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【ザ】+☆+KKⅦ+☆

741エートス:2006/01/03(火) 00:25:54 ID:9eeNijko
>>724
卵氏
あけましておまでとう。今年もどうぞ宜しく。

>この部分の客観性については、かなりの個人差があると思われます。
>この深い反省が進むと、号泣なのだそうです。法雨の涙が流れるのです。これを単なる“主観”としてしまうのは簡単ですが、魂の回心の瞬間となるそうです。

うーん、よくわからないのですがいわゆる法雨というヤツか。号泣の涙が反省の客観的根拠になるということ?そうするとエルカンの光を感じると涙がでるということなのかな。キリスト教では懺悔から回心する例は有名ですネ。

>それが錬金術の話題で私が書いた、魂の想念帯のテープが黄金に変わる瞬間の話へとつながります。
>八正道をきちっとできれば、阿羅漢の段階となり、守護霊の導きがそれと判るとはいわれています。がしかし、瞬間的にその境地になれたとしても、心揺れることあれば、また磨き直しなわけです。悟後の修行、心境の維持こそが修行となっていくのだそうです。

それでは、その黄金のテープってのは時々刻々めまぐるしく光ったりくすんだり黒くなったりするものなんですか。

>自らが仏神の光を宿した存在であり、信仰を持って愛を与えて生きることや、人生の試練に果敢に立ち向かうことこそ、自分のためにもなるのだと多くの方々が理解されたならば、この世の愛の貸借対照表が黒字になると思いますし、それがユートピアへの確かな道だと思います。

うーん、私はそうは思いません。_愛を与えるのは他人のためだけどひいては自分のためでもある_という表現にある「〜のため」という指向が、そもそも何か大切なものをすっとばしてるようにも思いますよ。

信者さんは、苦しみを抜いて楽を与えるとか言う四字熟語をよく使うみたいだが、その前に大事なのは_苦しみを共にすること_ですよね。共感すること、この「共にする」という姿勢には「〜のため」という奢りはないのじゃあないか。

イエスの贖罪に関しても、現在、革新的神学者から問題提議がなされているのは、歴史的イエスの再評価ですね。イエスの贖罪を、我々がなした罪の償いとして処刑され復活し天に上げられた_という神話的な結果においてのみ捉えるのではなく、罪のある人々と交わって共に苦しんだイエス像を取り戻そう_という流れです。

テープが黄金色になるとか貸借対照表ですか、どうもKKでの宗教経験の体質は「過程ではなく結果重視」というようにお見受けできます。私は信仰とは結果ではなくて過程こそが真髄ではないかと思っています。


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