曖昧にされ、再臨が前兆なしに
いつでもありえるという聖書の教えが忘れられています。
この時にこそ、キリストの再臨の教理をもう一度聖書によって
確認することが緊急に要求されていると信じます。

10名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:30:08 ID:tiOWe5Z.
>>1-9よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
★再臨の教理
近代主義者たちは字句どおりのキリストの再臨を信じません。
しかし真にキリストを信じる者たちの中にも
キリストの再臨について幾つかの異なった意見があることも事実です。
ある者たちはキリストの空中再臨と地上再臨を区別せず、それらを一つの事とし、
艱難時代が終わった時にあると信じています。そして彼らの中にも二種類の意見があり、
キリストの再臨の後に千年王国があると信じる者と、千年王国の存在を信じない者たちがいます。
また教会が艱難時代の幾分かを経験し、その途中で携挙されると主張する人たちもあります。
 この書の目的は、聖書が、キリストの空中再臨が艱難期の前に起きると、
しかもそれはいつでも起こりえるのであり、それには前兆がないと教えていることを、
聖書によって証明することです。

この書が語ろうとしている終末についての見解は、一口で言えば艱難期前空中再臨、
艱難期後千年期前地上再臨説と言えます。
それを詳しく説明すると次のようになります。先ずキリストの空中再臨があり、
その時教会は天に携挙されます。これはいつあるか分かりません。
そのための前兆はありません。それはいつでもありえることです。
その後、艱難時代が始まるまでに艱難時代の準備のしばらくの期間があります。
その長さは、数ヶ月であるのか、数年であるのか分かりません。
しかしその準備の時があることは聖書から判断されます。その準備が終わった時、七年間の艱難時代が始まります。
その艱難期の直後、キリストの地上再臨があり、少しばかりの準備の時の後に千年王国が始まります。
千年王国が終わった時、旧創造の世界は一度、消し去られ、
神は新しい天と地を創造されます。それは永遠の新創造の世界です。
 もしそれらを聖書が語っていないなら、これを信じることは全く虚しいことです。
ですからこれが聖書の教えていることであるかどうかを、
ベレヤの信者のように聖書によって十分にチェックする必要があります。
どこそこの聖書学校の教授がこう言った、だれそれの意見はこうだ、ということは全く無駄なことです。
この学びは時間的順序に従って進めて行きます。

11名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:31:11 ID:tiOWe5Z.
>>1-10よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋
★キリストの空中再臨、教会の携挙
先ず第一に、キリストの再臨には二種類あることを知らなければなりません。空中再臨と地上再臨です。
空中再臨は教会を天に引き上げるためにキリストが空中まで下りて来られる、教会のための再臨です。
ですからこれを(教会の)携挙とも呼びます。地上再臨とは、神がアブラハムと結ばれた契約に基づき、
イスラエルの民のために神の国を実現させるためにキリストが地上に下って来られる、
イスラエルの民のための地上への再臨です。先ずこの二つを混同したために、
再臨についての多くの間違った解釈行われ、混乱を与えています。
 空中再臨では、キリストは御自分の教会を地上から引き上げて、
御自分の住まいに迎え入れるために予告なしに、天から空中まで下りて来られます。
ですからこの再臨を、地上再臨と区別するために、空中再臨と呼ぶことにします。
空中再臨がいつあるかは全く分かりません。
第一世紀のクリスチャンもその後のクリスチャンもすべて、
キリストがいつでも再臨することがおできになると信じ、熱心に待っていました。
空中再臨のために予告も前兆も全くありません。
それでは、空中再臨には前兆がない、
いつでもありえるということについて聖書をしらべましょう。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、
あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14章2〜3節)
★解説 
四福音書の中で、主イエスが教会を御自分のおられる所にいつでもおらせるために
再び迎えに来られると約束されたみことばが記されているのはこの聖句だけです。
福音書の中の他の聖句はすべて地上再臨について語っています。
主イエスが教会を天に引き上げるために再び来られるための必要条件は、
御父の家に御自分の花嫁の場所が備えられることだけです。

12名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:32:17 ID:tiOWe5Z.
>>1-11よりつづく
●艱難期前携挙説の根拠について−「いつキリストは再臨されるか」山岸 登先生 エマオ出版刊 P32〜 P4〜より抜粋

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。
 あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、
 私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」(ローマ13章11節)
★解説
「今は救いが」の救いとは、ピリピ第三章二〇節が語っているように肉体の贖いのことであり、
私たちがこの地上から救い出されて天に引き上げられることです。
そしてその時が「今」なのです。使徒パウロは
キリストの再臨を今にもありえることとして信じ期待していたのです。

