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■■神道とキリスト教のつながりについて
166
:
名無しのひつじさん
:2008/07/23(水) 10:11:48 ID:p7mjrdgY
縄文系であるD2系統が発汗が多い・彫が深いなどの寒地や乾燥地帯に向かない体質を保有している事、
この北アジア地域にD系統が現在ほとんどみられないことの2点から、
いずれのルートであっても比較的暖かい時期に、まとまって速やかに日本まで移動したことが必要となる。
(北アジアには、日本やチベットと距離的に近く、新しい時代の交流が多い割にはDが低頻度すぎる。)
旧石器時代までの時期では、ヤンガードリアス直前の13000年前頃の亜間氷期しかありえない。
草原ルートの場合は、騎馬民族化していれば高速での移動は可能だが、
古い時代の騎馬での移動は考えられず、D2系統が古い系統なのと整合性が全くない。
(逆に、日本→樺太→モンゴル→アムド地方発祥の遊牧チベット系民族、なら後の時代で問題ないかも。)
(3万年前〜1万2000年前の状況では、対馬海峡は暖流が流れるが、大陸・樺太・北海道は陸続き。)
ゴビ砂漠の南縁・朝鮮半島経由ルートの場合だと、温暖な時期であっても、
O3系統による麦と牛を主食とする黄河文明よりはるか前に、狩猟・採集型の縄文人の祖先が
生存しつつ速やかに日本までまとまって来られたか、非常に疑問がある。
加えて太古において、ずっと陸上を移動してきて、玄界灘のみ船で渡ったというのは想像しにくい。
満州と米栽培と縄文人をリンクさせるのは困難では。
特に前期渡来人(弥生人)の朝鮮半島経由説を強く推す農学系とかの学者でも、
温暖化した時期に山東半島南部(稲作の歴史的北限)の港から朝鮮半島西部・南部を経由のナローパスを、
少し厳しい条件と断りながら挙げているくらいなんだが。
(今でも中国では淮河以南が稲作地帯。これより以北は畠作と牧畜地帯。)
縄文時代の特に温暖化が進んだ時期に、寒冷地の栽培方法が日本に入ってきたというのは不自然では。
・旧石器時代の先住民としてC系統と一緒にD系統が日本列島に入ったか、C系統よりも遅れてきたとしても、
ヤンガードリアスが終わった、9000年前頃の温暖化した縄文時代早期が自然では。
(縄文時代早期に、日本列島が完全に大陸と離れた。)
(もしも、D系統到来が縄文早期であれば、北アジアにほとんどひろがらなかった一因かも。)
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