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■■神道とキリスト教のつながりについて

186名無しのひつじさん:2008/08/13(水) 17:50:23 ID:p7mjrdgY
山辺の道にマーケットをつくり、東方山岳、辺境部と瀬戸内・玄海灘平野部との交易を図る国づくりという
のは洛東江上流方面の考えであり、これが一概に遺伝子の流れとは言えませんが、遺伝子の流れと
軌を一にする、並行する考えで、これが三内丸山時代からあったとは思えない。これは古墳時代に強く
なるものの、その始まりは遠く戦国時代の始まりの頃でしょう。この頃から遺伝子が海岸沿いにはいる
ようになった。遺伝子とプロファイリング、生業研究は関係しますね。四川、雲南とのつながりはこれで
すね。アカホヤ以降、列島は古代人に見向きもされない千年以上の年月があった。そこで山岳民遺伝子
の多様化はありえず、それをいうなら興安嶺から白頭山にかけての山間でしょうね。

秦の始皇帝の末裔、エジプト中近東に君臨した草原の民、秦氏、と黒竜江の鹿狩り民族、穢とはどこで
接点が出てきたのかは不思議ですが、ごく最近半島中央部の第一玄菟郡文化地帯の研究により、この
楽浪東方、すなわち、ソウルから日本海沿岸にかけた地方において黄海沿岸を南下した楽浪文化と
日本海沿岸を南下した箱式石棺墓文化である沃沮、穢の接点に発生した文化が検出された。そして、
朝日遺跡で発掘される鉄斧が沿海州沃沮・穢の輸出商品であることもわかってきた。BC4-3世紀の
ことらしい。

力士黒海の国、グルジアの北西沿海部アブハジアは支石墓発生のの地でもありますが、力士露鵬等の
国の攻撃を受けている。この地のコーカサス語はシノ・コーカサス語族といって中国語もその仲間に入る
言語集団に属するが、この地からヒルベト・ケラクという黒陶のような優秀な土器勢作集団と馬・馬具・馬術
集団が今のトルコに入ってはヒッタイトを建国。カザフスタンで実用化された馬・馬具・二輪車・馬術集団は
インダス、エジプトへと入る。中国で周が殷を倒したのちいち早く体制側にもぐりこむのも秦集団で、馬がらみ。
ところが、黒龍江省の沃沮・穢には室韋などと違いこうした馬の文化の形跡はない。この辺が秦集団と
穢・狛集団の大きな違いですね。

ただし、秦集団が立地したと見られるコーカサス、ミタンニ、アッシリア、太秦等は山岳地形であり、秦族
も沃沮、穢と同じ、ひいては、チベット、四川、雲南と同じYAP+の遺伝子を持っていた可能性がある。
YAP+の多様性とはこうした地球規模の多様性であり、箱庭のような環境で生まれるものではないと思います。


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