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■■神道とキリスト教のつながりについて

72名無しのひつじさん:2007/09/17(月) 16:54:42 ID:sYito2/w
>>71よりつづく
●2〜3世紀頃
弓月国(シルクロードほぼ中央、他に数十ヶ国乱立)東洋で最初の原始キリスト教国(エルサレム教団系)に
日本では卑弥呼の邪馬台国から三輪王朝の時代、やがて大乱、ニニギ(神武天皇)の東征?初期大和朝廷へ

●300年頃、秦氏の半島登場?
>>399(百済王家は辰王家。辰韓の所伝では、中国から秦人が逃げてきたので、馬韓が東方の地を割いて与えた
辰韓は秦韓と表記されていた。辰王は秦王)
秦氏が亡命する前後の中国大陸は、北側をチベット系の前秦のフケンが統治し、ペルシャ系、ツングース系
とか辺境多民族が混在する五湖十六国時代。同時にこの頃の中国は、すでに書聖王義之らが活躍する中世的オタク文化時代
---「後漢書東夷伝」では万里の長城の苦役にたえかねて中央アジアの 保護国から半島、日本に西域の民が集団で亡命
「魏誌東夷伝」では秦氏は背が高く、異国風の風俗で、身の回りを清潔にしていたらしい。

●350年頃(一説には220年頃)
応神天皇に呼ばれ弓月王(秦15世)が天山山脈のホータンあたりから一族120県を引き連れ、百済まできたが
新羅に邪魔されたので、任那まで葛城将軍(隼人系)他に助けに来てもらい渡来開始。頭満王とか先陣が帰朝(日本書紀)
*但し、実際は新羅系の瓦などが大量入植した秦氏根拠地からでるので、書紀記述は当時の政治的配慮で虚偽がある
(同盟の百済系というしかなかった。先祖が始皇帝というのも、同じ渡来人系の霊帝末裔を名乗る漢氏への対抗から)

●秦氏以降、応神、仁徳稜など前方後円墳が急に巨大化(最近半島でもやっと前方後円墳が見つかり始めた)
雄略天皇の時代に秦氏19万人、渡来系氏族だけでなく古代日本のなかで最大人口の氏族だった
秦氏は、各種の移民系種族の集合体で、王権が族長ウズマサ任命権をもって いた可能性大
他の氏族と異なる最大のポイントは、国造制、ミヤケ制の成立過程に王権直属の部族としてミツキの納府者として統括
され、クラの役職につき、その後の律令時代の大蔵省をになう経済官僚になる。
地方に入植した一族が土豪と融合したり、地元民を秦部に編成し、天皇制国家の成立根幹に関与?
古代には、物部、蘇我のように軍事的、政治的権力抗争をしない。
最大の組織 集団制をもつ、全国的な殖産、 市場重視の国家機能を寡黙に果たす。
製塩、銅、水銀、鉱産資源開発、治水灌漑土木、都市開 発、農業経営、養蚕、美術、宗教、財政、等実務的領域全般。
注目すべきことは、太子一族との関連でも有名なように上宮家財務 の責任者であるだけでなく、古来、秦氏の子供たち
からなる小子部(少年近衛兵、呪術、鎮魂を職務)をもち、隼人たち(大王近習、陵墓警護、朝義参加の習わしあり)を
率いていた点。


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