「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、
 また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、
 最後まで堅く保ってくださいます。」(第一コリント1章7〜8節)
★解説
コリントの信者たちは、主の再臨を今直ぐにでもありえることとして熱心に待っていたのです。
聖書では「主の日」とは、主日(日曜日)を除いて、
常に「主が支配される日、主のさばきの日」を意味しており、艱難時代の全体、
あるいは艱難時代が終わった直後の主の地上再臨、あるいは主の地上再臨後の千年王国を意味しています。
また「主イエス・キリストの日」、「主イエスの日」
あるいは「キリストの日」は主の空中再臨の日を意味しています。

13名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:33:49 ID:s2dcyQG2
>>1-12よりつづく
★正統なキリスト教信仰を継承するプロテスタント福音主義−福音派のスレッドです
            ↓
1.■■日本宣教と天皇制〜皇室に流れるキリストの命
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1215676891/

2.■■古代日本・神道とユダヤ文化の関係−参考文献リスト
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1209102168/

3.■■日本民族とイスラエル民族の関係−遺伝子DNAからルーツ探る
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1217223541/

4.■■神道とキリスト教のつながりについて
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1174878290/

5.■■聖書と日本−ユダヤ・キリスト教とイスラエル皇室・天皇家
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1218510823/66-

6.■■キリスト教−放送伝道番組の紹介
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1212991477/l50

7.■■信仰を深めるキリスト教書籍の良書紹介
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1212654823/l50

8.■■クリスチャンラジオネットワークBBN−キリスト教放送紹介
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1212376512/

9.■■創造論について学ぶ−科学が聖書に近づいた
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1210054784/ ★★>>1-13

14名無しのひつじさん:2009/04/16(木) 15:34:51 ID:s2dcyQG2
★★★>>1-13よりつづきます

★正統なキリスト教信仰を継承するプロテスタント福音主義−福音派のスレッドです
 どうぞみなさんお読みください
          ↓
10.■■プロテスタント福音派−正統信仰者の集い:レスリスト
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/1-5
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/11

11.■■南関東・東京首都直下型大地震−震災被害想定・防災対策
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1226467470/

12.■■米国防総省(ペンタゴン)想定予測−M9超巨大東海地震とは?
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1210736093/

13.■■小氷期到来!?地球は寒冷化する−温暖化二酸化炭素説のウソ
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1231221419/

14.■■プロテスタント福音派−正統信仰者の集い:PART3
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1173947639/

15でちゅ☆ぺぬえる:2009/04/16(木) 15:42:52 ID:tiOWe5Z.
きょうもいい天気でちゅ〜〜

あたらしいスレッドでちゅね!!!

僕ちゃんたちクリスチャンには世の終わりの時に、聖書の御言葉にもあるように、
イエス・キリストちゃまのもとに、引き上げてもらえることが約束されていまちゅ。
このスレッドでは主に、艱難期前携挙説について、山岸 登先生著作の
「いつキリストは再臨されるか」エマオ出版刊を読みながらお勉強していきたいと思いまちゅ。
みなちゃんもどうじょお読みくだちゃいねぇ〜〜
      ↓
     >>1-14

16でちゅ☆ぺぬえる:2009/04/16(木) 15:47:36 ID:tiOWe5Z.
>>1-15よりちゅじゅく

今までの僕ちゃんのレスをリスト化していっていまちゅ。
今後、追加していきまちゅ。
どうじょみなちゃん、お読みくだちゃいねぇ。
           ↓
■■プロテスタント福音派−正統信仰者の集い:レスリスト
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/1-3
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/5
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/11
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/46-47
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/64-65
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/729/1150940692/69-73

17名無しのひつじさん:2009/04/22(水) 13:38:47 ID:p7mjrdgY
>>1-16よりちゅじゅく

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。
 私たちはみな眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
 ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
(1コリント15:51、52)

★解説 
「私たちは変えられるのです。」というパウロのことばは、彼が生きている間にキリストが再臨され、
 自分が主と同じ栄光の姿に変えられることを期待していたことを示しています。


「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。」
(1コリント16:22)

★解説
 「主よ、来てください。」は、アラム語の「マル(主)・アナ(私の)・タ(来てください)」の訳です。
 アラム語の「タ」は、今直ぐに来い、と意味する命令形です。
 第一世紀ではギリシャ語圏の教会でも、ハレルヤなどと同じく、
 この「マラナ・タ」をアラム語のまま使用していたのです。
 それほど初代のキリスト信者が、キリストに今すぐ来てくださいと叫びながら
 キリストの再臨を待望していたことをこのことばが証明しています。


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